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司馬遼太郎と戦車について。

司馬遼太郎が最初に乗った戦車は、装甲がやすりで削れなかったが、次の戦車は削れた。
おそらく、日本の国力が落ちて、硬化をした鋼板を使用する余力がなくなり、日本の戦車は敵と対抗できなくなったが、軍部は”戦車は戦車”といって戦車を運用した。そこで、戦車に乗車する司馬は憤った。

司馬遼太郎と戦車について上のように思っていますが、如何?

A 回答 (10件)

前に書いたネタなんですけどね、戦車の装甲って何種類かあるんですよ。

代表的なのが表面硬化鋼と均質圧延鋼。表面硬化鋼は固いが脆い、均質圧延鋼は靭性が高いため粘り強い、という性質があります。日本の戦車は初期は表面硬化鋼、後になって均質圧延鋼を採用したという話があります。前者は硬くてヤスリが効かない、後者は削れる(もちろん比較の話です)。敵弾を弾くか、受け止めるかの性質の違い。このことを司馬氏がよくご存じなくて、単に国力が落ちたと誤解したんじゃないかという説です。

 他の人への質問に乗っかって恐縮ですけれど、
①対戦車を想定した武装を制作できなかったのか(技術的にまたは財政的に)、
 →長砲身・高初速の戦車砲の開発自体はしていました。ただし価格が高いこと、当時の陸軍の敵となる戦車には重装甲のものが出現していなかったこと、砲が高性能でも肝心の徹甲弾に使うタングステンなどの金属が入手しにくかったこと等、様々な理由で短砲身で対戦車性能の低い砲が採用されてしまいました。

②<歩兵の戦闘を支援するという戦術>に沿った武装なのか、
 →先にも書きましたが相手となる戦車に重銃装甲のものがなかったこともあって、対戦車戦闘自体が想定できず、歩兵支援用の戦車になったのだといわれています。歩兵支援で必要なのは機関銃座などを制圧しうる榴弾の威力で、対戦車用の徹甲弾はいらなかったのです。対戦車戦闘はもっぱら速射砲(牽引式対戦車砲)の仕事でした。

③<パワーパックの開発が間に合わなかった>のですね。
→そうですね。当時パワーパックという考え方はなかったのですが、戦車用エンジンは燃えにくいディーゼルが一番という考え方がありました。ガソリンが常に足りないという事情もあったかもしれませんが、ディーゼルは価格が安くて燃費が良くて燃えにくいという特徴があったのです。ただ当時ディーゼルというのは最先端の技術の一つで、日本だとやたら重いものしか作れませんでした。1000馬力どころか200馬力もきついというレベルです。エンジン自体が大きくて重い、そのため装甲も薄くて備砲も小さいものという悪循環だったのです。それこそ零戦の栄エンジンをデチューンして使えばよかったという話も聞かれます。

 お邪魔しました。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました
1.やすりで削れない装甲は、必ずしも強靭だとは言えないのですね。<固いが脆い>という特性を背負っているのですね。
2.戦車の利用目的が、<対戦車戦闘自体が想定できず、歩兵支援用>だったのですね。(ノモンハン事件の戦訓は間に合わなかったのですね)
3.ディーゼルの始動に、司馬は手こずっていますね。

お礼日時:2023/02/02 09:54

wikiを検索してはいかがでしょうか。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%BC%8F …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2023/02/09 17:53

NO.8


>大戦末期に高品質な鉄など作れません。
意味わかった上で、あえて書くけど......

こういう、アホHPがあるので。
http://www.luzinde.com/meisaku/tanks/chi-nu.html
やり玉にあげるのは、「軟鉄」ここだけ。そこ以外は今回関係ないのでノーコメント。

「鉄」と「鋼」は別物。
高品質な「鉄」とは、どういう鉄?
FCD(球状黒鉛鋳鉄)。まだ世界のどこにも存在しない。(1948年に開発。)
高級鋳鉄。FCDに比べれば、かなり品質悪い。
純鉄。トランスの鉄心などが用途。構造部材としてはヘタレであって使用できない。かつ、鋼鉄より製造が難しい。
鋼鉄。これは鉄でなはい。

「軟鉄」というのは、軟鋼のことだとしか解釈できないわけです。
そうすると、
国力落ちたからまともな鋼材生産できない。と書いたらダウト。(高張力鋼生産できない、なら、セーフ。鋼材生産量が減った、はセーフ。)

まあ、鉄と鋼を間違えちゃダメで、コレやると、冶金学的には印象操作モノです。

で、冶金学的には、硬い鋼を作ろうとするならニッケルなどを混ぜて合金にするのが最短手順。ドイツにしろ日本にしろ、ニッケルなどは入手困難なわけで四苦八苦したのは確か。
更に、被帽徹甲弾の開発により、表面硬化しても戦車砲に対しては意味ないので、手間がかかる表面硬化は、小銃弾のときしか意味ないとして、廃止
という論理も成立。司馬さんの論理は反論できる、としか言えません。


なお、
大戦末期には、仕様書通りの鋼板を用意できなかった
ということに対しては、私の議論は全くの無防備です。
あくまで、
・仕様書通りの鋼板であってもヤスリで削れるのが普通である
という意味での反論でしかありません。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
複雑ですね、難しいですね。

お礼日時:2023/02/09 18:35

第二次大戦末期のドイツ軍の戦車は、鉄の品質が悪くなって被弾すると装甲板が割れやすくなったのは有名な話です。


ドイツより工業技術が低かった日本で、大戦末期に高品質な鉄など作れません。
信濃があっさり沈んだのも、隔壁の戸を開けっ放しで作業していたこともありますが、大和や武蔵より低品質な鉄で作られていたからともいわれています。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
おそらく、ベストな資材の調達に支障が出て、思わぬ事故が発生したのですね。

お礼日時:2023/02/03 17:16

>司馬遼太郎と戦車について上のように思っていますが、如何?


まず気になるのが、どこまでが司馬さんの意見でどこからがあなたの意見なのか、それが不明確な点。
やすりで削れる云々は司馬さんの経験なのは確定だとして、
日本の国力が落ちて云々が、あなたの意見なのか司馬さんがそう言ったのか、そこが文章からはわからない.....
※司馬遼太郎と戦車について上のように思っている という文章が無ければ、国力が落ちて云々は司馬さんの意見となるが、上のように思っているのはpark123さんとみるほうが普通、かな?

で、日本の国力が落ちて云々は、park123さんの意見であると解釈します。

まず、ドイツ戦車の実績から。
http://wau.private.coocan.jp/wwtef/misc/pam.pdf

上記論文の結論部を書くと
・1号戦車、2号戦車のような装甲が薄い戦車でも、表面硬化装甲は使われていない。表面硬化装甲が使われていたのは、戦車の装甲の一部(前面装甲が中心)のみ。
・装甲は硬化処理するといってもブリネル硬度で500-570くらい。(英国の基準。)
 ※ヤスリなどで硬度に特化していいなら、硬度はもっと上げられる。

以上より
結論その1。
質問文の論理では、ドイツは大戦初期から国力が無い、日本は大戦の中期まで国力があった、という無茶苦茶な結論になる。

結論その2。
97戦車の装甲であってもやすりで削れるはず。
やすりの硬度にもピンキリがあるので、キリのほうなら、97戦車の装甲(浸炭法)なら削れないかもしれないがピンのほうなら削れる。

で、3式戦車は装甲板が厚くなったので表面硬化方法を浸炭法から焼入法に変更。(wikiの「3式戦車」より。3式戦車が均質圧延鋼だったとは書いてない。)焼入法のほうが硬くないので、キリのほうのヤスリでも、おそらく削れる。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
1.司馬は軍部に対して憤っているだけで、日本の国力が落ちた、と思ったの質問者です。
2.結局。装甲の強度は一概に決めつけることはできず、不明だ、ということですね。

お礼日時:2023/02/03 10:31

丁寧なお返事ありがとうございました。

ちょっと補足。
1.やすりで削れない装甲は、必ずしも強靭だとは言えないのですね。<固いが脆い>という特性を背負っているのですね。
 →そうです。表面硬化鋼を採用したドイツの戦車では、抜かれはしないが何発か受けると正面装甲が真っ二つに割れたというケースもあったそうで。
2.戦車の利用目的が、<対戦車戦闘自体が想定できず、歩兵支援用>だったのですね。(ノモンハン事件の戦訓は間に合わなかったのですね)
 →ノモンハンでは戦車がコテンパンにやられ、速射砲が多数のソ連戦車を撃破しています。じゃあ速射砲があるからいいじゃん、まあどうやっても日本が外国と同じ数の戦車をそろえられるわけもないしと。むしろ戦訓といえばそれが戦訓になっちゃったのでは。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
1.<正面装甲が真っ二つに割れた>ですね。
  道草です、人間も固いだけではダメですね。
2.日本の国力なら、総花ではなく一部に特化せざるをえなかったのですね。

お礼日時:2023/02/02 16:49

ヤスリで削れたのが三式中戦車で、傷が付かなかったのが九七式中戦車という話ですよね。



これ、用兵側が無知で、小銃弾ごときで傷の付く均質圧延装甲ではなく、表面硬化装甲にこだわったためにやすりで削れない、その代わりに簡単に割れる防弾鋼鈑を使用したと言う事で、戦訓により、均質圧延装甲鈑に切り替えただけの話です。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
装甲板の特性を異化し<戦訓により、均質圧延装甲鈑に切り替えた>ということですね。

お礼日時:2023/02/02 09:57

対米戦では、米軍は戦車を前面に出してきましたので、日本陸軍の歩兵支援のための戦車という構想では対処できず、必然的に戦車戦に巻き込まれて完敗でした。



それで主砲を強化していい勝負に持ち込むことに成功しましたが、それは米軍が軽戦車を出していた時代で、米軍が中戦車を出してくると再び一方的にやられる展開となりました。

結局、米戦車に対抗できる重戦車は試作段階でも失敗続きで終戦を迎えました。重戦車を動かすパワーパックの開発が間に合わなかったのでしょう。

以降、米軍戦車には強力で精度の高い命中率を誇っていた重砲隊を持っていた沖縄防衛軍くらいしか優位に立てませんでした。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
<米戦車に対抗できる重戦車は試作段階でも失敗続き>なのですね。
<パワーパックの開発が間に合わなかった>のですね。
ゼロ戦もエンジンは1000馬力で、同じような境遇ですね。

お礼日時:2023/02/01 14:48

ふと思ったのですが、


日本の戦車が巷で言われるほど低性能では無くて、歩兵の戦闘を支援するという戦術では、ハ号も、九七式もそこそこ役に立っていて、開戦初頭のマレー電撃戦などでは活躍してますね。

ただし、敵が戦車を持っていて、敵戦車との戦闘になると、日本の戦車の火力は低くて敵の戦車の装甲が貫けなかったとか、日本の戦車の装甲が弱くて敵の戦車砲の砲弾に簡単に貫通されて撃破されていたと言うことですね。

それまでの日本戦車の装甲でさえ、敵の砲弾に簡単に貫通されていたのに、鉄板が薄かろうが柔らかろうが、敵戦車に勝てないというのは変わらないんじゃないでしょうか。

だから、嘆くとしたら、
日本陸軍の上層部は、どうして対戦車を想定した戦車の開発をもっと早く進めなかったんだと嘆くべきかも
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
そもそも、日本の戦車は<歩兵の戦闘を支援するという戦術>で使用されていたのですね。(装甲車並なのですね)

気になる点は
ただし、①対戦車を想定した武装を制作できなかったのか(技術的にまたは財政的に)、あるいは②<歩兵の戦闘を支援するという戦術>に沿った武装なのか、
どうお考えですか?

お礼日時:2023/02/01 09:19

降伏前の遼ちゃんは、至って普通の明るい軍国青年でした。


ただ、戦車学校の成績が悪かったので、最前線に送られずに生き延び、軍国青年らしく降伏にショックを受け、どうしてこんなことになったのだと調べ始めて昭和の軍部の実態に強い怒りを感じるようになった。

とはいえ、司馬遼太郎の基本は、軍国青年のままであり反戦主義者でも平和主義者でもない。だから帝国陸海軍の輝かしい歴史である日清日露戦争を描いた「坂の上の雲」を上梓した。

妄想もいい加減にしないと、軍国青年だった司馬遼太郎の御魂に祟られますよ。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2023/02/01 09:20

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