痔になりやすい生活習慣とは?

江戸時代の交通手段についてしらべています。
どんなものでもいいので、教えて下さい。
できたら、何故馬車が明治時代まで日本になかったのかも教えて下さい。
お願いします!

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A 回答 (4件)

牛車があるのに,なぜ馬に曳かせなかったのでしょうか.まず牛のようにゆっくりでないと,車の輪が持たなかったのかもしれませんね.馬のよ

うに走るのは乗り心地が悪かったことも一因でしょうか.大八車があったと思いますが,それを応用することもなかったデすね.それと人力車の発明は日本ですが、馬に曳かせなかったことも不思議です.日本は山や川の凹凸の多い国で、山では上がりはいいけれど,下がりの調節とか、戦略で橋をつけさせることをしなかったこと.また道が曲折したり、狭いことで、馬車が発達しなかったことではないでしょう.むしろ北前船や,菱垣船,千石船などが、利用が多かったのではないでしょうか.か..それと農家の民には,旅行できる余裕--農地に縛り付けられて-ができなかった.生かす殺さずという武士の考えで,江戸の末期には,それが緩んで.伊勢校参りとか盛んになったが,金がかかること,追いはぎに遭うとか,合ったそうです.
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この回答へのお礼

大変参考になりました!
ありがとうございました!

お礼日時:2001/05/09 13:16

こんばんは



陸上でしたら、まず籠があります。
街道筋のほぼ宿場毎に籠屋があり、宿場と宿場の間をつなぎます。
利用するのは、主に町人や商人、旅人です。主に太い竹を組み合わせ、すだれやござのようなもので囲うという簡単な構造のものは、旅人や町人が使用します。又、木を組み合わせて箱状にしっかりと作り、扉などをつけたものは、主に商人が利用します。御殿医や特に裕福な商家のだんな衆ともなると、漆で塗った立派な専用の籠を持っていることがあります。さらにお殿様ともなると、蒔絵や彫金細工を施し、内側には高級な輸入織物を貼った非常に豪華なものを所持しています。竹組みの粗末なものは、普通二人で担ぎますが、大名用では、六名くらいで担ぐのが普通です。江戸時代の籠も、現代の車のように、裕福な方ほど、立派なのを所持していますね。
川や湖では、小さな和船が主な交通手段となります。船頭が櫓をこいで進みます。
何故馬車が明治時代まで無かったのかは、解りませんが、恐らく、馬車という乗り物自身の発想が無かったのが、一因ではないでしょうか?。どなたか詳しい方、フォローしていただければありがたいのですが。お願いします。
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 基本的に旅行というものは庶民には日本では一般的ではなく、伊勢参りなども村の代表者が行って村全員分をお祈りしてその費用(お祈り・お守り)の為にお餞別というのが生まれたと何かで読みました。


また、基本的には足で急ぐ武士などのごく一部の人間のみ馬を利用していました。かごは急な峠等ではタクシーなどのように距離がしであったようですが、これも一般的ではありません。とにかく足でした。
 馬車は、日本は世界的に雨が多く道がぬかるんでいる時期が多いことや、石などでの舗装が進んでいなかったため普及しなかったそうです。
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全くのシロートですから信用しないでください。



・吉原へは、「猪牙舟」という快速船、「四つ手篭」で行ったようです。四つ手は恐らく4人で担ぐのでしょう。恐らく両方とも速いが料金は高い。江戸時代の黄表紙には「猪牙四つ手」という表現がよく出てきます。

・有名な「高瀬舟」は底が平らな荷物運搬船のようです。京都では盛ん用いられました。

http://ww1.tiki.ne.jp/~t-ikeda/takasebune.htm

・北前船などの大型帆船は衆知のとおり。

・江戸、大阪とも水の都で、縦横に川+運河が張り巡らされていた。今も東京には「○○橋」の地名が多く残る。明治通りも元は川(=古川)。

・馬の役割:荷物運搬などに盛んに用いられた。今高輪の「物流博物館」で展示あり。

・牛の役割:荷物運搬用に盛んに用いられたが、牛車として使われた。錦絵などに描かれている。

・何故馬車が明治時代まで日本になかったのか?
想像でしかないが、当時の日本の馬は非常に小さく、速いだけが取り得で、舟や、牛の大量運搬には太刀打ちできなかった。しかも当時は道が舗装されておらず、馬に車を引かせても滑らかに動いたかどうか疑問。

幕末には既に外国人が馬車を持ち込んでいたのでは?
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Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q江戸時代に車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのはなぜ?

明治になって人力車が普及するまで、身分の高い人の乗り物は駕籠だったと理解しています。

駕籠は担ぐ人も大変だし、乗っている人も楽ではなかったと思うのですが、なぜ車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのか、不思議です。

江戸時代でも荷物を運ぶのには大八車などがありましたし、さらに古い時代には貴族は牛車に乗っていた時代もありました。
ですから、車輪を使う技術を当時の日本人が知らなかったわけではなさそうです。
しかし、なぜか、人を乗せる乗り物には車輪の付いたものは現れませんでした。
これは何か、理由があったのでしょうか?

Aベストアンサー

ついでにですが、何故日本では馬車が発達しなかったか考えてみました。
当初馬の「去勢」が一般的ではなく、操るのに難しいといった理由かな、と思ったのですが、どうもこれも政策的なもので、幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。
その為、こうした規制の無い戦国時代には「荷車」といい、馬が2輪の車をひいて軍事物資を運んでいるようです。
4輪の馬車が使われるようになったのは明治時代からで、実は私も昭和30年頃、家の前を馬が材木を載せた馬車をひいて通るのを見ておりました。
一応政令指定都市のど真中ですが、昭和30年代は馬が都心を通るのも珍しくなかったのですね。

Qなぜ飛脚は馬ではなく人力で走るのか?

江戸時代、飛脚がいますよね。なんでも大阪から東京まで3日でいったとかなんとか。

それはそうとして、時代劇で飛脚を見るたびにおもっていました。

「なぜ、馬を使わないんだろうか?」

馬のほうがいいような気がするんですが、どうでしょうか?

いや馬を使っていたこともあるとは思うんですけど。

飛脚ってほとんど人力走りじゃないですか。おかしくないでしょうか?

Aベストアンサー

実は日本は世界の歴史から見て、稀有なほど馬を利用しない文化だったのです。たとえば馬車は地中海や中近東では紀元前には出現しているのですが、日本ではついに一度も利用しないで、自動車社会になってしまいました。日本の道が狭く道路を整備しづらいのは、馬車を利用しなかったからだ、という説もあるぐらいです。

なぜ馬が利用されなかったのかはついては、体系的な説明がなかなかなく、私も調べているかぎりの知識になりますが、いくつかの事実をあげると
・馬の去勢を行わなかった。
・武士階級はそもそも馬を御す技術を持った者のことだったため、乗馬が特権化した。
・仏教思想から、馬に限らず牛なども家畜というより家族として扱った
ということが影響していると思われます。

そのうえで飛脚についていうと、江戸時代でも馬による伝令はあったのです。ですから、飛脚とは別に馬を使った伝令も江戸時代にはあったのが事実です。
これらの伝令用の馬は平安時代に「駅伝駅馬」として整備を始め、江戸時代には駅がおかれた地域を中心に宿場町が発展していました。
つまり江戸時代の宿場には駅(伝令のために馬を用意し、宿泊できる施設も整えた施設)もあったのです。

ところがこれは平安時代から政治的軍事的な伝令のためのもので、庶民がつかえるようなものではありませんでした。武士といっても国の根幹にかかわるような伝達事項でなければ、馬は利用できなかったのです。

そのため、庶民が気軽に利用できる郵便制度として飛脚が発展し、まるで現在の宅配便のように気軽に利用できるようになっていたのですが、ここでそもそもの問題があります。それは「なぜ江戸-大坂間などを頻繁に飛脚が往復する必要があったのか」ということです。

この時代は人の行き来が難しい時代ですから、現代のように関東と関西に親戚がいて、お父さんは東北に出張、お母さんは九州に旅行、という具合にはいきません。当時のほとんどの人は生まれた場所から10kmぐらいの行動範囲しかなかったのです。

そのため飛脚は実は「商売」のために往復していたのが実際のところです。実は江戸時代、江戸と大坂では金貨経済と銀貨経済と貨幣も貨幣単位も違いましたし、大坂の堂島には米の先物取引があり、米相場は大坂しかし米の消費地は江戸、という二重経済をしていたのです。

今で言えば日本の中に円建ての経済地域とドル建ての経済地域があるようなもので、しかも毎日為替相場が動いて、その日の金貨と銀貨の交換比率が変わるという具合だったのです。

現在でもFXのように、為替相場は儲けることができます。また米の先物取引で儲けることもできます。この儲けのために頻繁に江戸-大坂間を証文がやり取りする必要があったので、飛脚が発達したのです。
しかしこれは階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。

日本から古来から大陸産の馬を時々輸入していたようで、去勢の方法も知らないはずは無かったのですが、たぶん当時の文化的な理由から馬の去勢をしなかったのだと思います。(じつは人間の去勢である宦官も日本は大陸から受け入れていません。日本は中国・朝鮮からいろいろな文化を受け入れつつかなり取捨選択しているのです)

話が脱線しましたが、江戸時代の中期になると庶民でも利用できるぐらい飛脚が発展したので、時代劇にも登場するのでしょう。それに比べて伝令の駅馬は地味すぎるのと政治的なドロドロが多すぎてテレビには向かないのではないでしょうか。

実は日本は世界の歴史から見て、稀有なほど馬を利用しない文化だったのです。たとえば馬車は地中海や中近東では紀元前には出現しているのですが、日本ではついに一度も利用しないで、自動車社会になってしまいました。日本の道が狭く道路を整備しづらいのは、馬車を利用しなかったからだ、という説もあるぐらいです。

なぜ馬が利用されなかったのかはついては、体系的な説明がなかなかなく、私も調べているかぎりの知識になりますが、いくつかの事実をあげると
・馬の去勢を行わなかった。
・武士階級はそもそも...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qいわゆる江戸時代の娼婦はどうやって避妊してたんでしょうか

コンドームのない時代にどうやってたのかな?
とよく思うんです。

事のあとで洗浄するとか、外出しですか?
(あの時代にはピンと来ない方法ですが…)
それとも妊娠の都度、堕胎したんでしょうか?

ご存知の方いらっしゃったら、教えてください。

Aベストアンサー

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなものと、女性用として御簾紙という薄い髪を丸めたタンポンのようなものとがあったそうです。いずれも紙製の頼りないもので避妊率は極めて低い、ほんの気持ち程度のものでしかなかったようです。
それでも妊娠すると堕胎する場合がほとんどだったそうで、場合によっては遣り手(遊女を取り仕切る年寄り女…「遣り手ババア」は吉原のこの役職の女性が語源)に強引に堕胎させられていたとか。当然ダメージを負った女性の中には性病や容姿の悪さなどで追いやられた遊女達と一緒に羅生門河岸という最下級の場所に送られたとか。

…というと江戸時代=昔=封建社会という背景も助長して「女性がとても虐げられている」というイメージが強いですが、実は江戸市中でも最も女性が強かった地域でもあるのです。特に花魁ともなると容姿はもちろん最高級の教育を受けた教養の高い女性であり、「源氏物語は、全部読んでありんす」というスーパーウーマンであり、それぞれの廓屋の看板であり、身分の高い武家階級や大金持ちの大店の主人を相手にするにふさわしい女性であったのです。
廓屋が大枚を叩いて徹底的な教育を仕込む所なんざ映画「プリティ・ウーマン」を思い起こさせますが、あの程度の金の掛け方では花魁の簪ひとつ分くらいじゃない?というくらい破格のものでした。今風に言えば伊東美咲に叶姉妹やマリエやデヴィ夫人や西川先生の持っているそれぞれ10倍くらいのものを与えちゃった、って感じです。
おまけにこれだけのスーパーウーマンだから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否出来ちゃったんです。「いっくら金積んだって、あちきはあんたみたいな下衆とは、お断りでありんす」だったんですな。それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたのです。

それなりに格のある身分の遊女はおいそれと抱く事はできなかった、というわけですが…今の時代もそうですね。銀座の高級クラブはもちろん六本木の超有名キャバクラ嬢だって、気に入らなきゃ「おめえとなんか寝ないよ、バーカ」です。故杉浦日向子さんは「江戸時代の江戸市中は女性主導の社会だった」と指摘している通り、実は花のお江戸は女性によって成り立っていたようです。それが男尊女卑に一変したのは明治維新以後…長州と薩摩の習慣が入ってきたせいかなぁ、と個人的には考えています。
もちろん廓屋という特異な世界では劇になるような悲惨な面もありますが、実は現代とさほど変わらない面もたくさんあるんですね。

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなもの...続きを読む

Q戦国時代には移動手段は陸路と海路しかありませんでした

戦国時代には移動手段は陸路と海路しかありませんでした。
荷物が多い場合は、当然、船を選ぶと思いますが、当時、地方の大名(今川義元や武田信玄)が1万を超える兵で上洛する時などは海ではなく、陸を移動しています。
これは大人数の兵を収容できる軍船を持っていなかったからなのでしょうか?
また、戦になったときに海で戦うよりも陸の方が有利であると考えたからなのでしょうか?
はたまた何か別な理由(金銭的?)があったのでしょうか?

Aベストアンサー

いつの時代もそうですが、上陸戦は極めて難しいんです。
だから安全な上陸ポイントがなければ、非常にリスキーで、あまり使用されません。

それから北条、武田、今川あたりはあまり大きな水軍を持っていません。太平洋側の海運は主に江戸時代に開設されたもので、もともと太平洋側には船が少ないんです。

日頃から高い金かけて船をそろえるくらいなら、矢や鉄砲を集めた方が戦力として効果的です。

一方瀬戸内海では平安時代から海運が盛んに利用されています。
日本海側も越智の国各所と敦賀を結ぶ海運が発達していきます。
こちらは京都の裏玄関(敦賀・賤ヶ岳・琵琶湖・淀川・京というルート)として、京に米等を輸送するルートです。

よって瀬戸内海ではたまに海軍を大きくを活用した戦争が昔から散見されます。

Q藩校・郷学・私塾・寺子屋??

江戸時代の教育機関として、藩校や私塾・寺子屋というものがありますが、藩校と寺子屋については何となくわかるのですが、藩校と郷学との違いが良くわかりません。
また、寺子屋と私塾の明確な違いも良くわかりません。このあたりのことに詳しい方、教えてください。よろしくお願いします

Aベストアンサー

 
  参考URLに示されているように、日本には、古来から、官制の教育機関と民間の教育機関があり、民間の場合、寺院などが、仏教を教えると共に、その他の一般知識も教えていたことになります。足利学校などは古くからありますが、入学者として、庶民も入ることができたとされます。
 
  江戸時代になると、各藩が、自藩の有能な人材を育成しようと、また武士の教養程度を挙げようと、藩立の学校を設けます。江戸幕府も官立学校を設けます。これらの入学者は武士階級で、教授内容は、儒学と武術であったということになります。
 
  他方、伝統的に地域の庶民の教育は寺院などが地元の子弟を集めて行って来たのですが、江戸時代には、寺院以外でも、一般庶民に基本的な読み書き算数などを教える機関が民間で設立されます。対象は庶民の子弟で、江戸時代中期になると、経済の発達もあり、庶民も、読み書きや算数程度は身に付けないと、商業活動などで支障を来すので、特に発達をみたとも云えます。
 
  藩校と郷学の違いは、藩校は、藩が設立した、いわば公立学校で、入学資格は藩の武士階級の子弟ですが、郷学は、半公立学校とも言え、藩校に準じて、藩が認めているもので、入学者は武士や一般庶民で、藩が設立する場合と、庶民や武士が設立し、藩が認めるというような形が多いようです。
 
  寺子屋は、ほぼ純粋に庶民の子弟の基礎教育に当たったもので、経営者や教授者は色々で、大体、現在の小学校・中学校が、民間で造られたというようなものです。これは、社会の発達に応じ、一般庶民も読み書き算数や、その他の色々な教養が必要になった為、需要ができて、それに応じて多数成立したものです。大体、六歳頃から十二歳頃までの庶民の子弟が学びました。
 
  私塾というのは、或る程度知名度のある知識人の先生の元に、教えを請う人がいて、自然発生的に学校のような形になったもので、基本的には、寺子屋と違って、成人が入学する私学です。師=先生がどういうことを専門にしていたかで、私塾で教える内容は色々であった訳で、儒学を教える私塾もあれば、本居宣長の鈴屋のように、本居の国学を教える私塾や、緒方洪庵の適塾のような西欧医学を中心に西欧文化を教える私塾など色々なものがあったと云えるでしょう。
 
  寺子屋は、庶民のための小学校・中学校という感じで、私塾は、特定の師を中心としている私学で、武士・庶民の別なく入学できる、江戸時代の単科大学のような感じでしょう。福沢諭吉の慶応義塾は、後に明治時代の大学にまで延長するはずで、総合大学の祖だとも云えます。
  
  >日本教育史1
  >http://www.nsk-japan.com/kyosai/dts/gts3.html
    

参考URL:http://www.nsk-japan.com/kyosai/dts/gts3.html

 
  参考URLに示されているように、日本には、古来から、官制の教育機関と民間の教育機関があり、民間の場合、寺院などが、仏教を教えると共に、その他の一般知識も教えていたことになります。足利学校などは古くからありますが、入学者として、庶民も入ることができたとされます。
 
  江戸時代になると、各藩が、自藩の有能な人材を育成しようと、また武士の教養程度を挙げようと、藩立の学校を設けます。江戸幕府も官立学校を設けます。これらの入学者は武士階級で、教授内容は、儒学と武術であっ...続きを読む

Q江戸時代の駕籠かきについて

時代劇の1シーンで客を乗せて 「エイッホッ、エイッホッ」 と走る駕籠がよく登場しますよね。 早駕籠じゃなくて、街を流している駕籠です。

思ったのですが、軽量の樹脂なんて存在しない時代ですから、まず駕籠自体が数十キロあると思うんですね。 それと客の体重が約50kgあるとして、総重量は100kg近くになりますよね。

これを二人の人間が肩に担いで、全力とは言わないまでも、少なくとも歩くより早い速度で客を運ぶわけですよね。

皆さん、約50kgの重量を片方の肩に受けて、調子よく 「エイッホッ、エイッホッ」 とやれますか? それも客の目指す場所まで休憩無しで運ぶんですよ。

おそらく今だったら、プロレスラーか、ハンマー投げの室伏選手くらいの体力がなければ無理じゃないでしょうか?

江戸時代の駕籠かきって、そんなマッチョ並みの体力があったのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の平均身長は、成人男子で150~160センチですが、
米俵(60キロ)これは平気で担いだようです。

100キロでも、2名分担なので1名50キロを担ぐ計算にはなります。

今の人間でも、殆どの男子は、バーベルを担いで練習すれば、この程度の重さは担げるようになりますが、
肝心の持久力(これを担いで走り抜ける)
これは相当な慣れが必要で、
実際には慣れるまで馬車馬のような訓練をするのは相当なクレームや問題が起こるので行えないのが実情です。

武士の場合でも、釣竿の重さをわざと重くし、刀の重さより重くし、持ち続ける。
重さを競い合うなど、絶えず武芸に通じるよう心がけ、励むのが普通であったようです。

でっち奉公の子供の場合も、1斗(18リットル)2個(計40キロ相当)を棒の両端にぶら下げて倉に出し入れは当たり前で、ささいな飯でこの体力を養っていました。

駕籠屋は、間接痛やヘルニアが多く見受けられ、心臓の病も多かったようで、中年以降相当な苦労があったようです。

プロレスラーの場合、150キロのバーベルは背負うと思います。
60キロ以上のバーベルを持ち上げるでしょう。
この観点では、

必要以上の重さは担がない駕籠屋は太刀打ちできないでしょう。
彼らが相撲で食わない所で、人の数倍力が無かったのが伺えます。

しかし、一般町民の中では力持ちの部類で、街中では立場は良かったでしょう。

しかし、客商売ですので、乱暴は思ったより働けず、上客層に対しては頭が上がらなかったのが実情でしょう。

江戸時代の平均身長は、成人男子で150~160センチですが、
米俵(60キロ)これは平気で担いだようです。

100キロでも、2名分担なので1名50キロを担ぐ計算にはなります。

今の人間でも、殆どの男子は、バーベルを担いで練習すれば、この程度の重さは担げるようになりますが、
肝心の持久力(これを担いで走り抜ける)
これは相当な慣れが必要で、
実際には慣れるまで馬車馬のような訓練をするのは相当なクレームや問題が起こるので行えないのが実情です。

武士の場合でも、釣竿の重さを...続きを読む

Q江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのでしょうか?

私の江戸時代のイメージは生活は質素倹約、物は何回でも再利用する、年貢は米だし、武士の給料も凄く少なかったと聞きますし、技術の新しい開発も確か幕府によって規制されていました。

質素倹約ならば安いものしか売れずにデフレになるはずだし、もったいない精神があれば全然物は売れないし、新技術の開発が規制されていたのならば一体何が売れていたのでしょうか?そこがわかりません

あと、江戸時代の人間にとってお金ってどのような存在だったのでしょうか?

現代日本人みたいに拝金主義だったのでしょうか?

それとも食べ物の次みたいに別に重要視されていなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代に、日本は鎖国政策をとることで欧米発の市場開放圧力を最小限に押しとどめました。また厳格な身分制度を保持し続けることで、一攫千金を夢見る欲望(リスク)よりも農村共同体における安定への欲求を促進したのです。従って、市場経済が無制限に拡大することは抑止されたのです。

しかし、だからといって、経済が縮小し、人々の生活が困窮した訳ではありませんでした。むしろ鎖国したことで、全て国産で作り出すという国内の産業振興が可能になったのです。

また最大の秘訣は、幕藩体制にあります。つまり、基本的に藩に全権があり、徴税権も全て藩にありました。他方で藩は経済政策を失敗すればお家取り潰しもありえましたから、藩の経営には競争圧力が働いていました。江戸の後期には藩は専売制度を導入し、地域経済の振興に力を注いだのです。

と同時に、そのままほっておくと隣合う藩同士で揉め事が起きることもありうるため、藩に資財が蓄積されないように参勤交替によって、江戸という一大消費都市を作り出しました。

これにより、基本的に藩という地方分権を実現しつつ同時に、幕府の財政力・統率力も失わない仕組みを実現していたのです。またこれにより各地に宿場町も発達し、富裕な藩からそうでない藩へと富の再分配を図ることにも成功していたのです。

勿論、江戸システムにも限界はあり、結果的に海外からの市場開放圧力に屈しることになりましたが、欧米流の経済システムが限界を迎えた21Cこそ、江戸システム再興の時代だといえるのではないかと思います。

以下のブログでは、日本型市場システムの可能性を縄文時代から遡って検証しています。是非、覗いて見て下さい。

参考URL:http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/04/001043.html#more

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代...続きを読む

Q江戸時代の旅の手荷物や衣類・食事などは?

お世話になります。

時代劇を見ると、江戸時代の旅装束・手荷物・衣類・食事は、かなり少ない様子です。即ち、

●笠、合羽程度を振り分け荷物で着たきりスズメ

で、手ぶらのようです。その他には、せいぜい杖くらいです。泊りは宿場なので問題なしとしても、こんな軽装で旅が続けられたのでしょうか?

よって、質問です。

Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)
Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)
Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

ご回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。


>>特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。

やはり、「銭」が一番でした。
農村部では飢饉などで困ったことでしょうが、旅篭などでは、米の流通を銭の力で優先的に差し押さえていましたので、旅人にはあまり不自由なく往来できました。


>>また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

江戸時代書かれた「道中案内記」によると・・・

着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、脇差(道中差、女は懐剣)、頭巾(または笠、女は市目笠)、三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、鼻紙、草履(草鞋)、財布、道中記・・・などを小物篭に入れて包み、肩から振り分けにして持参すると良いと書かれてあります。

(よもやま話)
江戸時代中期(文化・文政の頃)になると江戸も繁盛するようになり、小旅行がもてはやされました。
箱根の関所手前までなら、「通行手形」もいらなかったので、自由に往来できました。
日帰りまたは1泊2日くらいの旅としては、
箱根七湯、江ノ島詣、鎌倉見物、金沢八景、大山詣、成田山新勝寺詣、秩父三十三箇所詣、日光東照宮参り、
などが人気でした。

また、関所でも「○○講中」と書かれた白い上着を着て、それらしき旅姿であれば、通行手形は不要でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


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