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先ほど、若者が浮浪者に見られて落胆したという質問を見ました。
仏教の十戒では不塗飾香鬘、
つまり見かけを気にしてはいけないとの教えがあります。

しかし、品格は人相や身なりに出ます。
人前でそれなりの格好をすることはエチケットとして求められます。
宗教的にはこういう考え方は誤りなのでしょうか?

以前から疑問に思っていたことですが、この機会にお尋ねします。

A 回答 (10件)

こんにちは



そうですね、間違いなく品格は人相や身なりに出ると思います。

ですので、最大限擁護して考えてみました。



まず、「良い品格の人は人相や身なりが良い」

しかし、「良い人相の人や良い身なりの人は品格の良い人である」というのはどうでしょう。

これは必ずしも成り立たないと思います。


これをちょっと変換して

「良い品格の人は人相や身なりが良い」

しかし、「良い人相の人や良い身なりの人"おおむね"品格の良い人である」というのはどうでしょう。

これは間違っていません。

なにかへ理屈のようですが、おおむね正しいのであれば問題の無いことです。

世間ではおおむね正しいことは正しいのです。

では、何が問題かというとこの場合、良い品格の理由が「人相や身なりが良い」となっています。

事実は「品格が良い人であるから品格が良い」が正当な理由であります。

これは人相や身なりで人を判断できるが、その理由としてはいけないと戒めているのかもしれません。


しかしながら、質問者様のおっしゃるとおり、身だしなみは重要です。

なぜ重要かを考えると、「良い品格の人」を見分ける便利な判断基準であるということです。

さらに、便利ゆえにこの判断基準が効かなくなると、見分けの手間は果てしなくかかります。

仏教といえども、無用な秩序の混乱を望んでいるとは思えません。事実、坊さんは坊さんの身なりをしていますし。


つまるところ、身だしなみにより世間に秩序が生まれている。

それはとても便利だが、実質(真理)ではない。

便利さに染まり、真理を忘れるようなことがないようにしなければいけない。


といった思いが込められているのではないかと思うのです。


素人考えで恐縮ですが、解決の足しになれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。一番手の方としては
私の意図をうまく導いてくれて上出来です。

私は前回の質問でそのような世俗的な考えはいけないと
十戒の例をもって教えて頂きました。

回答者様のご意見は私と同じなのですが、
悟りを開かれようとしている方からみれば間違いなのでしょう。
ただ、ご回答者様の仰っていることも事実だと思います。

私自身はある程度、漠然としたものに目処が立ったのですが
喉につかかったような状態でうまくまとまりません。

お礼日時:2012/01/15 17:51

こんにちは.たまたま今日だけ仏教のものです.



ブッダは浮浪者でした.


「見かけを気にしてはいけない」
これはすなわち
「機能的にじゅうぶんな装いをする」
ということだと思います.

身動きできれば木の皮でもいいわけで.
現代なら「おおー イケてるよ 森ボーイ」とか
いわれて,おしゃれに見られたりするかも.
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
失礼ながら、そのような軽いノリではないと思います。
涅槃静寂・・・とっても鎮魂とした世界です。
正反対の考え方ではないでしょうか。
私の求めている回答ではないようです。

お礼日時:2012/01/16 02:27

服装を気にしすぎて修行が捗らない場合、逆に気にしなさ過ぎて隣人とトラブルになり修行が進まない場合と様々な状況があります。

人格の向上、修行の捗りという視点で考えてはどうでしょう?
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
人間の修行における実践的な考え方。

前回質問で古代インドの文化的側面から
色々とご指導を頂きました。

前回はあなた様の回答をもっと詳しく説明して頂いて、
それを一応の解としていました。

そして、昨日にあのような質問を見つけて、
またまた疑問が鮮明によみがえってみたのです。

お礼日時:2012/01/16 02:30

浮浪者に見られて落胆するのは、世俗での価値基準ですね。



在家信者は、世俗で生きてゆきますから、世俗の価値基準をもある程度尊重し、五戒を守ればよいことになっています。
五戒はすなわち、不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒です。

一方の出家信者は世俗を捨てて成仏するために生きるので、五戒に加えて合計10カ条の戒律を守らなければなりません。
その追加の五項目とは、すなわち、不塗飾香鬘(ふずじきこうまん)、不歌舞観聴(ふかぶかんちょう)、不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう)、不非時食(ふひじじき)、不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう)ですね。

出家僧は世俗を捨てたのですから、世俗での身だしなみなどは不要ですし、そのような些事にとらわれておっては、今生で成仏するための修行に差しさわりがあると考えられたのでしょう。

したがって、ご質問の”若者”が出家僧でない限り、あえて不塗飾香鬘まで求める必要はございません。
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この回答へのお礼

mokuzo様につきましては前回お世話になりました。
この度も明快なご回答有り難うございます。

私もあの質問から二度ほど弔辞があり、
僧侶の方と話をする機会を得ました。

mokuzo様のご批判の通り、世俗的な方々です。
だが、やはり仏教系の大学で学んでいるだけあって
法理には明るいものがあります。

然るに前回mokuzo様に教えて頂いたような内容では
この問題を現実視できなくなっているので御座います。

No2の方のお礼にて鎮魂と書きましたが、
恐らく真理はその辺にあるのではないかと思います。
ですが、答えが見つかりそうで自分の言葉になりません。
もし、深いご観察があれば、ご指導宜しくお願いします。

お礼日時:2012/01/16 02:56

「人柄は身なりに表われる」と「見た目で判断しては


いけない」の差異は、判断される対象の側にではなく、
判断する主体の見識の程度によります。
お金がなく、ツギだらけのボロボロの服でも、人に
迷惑をかけないように、よく洗う事はできます。

その場合;
1.「ボロボロだけど清潔」というのを見て取れるか。
2.「お金がない」というのを低く評価しないか。

の2点がクリアされていなければ、お金をかけて
華美に飾ったものに目を奪われる事になる。
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「見かけを気にしてはいけない」



しかし、現実は質問者さんの指摘の通り
品格は外に出ますし、それなりの恰好をすることは
エチケットです。

この矛盾をどう解するか、ですね。

1,現実が間違っていると考える。この場合。

(1)エチケットについては、そのエチケットに問題があるのだ
 と考えれば良いのだと思います。
 そんなエチケットが悪いのだ、それは間違った俗世間の
 考え方だ、ということです。

(2)しかし、品格が外にでる、というのは事実です。
 従って所与と整合性を持たせるためには、解釈が
 必要です。
 
ア、解釈の一つとして、品格を見るのは見かけを見て
 いるのではない。内面を見ているのだ。
 一見すると見かけを見ているように思えるが、あれは
 実は、内面を見透かしているのである。

イ、しかし、どう見てもやはり見かけも違うぞ、という
  疑問が沸いてきます。
 
 従って、あれは、内面と一体化した見かけを見ているのだ。
 だから、内面を見ているのと同じなのだ。

2,見かけを気にしてはいけない、を現実に合うように
 解釈する。

(1)これは絶対的な教えではなく、例外を認めるものだ。
 質問者さんの事例は例外として認められるものだ。

(2)これは希望を言っただけであるから、現実と矛盾しても
 構わないのだ。
 平等てのは不平等て現実があるから、そういう問題がでる
 のであって、これは単なる願望だ。

(3)人相、身なり、恰好は、見かけに含まれない。
 少し乱暴ですが、見かけの定義を歪曲すれば
 矛盾は無くなります。


私は、1(2)のイ、が無難ではないかと
思います。
 
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この回答へのお礼

哲学に沿った手続きの回答、有り難うございます。
無難という観点では同じ考えです。全く遜色がありません。

私はOKWAVEで宗教に相応しいカテゴリーがあるか聞きましたが、
ここか、民族のところで聞くのが妥当だろうと言われました。

この問題は哲学の範疇に入るのでしょうが、
人間の常識から解放されないと答えが見つからないと思います。

お礼日時:2012/01/16 16:56

 こんにちは。



 ★ 宗教的にはこういう考え方は誤りなのでしょうか?
 ☆ ひとりが それぞれ違ったひとつの宗教を持っていると考えてみてはどうでしょう?

 ★ 人前でそれなりの格好をすることはエチケットとして求められます。
 ☆ このあたりが それでもどの個人宗教にも共通の中身としての考え方ではないでしょうか? 
 ★ それなりの
 ☆ でよいではないでしょうか?

 ★ しかし、品格は人相や身なりに出ます。
 ☆ どの程度出るか またそもそも品格とはどういう内容を言うのか これは 見る人それぞれです。つまりひとりにひとつの宗教です。

 つまりは こうです。
 ★ 若者が浮浪者に見られて落胆した
 ☆ というとき けっきょく《それなりの》の中身がじつは 人によってまちまちだという実際の情況なのでは?
  (1) 浮浪者と見るかどうかが 人それぞれ。
  (2) 浮浪者と見られて落胆するかどうかが 人それぞれ。
  
 ☆ つまりは たとえば――仮りにそういう共通の規則があるとすればですが――ブディズムの決まりにのっとって身なりをととのえたとします。それでも その身なりを見る人によって見方はまちまちだとなります。
 もし共通の決まりがあるとすれば それは校則や社則のような一定の集団ないし組織におけるそれではないでしょうか? それ以外は 自由だといういう前提があると考えます。

 それとも 身なりは自由だというこの前提に対して 批判的な見解をお持ちであって そのような回答を求めておられましょうか?
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
少し私の求めている回答とは違うようですが、
別の視点からのご意見で大変参考になりました。
 
集団の規則性さえ、人間の都合でできたもの。
しかし、それを遵守しないとダメなのかもしれませんね。

死刑制度はどうでしょうか?
宗教的には死刑制度は廃止するのが正しい道のようです。
ある意味、私の別の命題にヒントを下さった回答です。

身なりは自由だというのは同意いたします。
本質問はもっとスケールを大きく捉えて下さい。

お礼日時:2012/01/16 17:16

まず、「不塗飾香鬘戒」とは「装飾や化粧を戒めるもの」であって、「見かけを気にしてはいけない」というのとは違います。



以前の回答にもはっきり書いたと思いますが、まず、出家者は自分で生産することなく世俗からの寄進だけによって生活することを選択したのですから、華美を慎んで生活を簡素にすることを信条としたのは、いわば当然といえます。とりわけ装飾などのように、周囲の人間の視線によって成り立つ欲望の成就を排除しようとすることは、自分をコントロールすることを目標とした出家者には必然的なことだったのです。

しかし、だからといってサンガとしては個々の出家者の身なりについて、修行第一で何でもありとしたわけではありません。社会との無用な軋轢をさけるため、仏教の出家者集団はそれなりに身なりやエチケットに配慮していたのです。

出家者の規範である律は、身だしなみについても色々と定めています。衣の扱いについていえば、色や縫い方からつけ方、つける作法など全てにわたってこまごま規定されていて、例えば沐浴する時を含めて衣をつけずに生活することを禁止していますし、托鉢のスタイルについても異形であったり不潔なものには厳しく制限を設けています。こういった決まりがなぜ生まれたかといえば、すべて世俗の人たちから無用な誤解を受けることを避けるため、です(律自身にそういった制定の因縁譚が記されています)。

つまり、サンガはむしろ修行を重視したからこそ、重要度のあまり高くないことについては極力社会に順応しようとしたのです。他の回答にあるような、「世俗の人間ではない出家者には身だしなみは不要で、浮浪者に見られてもかまわないはず」というのは、単なる思い込みにすぎません。サンガの実態は、「華美は排することは前提だが、しかし浮浪者や野放図な集団に見られることを避けるため、穏当で受け入れられやすい身だしなみを心がける」ことを信条としていたのです。

ちなみに、この「不塗飾香鬘戒」は出家者にしか求められなかったのはまあ一応の事実ですが、この戒は八斎戒のひとつでもあって、月に何日かは在家信者も守ることが求められたものです。その精神である「華美を排する」ということは、程度の違いはあれ、出家・世俗がともに実践すべき徳目であったからです。

また同じことを書きますが、なぜか律について知りもせず思い込みで回答する人が多いのは不思議なことです。質問者氏は真に受けやすい真面目な方のようですから、どうぞ特にご注意下さい。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
余計な飾りを排するというのは分かります。
金持ちの虚飾がいけないのは理解できます。

本質問は寧ろ、その逆、過度の貧相はいけないのか。
それを宗教はどう捉えているのだろうという事です。

なるほど、実際は色々と規定が決まっていて、
浮浪者のスタイルは好ましくないとの事ですね。
実践道からのご意見は説得力があります。

私の知りたいのはその先のことなのですが、
まずはこのような実践スタイルを守っていかねば、
そのような境地には辿り着けないのかもしれませんね。

お礼日時:2012/01/16 17:21

 現代において ブディズムにおける戒律の話が出て来たのには おどろきです。



 過去の歴史の話ではないようですので。
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本能のままありのままで生きれない人間は、


肉体以外のもの一切は自己主張のための衣装(手段)ですね。

「身なり」は人間にとって身に纏うだけのものではなく、
資産あるなし、肩書き、人間関係、知力、体力、若さ(純粋の美)、天賦の才能など色々あると思います。

この回答への補足

皆様、色々なご見解を有り難うございます。
やはり私一人では限界がありました。

色々と個性的な意見が聞けて殻が破れたような気も致します。
その答えが正しいのかどうかは分かりません。
ただ、方針として間違いはなさそうです。

補足日時:2012/01/16 21:10
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この回答へのお礼

miko-desiさんにも前回はお世話になりました。
表現方法は平易に見えて、相変わらず難解ですね。

知力や若さまで身なりに含むとは新鮮でした。
結局、貧相になったのも自己責任であり、
そう陥らないために努力を要求されるのでしょうか。
かの有名人はそう仰っているようですが。

確かにそのように考えれば辻褄は合います。
今回のケースに当て嵌まるか、ゆっくりと考えてみます。

お礼日時:2012/01/16 21:01

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