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 1. 神は人間の精神だと言う人にかぎって このけがれなき身ごもりをあたかも信じているのではないでしょうか?

 2. 母マリアは 遠くダヰデの血筋に連なる男であるヨセフとの性交によって子イエスをもうけた( a )のであるが それは同時に神なる聖霊によって身ごもったというかたち( b )です 物語のうえでは。後者のキリストにかんする側面が いわゆる処女懐胎です。人格( a )と神格( b )の両方の側面が 同時に一体として あります。

 3. ▲ (パウロ:ローマ書1:3-4)  ~~~
  御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ( a )、

  聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた( b )のです。
  この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
 ~~~~~~~~~~~~~

  ( a )は 事実であり ( b )は こういう想定であり 物語です。であるのですから そのコトじたいを《信仰の対象とする》謂われはないし またぎゃくに頭ごなしに突っぱねる必要も何もない。のではないでしょうか?

 4. ここのところが どうしても・いつまで経っても 広くは知られるようにはならない。どうしてなのか?――という質問です。





 5. たしかに 《情欲のない生殖》という命題はかかげられています(アウグスティヌス)。あるいは

 ▲ (旧約聖書・雅歌3:5)~~~~~
 エルサレムの娘たちよ、

 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、
 あなたがたに誓い、お願いする、

 愛のおのずから起こるときまでは、
 ことさらに呼び起こすことも、
 さますこともしないように。
 ~~~~~~~~~~~

 というような思想をも聞きます。けれども《処女懐胎》ということを殊さら推し出すという考えは どこか病的ではありませんか? 《けがれ無き》なることをかかげるということは あまりにも現状がひどいということを意味していませんか? ひどくなくても 自分たちのあたまの中が ぐちゃぐちゃなのでは?
 
 6. つまり 神は 人間の精神であるという精神錯乱に落ち入っているのではありませんか? 観念の中でだけ 神や 無垢やを後生大事にあがめている。これは 不健全でしょう。

 7. 日本人はもともと万葉のむかしから そんなあたまで立って逆立ちしたまま往来を歩くなどということから 無理なく自由だったのではないでしょうか? どこでどうくるったのでしょう?
 
 

A 回答 (24件中11~20件)

>> ☆ そのご説明はまったくコメントのしようがないほどのしろもの


>>ですが 確かにこの(2)の命題のことを とおくはるかに説明しよ
>>うとしている。とは思いました。ですが 哲学ではありません。どこ
>>が? 指摘するなら こちらが哲学ではなくなります。


確かにそのように見えると思います。
その理由は「この世界は神のことばの世界」つまり「幻の世界」であるという大真理に立っていないから、理解不能に陥っているのです。


>>★ 概念があいまいなまま信じてはいけません。
>> ☆ それは多少は想像を交えた《考える》という行為です。《概念》
>>が経験思考であることを物語っています。
>> 《信じる》は《考える》とは何の関係もありません。《非思考》なの
>>です。
>> なぜなら 神が《非経験の場ないしそのチカラ》だからです。これ
>>を心に受け容れるのが 《信じる》ことです。
>> 信じる対象は じつは非経験の場なのですから 非対象ですが 信
>>じるというその行為じたいは 経験行為である人間の心的現象です。


そんなに難しく考える必要はありません。

たとえば、『山田さんを信じる 』という場合、山田さんを信じることはできません。
○山田さんの考えを信じる
○山田さんの言葉を信じる
○山田さんの行いを信じる
このどれかになり、山田さんそのものを信じることではありません。

これと同様で、『神を信じる』という場合も同じです。
○神の考えを信じる
○神のことばを信じる
○神の行為を信じる
このどれかになり、神そのものを信じることはできません。

○神のことばを信じるのであれば、イエスキリストのいう『神の戒めを守り、神のことばを行わなければなりません。』
○神の行いを信じるのであれば、『この世は神のことばで造られており、自然に出来た世界ではない。』という真理を信じなければなりません。

【これを信じることを『信仰』というのです。】


>> ☆ イエスとキリストのことをご存じではない。趣旨説明欄にも説
>>明しています。
>> あるいはつまり 《イエスキリスト》とすでに言っているのなら 
>>人間(イエス)と神(キリスト)とが 同時にひとりの存在の中にあ
>>ると言っているぢゃありませんか。


確かに『人間(イエス)と神(キリスト)とが 同時にひとりの存在の中にあると言っています。』

それは、『イエスキリストという肉体人間の中に神のことばという智慧がある。』という意味です。

**********************************************
まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
(新約聖書)
**********************************************
イエスキリストが磔になった時、誰かイエスキリストの血を飲んだ者がいますか?イエスキリストの肉を食べた者がいますか?

イエスキリストの血とは『イエスキリストの神のことばのことです。』
イエスキリストの肉とは『イエスキリストの神のことばのことです。』

このように聖書は間違って解釈するととんでもない誤解を生みます。

この回答への補足

 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~
 3.
 次の二つの命題は 互いに矛盾しています。
 ★( a ) ~~~~~~~
 エホバの聖人が世界に何万人いますか?
 彼らが『まれな存在』と言えますか?
 ★( b ) ~~~~~~~~
 『寄らば大樹(団体)の陰』という言葉がありますが、真理に関することは、その真逆が正しいのです。大樹は『滅びに至る門』に向かっているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 
 5. 
 ★ これと同様にこの世で生きている者は一人もいません。命は神から来ており、神のみ生きている方なのです。
 ☆ ぢゃあその《生きていない》あなたが 何を言っても ただの錯乱でしかないとなりませんか?
 ~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2012/04/01 10:36
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 1.
 ★ その理由は「この世界は神のことばの世界」つまり「幻の世界」であるという大真理に立っていないから、理解不能に陥っているのです。
 ☆ あなたご自身が 《理解》しえてから 回答を寄せるようにしてください。

 

 2.
 ★ ~~~
 ○ 神のことばを信じるのであれば、イエスキリストのいう『神の戒めを守り、神のことばを行わなければなりません。』
 ○ 神の行いを信じるのであれば、『この世は神のことばで造られており、自然に出来た世界ではない。』という真理を信じなければなりません。

 【これを信じることを『信仰』というのです。】
 ~~~~~
 ☆ 《文字は殺し 霊は生かす》を省みてください。
 神が人間によってまた人間の言葉によって認識され得たなら それは神ではありません。ただ人間が想像し思考して編み出した観念としての神です。つまり 思考と想像の産物であり 神ではありません。

 神の独り子のキリストを聖書記者ヨハネが《ことば》として 人間の言葉で表現したのは あくまで仮りの代理としての表現です。それをとおして――つまり《文字そのままではなく 文字をとおして》――人はおおよそのイメージや概念を 神にかんして 得るというためのものです。
 ただし そのような説明によって 《神が何でないか》についてはわれわれ人間はよく分かるのです。


 3.
 ★ 戒め
 ☆ などはひとつもありません。強いて言えば――イエスも言ったように―― 《神を愛せ そして隣人を愛せ》という二つにして一つのコトです。
 しかもこの《愛》も 人間の感情や理性でそう努力する場合もあるのは然ることながら もし要請されているとするなら それは 神からの愛によって――つまりそれは 予感のようなかたちで そうだとすれば実現します――与えられるのであり そのあたえられた愛のもとに出来ることです。
 つまり 人間にはちょっとやそっとでは出来ません。《戒め》はないのです。自由です。

  * 《わたしは真理である》――なぜなら 《真理はきみたちを自由にする》。

 なぜなら 文字は人を殺すからです。観念の城の中に閉じこもって行くからです。自分自身のチカラで その倫理規範をおこなおうとするからです。それは 意味がなく 意味がないどころか 人をただの人間主義あるいは科学万能主義に落ち入らせ ころしてしまうからです。


 4.
 ○ 信じる
 ☆ ということについて もっとしっかり考えてみてください。ただ作文を書けばよいというものではありません。
 ★ ~~~
 イエスキリストの血とは『イエスキリストの神のことばのことです。』
 イエスキリストの肉とは『イエスキリストの神のことばのことです。』
 ~~~~~ 
 ☆ これもただの作文です。
 なぜなら 
 ★ 神のことば
 ☆ が 人間の言葉であるに過ぎないからです。人間は 何によってもそれを示せないどころか それが何であるかさえ分かっていません。ただし それが――つまり神のことばや 神が――何でないかは はっきりと示すことが出来ます。
 人間の言葉によって書いた作文は 神のことばでも神でもありません。

お礼日時:2012/04/01 10:28

>>エホバの証人さんですね。


>> イエスをキリスト(メシア)つまり神の子であり神である存在だと
>>は認めないという。

エホバの聖人が世界に何万人いますか?
彼らが『まれな存在』と言えますか?


>> もちろん 良心・信教の自由に立ちますが 問題はここで 《けが
>>れなき身ごもり》のことをどう解釈するか? です。

それはすでに述べましたよね。もう一度いいますか?
**********************************************
この世界は神の世界から追放された幻であるため、この人間世界に生まれるには、『汚れ』という条件が必要なのです。それは、『性欲』です。性欲のない天使(神の子)はこの人間界に生まれることはできません。

もう少し具体的にいいますと、父親と母親が性交します。そのとき、父親に嫉妬をしてその中に入ってくる霊は男。また、母親に嫉妬をして入って来る霊は女としてその母親が妊娠するのです。

天使の世界(神の国)には性欲はありません。性欲があったら天使にはなれないからです。このように『性欲と嫉妬』がない天使は、性欲によって生まれることはできません。だからマリアは処女懐妊という形をとる方法しかないのです。
**********************************************


>> イエスの人格とキリストの神格 これら言わばふたつの貌(かお)
>>が 同時に一体であるという――むろん三位一体の説としての――理
>>論から解釈しておけば 無理なく受け留められるのではないか? こ
>>う問うています。
>> 人であるイエスの母としての貌 および 神であるキリストをみご
>>もったというそのけがれなき身ごもりを体験した貌 これらが同時に
>>一体であると見れば 何の問題もないというものです。

聖書の何処に三位一体と書いてありますか?
イエスキリストは神の子(天使)ではあるが、神ではありません。
人間が神を身ごもることは不可能です。
神は人を造られたが、神自身が自分の造った人間に生まれることは不可能なのです。

『寄らば大樹(団体)の陰』という言葉がありますが、真理に関することは、その真逆が正しいのです。大樹は『滅びに至る門』に向かっているのです。


>> ▲ 私は道であり、真理であり、命である。
>> ☆ 《道》や《命》は 概念があいまいですが 《真理》ははっき
>>りとしています。《絶対》あるいは《無限》のことです。つまり 《神》
>>のことです。人間の捉えることのできない非経験の場ないしそのチカ
>>ラのことです。

概念があいまいなまま信じてはいけません。
『道』とは神の国に生まれるための道です。
『命』とは、この世界は幻の世界であるため、誰一人命を持っていないのです。夢の中に命がないのと同じです。眠っている自分の本体だけが生きているのです。
これと同様にこの世で生きている者は一人もいません。命は神から来ており、神のみ生きている方なのです。


>> つまり キリストである《ことば》が イエスという肉になった。
>>一体となった。ことは はっきりとしています。

確かに聖書にありますが、これは解釈の間違いです。
イエスキリストは人間に神のことばを伝えるためのみによって生まれました。だから、肉体が神ではないのです。イエスキリストが神から預かっている『神のことば』が神なのです。
『神のことばを伝えるためのみによって生まれた』という意味です。

たとえば『あいつは人間の皮をかぶったオオカミだ』といいますが、これとまったく同じ表現です。
『イエスキリストは人間の皮をかぶった神だ』という表現はできます。
しかし、イエスキリストは人間である限り神そのものではありません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 1.
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 2. 母マリアは 遠くダヰデの血筋に連なる男であるヨセフとの性交によって子イエスをもうけた( a )のであるが それは同時に神なる聖霊によって身ごもったというかたち( b )です 物語のうえでは。後者のキリストにかんする側面が いわゆる処女懐胎です。人格( a )と神格( b )の両方の側面が 同時に一体として あります。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのご説明はまったくコメントのしようがないほどのしろものですが 確かにこの(2)の命題のことを とおくはるかに説明しようとしている。とは思いました。ですが 哲学ではありません。どこが? 指摘するなら こちらが哲学ではなくなります。




 2.
 イエスキリスト=天使の議論は 済みました。




 3.
 次の二つの命題は 互いに矛盾しています。
 ★( a ) ~~~~
 エホバの聖人が世界に何万人いますか?
 彼らが『まれな存在』と言えますか?
 ★( b ) ~~~~
 『寄らば大樹(団体)の陰』という言葉がありますが、真理に関することは、その真逆が正しいのです。大樹は『滅びに至る門』に向かっているのです。
 ~~~~~~~~


 4.
 ★ 概念があいまいなまま信じてはいけません。
 ☆ それは多少は想像を交えた《考える》という行為です。《概念》が経験思考であることを物語っています。
 《信じる》は《考える》とは何の関係もありません。《非思考》なのです。
 なぜなら 神が《非経験の場ないしそのチカラ》だからです。これを心に受け容れるのが 《信じる》ことです。
 信じる対象は じつは非経験の場なのですから 非対象ですが 信じるというその行為じたいは 経験行為である人間の心的現象です。


 5. 
 ★ これと同様にこの世で生きている者は一人もいません。命は神から来ており、神のみ生きている方なのです。
 ☆ ぢゃあその《生きていない》あなたが 何を言っても ただの錯乱でしかないとなりませんか?


 6.
 ★ ~~~
 『イエスキリストは人間の皮をかぶった神だ』という表現はできます。
 しかし、イエスキリストは人間である限り神そのものではありません。
 ~~~~~
 ☆ イエスとキリストのことをご存じではない。趣旨説明欄にも説明しています。
 あるいはつまり 《イエスキリスト》とすでに言っているのなら 人間(イエス)と神(キリスト)とが 同時にひとりの存在の中にあると言っているぢゃありませんか。

お礼日時:2012/04/01 08:29

> 質問者にとっては この解釈は まづ動かないものです。

ですから 問い方としては なぜそれでも広く受け容れられていないのか? というかたちです。

それは、貴方の解釈が一般的ではないからです。
詳しくは知りませんが、アリウス派やネストリウス派を
信じているのですか。

>他の人が見たらどう思うか

これについては、貴方がしつこく「処女懐胎はありえない」と主張しているので
私は、非常識な回答を書いていることは承知していますが、この言葉は
貴方に対してそのままお返しします。

ここは、質問するところであり貴方の哲学的思想を広めるところでは
ありません。そういったことがご希望であればブログかホームページを
作成してやってください。
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この回答へのお礼

 ご投稿をありがとうございます。

 ★ それは、貴方の解釈が一般的ではないからです。
 ☆ その説明は いかがなりましょう?





 あとは 回答ではない回答をただちにやめなさい。

お礼日時:2012/04/01 08:12

>>☆ イエスは キリストと呼ばれる神の子であり みづからも神であ


>>るという聖書のくだりを示します。

確かにイエスキリストはメシアであり神の使いであり預言者です。しかし、唯一の神ではありません。


>>「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
>>  だれも父のもとに行くことができない。
>>   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知るこ
>>とに  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見て
>>いる。」


確かにイエスキリストはこのようにいいましたが、私は道であり、真理であり、命である。私を通さなければ父のもとに行くことはできない。

という言葉は、イエスが預かった神のことばが直接喋っているのです。
だから、イエスキリストを通さなければ神のもとへ行けないということではなく、『神から預かった道、真理、命を通らなければ父のもと(神の国)に生まれることはできない』という意味です。

昔、プロ野球の審判官で試合中に『オレがルールブックだ』といった人がいました。これと同じ意味なのです。


キリスト教徒は世界に何人いるでしょうか。
100万人?いやいやもっといますよね。彼らは自分の頭で考えず牧師や神父の言葉を鵜呑みにしています。
次の聖句を読んでください。

**********************************************
『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』
(新約聖書)
**********************************************
何百万人も何千万人もいるクリスチャンは『まれな者』ですか?
滅びに至る門からゾロゾロと入っていませんか?

誰でも聖書が理解されるものではありません。本当に聖書を理解できる者は『まれ』なのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 エホバの証人さんですね。

 イエスをキリスト(メシア)つまり神の子であり神である存在だとは認めないという。

 もちろん 良心・信教の自由に立ちますが 問題はここで 《けがれなき身ごもり》のことをどう解釈するか? です。
 イエスの人格とキリストの神格 これら言わばふたつの貌(かお)が 同時に一体であるという――むろん三位一体の説としての――理論から解釈しておけば 無理なく受け留められるのではないか? こう問うています。
 人であるイエスの母としての貌 および 神であるキリストをみごもったというそのけがれなき身ごもりを体験した貌 これらが同時に一体であると見れば 何の問題もないというものです。

 質問者にとっては この解釈は まづ動かないものです。ですから 問い方としては なぜそれでも広く受け容れられていないのか? というかたちです。


 これまででは その《なぜ 普及しないのか?》ではなく まづその解釈をめぐって反論があったわけです。
 でも すでにお分かりのように批判にも何にもなっていない。と言ってよいでしょう。




 
 信仰する者が何人いるかということは いまの問い求めにとって どうでもよいことです。

 おのれがキリスト者であると確信しているなら その立ち場に立って 質問に沿って回答を寄せてください。つまり これまでのように趣旨説明の見解を批判するものでもかまいません。 
 ただし 聖書にもとづいたしっかりとした見解をのべてください。



 ▲ 私は道であり、真理であり、命である。
 ☆ 《道》や《命》は 概念があいまいですが 《真理》ははっきりとしています。《絶対》あるいは《無限》のことです。つまり 《神》のことです。人間の捉えることのできない非経験の場ないしそのチカラのことです。
 つまり キリストである《ことば》が イエスという肉になった。一体となった。ことは はっきりとしています。

お礼日時:2012/03/31 22:13

> ○ 処女懐胎


 
 を文字どおりに盲目的に信じている。こういうことぢゃないでしょうね?

回答が前後しますが、文字通りの「処女懐胎」は医学上ありえることです。
医師で小説家の志賀貢氏が研修医時代
女子高生が「彼氏がパンツの上から射精したら妊娠してしまった」
という相談を受けたことがあるそうです。
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この回答へのお礼

 ご投稿をありがとうございます。





 これって訪問者のみなさんが見たら いったいどう反応されましょうか。


 ここから出発しなくちゃならない。わけだ。




 懐胎は 経験事象です。ゆえに 非経験の場を受け容れるという意味での《非思考の庭がわが心に成る》という信仰とは まったく関係がありません。

お礼日時:2012/03/31 20:52

>イエスキリストと唯一の神と混同してはいけません。

唯一の神はこの世に現れることはできません。

これはまずいです。三位一体論の否定になってしまいます。

ここからは質問者さんへです。

経験世界といいますが、貴方は量子力学に出てくる波動関数を
複素数のまま知ることが出来る(少なくとも観測できる)のですか。

出来るのでしたら、論文を書いてください。
ノーベル物理学賞が取れると思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 聖母マリアの処女懐胎の問題とどういう関係がありましょうや。

お礼日時:2012/03/31 20:49

>> ○ その《ことば》が キリストのことです。


 

イエスキリストと唯一の神と混同してはいけません。唯一の神はこの世に現れることはできません。
夢を見ている実在の自分が夢の中に入れないのと同じ理屈です。
イエスキリストは神の国に住む天使の一人です。


>>○ 父なる神とともにあった。しかもすでに初めにです。父なる神の
>>存在と時間的な隔たりがなくという意味です。


イエスキリストは神の国に住む天使であり、神のことばによって造られているので神の子というわけです。
人間も神のことばを守って神の国に生まれるときは、神の子とよばれるのです。


>> ○ 神は 霊です。聖霊です。この聖霊が 世界を覆っている。も
>>しくは 聖霊で出来ている。といった見方を提出していると思われます。


神は霊であり、神のことばは聖霊です。神が世界を覆っているのではなく、世界は神のことばで造られた映像の世界です。


>> ○ つまりは これが 《信仰》という非思考の場でのあり方を 
>>わざわざ言葉にして表わそうとすれば そうなるというものです。つ
>>まりは 仮りに表現して示したものです。


『信仰』とはそういう意味ではありません。誰でもこの世界は自然によって出来ていると思っています。得られるものも自分の努力によって得られたと思っています。しかし、それは間違いです。
一切は神から与えられており、一切の現象は人間の祈り(願い)によって起きているのです。
これを理解し信じることを『信仰』というのです。


>> ○ 世界は そのままものごとの事象であり現象です。言わばそれ
>>らを聖霊が覆うというのは すべてに生命のチカラがやどるといった
>>意味でしょう。仏性がやどるというふうに――もしそれが分かりやす
>>いのなら―― 言って説明してもよいでしょう。


先ほども述べたようにこの世の一切は神のことばによって造られた催眠術の世界です。また、人間の願いはどんな願いでも聞かれます。
人間は悪を行います。この悪が祈りとなって、病気事故災害が成就しているのです。


>> ★ まぼろし
>> ☆ は どうでもよろしい。経験世界とそしてそれを超えた場 こ
>>れらから世界は――信仰の庭をも含めて捉えるなら――成り立ってい>>る。こういうことです。まぼろしは どうでもよろしい。


この世が幻で造られているという大真理が理解できなければ、宗教を理解することは不可能です。この世は苦しみの多い世界です。その理由は、知らず知らずに悪を祈っているからです。


普通の人と同じ考えでは宗教の真髄を掴むことは不可能なのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 支離滅裂です。
 ★ イエスキリストと唯一の神と混同してはいけません。唯一の神はこの世に現れることはできません。夢を見ている実在の自分が夢の中に入れないのと同じ理屈です。
 ☆ イエスは キリストと呼ばれる神の子であり みづからも神であるという聖書のくだりを示します。

 ▲ (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 
   * 16:16に ペトロの言葉として《生ける神の子》があり 
    イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えてい
    る。
     《メシア(マッシーアハ)》は ギリシャ語で《クリスト
    ス(キリスト)》と訳されて使われています。次の引用文を
    参照。

 ▲ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。

  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知って
  います。
   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてく
  ださいます。」

 イエスは言われた。
 
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▲ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。

  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 ピリポが

  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 と言うと、イエスは言われた。

  「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ イエスキリストは神の国に住む天使の一人です。
 ☆ 《キリストは天使にまさる》と要約されるくだりを引いておきます。

 ▲ (ヘブル書1:3-6) ~~~
 3: 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
 4: 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

  ◆ 御子は天使にまさる

 5: いったい神は、かつて天使のだれに、

   「あなたはわたしの子、
    わたしは今日、あなたを産んだ」

 と言われ、更にまた、

   「わたしは彼の父となり、
    彼はわたしの子となる」

 と言われたでしょうか。
 6: 更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、

   「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」

 と言われました。
 ~~~~~~~~~~

お礼日時:2012/03/31 20:48

> ○ 処女懐胎


 
 を文字どおりに盲目的に信じている。こういうことぢゃないでしょうね?

どうも貴方は宗教が信じられないようですね。

放射能の除染さえまともに出来ない科学が絶対だと信じているなら
(可能であれば)神相手に核攻撃でもしたらいかがでしょうか。

私の勝手な想像ですが、神は核攻撃などに全く傷つくことなく
貴方は地獄に落されるでしょう。まさに、天に唾するといhが
このことです。

回答ではない回答が返ってくるのは
貴方がお礼ではないお礼、補足ではない補足を
書いているからです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 放射能の除染さえまともに出来ない科学が絶対だと信じているなら
(可能であれば)神相手に核攻撃でもしたらいかがでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ そこらのお笑いよりも出来がよいようですね。


 ★ ~~~
 私の勝手な想像ですが、神は核攻撃などに全く傷つくことなく
 貴方は地獄に落されるでしょう。まさに、天に唾するといhが
 このことです。
 ~~~~~~
 ☆ だいたいわたしに対して言ったことは ご自分のことを言っているというのが ここでの相場です。



 ★ ~~~~
 回答ではない回答が返ってくるのは
 貴方がお礼ではないお礼、補足ではない補足を
 書いているからです。
 ~~~~~
 ☆ 狂気ここに極まれり。

 また考えがまとまったら 訪ねてみてください。まとまらなくても よろしいとも言っておきます。

お礼日時:2012/03/31 18:16

>> ★ 科学とは根本的に違った考えに立っているのです。


>> ☆ でたらめです。めちゃくちゃの出鱈目です。信仰の世界は こ
>>の経験世界を超えているのです。空観を超えています。しかも この
>>経験世界を見る目は まったく科学と同じ経験合理性にもとづき認識
>>をおよぼすのです。ええ加減にしてちょ。

>> ★ つまり、この世は夢と同じ原理で造られた世界だというのです。
>> ☆ いったいどこまで寝ぼけていれば済むのです?


空の意味についてですが、

仏典には
**************************************
『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者、滅する者是れ幻化にして真実有ること無ければなり。』(阿含経)
**************************************
この世は空であり、寂静であり、生まれる者、死んで行く者、これらは幻化であり、実在するものではない。という意味です。

このように書かれています。
この世界が幻の世界なら、幻を造った方がいなければなりません。

次に新約聖書の記述です。
**********************************************
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって、造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』
(ヨハネの福音書)
**********************************************

このことばは、仏教の空(幻)を意味しています。

仏教ではこの世は幻で造られているといいます。
つまり幻は催眠術のように、ことばで造られます。
したがって、『この世界は神のことばで造られている。』という意味です。

このように仏典も聖書もこの世界は幻の世界だと説いているのです。
仏教もキリスト教も真理は一つであり同じなのです。
阿含経を読み、新約聖書を読まれると、宗教の真髄がお分かりいただけると思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 魑魅魍魎の跋扈!!!!


 仏教は どうでもよろしい。
 ★ 空
 ☆ というのは たしかに世の中のものごとは ぜんぶ無常であり無我(――実体というものはなく ただ現象しているのみ――)だと言えますが そのうつろいゆく相対性の世界においても われわれ人間の心の真実というものもあるのです。

 つまり 一応のこととして言いますが あなたがこのように――その当否は別として――熱心に空観のことを説こうとしている。その姿その心には それとしての真実があるのです。しかも 朽ちるべき存在ではあってもその朽ちるまでの生涯には 真実を超えておそらく空観をも超えるとうとい現実性ということも ときとして 起こるのです。
 
 だから 世の中のことはみな空だと見られますが その空が 世の中のものごとでもあるという見方の転換が起きるのです。世界は とうとい存在だと言っています。まぼろしなどは どうでもよろしい。



 ヨハネ福音の冒頭にかんしては
 
 ○ その《ことば》が キリストのことです。
 ○ 父なる神とともにあった。しかもすでに初めにです。父なる神の存在と時間的な隔たりがなくという意味です。
 ○ 神は 霊です。聖霊です。この聖霊が 世界を覆っている。もしくは 聖霊で出来ている。といった見方を提出していると思われます。
 ○ つまりは これが 《信仰》という非思考の場でのあり方を わざわざ言葉にして表わそうとすれば そうなるというものです。つまりは 仮りに表現して示したものです。
 ○ 世界は そのままものごとの事象であり現象です。言わばそれらを聖霊が覆うというのは すべてに生命のチカラがやどるといった意味でしょう。仏性がやどるというふうに――もしそれが分かりやすいのなら―― 言って説明してもよいでしょう。

 ★ まぼろし
 ☆ は どうでもよろしい。経験世界とそしてそれを超えた場 これらから世界は――信仰の庭をも含めて捉えるなら――成り立っている。こういうことです。まぼろしは どうでもよろしい。

 以上が 《真髄》です。勉強してください。

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お礼日時:2012/03/31 18:12

> 7. 日本人はもともと万葉のむかしから そんなあたまで立って逆立ちしたまま往来を歩くなどということから 無理なく自由だったのではないでしょうか? どこでどうくるったのでしょう?



万葉の昔よりはるか以前に、ギリシア語やラテン語やヘブライ語は
存在していました。その頃の記録が日本に無い(当時文字が無かった)
というのは、日本の後進性を良く表していると思います。

それどころか、新約聖書には、銀行が出てくるくらいです。
当時、日本は縄文時代かそれ以前だったと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答ではないご回答をありがとうございます。

 ★ 万葉の昔よりはるか以前に、ギリシア語やラテン語やヘブライ語は存在していました。その頃の記録が日本に無い(当時文字が無かった)というのは、日本の後進性を良く表していると思います。
 ☆ 文字がなかっただけ。縄文人は 考えるよりはるかにゆたかな暮らしを送っていました。どんぐりでも 穴を掘って蓄えることを始めていました。ゆえに やがて戦争も始まります。収奪のために。
 もし
 ★ 後進性
 ☆ を表わしていたとしても ギリシャ人やローマ人やユダヤ人と対等以上に現代の日本人は ゆたかに平和に共生しているぢゃないですか。何をかいわんや。

 ★ ~~~~
 それどころか、新約聖書には、銀行が出てくるくらいです。
 当時、日本は縄文時代かそれ以前だったと思います。
 ~~~~~~
 ☆ 銀行くらい 私出挙・公出挙くらいそのあとやがて持つようになりますよ。いったい何が言いたいのか。

 まさか

 ○ 処女懐胎
 
 を文字どおりに盲目的に信じている。こういうことぢゃないでしょうね?



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お礼日時:2012/03/31 17:56

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