牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

 質問1:
 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 

 趣旨説明:
 (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとします。

 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。

 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?

 (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。つまり差異を持った違う名前を互いに用いているそれは 代名詞である。

 質問2:
 もしこのようだとしたら いったい《自我》という名称は どういう中身をもってどこに位置づけられましょうか?

 (5) 《自己・自分・おのれ》という名称は 分かる。なぜなら《わたし自身》を指して言っているから。《自我》とは そうではなかろう。では 何ぞいや?

 (6) いったい《自我》などとよぶものは あり得ましょうか? ただの幻想なのではないか? 死語ではないでしょうか?

 (7) 《自我》とは 《わたし》とどう違うのでしょう?

A 回答 (10件)

#1の者です。


おっしゃる通り、量子に限らず素粒子には個性がなく、
2個の電子は相互に置き換えても、全く等価です。
実は、電磁力や強い相互作用などの相互作用は、
その力の媒介粒子が存在し、両方の原子の中で
安定しようとするために(フタマタをかけるには両方が
近い方がいいので)、引き寄せる力となるのです。

「人には個性がある」という点については、その
『人』というのは、100%素粒子の集まりであり、
人というのは存在ではなく、存在である素粒子の
集まりの“並び方”に過ぎないと言えます。
それはちょうど、原理的に確定しようとすると無限
不確定に発散する(不確定性原理)ものを、階層
現象を表面的(いい加減)に捉える事で生じる
「幻想」だと言えるのです。
ただし、その「幻想」こそが「存在」の起源である時、
「ただの幻想」という言葉の意味合いが異なって
くる、というのが先の主旨です。

極論すれば、「宇宙=自己」である時、自我は唯一
のものであり、固有名詞であると同時に(自我仮説
における先の回答のような過程により)普通名詞で
もあり得るのです。
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この回答へのお礼

 ぷしゅてっくすさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 § 1 《相互作用》について 教室で小学生がするごとく 質問します。

 ★ ~~~
 実は、電磁力や強い相互作用などの相互作用は、
 その力の媒介粒子が存在し、両方の原子の中で
 安定しようとするために(フタマタをかけるには両方が
 近い方がいいので)、引き寄せる力となるのです。
 ~~~~~
 ☆ このとき《その力の媒介粒子が存在し》がよく分かりません。すなわち
 【Q‐1】
 ★ 媒介粒子
 ☆ とは何か? です。たとえば電磁相互作用よりほかに別の《媒介粒子》が存在し作用しているということですか?

 そうして たとえば
 ★ ~~~~
 『人』というのは、100%素粒子の集まりであり、
 人というのは存在ではなく、存在である素粒子の
 集まりの“並び方”に過ぎないと言えます。
 ~~~~~~~
 ☆ と聞くとき:
 
 【Q‐2】 《相互作用》は 人間という存在にかんしては (あ)ほかの人が近くにいるといった感覚としての自然の現象や (い)それにともなうもろもろの心的現象や そしてさらに (う)そこから繰り出される意志行為としての現象 これらの現象一般をめぐっても はたらいていますか? 

 【Q‐3】 原子と人間とのあいだで 相互作用のハタラキに違いはありますか? 違いはなくても 現われ方は違って来ますか?

 【Q‐4】 量子力学と《人間の意志行為》に発する社会力学とのあいだには 何の隔てもありませんか?


 § 2 ★ 「人には個性がある」という点について

 ☆ じつは 《ひととしての〈わたし〉の自己同一性》つまり《一人ひとりが掛け替えのない存在であること》は 《個性》とは違うわけです。
 仮りに《個性》などがまったくないとしても――あんがい無いのかも知れませんよ そしてまた個性も何もなく植物人間のような状態であったとしても―― その《いま・ここなる〈わたし〉と名乗るひと》 この人はみな ほかの人をもってその存在を埋めることは出来ないという意味になります。
 重力ないし〔比喩として〕自由意志〔その潜在性のみとしても〕があれば ほかの人の重力ないし意志との交換可能性は いっさい無いということを意味すると思います。
 これは およそ論証しえないところの――公理とさえ言わないところの―― 《にんげん》の・声に出さざるしづかなさけびなのだと見ます。

 § 3 《幻想》如何を問わず その虚構をも容れた大きく広い《現実》と 《わたし》は対応しており この《わたし》≒《現実》を ここでは 問うています。

 ★ ~~~~
 人というのは存在ではなく、存在である素粒子の
 集まりの“並び方”に過ぎないと言えます。

 それはちょうど、原理的に確定しようとすると無限
 不確定に発散する(不確定性原理)ものを、階層
 現象を表面的(いい加減)に捉える事で生じる
 「幻想」だと言えるのです。
 ~~~~~~
 ☆ もしこのようだとしますと 表題の《現実》≒《わたし》というのは この  
 ★ ・・・階層現象を表面的(いい加減)に捉える事で生じる「幻想」
 ☆ として認識したあとの その意識されうる世界 これを言います。
 § 1 の【Q‐3】や【Q‐4】にかかわってくると思います。

 ぷしゅてっくすさんの見方に出来るだけしたがって表現するならば こうです。

  ○ (にんげんの《現実》とは?) ~~~
  自然科学による世界認識としての原理論が にんげんという階層現象を《幻想》と捉えたそのとき その捉えた世界――つまり言うとすれば《人間世界》――には 《〈事実および心に従う真実〉と〈想像のみによる虚構〉とを容れた現実》が展開されている。と言えるのではないか?

 この《現実》は 《いま・ここなる〈わたし〉》において 時空間のすべてを〔その《わたし》が勝手に〕つつみ・つまりは過去と未来をもふくみつつ生きる人間世界として成り立っている。この《うわべ》の世界に人は生きている。
 《原理論》の世界に直接には生きているのではない。ということではないか?
 もしぎゃくに直接にそのように生きたとしたら それは 動物の生というようなことになりはすまいか?

 言いかえると
 ★ 原理的に確定しようとすると無限不確定に発散する(不確定性原理)ものを
 ☆ これを 人間が・つまりは一人ひとり《わたし》が 《いい加減に》――あやまち得るかたちにおいて――そのつど《確定》しようとして生きている。これが 《現実》≒《わたし》であり その世界でありその動態である。と考えられます。
 おそれを知らずまた無知なまま不遜にも《確定》しようとするのは 《意志》です。

 このあやまち得る意志を 古来いわゆる宗教は おのれの思いのままにならないものであるゆえ 何とか処理しようとしてきたし その思索の成果を述べて来ました。
 問題は この煩悩=無明=我執とも言うべき自由意志を消そうとしてはだめだということ。またそれを離れては 人は何ごとも成し得ないし 成したとしてもつねにマチガイのみを結果として得るだけになる。これです。
 科学は 必ずしも宗教のように倫理的にあるいは当為としてのごとく 意志を処理しようと もくろんではいないはずです。ただし 《階層現象》という原理を認識しえたなら その原理に人間は還元されると見るのは どうでしょう? それはただ認識論のみのことではありませんか? つまりは 意志をすでに初めにないがしろにしてしまっている。のではありませんか?
 それとも 厄介者払いが出来たと その原理論によって 主張しましょうか?
 ~~~~~~~~~~~

 § 4 すなわち この以上の見方と 次のように《但し書き》された見方との異同を知りたいと願います。

 ★ ~~~~
 ただし、その「幻想」こそが「存在」の起源である時、
 「ただの幻想」という言葉の意味合いが異なって
 くる、というのが先の主旨です。
 ~~~~~
 ☆ 階層現象の先端にちいさく止まっているヒト そこには しかしながら 《意志の繰り広げる――あやまち得る――現実》が おのおの《わたし》のもとに その言葉の意味する中身そのままの自由に 横たわっている。と言えるかどうか。です。

 § 5 すなわち さらにくわしく 照らし合わせてまいりたいと思います。

 ★ ~~~~~
 極論すれば、「宇宙=自己」である時、自我は唯一
 のものであり、固有名詞であると同時に(自我仮説
 における先の回答のような過程により)普通名詞で
 もあり得るのです。
 ~~~~~~~
 ☆ (え) 《固有名詞》から 言語習慣にしたがって便宜的に《代名詞》や《普通名詞》として用いられるようになっても それは かまわないわけです。

 (お) 《自己(あるいは 自分・おのれ)》を なぜ《自我》と言いかえるのか? これが分かりません。自己・自分・おのれなら 《わたし》と通じると考えますが 《自我》は いかにも木に竹を接ぐようだと感じます。

 (か) 《極論すれば》とことわってありますが 
 ★ 自我〔* つまり 《わたし》〕は 唯一のものであり
 ☆ というふうに《唯一》というのは 行き過ぎではないか? たしかに《わたし》≒《現実》とわたくしも言って来ていますが 唯心論のように徹底すべきなのか まだ疑問が残りませんか?

 (き) 《わたし》と《自己・自分・おのれ》とが相い通じるのならば 同じ《自》や《我》を用いた《自我》という用語も いいではないか? 
 ――わかりにくくありませんか? 《わがまま》という意味にも 《熾烈な経済競争に勝ち抜くその自己のチカラ》という意味にも あるいは単純に《わがままな欲求とそれを抑制する作用とを均衡させるチカラ》とも いろんな意味に使われるようですが わかりにくくありませんか?
 仮りに《人格》といった意味をも持つとしたら たぶんやはりおかしいでしょう。というより それを使うことを勧める側からの しっかりした事由を明らかにして欲しいように思います。
 なぜなら 《自我仮説》とは 《わがまま仮説》のことか? といった尋ね返しが起きるものと思われるからです。

 
 注文が多く 盛りだくさんですが よろしかったらご見解をお示しください。

お礼日時:2012/07/17 12:02

ぶらじゅろんぬさん、


丁寧にありがとう。
今回は分かりやすかったー。

たぶんおいらも
同じこと言いたかったー。
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この回答へのお礼

 ほおおおおーっ。

 そりゃあよかった。

 ご回答をありがとうございました。

 では 今回はこれにてですかね。

お礼日時:2012/07/22 21:33

こんにちわ、ぶらじゅろんぬさん。


あらやだ、またご返信文を誤読して
ちんぷんかんぷんなこと書いちゃったみたい。


ということは分かったのですが、
何を言われたのか、よく分かりませぬ。




「自分から見て賢い者となってはならぬ。」
とかそういうことかしら。




例えば、
「自分のモノサシ」や「自分のメガネ」が、
ボンドでくっつけたみたく
自分にくっついている場合、のことかしら。


ん゛~。(-_-;)

それだったら
「(できるだけ)とっぱらう」だなあ・・・。

またズレてたりして。
どうもお邪魔しました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▼ (アウグスティヌス:自己とは何か) ~~~
 ・・・
 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。
 自己について知っているものを認めよ。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ そう言えば この文章にたよっていて 自分の言葉で言いかえることをしないで来ました。

 もしこの見方にしたがうならば:
 ★ ~~~
 「自分のモノサシ」や「自分のメガネ」が、
 ボンドでくっつけたみたく
 自分にくっついている場合、のことかしら。
 ~~~~~
 ☆ については けっきょく そのようであるとまづ《自己について知っているものを認め》ることになるのだと思います。
 そうしてただし その《ものごとの評価の基準を自分が持ち合わせていること》それ自体を《自己》であると思い成しているとするなら それは《分離せよ》ということではないでしょうか?

 つまり そのたぶんとうとく便利な評価の基準(要するに 判断力)そのものは 《わたし》なのではないと。《わたし》の一部ではあるのでしょうが 《わたし》そのものではないであろうと。

 つまり その判断力のほかに・また背後に 愛情なら愛情という要素も持ち合わせているでしょうし しかもこの《愛情》そのものが じつは《わたし》そのものではないであろうとつづくようです。


 言いかえると ひとは ふつうに人と話が出来るようになったなら――ふつうに社会人となったなら―― その《いま・ここにいるただの存在》それだけで 一人前のにんげんであり 掛け替えのない存在であり 無条件にとうとい。こう言おうとしているのではないでしょうか?
 
 この《わたし》は 《わたし》であると。


 お粗末でした。(と おそれつつ)。

お礼日時:2012/07/22 20:35

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。


ご返事ありがとう。
もうお休み中かな。


>その時点ですでに何かを足していたなら どうか?
:自分で言っといてなんなんだけど、
何も足すことなく生きる
ことはできるのかなあ。苦笑。



【わたし】のことを
【わたし】と思ったときから、

これは【わたし】の○○ぢゃ!
と言って、いろいろと
【わたし】という器に
コレクトしていくんぢゃないの?
【わたし】の肩書きだとか
お守りだとか好きな花だとか
お金だとか恋人だとか
とにかく「【わたし】の○○!」。


ときどき、コレクトしすぎて、
集めまくったコレクションに
【わたし】が埋まってしまって、
「あれ?【わたし】はどこ?」
とか思って、 
【わたし】が(わたしの意志で)
好きで集めたいろいろを、
全部捨てたくなったりもしますが、





また別のものを
集め始める(ぷはっ・・・苦笑)、


という、今の【わたし】に
何か文句あんのんか?


古いのを捨てて
新しいのを着る感じ、
というと分かってもらえるかしらん。


あら、また脇道にそれちゃったやんか。
ほぢゃ、消えますわ。  
  
             
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 古いのを捨てて
 新しいのを着る感じ、
 というと分かってもらえるかしらん。
 ~~~~~~~
 ☆ そのこと自体は 分かるつもりですが――言いかえると そういう事態は 誰にでもあると見ますが―― 焦点の合わせ方が別の仕方もあると思っています。
 
 社会的に生きて行く上で人為的に自分の上に足したもの これらはすべて取り除くという見方もあろうかと思っています。
 その文章に頼っている状態なので その元ネタを引用します。

 ▼ (アウグスティヌスの《自己》論) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。
 だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。
 しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。
 自己について知っているものを認めよ。

 (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち ここでの《空気》には 《新しく着るいろんな着物》のすべてが入ると思っています。 
 言いかえると 《自己》ないし《わたし》は 自然本性だけでよい。こういうひとつの見方です。どうでしょう。

お礼日時:2012/07/22 06:32

 





ぶらじゅろんぬさん。こんばんわ。
質問文をずいぶん誤読して、
ちんぷんかんぷんな回答をしちまって失敬。
書き直して、消えますわ。



【自我】とか【本能】とか
他にも何かあったかと思いますが、
そういう言葉は、【わたし】
を便宜的にバラバラに分解して、
これは【自我】のしわざだとか、
あれは【本能】のしわざだ
ということにして、
都合よく納得するための言葉
なんぢゃないかなあと思いました。


どんな状況でも
【わたし】は【わたし】であって、
【わたし】の思うことやすることは
【わたし】が思ったりしたりしている
のですが、

【わたし】 の、ある一部(?)
から目をそらすとき、なんかに
【自我】とかうんぬんとかいう言葉は
便利なんぢゃないかなあと思いました。


【わたし】はひとりで歩けますが、
【自我】はひとりでは歩けません。

おわり。




そろそろ黙ります。どうも。







うん?飾り?
化粧とか金メッキとかのこと?
まあときどき使うけど、
すぐ剥がれ落ちます。
けどときどき使います【わたし】が。





なにも たさない。
なにも ひかない。 
                  


他にしゃべることがないので、
退散します。
あとはみなさまよろしゅう。

   
   
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 いえいえ。少しお互い脇道にそれてしまったようでした。

 ★ どんな状況でも【わたし】は【わたし】であって、【わたし】の思うことやすることは【わたし】が思ったりしたりしているのですが、
 ☆ ということだとわたしも思います。

 ★ 【わたし】 の、ある一部(?)から目をそらすとき、なんかに【自我】とかうんぬんとかいう言葉は便利なんぢゃないかなあと思いました。
 ☆ ということらしいです。

 いづれにしましても 明治期の人なのかどうか分かりませんが よくぞ《自我》という言葉を造ったものだとも思います。

 ときどき 《わたし》の幹線道から逸れて道草するとき 自我という言葉は 何かと便利なようなのです。おしゃれなのかも。その言葉を使うと 偉い人のように見られるとか。

 まぁ ちょっと言い過ぎかも分かりませんが つまりあるいは 《自我》論者に対してわたしはけんか腰ではありますが 方向性において賛同していただいたと思い まづは めでたし めでたしだと思います。



 ★ ~~~
 なにも たさない。
 なにも ひかない。 
 ~~~~~
 ☆ これは そういうことだろうと思うのですが ただし その時点ですでに何かを足していたなら どうか?
 つまり そのときには すでに身につけてしまった要らないものを取り除くことさえすることになる。のではないかとは思いました。
                  

お礼日時:2012/07/21 23:45

こんばんわ、ぶらじゅろんぬさん。


回答にはなりませんが感想などです。


この質問文を何度か反芻していると
【わたし】というのは、
確実に【存在している】のか?
と、改めて考えちまいまして、

たとえばどこまでが【わたし】で、
どこから【わたし】ではないのかとか、
そもそも【わたし】は【ある】のかとか。
おぼつかないですわ、
【わたし】とかいうものは。


例えが思い浮かばないのですが、
例えば、


さっき食ったオムライスは、
【わたし】の胃袋に入ったから
【わたし】の一部、になったのか?
オムライスの材料にされた卵は、
ニワトリの一部だった、と思うんだけど、
ニワトリが卵を生んだ瞬間、
ニワトリの一部、ではなくなった?
さらに、卵を生んだニワトリは、
草やら穀物やらを食っているわけで、
それは・・・?うんぬん。


さっきトイレで排泄した液体は
さっきまで【わたし】だった、けど、
さっき【わたし】ではなくなった、
ということになるのか?

___________


「これが【わたし】である!」、
というような【わたし】というのは、
一生、固定しないんぢゃないかなあ。

別の言い方をすると、
「【わたし】は確実に存在する」
と思いたい!という【癖?】を、
人は持っている(?)けれど、けれど

その、確実に存在していてほしい
【わたし】というのは、
錯覚の産物なんぢゃないかなあ。

___________



実は、【わたし】なるものは、


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・                  ・
・                  ・   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




↑こんな感じで、
宇宙との境目(?)もあやふや、
なのだけど、






_______
|     |
|     |
ーーーーーーー

だんだん、↑こうなるんぢゃないかな。
(絵がへたくそですみません)。


きっと生まれたころは、
限りなく低密度の点線
だったんぢゃないかな。

だんだん【わたし】は
【実線】になって行き、

さらに
「【わたし】の○○(モノとか主義とか)」
なんかをコレクトしていくうちに、
その【実線】が太くなるんぢゃないかな。

という癖(?)を人は持ってる、
のぢゃないかな。

___________

【わたし】と名づけようが
【自我】と名づけようが
どっちでもいいんぢゃないかなあ。



ズレまくりかもですが、
とりあえず感想文ということで。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 
 まづ 
 ★ ~~~
 【わたし】と名づけようが
 【自我】と名づけようが
 どっちでもいいんぢゃないかなあ。
 ~~~~ 
 ☆ については 何と呼ぼうが その中身についてそれは こうこうこういうものだと明らかにしていれば 構わないでしょうね。

 そのとき わづかにほかの言葉との関係で そのいまの中身についての定義が 互いに重なり合ったりあるいはむしろほかの言葉から何かを横取りしたりしているなら ちょっとまづいということにもなるのではないかと思います。





 それで そう言ったあとでは 結論をただちに述べることが出来ると思います。

 われわれは もう少し《ことば》というもののチカラのようなものについて信頼してもよいのではないか。まづ このように前振りをして:

 ○ 《わたし》とは ワタシという言葉で呼ぶところのその存在を言う。

 つまり 

 ○ ワタシと自称するその主体・その存在そしてそれは 人間 のことである。

 ということになるかと考えます。






 おっしゃるように からだとしてなら それはやがて朽ちるべきモノです。
 思想としてでも それは いかんせん 移ろいゆくものでもあります。相対的な内容しか持ち得ません。
 あとは 境地といったことが 思い出として残るくらいのことでしょう。

 よって

 ○ 《わたし》とは その言葉で自分を呼ぶその存在のことであり 本人のことである。

 これなら 少なくとも一生のあいだは 使えます。修正や補正などしなくても この定義でつらぬくことが出来ます。
 《わたし》という言葉に信頼を置いてもよいのではないかと言いましたが それはあくまで 相対的な信頼感だということは 前提です。

 



 ですから 《自我》は このわたくしの定義にかんしては 具合いがわるいと思われます。

 自我はうれしいとか 自我は疲れた もう寝るぞとか 言いませんから。
 定義における《自称の言葉》という要素が活きません。

 ただこれだけです。これで 見解は基本的におしまいです。



 ですから 生涯においてそのハタラキに対して贈られる肩書や看板や飾りなどについては 《わたし》にとって どうでもよい。となります。
 社会において活躍することをけなすわけではありませんが。

 どうでしょう。

お礼日時:2012/07/20 22:26

NO.4 です。


いつもながらご丁寧なお礼というか補足をいただいて、またお答えせねばならない気分に追い込まれています。
この哲学かてでは最もスピリチュアルな論客であるブラジュロンヌ様が直接的に「スピリチュアルな」と指摘された私の前回答をあらためて見直させていただいております。私は回答を書く時は、どんな場合も自分では可能な限りシンプルな回答を目指しているのですが、今度のケースではそれがうまくいかなかったのかもしれない、と感じています。
「自我とはなにか」について、ブラじゅろんぬ様と私との間に小さくない隙間があるような気がしています。

私の勘違いでなければ、ブラじゅろんぬ様は自我と人格をほとんど同一に考えておられるように思うのですがどうなのでしょうか。
わたし=A=Aの人格 アランドロン=フランスの俳優 これは明らかに真ですが、自我というものは必ずしもそういうものではない、Aの自我=Aの人格 ではありません。Aの自我は、Aの人格のように言葉で十全に表すことは不可能です。そういう意味で私は自我というものを理解しています。人格というものはおっしゃるようにその人の名前で表すことができ、それ以外の肩書で表すこともできます。A当人が十分満足できる形でそれはできるのですが、自我というものをその自我を持っている当人が、あるいは他人が客観的に言葉で表現できる部分は限定されます。あるいはほとんどできないといっていいかもしれません。
こういってもいいと思います。アランドロンの自我と野田首相の自我とは、質的に私の自我と比べて、あるいは隣のご主人の自我と比べても、さほど異なってはいない(のではないか)ということです。
それは自分を自分であると認識する能力であり、人格とも結びつく場合があるけれど、それは客観的にはあまり意味のない「プライド」とか、「生きているという意識」、「他人と自分とをはっきり識別する能力」などではないかと考えます。

私はそういう意味で言葉では表せないものだといったのですが、確かに仰るようにそれはスピリチュアルなものといえるかもしれません。でもそれは架空のものではなく、確実に自分の心の中にあるものだとわたしは思います。
私がご質問に対して勘違いしていると思われたら、ご遠慮なく補足要求してください。
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この回答へのお礼

 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 わたしは 勘違いをしたようですね。
 ★★(回答No.4) ~~~
 自我とは
  ・・・
  「A」が生きているかぎり「A」の存在を「A自身」で証明できるもの、少なくとも証明したいと願っている(おそらく人間固有の)動機的なものといえるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~ 
 ☆ すなわち ここから 《おのれの存在を証明するもの》であり それは《人間に固有の動機のようなもの》という要素を取り上げて来て それは 《わが存在のあかしであり あかしとなるもの》だとすれば 《たましい》であり《わが精神の軌跡 としての 人格のようなもの》だと受け取ったのでした。

 いやいや そうではなく 
 ★ ~~~~
 それは自分を自分であると認識する能力であり、人格とも結びつく場合があるけれど、それは客観的にはあまり意味のない「プライド」とか、「生きているという意識」、「他人と自分とをはっきり識別する能力」などではないかと考えます。
 ~~~~~~ 
 ☆ ということでした。あるいはさらに
 ★ アランドロンの自我と野田首相の自我とは、質的に私の自我と比べて、あるいは隣のご主人の自我と比べても、さほど異なってはいない(のではないか)ということです。
 ☆ ともうかがいました。

 もしそうでしたら あまり《自我》という言葉を使う積極的な必要性が見出されないように思うのですが どうでしょう。つまり この質問は なぜ自我という言葉が その意味内容をあいまいなままにして 意外としばしば使われている。それは なぜか? というものだからです。

 ★ 「プライド」とか、
 ☆ は そのまま プライドや自尊心という言葉がありますし。

 ★ 「生きているという意識」
 ☆ でしたら これは 充実感・充足感ですとか生命力ですとか いろんなふさわしい言葉があるように思います。

 ★ 「他人と自分とをはっきり識別する能力」
 ☆ これは なるほどたとえば《自我が芽生えた》というような表現において 《他人(ひと)と自分とは違うという意識を持ち始めた》という意味が出ますね。

 ただ ぎゃくにそれが おかしいとも思えます。なぜなら そのとき具体的な事態の中身は 《わたし》がほかの人と同じ人間でありつつ しかも はっきりとそのおのおのの《わたし》性が 互いに異なると分かったという意味だと思われるからです。

 つまり 自我という言葉は使わなくとも 表現しうることである。
 しかも 人によっては 《他我》という言葉をも使うようになっています。およそその《人間性》あるいはその《自然本性》などは むしろ互いに共通であると その場合には 認識されるのかも分からないのです。

 自我は あいまいですね。




 このあたりまででしょうか。ひととおり明らかに出来ればよいと願っていたことは。
 《言葉狩り》をおこなおうとするのではないのですから。


 もう少し開いています。わたしは 余韻を整理したりしています。そしてあるいは さらにほかの回答者さんが来られるかも分かりません。

お礼日時:2012/07/17 22:34

ブラジュロン様お久しぶりです。



日本の文法で規定されている言葉を一度無視して、あらためて意味の原点に戻って言葉の再規定をされておられるというような状況ですね。そういった革命的実験によって何が現れてくるのか?そんな思考実験を始められたとかんがえて宜しいでしょうか。私も、おぼつかないながらちょっと参加させていただきます。

>《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 

なるほどその通りです。A(たとえばわかりやすくアラン・ドロン でもいいですが)という人物が自らの口から「わたし」と言い放った場合、その「わたし」がAという固有の存在を指す代名詞になることは間違いいありません。

そこから出発すれば、「A」という固有の名前は「Aがいうところの”わたし”という固有の言葉を指し示す代名詞(私の代わりをする名詞)であるといっても差し支えないと思います。

これまでが枕ですか?ご質問の核心はつぎの

>もしこのようだとしたら いったい《自我》という名称は どういう中身をもってどこに位置づけられましょうか?

につながるわけですね。唐突ですがよくわかります。

> 《自己・自分・おのれ》という名称は 分かる。なぜなら《わたし自身》を指して言っているから。《自我》とは そうではなかろう。では 何ぞいや?
>いったい《自我》などとよぶものは あり得ましょうか? ただの幻想なのではないか? 死語ではないでしょうか?


ここに「死語」という言葉が出てきましたが、これも前述同様ブラじゅろん様の自在な言葉の付け替えのような気がします。
言葉が死語になるということは、その言葉が(その言語圏で)使われなくなる、あるいは不要になるということだと私などは承知していますが、ここではそういった意味ではなく使われているようです。ともかく質問者ご自身が現に使われているわけですから、矛盾だともいえるわけです。
なぜ質問者様が「自我」という言葉にそんな思いを持たれたのか?ここにこの質問の核心があるのだと思います。
Aという名前を持つ人物、AはA自身を「わたし」と呼ぶ。この「わたし」はAがそう呼ぶ限りにおいてA自身以外ではありえない。あるいはわたしの代わりに「自己、自分。おのれ」といってもいいでしょう。でも「わたし」のことを「自我」と呼ぶ人間はいないと思います。わたし=自我 ではないのです。
ここに最後の
>《自我》とは 《わたし》とどう違うのでしょう?

というご質問になってくるのでしょう。


「わたし」とか「A」とかいう名詞そのものは、誰もがそう発音すれば、必ず実体が表現できるものです。「わたし」という言葉はそう”当人が”言わない限り実体が現れないけれど、「A」といったら誰が言ってもそれなりの実体が浮かぶ(固有名詞の便利なところです)というほどの差異はありますが、「自我」と誰がいってもそこには明らかな事態は浮かんでは来ない、そんな大きな差があると思います。
「自我」というのは固有名詞ではないし、かといって代名詞ではもちろんない、強いて言えば抽象名詞というほどの言葉だと思います。こういった言葉は誰もがあまり日常に使わないし、新聞にも出てきません。しかし日本語としては間違いなく存在します。まれではあるけれど、ぶらじゅろん様のように誰かがどこかで今でも使っている言葉だと思います。

私見ですが、

自我 という言葉は「わたし」と「A」とを「A」という肉体の内面でしっかりと繋ぎ止め、A自身ではかならずしもはっきりと表現できない場合があっても、「A」が生きているかぎり「A」の存在を「A自身」で証明できるもの、少なくとも証明したいと願っている(おそらく人間固有の)動機的なものといえるのではないでしょうか。
そういう意味では必ずしも「自我」は言葉ではない場合があり、言葉では言い表せない部分を持っているともいえます。ぶらじゅろん様が自我を「死語」ではないか、と疑われた気分も私にはなんとなくわかるような気がします。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

 こまあすさん こんにちは。ちょうどよい加減で過激な質問には いさめ役やらなだめ役やらとして登場してくださるかたちです。お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。


 質問趣旨の(1)から終わりまで きちんとその道筋を追ってあらためて説明してくださっています。
 そして確かに なんでこの世に《自我》などというワケの分からない言葉があるのか? ここに焦点があることも おっしゃるとおりです。
 それで 復唱はご回答そのものの文章にまかせまして 結論をめぐってお応えしてまいります。

 まづその前に
 ☆☆(趣旨説明欄) 〔自我という言葉は〕 死語ではないでしょうか?

 ☆ これは 口が滑ってしまったようです。《死語》だと言ったら 少なくとも生きた語であった時代があることになります。
 で この点は ツッコミを入れていただいたそのままを受け取ることとします。


 
 さて どうもご結論は いささかスピリチュアルな世界の気配が――気配だけですが――するかのようでもあります。
 順序をぎゃくにして捉えてまいりますが:
 ★ そういう意味では必ずしも「自我」は言葉ではない場合があり、言葉では言い表せない部分を持っているともいえます。
 ☆ 《わたし》あるいはそれを特定すべき《氏姓名》をめぐって 《言葉では言い表わせない部分》もしくは《要素》でしょうか を持っていると。
 社会のなかで一人前になったというその――子どものときからの自己形成および――社会人としての自己の位置づけというもの そういった現実の〔広い意味での・中立的な意味での〕身分 あるいは人格でしょうか このような表現しがたい要素を言い当てようとして造られたし用いられるようになったのではないかと。
 
 そうして さらにあるいは そのような社会人として成るまでの《わが精神の軌跡》といった内容を含む身分人格 これを《自我》という言葉で言い表わそうとした。と解釈すれば スピリチュアルな気配も ふつうにするだけであるから 落ち着くと言えるかも知れません。


 
 さて ここから反論です。
 それは 直前の引用文の中の
 ★ そういう意味では
 ☆ についてまだ何も確認していないのですから そこから入らなければなりません。

 こうです。
 ★ ~~~~~
 自我 という言葉は

 ( a ) 「わたし」と「A」(* =いわゆる固有名詞)とを「A」(* =たとえば アラン・ドロン)という肉体の内面でしっかりと繋ぎ止め、
 ( b ) A自身ではかならずしもはっきりと表現できない場合があっても、
 ( c ) 「A」が生きているかぎり「A」の存在を「A自身」で証明できるもの、
   ( c-1 )少なくとも証明したいと願っている(おそらく人間固有の)動機的なもの

 といえるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ (あ) ( a )の《肉体の内面でしっかりと繋ぎ止め》という規定は いくらスピリチュアル気味だと言っても それは現実の社会人のものなのであり 《社会的な身分人格》にかかわるとはっきりと指示しているというように思われます。

 (い) それは たとえば《A》が アラン・ドロンの場合なら 先ほど《氏姓名》と言ったように

    氏・・・姓・・・名
    ____________
    ドロン・俳優・アラン

    野田・内閣総理大臣・佳彦

 というように認識できるところに現われていましょう。姓(かばね)とは 職業のことでしょうね。その国の芸術部の部(べ)の民であったり 公務員部のベノタミだったりするのでしょう。

    柿本・朝臣・人麻呂

 といった《身分人格》 これは 現代にまでまだつづいているのかも知れません。

 (う) 次に
 ★ ( b ) A自身ではかならずしもはっきりと表現できない場合があっても
 ☆ これは 何を意味しましょうか? たぶん こうではないでしょうか。つまり特に社会的な人格身分 これは 必ずしもおのれの見方によってその評価が定まるものではない。といったことを暗に言っていましょうか? それだと スピリチュアルな要素がかかわって来るかに感じます。

 (え) これまでの情況との関係におけるような《わたし》を踏まえて こんどは 次のように規定されています。
 ★ ( c ) 「A」が生きているかぎり「A」の存在を「A自身」で証明できるもの
 ☆ あるいは
 ★ ( c-1 )少なくとも証明したいと願っている(おそらく人間固有の)動機的なもの
 ☆ さあ たいへん。こうなりますと スピリチュアルどころではありません。ほんとうに《たましい》の問題になって来ました。
 現実の社会的な身分に基礎をおきつつ しかも 人格ないし人の境地というようなもの としての《たましい》 このような内容を《自我》という概念がになっていた。のですか。

 (お) あたらしいご見解だと受け取ります。そこまでとは知りませんでした。

 (か) その上で 反論です。
 まづこのような概念内容だとすれば それは 《さとり》の問題にまで行きついているのではないか? という反応を持ちますが これは ここでは措いておきます。

 (き) それでも そうだったとしたら 《社会的に確立した身分とその人格》のことでしょうから やはり《境地・境涯》といった言葉が 伝統的に用意されているように思います。
 もしその境地といった同じ意味で 自我をたとえば野田首相の自我というように用いたとすると たぶんそれは 単に露出度が多いという意味や その――いい意味わるい意味をひっくるめた――突出性だけを言っているようにわたしには聞こえます。その点 疑問が残りますが こまあすさんの規定どおりに 普及してまいりましょうか どうでしょうか?

 (く) さらに いつもひと言多いぶらじゅろんぬとしましては そのような社会の中で揉まれつつ練られつつ確立した人格のことを やはり原点にもどって・その原点からの《わたし》という言葉 この単純な言葉で言い表わしたら どうでしょう? 

 《わたしは わたしである。: 1=1 》なる自己同一性にもとづく 《わたし》。

 漢字語としては 自己・自分でしょう。
 なぜなら 《自我》は これらの言葉ほどには 社会の泥臭い側面をも生き抜く現実性が なかなか 感じられないのではないでしょうか? あさっての方向を向いて話をしているように思うのは わたしだけでしょうか?

 どうでしょう?

お礼日時:2012/07/17 16:13

>《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?



と公表した時点で、この文の「わたし」という言葉は単数の一人称代名詞と言えます。
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この回答へのお礼

 ぼけゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 もし
 ★ ・・・と公表した時点で、この文の「わたし」という言葉は単数の一人称代名詞と言えます。
 ☆ という命題がただしいとしたら それは 次のようにくだんの一文を捉えた場合だと考えます。すなわち

   ・〔わたしは言う〕:《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?

 あるいは

   ・ 《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?:〔とわたしは考え表現する。みなさんは どうお考えであろうか?〕

 というように 文外の話し手をきちんと持ち出して捉える場合です。言いかえると 文表現にはその統括者としてつねに話し手がいます。この話し手は けっきょく《わたし》にほかなりません。
 すなわち 《聞き手としての相手やみなさん》との関係では そのワタシは 自称の代名詞だということになっています。そういう文法です。


 ですから この質問の問い求めようとするところは そのようないわゆる一人称代名詞として位置づけられているワタシが 果たして どういう基礎において成り立っているのか? これです。
 ワタシには どういう起源があるのか? です。



 文表現の統括者は つねに《話し手》です。そうでありしかも それがたとえば ぶらじゅろんぬなら ぶらじゅろんぬとして特定されるのは 果たしてワタシにとって固有の自己確認になるだろうか? このあたりに起源の問題がひそんでいるのではないか。と思いました。どうでしょう?

お礼日時:2012/07/16 16:30

「自我が幻想」であるにしても、言語は共同幻想によって成り立っているいる以上、他もまた「私」である事を否定できません。



また、自我成立において、記憶=過去の私(=異なる原理)の時系列化としての時間軸(宇宙膨張=物体の収縮=プランク定数の縮小)により、自我仮説(時間の流れ=記憶=過去=超光速=虚数)と時空仮説(空間の広がり=予測=未来=光速下=実数)の、潜在的認識可能性(感受表面=現在=光速=0)からの相補分化として認識(有限的存在性)が可能になっている以上、異なる自我=「私」の相対化は先入的要因だと言えます。

この回答への補足

 お礼欄のおぎない と言うよりは さらなるお尋ねです。

   量子は 自己同一性を持たない。

 と言えましょうか? 言いかえると

   量子なら 互いに交換が可能である。

 と。けれども 《にんげん》という存在については この理論は当てはまりません。当てはめてはいけないという志向性(心の伸び)が にんげんにはあります。

   ひとは 掛け替えのない存在である。

   ひとは おのおの《わたし》として 自己同一性を持つ。

   《わたしは わたしである》と言い そう認識しそう行動する
  社会的な動物である。
 
 というふうに言えると考えます。

 言いかえると 《自我》などという言葉は わざわざこの《人は自己同一性としてあり おのおの〈わたし〉として掛け替えのない存在である》という理論(観想)をくつがえそうとするマチガイだと考えます。
 自我という用語には 何の意味もない。これです。
 どうでしょう?

補足日時:2012/07/16 15:32
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この回答へのお礼

 ぷしゅてっくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 さらに質問が持たれましたので のべます。

 (あ) ★ 「自我が幻想」
 ☆ とは 質問趣旨では言っておりません。《中身がない。したがって 〈わたし〉という自然的かつ人為的な行為現象の中に 位置づけられない》のではないかと問うています。
 でも 趣旨説明の(6)に 《死語ではないか》というふうに触れていますので かつて《死語ではなかった》と見ていることになってしまうようです。
 言いかえると 《自我は いまでは 死語であり幻想である》と言ったことになるかと考え(つまりそう認めなければなりませんので) このように受け取られたまま 応答をつづけます。

 (い) ★ 言語は共同幻想によって成り立っている
 ☆ これが とんと腑に落ちません。
 もし仮りに《共同幻想》ということと《自我が幻想》というときの《幻想》とが同じだとすれば ことばはすべてが《幻想》として用いられている ということでしょうか?

 質問の趣旨は 《〈自我〉は幻想である》が 《〈わたし〉は 生活日常の中で主観においても社会的な共同主観においても 現実である》のではないか? と問うています。

 (う) ★ 「自我が幻想」であるにしても、言語は共同幻想によって成り立っているいる以上、他もまた「私」である事を否定できません。
 ☆ 《他もまた》の《他》が 《自我》のことだと受け取りますが そうだとしますと やはり上の(い)のお応えを繰り返すことになります。

 もし《現実》には 想像力の所産であるいわゆる虚構が マチガイなく無理もなく 入っているとすれば その《虚構》としての幻想であるとは 思われます。つまり 《自我》がです。
 つまりは まとめるならば 最大限の幅をもった概念として《わたし》が 現実を構成し――あるいは 《現実》は 《わたし》と対応し―― その《わたし》という現実の中に 虚構ないし幻想としての《自我》も含まれる。こういう見方になろうかと考えます。ですから そのとき《わたし》は包括概念であるからには
 ★ 他(* =自我)もまた「私」である事を否定できません。
 ☆ という命題は きわめてあいまいだと考えられます。《わたし》と《自我》とは 同じ次元において並び立つ概念ではないと考えるからです。
 この点に疑問がつきますので 補足要求をおこないます。

 (え) ★ 自我成立
 ☆ という主題も ですから仮りにそれがあるとすれば あくまで上位概念としての《わたし》の中での位置づけを経てからの問題だとなりませんか?

 (お)  ★ 記憶=過去の私(=異なる原理)の時系列化としての時間軸(宇宙膨張=物体の収縮=プランク定数の縮小)
 ☆ まづ 
 ★ 過去の私(=異なる原理)
 ☆ これが分かりません。《わたし》は 時間的な主体でありその動態であるから 生活態度(思想)が 過去と現在とでは異なる(異なりうる)ということでしょうか? 
 ただ 《異なる 原 理》というふうに規定されているのを見ると よく分かりません。言いかえると 人間存在とその行き方のことを 《原理》とまでは見ないのではないか? という問いがひとつ。もうひとつに 思想の変化発展を許容しつつ《わたし》は 現実である。こう思われるので その意味としては 《過去からの〈わたし〉が いまの〈わたし〉として現実をかたちづくっており――たしかに過去のマチガイについてはこれを揚げて棄てて来ているわけですが それはそれとして―― 同じひとつの存在でありその動態である》ということになります。
 したがってこの後段の分析は 質問趣旨から見ると 《わたし》なる現実における要素をとりわけ大事にして捉えようとしているとは言え いまのこの《わたし》との間合いの取り方には まだ腑に落ちるところがなかなか見い出されなかったのですが その点は 理解がまだ行き届いていないでしょうか?

 (か) ★ 自我成立において、記憶により・・・自我仮説と時空仮説の、潜在的認識可能性からの相補分化として認識が可能になっている
 ☆ わざとカッコ書きの部分を省略していますが まづこの表現について考えます。
 まづ
 ★ 認識が可能になっている
 ☆ のは何ですか?

 ★ ・・・になっている以上、異なる自我=「私」の相対化は先入的要因だと言えます。
 ☆ と続きますので そのようにあとに出て来る言葉が 《認識が可能になっている》もののことですか?
 つまりそれは 《異なる自我》のことでしょうか?

 もしそうだとしたら そうだとしても すでに前半の条件づけ(理由づけ)において 《自我成立》と言っていますよね? しかも 記憶をつうじて過去の思想を生きたわたしと いまの思想を生きるわたしとが異なっているということをも知ることが出来ている。だとしたら その条件節の中ですでに後半の帰結としての《異なる自我》の認識は可能になっているというその同じことを言っていませんか?

 (き) しかも その後半の命題は 《異なる自我》が
 ★ 「私」の相対化
 ☆ のことだと説明されています。つまり《みづからの存在を指し示すときの呼び方である〈わたし〉》において その《〈わたし〉の相対化》をしなくては 《わたし》は存在しえませんか? 
 もしこの相対化が是非とも必要だとしますと ではなぜそれが《異なる自我》であるのか? なぜわざわざ《わたし》とは別の《自我》という言葉を持ち出して来なければならないのか?
 《わたし》を そのワタシという言葉で指示したなら その言語習慣の中でほかの人と相い対するのですから そのときにはすでに自己(・自分・おのれ)へと回帰して来ており 《わたし》の相対化は出来ている。こうではありませんか?

 (く) 質問趣旨からいくらか外れるかも知れませんが ご回答への質問をつづけます。
 ★ 自我仮説と時空仮説
 ☆ とをなぜわざわざ分けなければいけませんか? どちらも《時空間を生きる〈わたし〉》の中に包まれてしまうのでは?

 時間の流れと空間の広がりとをなぜ――《わたし》において――分けなければいけないか?
 記憶をなぜ過去と未来とで別に扱わなければいけないか 《わたし》において?

 思想(生活態度とその動態)においてアヤマチをおかしうるにんげんとしての《わたし》が そのマチガイをも容れて(また揚棄して)生きるとき その記憶は すべての時空間としてのわが行為現象についての総合的な秩序作用であって 或る種の仕方で先験的に自然本性としてそなわっているのではないか?
 しかもその記憶からの《コトヅテ(言伝て)》に従うかどうかは 意志行為において人は促されており その意志行為として生きている。

 (け) つまり言いたいことは 《わたし》の相対化はあっても――自己同一性(わたしはわたしである)の確認としてのごとく わたしは一たんおのれの中に折れ返り ほかの人びととのあいだで それぞれの《おのれ・わたし》を捉え返すことはあっても―― そこにわざわざ
 ★ 自我
 ☆ というような別の言葉を持って来て認識せねばならない事態は ないのではないか? これです。
 ★ 自我仮説も時空仮説も
 ☆ 大きくは《わたし》の動態の中に取り込まれるに過ぎないのではないか?

 そうなれば 《にんげん》は一人前であって わざわざ別様に
 ★ 自我の成立
 ☆ をうんぬんすることはない。もしくは仮りに虚構として暫定的に必要であったとしたなら それも《わたし》の動態の確立の中にじゅうぶんそして無理なく含まれているということが分かった。こうではないか?


 よって 《自我》は 死語である。そして そう言うよりも 《〈わたし〉はある》でありそれでじゅうぶんであるから 要らない。
 このように問う問いであり その観点から ご回答内容についてお応えしました。どうでしょう?

お礼日時:2012/07/16 07:50

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