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くだらない質問ですが。
生活の中で、あり得るか、あり得ないか、と考えた時に、おそらく確率を考えると思うのですが、ちょっと疑問が。

例えば、サイコロの目。
1が出る確率は1/6ですね。これは可能性として、あり得る、と思います。
2回続けて1が出る確率は、1/36。これも、あり得る、でしょう。
では、1が100回続く確率は? ゼロではないですよね。でも、実際にはあり得ない、と思うのです。
更に言えば、1が1000000000・・・回続く確率もゼロではないですが、実際には、絶対あり得ない、と思うのです。

確率で考えると、全て、あり得る、ことになるのですが、実際には、あり得ない、じゃないですか? 現実的には。

しかし、実際に、あり得ない、と判断する基準て何かあるのでしょうか??

A 回答 (16件中1~10件)

頭の中で、確率を概算して、


ある程度以下だったら「現実にはあり得ない」
という判断をしているんでしょうねえ…。

概算ですが、1が100回続く確率は、1÷(78ケタの数)です。
この世に生まれた人間が、一日100回サイコロを振ったとしても、
試行できる回数はせいぜい16~17ケタの数でしかありません。
このくらい確率が低いと「現実にはぜったい無い」と言い切れると思います。

ではどのくらいが境目か…。
たとえば、これから一年のうちに交通事故に遭うことは、
「あり得る」うちに入るでしょう。これはだいたい数千~1万分の1の確率です。
宝くじ一等に当たる確率は「たぶん無いだろうけど、あるかもしれない」と思うでしょう。
これは交通事故より低く、数十万~100万分の1ぐらいです。
では、「隕石にぶつかって怪我をするかもしれない」と思うでしょうか?
これは「現実にはあり得ない」範囲にはいると思います。
しかし、実際に怪我をした人は存在するそうです。
(子供向けの本に書いてあった話で、裏は取れませんが、
日本でも民家を直撃した隕石があったことを考えれば、
怪我をした人がいても不思議ではありません)
この場合、確率は数億~数十億分の1になります。
とすると、100万~数億のあいだに、境目がありそうです。

別の方向から考えてみます。
言葉は、何らかの意味を持っています。
「現実的にはあり得ない」という言葉の意味は、たぶん、
「その可能性を考えて行動する必要はない」
ということではないでしょうか。
1万分の1くらいなら、可能性を考えなければいけないけど、
数億分の1なら、その可能性を考えたり、対処したりするためのコストは、
危険性を考えても引き合わないわけです。

これは危険性の種類によっても違ってくるでしょう。
最近、会話でやたらと「あり得ない」と言われますが、
かりにそう言って、事象Aがあったら切腹しなければならないという状況なら
そうは言わないでしょう。
結局はコストの問題になると思います。
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この回答へのお礼

なるほど!!!
私にもわかりやすく、明快な御回答ありがとうございます。
御回答から、私の判断としても、
1万分の1は、あり得る、
1億分の1は、あり得ない、
という結論になりそうです。
1億分の1をあり得ない、と考えて、もしあったとしても、あきらめがつく範疇ですね。

>「その可能性を考えて行動する必要はない」
ということではないでしょうか。
1万分の1くらいなら、可能性を考えなければいけないけど、
数億分の1なら、その可能性を考えたり、対処したりするためのコストは、
危険性を考えても引き合わないわけです。

ごもっともです。勉強になりました。
今後の人生の指標とさせて頂きます。

お礼日時:2004/01/30 12:23

この問題はご質問者が表題でおっしゃる通り「確率の問題ではありません」。



それは確率を基礎とし確率に関する考え方を知った上での心理学的なものあるいは実際行動的なものです。つまり、何らかの行動をするかしないかを合理的に考える為に確率があるのですし、その確率によって行動が変化するのが当然です。

「日常生活における無視して良い確率」というような話を読んだ覚えがあります。ただ、20年以上前に読んだ本ですから、はっきりと内容を覚えておりませんが、個人レベルにおいては1/100万以下の確率で生じる出来事は無視すべき、あるいはそれを基礎として行動してはならない、という内容がありました。例えば、空から隕石が落ちてきてそれに当たって死亡したり怪我をしたりする確率はおそらく数十億分の一以下でしょう。ですから、個人のレベルでそうなるかも知れないと心配しながら暮らすのは無用の心配ということになります。同様に日本では宝くじの一等の当選確率は100万分の1ですけれど、宝くじを1枚買ってその賞金をあてにして家を買うなどすれば笑われるだけでしょう。(もちろん確率的には「あり得る」ことですけれどね)

個人の日常生活においてこの1/100万の確率というのは目安となると思います。では、それよりもひとけた上の1/10万の確率はどうでしょうか。あるいは1/1万ならば・・それはそのことについてその人の感じる重要性次第でしょうし、期待値(その出来事が起こった時の利益または損害)次第のことであると思います。でも、1/10万程度の確率なら一応実際的にも「あり得る」と考えておく必要があるということです。

同じように交通事故によって死ぬ確率が1/1万であるという言葉にもトリックが含まれています。これはある年に事故に遭う確率ですから、人生80年とすればその間に事故に遭う確率はもっと高くなりますし、注意不注意によって事故を防いだり起こしやすくもなるのですから「事故はあり得る」として行動する方が確実に得です。

(なお、数字は忘れてしまいましたが、個人ではなく社会全体でも無視して良いという確率もありました。1/10兆以下ぐらいのけた違いに低い確率であったと思いますが、数字を確かめようがありませんのでこれは参考まで。)

また、余分なことですが、さいころで1が6回連続して出る確率も123456と順番に出る確率も、計算上まったく同じです(ルーレットなどでも同じこと)。またそのような結果がでている時に次にさいころを振って1が出る確率は常に1/6でしかありません。連続した試行回数に着目すればその回数が長くなればなるほどある特定の出方となる確率は低くなりますが、その試行1回1回の確率は変わりません。ちなみに、さいころの丁半を調べようとするとき、10回試行して、丁半が5回ずつになる確率は1/2よりも低くなります。

最後にもう一度書きますと、1/10の確率で起こることも1/100万で起こることも1/1兆あるいはそれ以下の確率であっても、言葉の正確な意味としてはすべて「あり得る」ことです。しかし、それぞれを同じ重さで考えることは合理的ではありません。

この回答への補足

この場をお借りしてご回答頂いた皆様へお礼を述べさせて頂きたいと思います。本当にありがとうございました。
こんなにたくさんのご回答を頂けて、うれしい限りです。
今回、良回答をつけさせて頂いた方は、全くの私見によるもので、それが正しいかどうかが別なのは、言うまでもありません。
皆様の貴重な御意見を元に、今後の指標を自分なりに見つけていきたいと思います。
重ねてありがとうございました!

補足日時:2004/02/01 00:05
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この回答へのお礼

いやはや、総括して頂いた様なご回答で、恐れ入ります。
私見を述べさせて頂ければ、おっしゃること全てごもっとも、です。
具体的な数字に至るまで、今回私が得た結論に合致します。ありがとうございました。

ただ、最後の、
>言葉の正確な意味としてはすべて「あり得る」ことです
とありますが、私はあえて、1億分の1ならば「あり得ない」こと、とさせて頂きたいと思います。

お礼日時:2004/01/31 23:58

下で超低確率はありえないとなっていますが・・・


過去にはルーレットの赤黒でドイツのバートホンブルクで51回連続で黒が出た、モンテカルロでは38回連続で赤が出たという記録が実際残っています。
*確率でいうと51回連続黒は2251兆7998億1368万5248分の1、38回連続赤は2748億7790万6944分の1です。

結論は#13の方の
>どのくらいの確率かを頭の中で判断して、一定数以下の数値だと思えるような場合は「あり得ない」と判断するのではないでしょうか? しかしその判断はあくまでも個人の判断なので人によって基準は違ってくると思います。
だと思います。あと物事でも基準が違ってくるのです。
そうでないと1000万分の1の宝くじの1等を狙って1万分の1の交通事故に当たらないと思っている人が多いことの説明がつきませんから(単に知らないだけかもしれませんが)
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この回答へのお礼

はぁ、博識ですね。
そのルーレットのお話からいうと、あり得ないことなどない!という感じですね。
しかし、その話が現実であっても、あり得ない、と思ってしまいます。
つまり、そういう低確率のものは、信じられない、という意味で、あり得ない、と言って良い気もします。

>1000万分の1の宝くじの1等を狙って1万分の1の交通事故に当たらないと思っている人が多いこと

これは、知らないだけ、というのと、
宝くじには当たりたい、交通事故には遭いたくない、
ということで、本心では、
宝くじには当たらないけど、交通事故には遭うかも、
と思っているんじゃないでしょうかね?

ただ、微妙なところは個人の基準はやはり違うでしょうね。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 23:30

実感がつかめない数字になったら「有り得ない」という言葉が出るんではないでしょうか。


経験上ふまえて、サイコロ二、三回連続同じ数を出した経験なら誰にも少しはあるはず、そしたら実感は掴めるので「有り得るね」と言えるけれども、自然に振って100回連続同じ数を出した事って誰にもないと思うのです。 そんな実感の湧かない数、「有り得ない」と思いませんか?

という訳で、判断基準はその人の経験値であると思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

>判断基準はその人の経験値である

明確な基準は、やはりその人の経験値でしょうね。
ただ、大雑把な範囲で、人の感覚としての分岐点がある程度見えるのではないかと思うのです。
それが今回が感じたものでした。
つまり、誰でも、100回連続はあり得ない、と思うでしょう。その辺のボーダーラインが、あいまいながらもあるのではないか、と言うことです。

お礼日時:2004/01/31 23:18

あり得る-あり得ないの基準(根拠)を何に置くかだと思います。


数学的根拠であれば確率的に“0”でない限りはあり得ると言えると思います。
しかし現実の世界では#7さんの言うように、どのくらいの確率かを頭の中で判断して、一定数以下の数値だと思えるような場合は「あり得ない」と判断するのではないでしょうか?
しかしその判断はあくまでも個人の判断なので人によって基準は違ってくると思います。

よく常識といいますが、いったい常識って何だろうというのと同じです。おおよそ皆が思っているのと共通の認識が常識、つまり一般人のおおよその基準、規範的行為などだと思いますが、これだって微妙なラインでは人によって判断基準が違いますよね。たとえば日本では家の中で靴を脱ぐのが常識ですが、アメリカでは靴は履いたままですよね。この常識とは生活習慣とも関係してきますし、環境によっても違いますよね。

あり得る-あり得ないというのもここの判断基準ではないでしょうか?
ちなみに年末ジャンボの1等当選確率は数百万分の1だそうですが、これは私にとって「私が宝くじに当選することはあり得ないこと」です。

しかし例えば私が人気グラビアアイドルと結婚する可能性は、実際には何億分の1もあるかないかだとは思うのですが、これは私にとっては「あり得ること」ですよ(笑)。
何を対象にするのかによっても違うし、個人によっても違うと思います。
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この回答へのお礼

>人によって基準は違ってくる
>常識とは生活習慣とも関係してきますし、環境によっても違いますよね

そうですね。でも、人の感覚として、ある程度共通性を見出せることもあると思います。今回の質問は、そういうところを知りたいと思ったのです。
あくまで、私感ですが、今回得られたご回答の中にそういうものが含まれている気がします。

>私にとって「私が宝くじに当選することはあり得ないこと」

私にはあり得ることですね。(笑)

>人気グラビアアイドルと結婚する可能性は、私にとっては「あり得ること」です

私にはあり得ないですね。(笑)
これは、本人にそういう意思がないとあり得ませんから、ちょっと本質が違いますね。

まぁ、これらの点では、私と感覚が違いますが、でも、それは例外的な部分であり、大抵の感覚は共通性があると思いますよ。たぶん・・・。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 23:12

再投稿です。



ひとつの行動に対して複数の結果が「あり得る」という恐怖から逃れるために
人類は「確率」という言葉を作り出し、
さらにそれを曖昧にするために「あり得ない」という言葉も生み出した。

かくして人類は「あり得ない事もあり得る」という
新たな事象に対して、さらに大きな恐怖を持つ事になってしまった。
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この回答へのお礼

すいません。
再度のご回答、たいへんありがたいのですが、高尚すぎて、私には理解しにくいです。
でも、ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 23:01

ANo.#4 の hirorin2004 です。



> 体験に基づくその人の判断ですか。
> とすると、人によっては1が100回続く体験をした人もいるかも?ということでしょうか。いない気がするのは私の経験が乏しいからでしょうか。

「1が100回続く」に匹敵すると感じる体験は沢山あると思います。「奇遇だ」とか「偶然だ」とか「奇跡だ」とか、数学的な予測をはるかに超えた現実を目の当たりにする事はあちらこちらで聞きますし、自分自身もそういう驚きを体験した事もあります。

で、数学的には可能性がゼロじゃない限り「あり得る」と言い切っていいと思います。
「100回続く体験」を「に匹敵すると感じる体験」と続けたのは理由があります。g_g さんもご質問で「確率の問題じゃないと思うけど。」とおっしゃっているように今回のテーマは数学ではないからです。必ずしも100回体験しなければ語れないと言っているわけではありません。もちろん「私の経験が乏しいから」でもありません。そして、「実際にはあり得ない、じゃないですか?」とおっしゃっているのは、私は g_g さんの捉え方だと受け取っています。「そうだよね」と思う人も「ちがうよ」と思う人も居るでしょう。私はどちらかというと前者です。ご質問がこれを前提としてスタートしているのですが、ご質問の回答としてはそこから「あり得るかあり得ないか」と掘り返すものになってきますよねぇ。ご質問の中で数学と、そうじゃない部分が混じって整頓されていないように感じます。切り分けて考えて行ったらいいと思います。

数学って元々は、自然の法則を人間なりに理解しようとして生まれた学問なんじゃないかなと思ってるんですけど。しかし現実には「数学的にはあり得ない体験」なんて毎日してるんじゃないかと思います。数学を超えた出来事が毎日起こっています。例えば身近なところでは、いくらシミュレーションをしても天気予報が100%当たることなんてありませんでしたし。人は自然に対して「もしかしたら意図されている何かがある」とか「そこに叡智がある」とどこかで感じ取ってると思います。そして人間の作った数学と何気なく比較していると思います。信念を持って研究している科学者、宗教を持っている人、何かに打ち込んでいる人、そういう人たちはまだ体験しなくても信じている事が「あり得る」と思っているからできるんですよね。あ~、信じる事はイコール「あり得る」と思っている事ですね。
とどのつまり「あり得るかあり得ないか」の判断基準は人それぞれなんじゃないでしょうか。

ここに書き込んでいらっしゃる回答者の方々の中で g_g さんの共感を一番呼んだ方が良回答者になるでしょうけれど、その方が万人を説得できるかと言ったらそうじゃないですよね。回答者は100人いたら回答は100人あり、どれも正しい事になります。こんな風に話題を提供して下さった g_g さんにちょっと感謝しています。
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。
おかげ様でご意見の内容をよく理解出来ました。

>ご質問の中で数学と、そうじゃない部分が混じって整頓されていないように感じます

その通りですね! 確率じゃないといいながらも、確率に頼っているのですよね。根本的に頭から数学が離れていないですね。

>判断基準は人それぞれなんじゃないでしょうか

結局はそうなるでしょう。ただ、大抵の方に当てはまる判断基準というものがあるのではないか、というのが今回の質問のきっかけです。

>g_g さんの共感を一番呼んだ方が良回答者になるでしょう
>回答者は100人いたら回答は100人あり、どれも正しい事

そうかもしれません。万人に当てはまる真理ではないでしょうね。
しかし、今回頂いたご回答の方々のご意見は、真理とはいえなくても、多くの方にも当てはまるものではないかと感じています。

興味深いご回答をありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 22:58

これは哲学の研究室でかなり議論した問題です.



まず,最初に「1が出る確率は1/6」としているのがポイントです.なぜ,そう言えるのでしょうか.

サイコロの形状が正しく立方体なら1/6と言えますか?内部の密度にかたよりがないと保証できますか?

結局,それを証明することってできないんですよ.ではどうして1/6と考えるのか・・・

それは,「無限にサイコロを振り続けたとき,1の出る確率が次第に1/6に近づいていく」ということなんです.

例えば,1が100回続けて出たとします.確率的には確かにありえることですが,上記の定義からすると明らかにこのサイコロは不自然ですね.「あり得ない」と判定してトリックを探すのが賢明でしょう.

また,別の例を出します.例えば,「コインの表を上にして置いたとき,表が出る確率はいくつですか?」・・・

常識的には1ですよね.でも,1億人にこの作業をやらせたとき,1人も間違えないと言い切れますか?必ず,間違える人が出てくると思います.

このように,我々の行動には不確定な「ふらつき」の要素が必ず入ってきますので,「あり得ない」と言い切ることもできないんです.

よって,あり得る,あり得ないの判定はできないんです.強いて言うならば,「全てのことは起こりうるが,起こりにくいことは起こらない」と言えます.

無理矢理サイコロのケースで判定するならば,9回連続で1が出る確率は約10億分の1ですが,我々の日常生活の中で10億は無限に近い価値観だと思いますので,「9回連続で1が出ることは起こらない」と言ってしまっていいと思います.

万一,出てしまった場合,「起こりにくいことが起こった」と考えるよりも,「確率的にサイコロのトリックを疑うべきである」と考えるんですね.
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この回答へのお礼

哲学ですか。追求するとそこまで考えねばならない問題なのでしょうね。
私は単純に自分の生活の中での判断材料を探しているだけですが。

自分の人生の中で、不確定要素をいかに判断するかの指標とでもいいますか。

1が9回連続で出る確率は10億分の1ですか。これまでの御回答から1億分の1は、あり得ない、としましたので、これは起こらない事、と判断出来ますね。
9回以前に起こらない事と判断して、トリックを疑いますね。

ありとうございました。

お礼日時:2004/01/30 12:39

最近、詭弁ばかり弄しているので、どこへ行ってもつまはじきです。



質問者様と、私はまったく反対の立場をとります。そして結論はあるいは一致するのです。確率というものへの疑問。

1が100回続く確率はゼロではなく、実際にありえます。
1が1兆の1兆倍の1兆倍続く確率は、実際に絶対にありえます。
では、絶対ありえない確率は?

サイコロを振る限りは何かの目が出てしまう。だからどんな事態であろうと、それは起こり得るというしかない。絶対あり得ないということがはじめから想定されていないのです。

大数の法則を導入することによって、確率は矛盾をはらんでしまったのではないか、というのがボクの疑問(あるいは質問者様と一致する部分)。

ただ、これはボクの単なる思いつきで、悲しいかなバックボーンになるようなものを何も持ちあわせていないのです。自分の考えに妥当性があるかどうかもわからない。・・・・
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この回答へのお礼

>サイコロを振る限りは何かの目が出てしまう。だからどんな事態であろうと、それは起こり得るというしかない。絶対あり得ないということがはじめから想定されていないのです。

そういう御説明ですと、確かに、あり得る、という気がしますね。
それは論理的な考えでは、そういう結論になり、それは正しいと思います。
でも、私的な判断としては、やはりあり得ない、と考える部分があると思うのです。

でも、納得の出来る御回答です。ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/30 12:31

前に統計学の偉い先生が『1万分の1より低い確率だと「滅多にない」と言える』と言ってました。



『「万が一」という言葉があるけど、本当にそれが万が一だ』とかね。

ちなみに、1万分の1というと、ある人が、1年間で交通事故で死ぬ確率,がそのくらいらしいです。
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この回答へのお礼

具体的な御回答ありがとうございます。
おっしゃる通り、万が一、が判断の基準になりそうです。
でも、1万分の1は、あり得る、と考えたいと思います。

>ある人が、1年間で交通事故で死ぬ確率

これはあり得る、と思いますので。

お礼日時:2004/01/30 12:26

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