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「忠臣蔵」は人気のあるドラマです。
しかし、わたしはあまり感情移入ができません。
それは、ある人がエッセイで、「忠臣蔵は、よってたかって一人の老人をいじめ殺す陰湿な話だ」と書いてあるのを読んでからです。

吉良は本当に悪いこと(違法なこと)をしたのでしょうか?
ドラマでは「いじめ」をしていたことになっていますが、史実ではどうでしょうか?

赤穂藩は上京した公家の接待をおおせつかり、それの後見役が吉良だったと思います。
もし接待に失敗すれば、吉良の責任になりますから、必死にアドバイスしたと思うのですが。

また、吉良さんは、名君だったという話も聞きます。
当時の人にとっては、討ち入り事件民が幕府に対する反発を代弁させて人気を博したと思います。
この事件が、現代の人にとっても痛快事であるのは何故でしょうか?

A 回答 (8件)

義士伝(忠臣蔵)に興味を持っていただいてありがとう


年寄りの一人としてうれしくおもいます

>吉良は本当に悪いこと(違法なこと)をしたのでしょうか?

松の廊下の裁きでは吉良はお咎めなし
むしろ神妙であるとお褒めの言葉をもらったそうです。

一方 大石は幕府に嘆願書をだします
○武家諸法度(法律)により喧嘩両成敗にするべきだ
○相手は軽傷であるから罪がおもすぎる
○よって浅野大学(弟)に浅野家を継がせてください

却下 

そこで大石は上告(討ち入り)して再審にこぎつけた

○吉良家断絶?
 今度は吉良家も裁きがあり お家断絶だったのではないでしょうか?
しかしその罪は松の廊下の罪ではなく武家たる者が屋敷に乱入され簡単に討ち取られた罪となっているようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

吉良家断絶について調べてみました。
吉良引退後、家督を継いだのが息子、義周(よしちか、17歳)ですが、赤穂浪士と槍をもって戦いましたが、負傷して気絶。
ふがいないということで家名断絶となりました。
その後息子が生まれず、没し、お家断絶となりました。享年21歳です。

それから塩の製法を教えた、教えなかったという話ですが、もともと塩の製法を教えたのは吉良だったそうです。
http://homepage3.nifty.com/yumeden/0/10/nihonsi/ …

お礼日時:2004/01/05 16:28

こんにちわ。


#3 のmuyoshid です。
ちょっと補足します。

> 吉良側の資料も残っていないのでしょうか?
恐らく刃傷沙汰の原因を明記した資料は存在しないと思います。
これだけ一般に知られた事件ですので、そのような資料があれば
既に出てきていると思います。

ここで大切な事は、刃傷沙汰の原因は当時から不明で様々な事
が言われてきたと言う事です。
更に一般に忠臣蔵と言われているものは、竹田出雲が歌舞伎の
台本として作成した「仮名手本忠臣蔵」を下敷きにしています。
→ 歌舞伎の台本では、討入を正当化するために、敵役の吉良は
 浅野をネチネチといじめる悪役にされてしまっていると言う
 事になると思います。

参考URL:http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin36.htm
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この回答へのお礼

再びの回答ありがとうございます。

>刃傷沙汰の原因は当時から不明で様々な事が言われてきたと言う事です

 不思議ですね。
 不明なわけがないと思うのですが。
 もし不明であるなら、これは当人同士に由来する個人的恨みであるということになります。
 藩同士や仕事上のトラブルがあれば、表沙汰になるわけですから。

 もう一つ不思議なのは接待の仕事などは、藩主がじきじきにやらなくてもよさそうなものだということです。
 本人は挨拶をする程度で、家臣にすべてまかせるのが普通ではないでしょうか。
 刃傷沙汰にまで及び禍根を生むだけの人的接触がどこにあったのか?
 単純に「田舎侍」などと揶揄されただけのことかもしれません。
 刃物を出すとおそろしいことになりますね。

お礼日時:2004/01/06 00:12

吉良家は幕府でいう高家です。


足利時代の守護職で、三河の国を治めていました。
家康はその陪臣になりますから、これを優遇し、幕府でも一段高い大名としました。
他には京極家などがそうです。
浅野家は秀吉の妻ねね(おね)の養家で、豊臣時代には、安芸50万石の大大名ですね。
赤穂の浅野家はその連枝です。
吉良家からすると、斯波氏(尾張の守護職)の陪臣の織田家の足軽頭程度の家は田舎侍なんですよ。

まぁ、古い権力に新しい力が立ち上がったってことで、当時は痛快だったのでしょう。
蛇足ながら、愛知県吉良町の人たちは、決して忠臣蔵を見ないそうです(笑)
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この回答へのお礼

>愛知県吉良町の人たちは、決して忠臣蔵を見ないそうです

 これだけ古い史実が、現在にまで影響を及ぼしているのは珍しいことですね。
 それだけ毎年のように「忠臣蔵」が演じられてきたわけです。
 いまはマスコミが発達しているので、影響は過去より強いのだと思います。

吉良家は高家だったそうですが、討ち入りに入られたあとの幕府の処理は随分と冷たいですね。
「討ち取られる」ことは、とても不名誉なことだったのでしょう。

お礼日時:2004/01/05 23:33

吉良には黄金堤が残っています。

領主である吉良家が相当の費用をかけて、治水工事を行った証拠であり、今なおその遺徳を偲ぶ催しもあるやに聞いていますので、現地で確かめてください。一方、赤穂(あこう)では、浅野家取り潰しになったとき、領民は赤飯(炊けたどうか)を炊いてお祝いをしたと言う文書が残っているということを紹介した本を見ました。苛斂誅求、これで結構財政は豊かであったのでは。
この本の名前をメモしておけば良かったのですがしておりません。図書館で見つけた本ですので、今、片っ端から探しています。
いずれにせよ、大石の目的は吉良上野介の皺首で仇を取るのが目的ではなく、あくまで浅野家再興を否定した幕府官僚に対する返答でしょう。
また、義士の中に、それより30年ほど前に起きた、浄瑠璃坂の決闘(仇討、当事者が事後、他藩に高禄で召抱えられた)事件、この影響はなかったかどうか、これも一寸した想像材料ですね。
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この回答へのお礼

>浅野家取り潰しになったとき、領民は赤飯を炊いてお祝いをした

 URLに似たような話が載っていました。
 事件を詳細に検討されていて参考になります。
http://www.fsinet.or.jp/~fight/illust/main/kira. …

 

お礼日時:2004/01/05 16:56

塩の製造で赤穂は豊かだったようで、接待役は通常、1度回ってくると、しばらく回って来ないのが普通でしたが、赤穂はお金があると言う事で、すぐに、「またやれ」となり、塩の件(教えて欲しいと申し込んだが断られ、スパイを送り込んで製法を盗んだ)でもめた事もあり、浅野の殿様は、一方的に吉良の意地悪だと思い込んでいたようです(実際の所はあたらずとも遠からじだったと思います)、若く作法に疎く激高しやすい赤穂の殿様は、ちょっとしたいやみを言われたか、勝手にいやみだと受け取ったのか我慢できず、後先考えずぶち切れて、ちょん!


赤穂の殿様は、お金持ちで無作法な若造。
対して吉良の殿様は、城も作らず治水に力を注ぎ、農耕馬(赤馬)に乗って領地をこまめに周り領民にとても慕われておりました、といって田舎侍でなく、超一流の作法も心得ている、立派を絵に描いたようなお殿様でした。
ではなぜあれほど敵役にされてしまったのでしょうか?
それは、仏教を抑える為に導入された、儒学思想と、討ち入り前に、赤穂の浪士が故意に流した吉良候に関する悪い流言が功を奏した結果だと思います。今流に言えば、マスコミを使ったプロパガンダ戦で勝利した赤穂浪士が大衆を味方に付けた結果だと思われます。
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この回答へのお礼

浅野内匠頭はいまでいうと、「キレやすい殿様」だったのでしょうか。
大切な接待最終日に江戸城で刃物を振り回すのは、信じられないですね。
接待はうまくいっていましたから。
35歳という分別盛りなのですが。
でもこのことが、「きっと吉良が相当いじわるとしたに違いない」という憶測を助長したのかもしれません。

>今流に言えば、マスコミを使ったプロパガンダ戦で勝利した赤穂浪士が大衆を味方に付けた結果だと思われます。

 吉良家がすぐに断絶してしまったのも原因でしょう。
 反論する人がいなくなってしまったわけです。
 当時は今と違って殺された方がふがいないとされた時代です。
 一方、浅野家は6年後、弟の大学が藩主にはなれなかったものの旗本として復活しています。

お礼日時:2004/01/05 16:43

こんにちわ。


> 吉良は本当に悪いこと(違法なこと)をしたのでしょうか?
> ドラマでは「いじめ」をしていたことになっていますが、
> 史実ではどうでしょうか?
今となっては正確な事は分かりませんが、私も吉良が名君だった
と言う話は聞いた事があります。

> もし接待に失敗すれば、吉良の責任になりますから、必死にアドバイス
> したと思うのですが。
この意見についても、全面的に賛成です。

これ以外にも、忠臣蔵には色々な謎があります。
・そもそも刃傷の原因 (遺恨?) は何だったのか?
・何故浅野や大石は刃傷の原因を書き残さなかったのか?
・仇討ちの後、大石は何故切腹せずに裁定を幕府任せたのか?
等々

「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」の中で井沢元彦さんがこれらの謎に
1つの解答を示しています。
古本屋でもたまに見かけますので、興味があれば探してみては
いかがでしょうか?

参考URL:http://xingbu.cside2.jp/book/izawa/work18.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

井沢元彦さんの本探してみます。

>・何故浅野や大石は刃傷の原因を書き残さなかったのか?

 書き残していないのですね。
 だから憶測が憶測を生んで、吉良が憎まれることになるわけですね。
 しかし吉良側の言い分もあると思います。
 吉良側の資料も残っていないのでしょうか?
 討ち入りでは、吉良のほかに何十人も殺害されています。
 資料はきっとあるはずですが。
 それとも恥じ入ってしまって、意識的に何も残さなかったのでしょうか。

お礼日時:2004/01/05 00:41

まずは私が読んだ小説の場合。



浅野家が接待役を仰せつかる前に、
吉良家の一行が浅野家に「塩」の作り方を
教えてもらう所から始まってます。
しかし浅野家家臣は吉良家家臣の
「ものを教わる態度」でなかった部分が気に入らず、
これにより両家の間が険悪になった、とあります。
これにより接待役を仰せつかった時に
吉良家から嫌がらせを受け、堪忍袋の緒が切れて
城中にて「刃傷沙汰」となった訳ですが、
当時は両家成敗が慣わしであるのに
吉良家は「お咎めなし」、浅野家のみ
君主切腹御家取り潰しとなりました。

当時、武士にとっての仇討ちは合法化されて
いたと思います(仇討ちの仇討ちは禁止)
自分の主君だけ罰を受け、相手方は何もなし、
この部分が当時の武士にとって相手を殺す
充分な理由になったのではないでしょうか。

私もこの事件が「痛快事」であるとは思えないのですが・・・(苦笑)
ずっと我慢して、自分の主君の恨みを晴らし、
見事に散っていった心意気に感動するのでしょうか・・・^^;

なお、史実がどうであったのか
詳細な部分は分かりません。
回答になってなかったらすみませんm(_)m
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

前振りとして、塩の作り方をめぐるいきさつがあったのですか。
塩のつくり方などの名物物産は各藩の専売特許のようなもので、教わることはできないのではと想像しますが。

>武士にとっての仇討ちは合法化されていたと思います

 忠臣蔵が仇討ちに入るかは疑問です。
 吉良は一方的に切りつけられたわけですから。
 その上命まで狙われることに……、そしてそれが実現。まさに悪夢としていいようがない。
 浅野藩主のやったことは、現在では国会で議員を刃物で刺すような行為にあたるのではないでしょうか?
 江戸時代でも、めったにない乱暴なことだと思います。

 もし吉良がケンカ両成敗で、隠居ぐらいの罪になっていたら事件はおきなかったのでしょうか?
 幕府のおさばきが意外なドラマを生んだわけです。

お礼日時:2004/01/05 00:36

年末になると「忠臣蔵」のドラマと共に歴史をきちんと検証した番組もよく放送されます。


そのような番組を見る限り、「忠臣蔵」は史実とはかなり違うようですね。

感情移入できないのは私も同じです。
現代とは生死観・倫理観などが全く違う時代の話で、しかもそれが誇張されているわけですから。
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