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ここのカテゴリーに書いていいのかわかりませんが、
アドバイスいただける方いれば御願いします。

さっきNHKのEテレでパスカルの『パンセ』についての番組をやっていました。
テーマは「もっと誰かにほめられたい!」ということでした。

結局、全ての人がもっと誰かにほめられたい、と思っているということ。
それが根源にあるということ。

やっぱりそれはみんなあるよなぁと再確認できたんですが、
なんで僕はそれが苦しいんだろう、という悩みなんです。
僕の周りでは、「ほめられたい」ということについては苦しんでない人が多いです。
「まぁそれは誰でもあるよ」と平然と言ってのけます。
こっちが言わなければ頭にも浮かんでいなさそうです。

僕は彼らと何が違うんでしょうか。
どうしたら、それを受け入れることができるでしょうか。

A 回答 (30件中11~20件)

人はだれでもほめられたいという欲望を持っています。

これは人間の持つ本能です。人間だけでなく、犬とかサルのように集団生活をする生き物に共通する感情です。

苦しいというのは、ほめられたいと思うことが恥ずかしいことだと思っているからではありませんか。それは、ほめられたいと他人に告白すると、「あいつはそういう弱みを持っているのか」と思われるのではないかと、無意識のうちに防衛してしまうからです。

例えば、人間はだれでも死ぬのを怖がります。しかし、昔の侍や軍人は死ぬのが怖いとは言いません。それは、死ぬのを怖いということが自分の弱みを暴露する(臆病者と言われる)ことになり、防衛的に死ぬのは怖くないと虚栄を張るのです。

あるいは、人にほめられると嬉しいというのは、犬が飼い主に頭を撫でられて尻尾を振って喜んでいるのと同じと考えて、浅ましいことだと感じているのでしょうか。

ただ誤解してほしくないのですが、あなたが恥ずかしいとか、浅ましいとか考えることを非難しているわけではありません。それも人間の感情として正常なものだからです。

でも、それが苦しいというのであれば、ちょっと考え方を変えてみたらどうでしょうか。
人間はワニやカメのように単独で生きているのではなく、集団で生きていくことによって生存競争を生き抜いてきました。ほめられるということは、その集団の中で、あなたが役に立っている。あるいは他の人よりも優れているということが認められたということです。
それがうれしいという感情となって現れます。

ほめられるというのは、決して、恥ずかしいとか、あさましいとかいうことではなく、集団の中であなたが認められたということなのです。素直に喜べばいいと思います。そして、あなたよりも優れた人や、社会に貢献した人があれば、ほめてやってください。

これによって、人間は社会を円滑に運営し、生存競争を勝ち抜いてきたのですから。
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この回答へのお礼

浅ましいことではない、人間にとって正常な感情である、
というのは理解しています。

僕自身、集団の中で生きているという自覚が
あまりないことがひとつ起因しているのかもしれません。
基本が一人、何でも解決する、というような。

いずれ一人で行き詰ったときに、結果そのような感情が
浅ましい感情なんかじゃないな、と思えるようになるのかもしれませんね。

ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/16 22:06

誉められるために行動するのは、本当の自分の意思ではない。


現状では、周囲の人の思惑に迎合していて、本当に自分の望む事のために行動しているのでは無い。
本当はAをやりたいのに、誉められるために、Bをやっている。
しかし、それを振り切って、Aをやることが、なぜか出来ない。
だから、Bをやって誉められても、むなしいだけだ。
もしAをやって誉められれば、本当に嬉しい。

と言うことですね。

自分を殺して、偽善的な親の言いなりに、なり過ぎたのだとおもいます。

親の欺瞞を悟ることです。
本当に子供を愛する親は、子供のことだけを考えて、のびのびと子供を育てます。
しかし、利己的な親は、自分の欲望のために、子供の行動を束縛します。
ところが、利己的な親は、自分の醜い欲望を心の底では認めたく無いので、さも自分が愛情深い人間であるように見せかけ、子供を誉めることで操作しようとします。
利己的な親は、自分自身の欺瞞に自分自身さえもがだまされて、本当に自分が愛情深い人間だと思い込んでいたりします。
自分自身が絶対悪くないと思い込んでいますので、それを変えるのは、非常に困難です。

下記、一例です。
子供に対し、一生懸命勉強するのは、あなたのためよと利己的な親は言いますが、本音では、自分が勉強できなかった劣等感を、子供の成績が上がることで、満足させようとしています。
子供の成績が上がると、母親は、鼻が高い(自分の劣等感が満足させられる)ので、子供を誉めますが、それは子供を愛しているからではなく、自分の利益になったからです。

表面上は、親は愛情深いように見えるので、子供は、親に反抗することに罪悪感を覚えます。
素直で従順な子供ほど、こうした親の欺瞞に絡め取られ、自分の思い通りに行動することが出来なくなってしまいます。

像を調教する方法を読んだことがあります。
子象の時に、絶対自分では引っこ抜けない杭を地面に打ち、ロープで子象の行動を制限します。
すると、象が大人になっても、小さな杭とロープで、大きな象をつなぎ止めることが出来るようになります。
本当は、そんな杭は簡単に引っこ抜けるのに、大人の象は、それをしようとしません。

人間誰しも、気付かないうちに、そんな杭とロープで、がんじがらめになっています。
他人に杭を抜いてもらうのは、比較的容易ですが、自分自身で杭を引っこ抜くには、大変な勇気が必要です。
それを自力で引っこ抜けば、それは大きな自信となります。
親の欺瞞を理解して、一度、反抗してみることです。
一時的にであれば、自分の親を憎んでもいいのです。

あるいは、深い愛情を持つ人に、その杭を抜いてもらうことです。

あなたの親の悪口をさんざん言って、ごめんなさい。
あなたが幸せになることを祈っています。

全くの的外れであれば、とても恥ずかしいですが。

尚、加藤諦三さんの本を読むと、とても参考になると思います。
あなたにとって、とても良い薬の様な効果があると思います。
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この回答へのお礼

おっしゃるようなことはそうかも知れないのです。
加藤諦三さんの本も読んだことあります。

でも、それを知ることは今後の「幸せ」につながりますかね?
親のせいなんだ、とどこか安心することはできますが、
そこから何かのスタートは切れそうもないです。
親が原因だとしても、そこから解決策は見出せないです、
見出せなかったです、少なくとも僕は。
読んだ本が悪かったのかもしれないですけれど。

他人にその杭を抜いてもらえるのが一番いいですねぇ。

お礼日時:2012/06/16 21:47

>離れるとしても僕にとってはそれは自殺と同じなので



社会的に死んだも同然になることと生物としての死は全く別物なのですが
そこを混同していることが苦しみの原因であると思います。

>僕の周りでは、「ほめられたい」ということについては苦しんでない人が多いです。
「まぁそれは誰でもあるよ」と平然と言ってのけます。

社会には「社会的に死んでも、余生を家庭や友人、趣味につぎ込めれば逆にラッキー」という発想を
持つ者が、社会的に高いパフォーマンスを発揮するという逆説が存在します。
配水の陣に自分を追い込んで奮起するというのもひとつの手段ですが
質問者さんの場合、裏目にでていますのでドラマチックな思考からは離れるべきでしょう。
そのためには、トイレにいってトイレの中の自分のものを30分くらい注視すればいいでしょう。
現実がみえてきますよ。
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この回答へのお礼

おっしゃっている「社会的」の意味がかなり限定的なようですが、
家庭や友人と過ごすことも、趣味につぎ込んだりすることも
僕にとっては社会的な行動なのですが。
自分としての個体がある、以外のものは全部社会的。そんなイメージです。
なので死ぬことと同じという感じです。

トイレの中の自分のもの ってのは・・・う○このことですか??(笑)
すみません、読解力なくて。

お礼日時:2012/06/16 21:39

折り合いは、つかないと思いますね。


というか、「折り合いがつかないよね」という折り合いのつけ方が
あるんじゃないでしょうか。でも、質問者様はそうやってきたから
今が当然あると思うのですが。

本当に折り合いをつけるには、お坊さんになって修行の道にいくとか
そのほかなんかあるかもしれないけど、

普通のことで、ダブルバインドを乗り越えられることは、ないと思います。
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この回答へのお礼

そうですね。
そういう観点からすると、
僕ももう折り合いはつけられているとも言えるのかな、と思います。
「はぁ!しゃーないな!!よし!」というように心の底から思えればいいのですがね。

ありがとうございます。ひとつヒントをいただいた気がしました。

お礼日時:2012/06/16 21:29

くだんのEテレのパスカルの番組は見ていないのですが


パスカルという人は、子供の頃から早熟で大人のサロンに混じっては
数学の定理なんて発表して褒められまくって成長しました。
なので、いい子ちゃんで人から褒められたい欲求がかなり強かったのではないのでしょうか?
「すべての人は誰かに褒めて貰いたく、それが根源にある」というのは
パスカルの言い過ぎのように感じます。
「もう人間まみれの俗世なんてイヤだ・・・」という出家・隠遁指向の哲学者は
釈迦、老子、荘子、ディオゲネスなど洋の東西を問わずわんさかいます。
この人たちがパスカルの言を聞いたら鼻で笑うでしょうね。。
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この回答へのお礼

確かに、このパスカルの言葉を鵜呑みにするのはおかしいかもしれません。

でも、俗世からは離れられないと思います。離れたくはなりますけど。
離れるとしても僕にとってはそれは自殺と同じなので、
俗世の中でなんとかうまいこと生きたくて、悩んでいるのです。

そこまで高尚な人間じゃないんです。

お礼日時:2012/06/15 01:02

単純に、自分のやりたいことと、周りがあなたにやってほしいこととの間にギャップがあるからじゃないですか。



自分がやりたいようにやって周りから褒められるならこんないいことはないわけだけど、周りから褒められるようなことが自分のやりたいこととずれていると苦しくなりますね。

もし、それが原因ならですが。

まず、やりたいことをやりたいように元気にやったらいいです。褒めてあげます。
自分が喜んでいなかったら、周りを喜ばすことは無理。いずれ破綻します。
まず、自分が嬉しくていて、それから褒められることが出来ればなおさらOKということで。
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この回答へのお礼

そうだとは思うのですが、
「自分のやりたいこと」が分からなくなったのです。


やりたいことがあって「なぜそれをやりたいの?」と自分に問いかけると、
根っこは、全ての行動が
「ほめられるから、認められるから」なんだということに気づいてしまったのです。
全てです。自分の感情が分からないわけです。嬉しいとか楽しいとか。

お礼日時:2012/06/15 00:55

永遠のテーマともいうべき問題だと思います。



現代人は、実存と承認(関係)の狭間で苦しんでるんですね。
もっとも、それは近代からずっとつづいているテーマです。

私は、自閉の気があるので、そういう気持ちがよくわかります。
子供の頃から、浮遊している感覚が気になっています。

ただ、これは克服できることかどうかは、疑問です。

疑問を疑問のままでは、苦しいので、アウトプットしたり、
克服を試みるのが人間の行動としては、正しいことのような
気がしてなりません。

ただ、こういう感覚をかかえたまま、日常生活ができないか
と言えばそうではないと思います。

ただ、周りと歩調が合わないとか、承認に欠けた感覚がぬけない
だけで、多くを望まなければ、それなりといえばそれなりでしょう。

まあ、自分なりの折り合いのつけ方を見つけるしかないと思いますが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご自分なりの折り合いのつけ方を見つけられたのでしょうか?
僕は未だに折り合いがつけられないのです。
折り合いをつける、ということが僕にはひとつの克服と思えます。

お礼日時:2012/06/15 00:49

(アンテナと空しさ)


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この回答へのお礼

動画拝見しました。
まさにそういう感じかなぁとも思います。

カウンセラーにかかることも考えたいと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/15 00:46

「ほめられたい」という感情が苦しいのは、「ほめられたい」という感情が悪い感情だと思っていませんか?


「ほめられたい」と言うのは、子供が親に自らの存在を認めて欲しいという感情、
恋愛対象の人に自分を認めて欲しいという感情
それらと、深く結びついていると思います。
ですから、良い感情とか悪い感情とかではなく人間であれば、自然と身についてします感情だと思います。

それを受け入れるには、善悪の区別の対象ではなく、食欲や、睡眠欲といった本能と同じく
人間本来持っている物であると、心の底から認識することだと思います。

あなたと彼らが違うのは、彼らが、善悪と対象とせず、本来自然のものだと無意識に認識しているからだと思います。

受け入れると質問する自体、善悪の対象としている状態だと思います。
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この回答へのお礼

悪い感情だと感じています。
それは正しくない、ということも知っています。

どうやったら心の底から認識できますかね?

bochi-2000さんのこの回答を繰り返し読んで咀嚼したら認識できるでしょうか?
認め方、受け入れ方を知りたいです。

お礼日時:2012/06/15 00:44

続き。



親、もしくは他者から
褒められることが全て行動の動機付けになるように習性付けられた場合も、何かをする事に対して褒められることを代償にして、その人にとってはその行動をすることは苦痛にはならないのかも知れない。

しかし、
褒められることが行動の動機付けというのが習慣化してしまっている場合

逆に
誰かに褒められなくなると精神的には苦痛になる

っていうのも考えられる..
かな



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この回答へのお礼

ほめられたいがために行動しているさなかは、
飼い犬のように「へぇへぇっ」って感じでやりきるのです。
習慣になっているので。

褒められなくなると、とおっしゃっていますが、
そのような空白の時間が辛くてしょうがないんです。
むなしいといいますか、自分の人生なのか、とか思ってしまいます。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/15 00:41

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