
No.7
- 回答日時:
平安時代貴族の乗り物として『牛車』があったことは、ご承知の通りです。
当時、馬車はありません(あったかも知れませんが私は知りません)。また、江戸時代の荷物の運搬に『牛車(ぎゅうしゃ)』が多く使われましたが、馬に荷車を引かせていた例は少ないようです。
ヨーロッパに比べ、日本では『車』そのものの発達が遅かったといえます。
平野が多いヨーロッパと山が多い日本との差が原因しています。
日本では隣の国へ行くのには高い峠を越えて行くのが普通でしたし、隣の村へ行くのも山道や、海岸の崖っぷちの道を行かなければならないところが多かったです。
こういう場合(重い荷物を長距離輸送する場合)は、荷車は無理で牛や馬の背に荷物を振り分けて運ばざるを得ませんでした。
重機やダイナマイトのない時代ですから、岩盤をくりぬいたり爆破したりできませんので、車を通せる幅があって勾配の少ない道を作ることはできませんでした。
それでも山坂のない京の都では牛車が使われましたし、大きな街道では牛に荷車を引かせていました。
昔の馬は小柄でしたが牛も同じく小柄でした。牽引力は体重にほぼ比例しますので、牛馬の差は大きく違わなかったと思います。
歩く速度は牛よりも馬の方が速いです。
そこで、なぜ馬でなく牛なのかということですが、これは馬と牛の性質の違いによるところが大きいと思います。
馬は非常に小心な動物で、少しのことにも驚きやすく、制御しにくいところがあります。一方牛は、驚いて暴れるということは滅多にありません(鼻環をつけることによって制御しやすくなっています、本当に怒らすと牛の方がコワイですが)。
特別急ぐ必要もない平安時代の牛車や江戸時代の牛車(ぎゅうしゃ)は、安全第一で牛を使ったものと思われます。
まあ、まとめると次のようなことになると思います。
・山坂が多く平坦な道を造りにくい日本では車が発達しなかった。
・急ぐ旅は馬に乗って走れば足りた。
・車を引かせるのは馬より牛の方が安全。
・江戸時代の日本は三百ほどの大小名が分割統治しており、人や物の行き来がそれほど頻繁ではなかったので、車の発達は遅れた。物資の大量輸送には海運が適していた。
・馬は武士専用の乗り物で、武士はそれにまたがって乗るのが身分の象徴になっていた。
昔はこんな感じで思い荷物を運んでいました。↓
http://www009.upp.so-net.ne.jp/tokai53/53sub/oot …
この絵は面白いですね!
たしかに東海道では箱根や由比や大井川など難所が多く、あまり馬車は使えそうにないですね。他の主要街道でも親不知とかありますし。
ただ関東平野や近畿なら発展の余地はあったようにも思えます。
No.5
- 回答日時:
馬車はなぜ明治維新まで日本になかったか。
馬を乗用にのみ使い輓用にしなかったのかは歴史学会でも問題にされている、ということを国際交通安全学会編『交通が結ぶ文明と文化』で知りました。日本の地形は山地や川が多く馬向きでないこと、古代の馬は小型で力がないことなどが、大きな理由だと思っていました。
しかし、荒川紘著技術文明を考える『車の誕生』を読んでなるほどと納得しました。
「地形が馬向きでないとか古代の馬が小型とかの理由は不十分、第一の理由は国内の事情より朝鮮にある。日本の国家形成期に馬車の文化に接しえなかったからだ。つまり朝鮮南部に馬車が伝わらなかった。その後の日本の政治・経済条件が馬車を必要としなかった」というのが著者の主張です。
私の考えで補足します。
「地形が馬向きでない」ことは事実ですが、必要があればそれを克服できます。
明治初期、乗合馬車は増加の一途をたどり、明治10年代、東京から各地へ長距離路線ができ、最長は仙台まで380キロ。
「古代の馬は小型」という理由よりは、日本には牛はいいのがいたので力の強い牛に運ばせたということですね。しかし、平地なら車をひくが坂地はだめでした。
日本人は馬が嫌いだというのではなく、牛より馬に愛着をもっていました。古墳から出土する埴輪は圧倒的に馬が多いです。
中世末期から近世初期にアラビア馬がかなり来て品種改良し、東北地方だけはわりあい大きい馬がいたが、馬車には使用されませんでした。
「朝鮮南部に馬車が伝わらなかった」
前14世紀頃、中国(殷)には馬車があったが、日本の古代技術の源流である朝鮮では馬車は定着せず、騎馬と牛の文化が根づき、それらが日本に移入されました。
中国の隣国朝鮮に馬車が定着しなかった方が謎です。
なお、車輪のスポーク(輻ヤという)は技術史上重要ですが、平安時代の牛車にすでに採用されています。
「日本の政治・経済条件が馬車を必要としなかった」という理由は大きいですね。
賢明な日本人は、江戸時代まではうまく水運を利用し、近代国家を目指した明治政府は、即座に乗合馬車次いで馬車鉄道を運行していますから。
No.4
- 回答日時:
どんな交通手段を選ぶのが有利か、じっくり考えれば答はおのずから明らかです。
四周を海にかこまれ、年間を通じて降水量が多い日本では、水運が安全、確実、低廉な輸送手段でした。だから、主だった都市も、水運に便利な場所に発達しました。ただし、時間がかかるのはやむをえない。
ヨーロッパでも水運が利用されていますが、馬車が発達したのはローマ帝国の遺産が大きな要素でしょう。すべての道はローマに通じると言う格言がありますが、巨大な帝国を統治するため、ローマ人は道路の建設に力を注ぎました。日本では逆に、大軍が攻めてこないように、橋を架けなかったり、道路の舗装をしなかったようです。
そういう知識がなかったわけでないことは、逢坂の関の車石などをみればわかります。
さらに、断種の技術を知らなかったので、多数の馬に車を牽かせることができなかったという説も聞いたことがあります。
> 日本では逆に、大軍が攻めてこないように、橋を架けなかったり、道路の舗装をしなかったようです。
関所をいっぱい作るような発想ですね。たしかにこれでは馬車の活躍もないように思えます。
No.3
- 回答日時:
日本では、1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として運行を開始し、南は沖縄から北は北海道までの全国にも広まっていくが、電車が登場すると糞尿や餌の問題がない事もあって、急速に取って代わられる形で馬車鉄道は衰退していった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A% …
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