アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。


説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報
私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。
キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。
ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています)
感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。


私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。
また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。

A 回答 (24件中11~20件)

貴方が恐れている事は、全てが死によって終わってしまって、全て無駄になるかも知れないという予感と思います。



生と死を二つの別なものとして比較して見ている見方によって、生を良いものとして、死を悪いものとして見るその見方のせいで、死を恐怖の対象としています。

今正に死のうとしている人が、死を受け入れる事によって、安楽に穏やかに死を迎える場合があります。この心境が涅槃です。

生きながら涅槃の境涯になる為の『素材』が神です。神の存在は自覚出来難い事ですが、確かに存在しています、それも一人の人間には一つの神が存在しています。

科学的に実証されています、その根拠です、ウイキペデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

貴方の場合でも脳梁を切断した場合では、貴方の自我意識という貴方以外に、もう一人の人格が存在しています。

脳科学者が、自分の脳の障害のために、自分自身の右脳の意識の存在を語っている動画があります。参考になるなら有り難い事です。


URL:


右脳の意識は『生命の維持装置』です。聖書に書いてある『神』です、仏典では『仏』です。今風な言葉で置き換えるなら『命を働かせている者』です。

禅を学ぶ中に貴方が望むものが手に出来るかも知れません。禅の目的は『見性成仏』です。

この意味は、生死の問題の解決です。死を安楽な気持ちで迎える事が出来るようになります。そうなれば『如何なる困難も有り難く乗り越える原動力になる。』と思うからです。

この意味は『自分の魂は永遠からやってきて、また元の永遠に返って行く』というほどの意味です。肉体の死がそれほど重要な事ではない事に目覚める、というほどの意味です。

意識の根底からの『価値観の転換です。』お金に対しての価値観も転換されます。お金は『幸福になる為の、ただの道具に過ぎなくなります。』

お金自体が幸福の尺度ではなくなると言う意味があります。お金がなくとも幸福度は変わらないと言う意味です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

またロジャー・スペリーの分離脳は脳にべつべつの働きがあることを示しただけで神を実証するには至ってないのではないですか。

あなたは
生と死を二つの別なものとして比較して見ている見方によって、生を良いものとして、死を悪いものとして見るその見方のせいで、死を恐怖の対象としています。
といいつつも
自分の魂は永遠からやってきて、また元の永遠に返って行く
を私に説き、また
価値観の転換です。
と言っています。
私には辻褄があわない様に思えて仕方がありません。まず私は輪廻を信じていません。なのにその事実を変えるようなことを説いて価値観の転換ですって?それは認識の転換であり、価値観の転換では無いですよね。

仮に右脳がふっとばされればその人間は涅槃?とやらに到達できないことになりますね。そしてそのような少年は実在しますが、その人達は例外としてしょうがないとするのですか?
しょうがないとせず、また別の論証をするのであれば、ロジャー・スペリーの分離脳のそれは証明になってないと思いますね。

涅槃に達する人がいることは知っています。ですが死後に何かある可能性があると考える限りはそれを検討し、思索することがやるべきことじゃないですかね。私はまだキリスト教の可能性を捨ててないですし、涅槃をとやらで死後を受け入れ、わざわざ自分の死後の可能性を放棄するなんて私には考えられません。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/15 23:19

続先の投稿の内容の比喩がちょっとうまくまとまったので。




例えば科学では、対象を十分に観察観測して、対象物から得られるだけのデータを揃えて、まず対象のことがよくわかってから、次にその対象について、推論や仮説などを立てに行きます。

神も同じで、先に神に触れる、神に会う、神を凝視する、神に向かうことが先行し、
実体験として神と直接向い合ってそれについていろんなことを得たあとで神が何者か議論したり推論するのが、理にかなってると思うので。
神について何も体験的に知らないのに議論するというのは、基礎工事なしで家を立てるようなものだし、データ0(極少)で仮説や推論を行うようなもので、色々ありえない気がします。
データなしに思考が先行して大丈夫なのかな?と。



言いたかったのは大体そういうことです。
元々の質問とちょっと論点ずれてるかもですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あーこの質問みずに下に回答してしまったので重複する部分は無視していただいて結構です。

>データなしに思考が先行して大丈夫なのかな?と。
理性によって神の性質はある程度までなら把握できるかもしれないと考えている私と全く反対の立場みたいですね。
この先、あなたの神への接し方への疑問というところになるので若干質問とはずれます。
あなたはどういったものを神の体験とするおつもりですか。また、あなたの信じる神はあなたの生まれに関わらずあなたにあなたの定義するところだとそれは私達個人にとっての最適な一角をみせるようですが、その元の神は同様な存在なものになると確信を持って言えますか。
仮にそうだとしてもあなたの信じる神と矛盾する概念を持っている人たちはあなたよりも神に遠い人ということになるのですか?つまり精神集中が少なくともあなたよりもうまく行かなかったということになるのですか。

わかりやすくして下さりありがとうございます。

お礼日時:2012/05/15 22:47

訂正です。


汎神論をピンぼけ写真と例えたのは間違いでした。
汎神論だろうが一神論だろうが、それに集中せずに形而上で満足することがピンぼけ状態だ、ということにします。
すみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あなたのいうところでの神と向き合わない時点ですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/15 22:29

>ただこの質問ではスピノザの神のようなものを信じたと仮定しても生きる指針を得られるかということを聞きたかったんです。



これが一番大事そうに思ったので、これに的を絞ります。
質問者さんは汎神論には理性的に納得されてるように見えますが、それでは心情的な支えにはならない、というふうに読み取れます。
つまりもう既にスピノザの神に納得してしかも不満だ、という現状かと。
現状そういう構図だとして、質問者さんに当てはまるかわからないけれど一応言ってみます。




まず具体的にこれこれこういう神が動力になる、とは言えないです。それは、完全性の表れとしての神は、その人の個性でもあるからです。
人によって神は千差万別です。抽象的だったり具体的だったり。
神の本質が完全性であり、そんなものが脳でわかるわけがないので、人が神を知るときは、必ず脳の偏向、バイアスを受けます。そこに個性が現れます。



なので質問者さんにピッタリの完全性の表現を見出すためには、質問者さん自身ががもっと神を見つめ返す、神と眦を決するのがいいんじゃないかな、と思いました。
自身の内部で思われるところの神を見つめ返すこと、です。神との直接対峙、です。
意識と精神の合成、といってもいいです。
試みたことはありますか?
神を愛や自然に置き換えるのではなく、もっとダイレクトな神への方向性です。神から目をそらさない、神をみつめて、
神が何かを自分の生身で向かい合って観察する感じです。
それは高い精神集中です。
自分はなぜ神に惹かれるのか? 自分の中で「神」というものが浮かび上がってくる原点に何があるのか?
そんなふうな方向性です。
そこに質問者さんにぴったりのオーダーメイドの神(パーフェクトさの反映)が浮かび上がってくる可能性があると思います。




つまり神を知るには、神を例えたり比喩を思いついたり議論するのではなく、まさに何であるかわからないその神に直接対峙し向かい合う必要がある、と思うので。
おそらく質問者さんも神という概念に目を留めたからには、内面において神という概念イメージに感じ入るものがあるはずです。
言葉遊びではなく、生きる支えや原動力、というのなら、真摯に神に向かい合うことは避けて通れないと思うので。
神は自然だ、などというのは、写真で言うと、ピントが甘いです。そんなぼけた写真が生きる動力になるのは無理と思います。
また宗教団体や教義も、神を知るための参考書に過ぎません。

直で、神とは何だかわからないけど、神に向かい合おう、一ミリでも神に近づこう、神の前に行って見極めよう、絶対神から視線を外さない、という風な・・・
その中から、ふさわしい神が現れるのではないでしょうか? 多分ですが。




神と自分との間に、イメージや概念や言葉や観察や推測や議論を入れるのは、遠回りです。無意味じゃないけど。
大事なのは神への集中だと思います。
目の前にほしいものが見えてるなら、直接手を伸ばす、それなくしては無理じゃないかと。
そのうえで議論なり調査なり、推論なりを、神の生体験の補助として使う、というスタンスです。
神に直接向かわないと納得出来ないでしょうし、議論が自分を神の所に連れて行ってくれるということはありえないですし。
直接近づくというのはどうでしょうか? 神を見る人なら可能だと思います。
個人的にはそれが基礎なんだけど。
神はリアリティーです。神を形而上学でなくリアルと思うなら、です。
何だかわからない神に、思考に逃げることなく、生身の自分で、どこまで近づけるか?的な。
思考も推論も何もかも、この神との間の距離を埋めるための道具として取り扱います。
またそうやって集中によって近づいて得るものでないと、実生活には効力を持たない、と予想するので。

という風な、自分の思うことしか書けてないですけど。
人の性格もあるので、上の話は一つのやり方で参考の話です。



他の議論は、書いてるとえらい量になるので、省略しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>つまりもう既にスピノザの神に納得してしかも不満だ、という現状かと。
正直スピノザの神に近いだけで私の信念を満たす神という存在がいるというところまでしか行ってません。ただそれはスピノザの神に近いんじゃないかと思っただけです。

>まず具体的にこれこれこういう神が動力になる、とは言えないです。
それは神について知りうることはほとんど不可能なので具体的には言えないでしょうが、抽象的にしろスピノザの定義するような神でどのような神の性質が動力となりうるかを説明して欲しいと思っています。

>おそらく質問者さんも神という概念に目を留めたからには、内面において神という概念イメージに感じ入るものがあるはずです。
いまいちないのかもしれません。あるっちゃありますが幼い頃からのキリスト教福音派の教えの刷り込みの影響が強い概念で、純粋な感性から来るものじゃないと感じています。

>まさに何であるかわからないその神に直接対峙し向かい合う必要がある
それは高い精神集中です。
自分はなぜ神に惹かれるのか? 自分の中で「神」というものが浮かび上がってくる原点に何があるのか?そこに質問者さんにぴったりのオーダーメイドの神(パーフェクトさの反映)が浮かび上がってくる可能性があると思います。
いまいちピンとこないですね。高い精神状態というものがわからないのはもちろん、そういった神の原点に対する質問と普通の思考の違いがわかりません。
仮にあなたのいう高い精神状態が質問ではなく、理性を抜きにして自分の心と向きあうようなことであったとしておそらくそれを達成し、広めたであろうゴータマ・シッダールダとムハンマドのように間違った(互いに矛盾した、つまり片方は必ず間違っている)結論を導き出すのではないのですか。

あなたの話を聞いている限り私はおそらく感じるという段階にも、理屈抜きに神という概念を認めるところにも、見えるところにもきていないんでしょう。
とすれば一体どうすればそのような概念を持つことができるのでしょうか。

お礼日時:2012/05/15 22:28

 #6です。




>・・・あなたのいう感覚は「感情」が「習慣」によって形成されるといったほうがしっくりきますが、・・・

 感覚は確かに感情に根ざしたものと思いますし、「習慣」によって形成されたものも含みます。それが、「磨きが意識的かどうかは、別の話」の予防線です。

 「習慣」や「伝統」は、それらを蒙る側にとってみれば、意識しない論理訓練になると思います。変な言い方ですが「習慣」や「伝統」は、(内部矛盾する)非論理の論理の場合も多く、またまっとうな論理になっている事も同様に多い気がします。非論理か論理かの違いでなく、「習慣」や「伝統」はとにかく、そう考える事を強いる、という意味です。「習慣」や「伝統」という、個人にとってみれば厳然たる体系の中で、普遍的になった(誰もが共有する)感情が、感覚でないか?という意見です。そして、内面化された「習慣」や「伝統」に気づき、さらに意識的して感覚への磨きをかける人は、そうはいないと思います。

 個人的には物理や数学を独学するために、物理思想史などを読んだので、近代物理の思想的源流にキリスト教神学が深く関わり、それが恐ろしく論理的なものである事を知っています(もちろんキリスト教神学の原典は読んでませんよ)。構造主義数学の旗手アンドレ・ヴェイユの数学的思想を知りたくなったので、妹のシモーヌ・ヴェイユも無視できなくなった、みたいな感じです。

 デカルトやスピノザの受けたキリスト教神学やスコラ哲学の凄まじい論理性(日本人にしてみれば)。それの内面化と意識化は、神というドグマから出発して、世界は全て論理的に説明できるはずだという、衝動を生むはずです。それが成就されて行く過程において、彼らは生きる動力をそこから得ていたと思います。じっさいデカルトは、「宇宙の材料をくれ。さすれば宇宙を(論理的に)作ってしんぜよう!」とまで豪語しました。そして彼は、それが出来るくらいの天才でした。デカルトの著作は、当時のヨーロッパの大ベストセラーになります。彼らの「感覚」は、これくらい根深いと思うんです。

 翻って自分は?というと、例えば「古典力学の専門書を手に取るように理解できた」と確信できた時に、「力学的世界観を手に入れた」、かのような妄想に捉われた事は、いちおうあります。自分は「力学理論」によって、この世界を全て論理的に説明できるぞ、と。やっぱり自分には、そういう事で動力を得たい衝動が、少しあったのだと思います。

※ 「力学的世界観」は物理思想史の中で、じっさいに一時代を画した思想で、その思想の体現者として、またその思想に止めを刺した人として、その終端にはアインシュタインがいます。


 ですが、それが全てではないんですよ、やっぱり自分は。それだけでは、生きて行けないんです・・・。


 いま自室から見える隣の公園では、梅の花が満開で、空は快晴です。それだけで「生きてて良い」という動力を得るというか、結局そっちの方がでっかいんです。


 あなたの志向する方向に、どうこう言うつもりはありません(同じ部分もあると思いますし)。ただ#9さんも仰っていたように、 神との関係性に少し目を向けた方が良いのではないか?、と思いました。そうでないと、虚しさの「払底機構」を解決できないと思うからです。我々は、どう頑張っても日本人ですから・・・。


 卑怯にも最後に言いますが、個人的意見です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

つまり彼らはそういった生まれながらの論理的な環境によってそういった感覚を持てるということですね。

>いま自室から見える隣の公園では、梅の花が満開で、空は快晴です。それだけで「生きてて良い」という動力を得るというか、結局そっちの方がでっかいんです。
確かにそれの衝動の方が大きいことは知っています。自殺しそうな人にもこういう説き方のほうが有効みたいですしね。
しかしこれが動力だとすれば生きる意味とか最終目的ってのは私にとっては歯車だと考えています。。 動力がしっかりしていれば歯車が悪くても回りはしましょうが長続きはしません。歯車がしっかりしていても動力がなければ全く意味を持ちません。
私は確かに今生きる動力はあるんですよ。ただこのまま行くと何にもならないということが17年しか生きてなくてもわかります。

>神との関係性に少し目を向けた方が良いのではないか?、と思いました。そうでないと、虚しさの「払底機構」を解決できないと思うからです。我々は、どう頑張っても日本人ですから・・・。

神が定まっていなくても関係性が持てるのですか?ただ無限で完全な存在がいると漠然と思っているだけなのに、それに対して向きあってみろと言われてもいまいちどういうことを指しているのかわからないですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/14 20:32

どんな神を信じるか? と言われてるのに気づいたので追加します。





神の定義として、神は関係性だ、としてます。完全な関係性の象徴、というか・・
信仰や信じることは、対象あってのことです。繋がりのロープに例えます。

このロープが先にあって、そのロープの両端に、神と僕の両者の存在が現れます。
ロープ、つながり、関係性、全体性などが本質的で、個別の存在は次のテーマという風な。
つまり個の存在は2次的なものだと思ってます、それこそ個人的に。

なので基礎的には、どんな神を信じるか? でなく、神様大好き、と言うことになります。
どんな神かは、その後でいいと思います。僕としては。



確か、哲学者の滝沢克己さんが、信仰の基礎はインマヌエルだとーつまり神は自分と共にいるんだ、ということが基礎だと言ってるみたいなんですが

哲学はそんなに好きでないのであまり読んでませんが 
僕が間違って読んでなければ、
珍しく哲学者としては、存在より関係性を本質と位置づけてる人に見え、
彼のいう内容が、自分に近いと感じてます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

わざわざ追記回答有難うございます。

神様が大好きというのは神がどんなものか理解するからこそ生まれる思想ではありませんか?
ただ絶対的で完全で無限な存在を自覚したとしても、それについての具体的なものは理性によっても感性によっても実感できなたいめ、やはり神がいる→神は如何なるものか?→神との関係性という順番になるように感じてしまいます。

滝沢克己という人についてはあまり詳しくないので多くのことは言えないですが、、

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/11 21:40

こんばんは。


他の方への返事なども参考にしてますが。


1,思考の最終的な結論は矛盾というのはどう思われますか?
矛盾が答えなら、それは思考の放棄であり、同時に結論です。


2.スピノザの神的なもの以外の宗教的な神は否定したい人なんでしょうか?
懐疑的なのか信じたがっているのか、迷ってるようなニュアンスを感じますが。


3.
>この世界で永遠に生き続けるならそういう自然とのつきあい方は健全だと感じますが、死後は確実に来ますし、そのあとは不確実ですからね

と書かれてますが、2つ以上の異質な要素を混ぜてる感じがします。
異種を混同して合成することで、自我を創りだしてないでしょうか?
健全だと「感じる」と書きながら、そのあと「確実に来る、不確実」という風にばっちり把握的なことを書いておられるので
感性より把握を重視されるんでしょうか? うまく書けてないですね・・




ざっと読んで思ったのはこれくらいなんですが、回答になってるかも微妙ですが。
ちなみに僕の原動力といえば、神様大好き、です。これは僕の核なので。
感情に投影された完全性、とも言えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>1,思考の最終的な結論は矛盾というのはどう思われますか?
矛盾とは思いません。
人間は感覚や心情を通す以上一定のものを考える上でのそれらに基づく前提は完全に排除できないので、あなたの心情や感情に沿った好きな前提をとってそれに沿う哲学などの諸々を選びなさいというのが終着点だと思います。
ただ、思考は限界に近づくと傾きは無限に小さくなりつづけ、それに要する時間は無限に長くなりつづけると考えているので、終着はないと思いますので、仮にあったとしたらの話です。

>2.スピノザの神的なもの以外の宗教的な神は否定したい人なんでしょうか?
思春期ですしものすごいスピードで考え方が変わってますからね(笑)
現在はキリスト教以外の宗教は否定していて、他のスピノザの神のような神を求めたりしています。
ただキリスト教は聖書に矛盾があるのに、パスカルのような人がそれに気づきつつも信じてたりしているので、なんとも言えません。
ただこの質問ではスピノザの神のようなものを信じたと仮定しても生きる指針を得られるかということを聞きたかったんです。

>異種を混同して合成することで、自我を創りだしてないでしょうか?
健全だと「感じる」と書きながら、そのあと「確実に来る、不確実」という風にばっちり把握的なことを書いておられるので
感性より把握を重視されるんでしょうか?

混同してますかね?
私はその世界で最適に生きる方法を見つけることが重要だと考えています。しかし未知の死のない世界あったとすれば生のみが重要になると考えるのですが、死のない世界とすれば実際は今と様相も思考過程もかなり違うと考えたので、その時は感じるとしか言えないと思い感じると書いたんですが、考えると書いたほうが良かったですね。
ちなみに私は現実は思考に先立つと考えています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/11 21:27

神=自然摂理だと思ってます。


だから特定の形をした神やましてや擬人化された神などは信じる気が起きません。

スピザノの神ってがよくわかりませんが、宗教の原点は自然への畏敬の念と感謝だと思いますよ。
ただ、それさえ「神」という名のものではないでしょう。
それで充分ではないでしょうか?

原始的な原始宗教の方がより真理に近いのではと思ってます。
自然への感謝、生への感謝…神は感謝の対象として具体化されたもんだと思いますよ。
その方が布教活動上都合が良いのでしょう。

どの宗教も源流をたどれば多分どれも一緒だと思います。
多分擬人化や偶像化する過程で分化したのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>どの宗教も源流をたどれば多分どれも一緒だと思います。
私もそう考えていたんですがね。キリスト教以外は今のところ確率的な批判や根本的な教えの矛盾や歴史によって少なくとも私の中では否定できたんですが、キリスト教の批判はとても難しいです。細かな部分にはあっても根本に矛盾と言うものが見つからないですから。

スピノザの神というのは汎神論で、神即自然で有名なやつですよ。
多分回答者様の信じているものに近いでしょう。

ところで生きる意味が一応この質問の主たるものですのでそこについて説いても解いてくださると助かります。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/10 22:06

 すいません。

#4です。やはり例が悪すぎました。

 スピノザの神がいたとしても、たぶん自分には、それは物理法則にしか見えません。逆に物理法則に、神性を見い出す事もできないし、そこから生きる動力も得られませんが、物理を行うという行為からは、少し生きる動力を得ている気がします。何を言いたいかというと、神から生きる動力を直接得てるのではなく、神と関わる事によって動力を得ているのではないか?、という事です。そこには曖昧であっても、自分の人格の投影があるように思えます。そうでないと関われないので。

 デカルトやスピノザは、創造主から授かった思われる論理性という己の内なる神を、創造主に投影し、創造主の絶対性と完全無欠さを読み解く行為から、動力を得ていたように思えます。そうでないと、あの論理的な徹底ぶりを、自分は説明できません。

 例えばカントやニーチェは、己の理性が解体しそうな限界まで、論理的に自分を追い詰めます(ニーチェは解体しました)。ヨーロッパの哲学(自然哲学含む)には、大なり小なりこういう傾向があると思います。この前紹介したマクローリンは、物の理である物理(自然哲学)を追求する事で、神と関わろうとしました。彼らの論理的徹底ぶりは凄まじいので、人格の投影すら抽象化され、見えにくくなっている、が自分の意見です。

 ただ上記の傾向は余りにヨーロッパ的で、ふつうの日本人は、そういう感覚を持てないと思います。自分もそうです。ここでまた「感覚」を持ちだしましたが、「感覚」は「感情」が論理によって磨かれたもので、「感情」よりも抽象度の高いものだと思います。また、磨きが意識的かどうかは、別の話と思っています。

 そう思って思い出したのは、柳田邦夫でした。遠野物語は、妖怪や魑魅魍魎と人間の関わりを綴った民話です。物の怪には曖昧で無定形ですが、人間の人格の投影があり、時には神(自然神)となり、昔の人達はそれらから、何らかの生きる動力を得ていた気がします。そして自然神を強引に、理神論の神に読み変えてみました。

 たぶんに日本的なので、全然「理神でない」のはわかっています。ただ遠野物語に描かれたような姿が案外、「世界の理」との、素朴な付き合い方ではないだろうか?と思いました。次は、遠野物語を現代風にアレンジしたら、どうなるだろう?です。

 自分は何でも読むし、観る方なので、余り違和感なく「夏目友人帳」に飛びついた訳です。ある意味、日本人の「世界の理との付き合い方」を、非常にわかりやすく提示した話と思いますが、やはり安易でしたね・・・。


>スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか・・・

 そこで結論を言うと、信じるとすれば神道だという事になります。神道は、体系付けの弱さから、宗教ではないと思っています。理神の神は信じられなくても、自然神ならもしかすると、信仰できるかも知れない感覚を持っている、と思うからです。


 いちおう、お詫びのつもりです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そういう背景で述べていたのですか、お詫びなんて恐縮ですが丁寧な再回答有難うございます。

私は日本人の考え方にいつも不思議を持っていて(特に墓などの矛盾した習慣)パスカルを読んで感銘を受けたので、ヨーロッパ的な考え方なんですかね。

>「感覚」は「感情」が論理によって磨かれたもので、
そうですか?その日本人的な考え方という言い方を聞いたりすると、あなたのいう感覚は「感情」が「習慣」によって形成されるといったほうがしっくりきますが、それとは違うんですかね。

>「世界の理」との、素朴な付き合い方ではないだろうか?と思いました。
私も考えることを放棄してそうなろうかと思ったこともあったんですが、パスカルの考える葦を読んで暗記して以来、私の尊厳である考えることによって諸々を導き出そうと考えたんです。
もちろんそれには限界があること、結局理性の基準とするころはドグマによって形成するしかないことは理解していますがしばらくこれでやっていこうかと
この世界で永遠に生き続けるならそういう自然とのつきあい方は健全だと感じますが、死後は確実に来ますし、そのあとは不確実ですからね。。。

>神道だという事になります。
神道は神は完全で無限であるという私の哲学に反することになりますので難しそうです。

改めて意見をわかりやすく説いて下さりありがとうございました

お礼日時:2012/05/10 21:58

No.2の回答をしたものです。



> パスカルの影響のせいだと思うんですが、虚しく感じしまう
パスカルは虚しさを感じますが、最後には回心して
熱烈な神様万歳になるんですよね。

質問者さんは世界論、認識論を突き詰めることによって
生きる動因となることを望んでいるようですが、この方向性は
ちょっと間違ってるんじゃないの?とも感じます。

活発な生きるエネルギーは運動をして、美味しくて栄養のあるものをよく食べて
健康な肉体を作って、まわりの人に親切にして、恋人を作り
生を謳歌することから生まれるのです。

17世紀の欧州のスピノザだのパスカルだのを漁ったりしても
「木によりて魚をもとむ」で、生きる動力は生まれてこないと思います。

キリスト教福音派の教育を受けたとのことですので
一度、縁のある学校に里帰りして疑問をぶつけたり
ちょっと相談などしてみてはいかがでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

パスカルは虚しさは来世への期待がないことから生まれると言っています。
パスカルはキリスト教を信じていますが、私は今のところ信じれそうにないのでね。。。

>生を謳歌することから生まれるのです。
それは結局のところ考えることを放棄しろということですよね。
だって何をしても死んだらその先は永遠で、それの前にはすべて虚しいと考えているのに一体どうやって謳歌すればいいのですか。
現在の私にとってその行為は自殺者がその直前に短期的な快楽を追求することと何ら変わりないと思います。


教育を受けたと言うよりも週末に教会へ通っていた程度です。体系的な教育は受けていませんね。
現在例の聖書の矛盾の箇所についてなどを言及しようと考えてはいますが。。。

>生きる動力は生まれてこないと思います。
少し前の私は生き続ける動力がありました。トレーダーになるという夢があったからです。しかしそれも今の死を実感した私には虚しく感じてしまいます。
だからこの死の問題をどうにか出来れば前よりも強い活力が湧いてくると考えています。

相談もいくつかしたりしています。
聖書の驚くべき一致なども教えてくれます。それで少しづつではありますが方向性は固まってきているんですが、ここでこういう哲学に通じている人に教えてもらえばより効率がいいかなと思ったんです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/10 21:40

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!