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うちには先祖が武士家系ということで 日本刀が何本か残されているのですが 時代劇に使われているような見事なものではなく とても質素なものです。 鞘にしろ鍔にしろ 簡素なもので 刀身も63,8センチ の無名刀です。 小柄とよばれる小刀もついていません。 そこでいくつか質問があります。

(1)やはり昔も 上級武士(位の高い)はそれなりにいいものを身に着けていて 持っている刀がその武士の 品格を表すようなものだったのでしょうか?

(2)また映画などではチンピラ風の町人も脇差しのようなものがありますが そういうチンピラ風のものでも高級な刀をもてたのでしょうか?とくに 「先生」と呼ばれた腕のたつ殺し屋みたいなのもでてきますが長いいい刀を持っているように見受けられます。。

(3)また武士に生まれた家系は 子供のときから刀を差していますが 体の成長により刀を自分の体格にあったものに常に変えていたのでしょうか? 

(4)時代劇のように あんなしょっちゅう刀を抜く機会って 武士でもチンピラでもあったんでしょうか?いまでいうピストルを相手に向けるようなものですよね お互いが刀を抜いた時点で 死を覚悟するようなものだと思いますが。 ドラマや時代劇では みね打ちとかいって どしどしやっつけていますけどあれでも実際やったら相当なダメージではないですか?  

以上わかることだけでも結構です。 お詳しい方どうかよろしくお願いいたします。

A 回答 (6件)

(1) 江戸時代の中期頃から、幕府や各藩が厳しい贅沢禁止令が出していますから、特別な時以外には上級武士(大名も含む)でも目に見えて分かるような贅沢などしていません。



 まあ、裕福な武家の次男坊や三男坊(部屋住みとか言われる層)が、粋を気取ってやたらと凝った鞘を差していたようですが…。
 象嵌で絢爛豪華な鞘を作ったりとか…。

(3) 最初に子供に与えるのが、所謂「守り刀」と言われる30cm以下の刀で、藩の学問所とかに通う頃に脇差クラスの30cm以上の刀を差し、元服や出仕する様になると二本差しになると。

 なお、江戸時代の武士の骨格は刀を差していた関係で、左肩が極端に上がった形に成っていたとか…。
 (子供ではとても差せない…。)

(4) 江戸時代の武士は、たとえ町人相手でも刀を抜くような真似は滅多に有りません。

 もし、刀を抜いて相手を仕留められなければ、国家鎮護守・外敵制征圧を担う兵として不心得者であるとされ処罰されます。

 仮にちゃんと成敗しても、それが無礼打ちであった事をちゃんと証明(切った本人は必ず一定期間謹慎に成るので、家中の者が死に物狂いで、証人を探す)できなければ、やっぱり処罰されます。
 (証人が見つからなかった為に、処罰が下る前に切腹する者も多い。)

 そして、侮辱を受けても刀を抜かないでいる所を同輩などに見られると、臆病者であるとされやっぱり処罰されました…。

 なお、上記の事を知っていた町民の中には、粋を衒ったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する物もいたとか…。

 と言う訳で、当時の武士は町へ行く時などは、共の者を連れて行き主人が屈辱を受ける様な場面に遭遇しないよう、体を張って庇う必要が有ったようです。

 また、他領の領民に対する危害行為は、たとえ正当防衛である切捨御免の結果であったとしても、その領民が属する封建領主への敵対的行為とされる恐れがあり、各藩は藩士に対して江戸領民に触れ合うような場所に行く事を可能な限り避けるよう厳命していました。
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無銘の場合の鑑定は極めて難しい物です。



刃長は問題ありません。
http://www.otakaraya.jp/blade.files/blade_data.f …

反りや幅も良く調べましょう。
問題は刃紋と体配です。

http://wikiwiki.jp/katana/?%B4%D5%BE%DE%A4%CE%B4 …

色々見て比較するのも良と思います。
http://www.otakaraya.jp/blade.files/O_blade-01.h …
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江戸時代でも 3代将軍の頃までと5代将軍以降では全く違います



3代将軍の頃までは戦国の流れが強く武力で解決しようとする傾向がありました

5代将軍綱吉は、そのパラダイム変換を図り 生き物を傷つけたり殺したりした者には死罪を含む厳罰に処しました
その結果武力に訴えることは姿を消しました、武士でもみだりに刀を抜けばお家断絶
ですからチンピラが武士に因縁をつけるようなことが実際に起こるようになりました
(今の自称市民活動家が公務員は反論も発動しないのをいいことに 暴虐の限りを尽くし公務を妨害するのと同じ発想です)

ですから 刀は差していても、切腹覚悟でなければ抜くことなどできなかったのです

それが忠臣蔵であり 浅野内匠頭が 即日切腹を仰せつかったのも、パラダイム変換の政策に逆行の行動をしたからです

以後200年間 刀は武器としての価値はありませんでした
武器として使われるようになったのは明治維新前約10年間です
ですから井伊直弼が襲撃されたときも護衛は刀を抜けるような準備はされていませんでした

峰打ちについては 約1mの鉄棒で思い切り殴ったらどうなるか想像することです
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(1)はい。

その通りです。

(2)銭さえ出せば、手に入りましたが、ちんぴらや
 用心棒なんてのは、金が無いのが通常ですから
 良い刀を持っていたとは思えません。

 良い刀、てのは意味が3通りあります。
 ア、観賞用の刀
   これは一般に作成者が名のある刀工で
   値段が高いものです。
 イ、実戦用の刀
   これは、折れず、曲がらず、斬れる、という
   実用本位の刀です。
   値段の高いモノもありますが、観賞用の刀に
   較べれば安いのが普通です。
 ウ、観賞用にも実戦用にもなる刀。
   土方歳三の和泉守兼定や、拝一刀の同田貫
   などが有名です。

(3)子供が持つ刀と大人が持つ刀、てのは一応
 ありましたが、しょっちゅう変えていたかは
 その人の趣味と財力に負うところが多かったと
 想われます。

(4)ちゃんばらなんて滅多にありません。
 特に江戸は将軍のお膝元で治安に注意していました。
 やたらに刀を抜いたりしたら、切腹、断絶ものです。
 浪人ややくざが時々ケンカをするぐらいでしょう。
 それで、武士でも、使わないし重いから、と細身の刀を差すのが
 流行りました。

 その為、武士が形骸化して、戦士として役に立たない
 ものが多くなりました。
 旗本にその傾向が顕著になり、新撰組など武家とは言えない男達に
 頼ることになったのです。

 長州も、正規の武士が役に立たないので、
 庶民からなる奇兵隊を造り、活躍しました。
 
 これに対して、薩摩や会津は戦士としての武士が
 多かったようです。
 
 
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江戸時代の武士となると、お殿様から


太刀を拝領するような事がありません。
(戦が無く、活躍する事が無いので)
大量生産の太刀を差していたと思われます。
名刀となると将軍家、各大名位しか持っていないでしょう。
武士が金に困って商人に刀を預け、金を借りる事もあったそうです。

以上が分かる範囲です。
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(1)No


刀はもちろん金で買うわけで。
徳川幕府は財力と権力を見事に分断してた。
本来直参旗本は身分が高いはずなんだけど、基本貧乏。
だから刀を質にいれるなんて描写が。これが金持ち商人に流れちゃう。

(2)
なんで、金さえあれば持ってたはず。町人でも銘刀を。

(3)
は聞いたこと無いなあ……

(4)
基本あんまないから幕末の斬り合いがクローズアップされるんだと思われ。
本で読んだ限り、みねうちは普通に骨折くらいは覚悟。
切られるよりいいよね、ってな。あと日本刀でみねうちやったらまずゆがむとか。

ただ、江戸時代ってひとくくりにするけど
江戸時代の時代毎にもかなり風俗違うし、地方と江戸ってのは全然違うしで。
たとえば日常酒飲むなんてのも江戸ならでは。基本日本全体ではハレの日の特別なもの扱い。
同じ江戸でも倹約令だされた時なんかはすさまじく冷え込んだり。

けっこう江戸時代で日本の過去の風俗を語るのって乱暴だったりします。
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