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タイトル通りです。第一次世界大戦中の1916年7月から開始されたソンムの戦いでは、イギリス軍がドイツ軍相手に攻撃を仕掛け、多大な犠牲を被ったのち、1916年9月の調べてみるとフレール=クレスレットの戦いから戦車を投入したとの記載がありました。ただ、この時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。

第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体では威力を発揮しなかったのでしょうか?

現在においても戦車単体では、敵の対戦車砲などによってすぐに潰されてしまいますが、第一次世界大戦だと防御側は有刺鉄線や塹壕、機関銃などによって圧倒的に優位であったため、あまり戦車は役に立たなかったという認識は合っていますか?それとも、違いますか?

「ソンムの戦い(フレール=クレスレットの戦」の質問画像

A 回答 (1件)

>フレール=クレスレットの戦い~の時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。



 49両中、10両が故障で前線まで移動できず、攻撃開始地点から実際に戦闘に参加したのは14両。戦闘開始で前進中5両が泥濘にはまって行動不能となった、ということでした。

> 第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体では威力を発揮しなかったのでしょうか?

 そもそも、戦車が開発されたのは、塹壕や鉄条網を超越し、歩兵の進撃路を確保することによりこう着する戦況を打開するためで、戦車戦の用兵思想はなかったのです。

 ゆえに、防御装甲は船舶ボイラー用の鋼板を流用した程度で、ドイツ軍が敵の監視哨狙撃用に装備していた小銃用徹甲弾(smK弾)で戦車側板を打ち抜けていました。また、速度は時速約6キロていどでしたから、歩兵の協同がないばあい、ドイツ兵は容易に死角から戦車に迫って集束手榴弾を使用したり、開口部を銃剣でこじ開けたりして中の乗員を射殺しました。さらに、泥濘での立ち往生や故障などからドイツ軍に手に渡る例もありました。
 
 実際、のちにドイツ軍が戦車部隊を編成した際には、イギリス軍から鹵獲した改造戦車が主力となっていたほどでした。

 このように戦車が登場した初期は、前線のドイツ軍将兵に恐怖を与えた効果はありましたが、戦車戦闘の運用思想の欠如により戦況に大きな変化を出すには至りませんでした。
 
>第一次世界大戦だと防御側は有刺鉄線や塹壕、機関銃などによって圧倒的に優位であったため、あまり戦車は役に立たなかったという認識は合っていますか?それとも、違いますか?

 1917年11月、カンブレーにおけるイギリス軍の戦車大量投入(476両)による奇襲作戦は、それまで何度も失敗していたドイツ軍の前線を一日で突破するという画期的な戦果を挙げました。反面歩兵の協同を欠いた戦車群のみで前進したフレスキエルの戦闘ではドイツ軍野砲部隊により約30両の戦車が破壊されました。

 第一次大戦中の戦車の運用は、戦車の奇襲的な大量投入や、戦車と歩兵、砲兵などの諸兵科の連合的運用という大量殺りく戦へつながり、続いて起こった二次大戦、ついで現代までのきわめて重要な戦訓を生んだといえるでしょう。

資料:歴史群像 欧州戦史シリーズ『WWⅡ ドイツ軍装甲部隊全史Ⅰ』 学習研究社 2000年
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/09/20 16:57

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