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私の質問に興味をお持ち頂きありがとうございます!
いきなりですが、以下はジグムント・バウマン『コミュニティ』からの引用です。

・・・「アイデンティティ」は今日人々の間で話題に上るし、それをめぐるゲームが人々の間でごく日常的に演じられてもいるが、それが人々の注意を引いたり情熱を生んだりするのは、コミュニティの代用品であるからである。すなわちそれは、「生まれながらの故郷」と(人々の間で)伝えられるものの代用品であり、外の風はいかに冷たかろうとも温かさを保つサークルの代用品なのである・・・

バウマンは、アイデンティティを「不安に対する防壁」に喩え、その防壁が完成をみるのは不可能だと示唆します。

「みなが移ったり動いたりし、たしかなものが何もない世界では、人間は、自分が確実かつ永遠に属することができる集団を見つけようとする」とはエリック・ホブズボームの言葉ですが、さて私たちが完全に不安を拭い去るのは、バウマンの指摘のように不可能なのでしょうか?
それともこんな事を考えてるから不安になってくるのかな?(笑)

面白い回答をお待ちしています!

A 回答 (9件)

 こう言った話題はとても興味あります!あなたのように文献を読んだりしているわけではないのであまり理論的な意見ではないかも知れませんが、私の意見を言わせて頂きます。



最初に不安は取り去る事ができるか、(1)できないし/(2)しなくてもいいと思います。

まず質問者様が言う「不安」というのは様々なものから発生しますが、総じて「自分に理解できないもの」が源だと私は思っています。未来のこと、初対面の人と話すこと、誰かと対立すること。どれも自分には予測できない、相手を理解できないことが不安につながります。


(1)つまり未知な要素がある限り、不安は解消されません。完全な安心を得るためには完全に自分と同一なである事が求められ、、それは不可能です。エリック氏の言う同じ団体に所属にしても、その団体は一つの認識を共有しているにすぎず、同一ではありません。私はAKBには詳しくありませんが、同じAKBファンクラブに所属しても突然クラブ内の友達と自分の好きなメンバーが違ったらきっと「不安」でしょう。

(2)未知というのは不安の源であると同時に人を動かす原動力です。知らないから知りたい、知りたいから行動する。私は初対面の人と話すときは凄く緊張しますが、それが楽しくもあります。それと釣り合うだけの安心がある限り、不安である事は結構楽しいものだと思います。

長々と月並みな回答ですみませんが、これで終わりです。ありがとうございました!

追記:
ジグムント・バウマン氏の引用について。
identityは個性・周囲に影響されない一つのもの というのが私の認識ですが、これは「変わらないと知っている、理解している」から安心できるのだと思います。
「あいつらはよくわからないことを言ってるけど(←不安) VS 自分はこう思ってる(←安心)」という意味での「防壁」なんだと解釈したのですが、それで正しいでしょうか?

この回答への補足

バウマンはコミュニタリアンの学者ですから、彼の考え方のベースには「人が幸福になるには温かい人間関係が不可欠だ」という前提があります。
その上で、「人付き合いはわずらわしい、でもひとりぼっちは寂しい…」というアイデンティティの矛盾を論じています。

補足日時:2012/08/18 09:55
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
不安だからこそ好奇心が刺激されるというのはその通りですね…
考えてみれば、全てが予想通りの人生なんてつまらなすぎですね
vargodogさんのように、私も不安を楽しめるようになりたいと思います!

バウマンのアイデンティティの定義ですが、vargodogさんの認識も間違いないと思います
「も」というのは、彼の著作を色々読んでみるとわかるのですが、バウマンはアイデンティティを「自由と安心の間で葛藤する事」と定義しているようなのです
『コミュニティ』によれば、自由を得るには安心を捨てねばならず、安心を得るには自由を捨てねばならない、だからアイデンティティというのは永遠の未完のプロジェクトだ、という事らしいです!

お礼日時:2012/08/18 09:49

被害者の当事者意識への固執からの解脱…。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7652541.html?rel=inn …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2012/08/20 01:20

>不安を拭い去る事は可能か




 コミュニティの完全な独裁者として君臨することを自らのアイデンティティとすること。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
すみません。もう少し詳しくあなたのお話を聞きたいです!

お礼日時:2012/08/19 22:15

『覚悟を得るにはある程度衝撃的な経験が必要という事になるのでしょうか…』と言う質問を頂きましたので、もう一回書いて見たいと思います。




ある程度衝撃的な経験が必要と云う事ですが、そのような事は少ないと思います。むしろ、日常的な出来事や、作業の時に『心的な変化は訪れると思います。』

その準備の為に私の場合は鈴木大拙博士の本を読んでいました、貴方にも有効と思いますのでお奨めします。

禅の中にその時の事が沢山残っています。禅の歴史は『見性体験の歴史』です。どういった性格の人がどういった成り行きで見性したのか、やその時の言葉がどういった性質のものかという具合です。

見性する条件は『我』が弱り切る事です、或は、『我』が分別を捨てる時です。この意味は『感じた事に対して、良し悪しをつけないで、只感じている状態を作る事です。』

心が感じた内容に、自我意識が口を差し挟まない事です。好きと嫌いで物事を判断している癖から離れる事が大事です。その様を禅宗の三祖、僧璨の信心銘に書いています。参考のために載せておきます。

「信心銘」 僧璨鑑智禅師



大いなる道は難しくない

選り好みをせず

愛することも憎むこともなければ

全てははっきりと明らかになる



だがわずかでも分別をすれば

天と地は遙かに隔たる

真理を実現したければ

賛成や反対の見解を抱いてはならない




一つを嫌い一つを好むことは

心の病だ

物事の本質を理解しないとき

心の平和は徒に乱される



道は大いなる虚空のように完全で

欠けたところも、余分なところもない

ただ取捨選択するために

物事の本質を見極められないだけだ




外界に巻き込まれてはならない

空という概念にもとらわれてはならない

一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい

そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る




心の活動を止めようと努力しても

その努力がさらなる活動をもたらす

対極の一方を選んでとどまるかぎり

一なるものを知ることはできない




一なるものを知らなければ

静動、正否ともにその自由な働きを失う

物事の現実性を否定すればその現実性を失い

空の概念にしがみつけば空の原理を見失う




話せば話すほど、考えれば考えるほど

ますます真理から遠ざかるばかり

話すことも考えることもやめなさい

そうすれば知り得ないものは何もない




根源に帰すれば本質を会得する

だが現れを追いかければ源を見失ってしまう

一瞬にして悟れば

現れも空も、ともに超越される




空の世界に起こる変転変化を

無知ゆえに人は実在と呼ぶ

真理を追い求めてはならない

ただ相対的な見方をやめなさい




二元的な分別にとらわれて

現れを追ってはならない

わずかでも是非を区別すれば

心の本質は失われてしまう




全ての二元対立は一元から生じるが

その一元さえ執着してはならない

心が生じなければ

世界が背くことはない

何も背くことがなければ

すべてはあるがままだ




分別心が起こらなければ、心は存在をやめる

主体である心が消え去れば、対象も消え去るように

想いの対象が消えれば、思う主体も消え去る




物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる

心(主体)は物事(対象)が在るためにそのように在る

その二つの相関関係を理解しなさい

その根底にある実在は一つの空なのだ



この空は相対を排斥せず

すべての存在を差別のまま包みこむ

粗雑と精妙を区別せずにいなさい

そうすれば偏見に陥ることはない




大いなる道に生きるとは

易しくも難しくもない

だが視野の狭い人は恐れ疑い

急げば急ぐほど遅れてしまう




真理に執着すれば度を失い

悟りという概念にさえ囚われて道に迷う

すべてを放てば自然となり

来ることも去ることもなくなる




あるがままにまかせなさい

そうすれば悠々自適に生きていける

想いを働かせれば、真理は隠され

想いを止めれば、暗く澱んでしまう




有念も無念も徒に精神を疲れさすばかり

そのどちらも好んでも避けてもならない

一なるものを求めるなら

感覚や思考さえ嫌ってはならない




感覚や思考を完全に受け入れることは

真の悟りと同じなのだ

賢者は目的を求めて努力しない

愚者は目的を求めるために己を縛る




法(存在、現象)は一つであって多数ではない

区別は無知の愛着から生じる

心をもって真理を求めることは

最大の過ちだ




迷えば安心や不安が生じ

悟れば好きも嫌いもなくなる

すべての二元対立は

自己中心の分別から生じる




それらは夢まぼろし、空中の花

つかもうとするだけ愚かなこと

得も失も、是も非も

すべて一度に放り出してしまえ



もし心眼が眠らなければ

すべての夢は自然に止む

心が分別をしなければ

存在は一なるものとしてあるがままにある




この深遠な神秘を理解すれば

すべてのもつれは解きほどかれる

千差万別の存在が平等に見られれば

あるがままの自然の姿に帰りつく




この原因も関係性もない状態では

比較も類比もできない

動を静と見なし、静の中に動を見なさい

すると動も静も消え去る



二元性が存在しなければ

一なるものも在りえない

この究極の境地には

どんな法も描写もあてはまらない




道と一つになった平等な心に

自己中心的な計らいはない

疑いも恐れも消え

真理を信頼して生きるのだ



束縛を一撃で絶ち切り自由になれば

印象はとどまらず、記憶すべきこともない

すべては空、明らかにして自ずと輝き

心を用いることもない




想念、感情、知識で推し量れない

このあるがままの世界には

自己もなければ他己もない




この実在と調和の内にあるには

ただ「不二」と言うがいい

この「不二」の中ですべては等しく

すべては包みこまれる



世界中の賢者たちは

この根源的真理を会得している

真理は時を超え

絶対なる今の一念は、そのままで永遠なのだ



ここも空、そこも空

だが無限の宇宙は常にあなたの目の前に在る



極大と極小は異ならない

境界を忘れ去り、区別を消し去れば

存在も非存在も同じこと



そうでなけらば真理とはいえず

守るべき価値もない



すべては一つ

一つはすべてだ

このように悟るなら

不完全を思い煩うこともない



この真理を信頼し生きることが不二の道である

不二と信頼は一体なのだから




道は言語に絶している

そこには昨日も明日も今日もないのだ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
非常に共通深い回答でした。
禅ですか…近いうちに体験してみます。
善悪を超越するというのは、一見無茶苦茶なようで実はかなり倫理的な行為だと思います。
寛容になるという事でしょうから。
もちろん善悪を超越すると言っても限度はあるのでしょうが、この言葉を頭の片隅には置いておこうと思いました。

お礼日時:2012/08/19 22:20

興味がある、問い掛けですので参加させて頂きます。

バウマンと言う人と、その主張する内容は知りませんが、『アイデンティティ』の意味を、根源的な解釈方法をするなら『私は何者か?が、分る』=『人類は何処から来て何処に行くのかが分る』と言う意味になると感じます。

もっとうがった見方をするなら、『自分が不安になる原因が分る』と云う事になると思いますので、『不安を拭い去る事は可能か ?』と言う問い掛けの答えはyesになると思います。

バウマンは、アイデンティティを「不安に対する防壁」と云う事になるなら、その防壁とは『防衛機制が働く』と言う意味になると感じます。

不安に対して身構えるという意味になるからです。そういう風に身構える場合に『不安』はもっと大きくなって『恐怖になる』と思います。

パニック障害と言うものがありますが、この原因は「不安に対して防壁を張る場合です。」不安を回避しようとして防衛機制が働く事によって、『頭の中が、不安を回避する事に、一杯一杯になってしまって、現実的な対応が出来なくなってしまう現象です。』

パニック障害が治った場合は、不安に対する防衛機制が働かなくなる場合です。言い換えるなら、「不安に対する防壁」を取り払う状態です。

言葉にするなら、地獄に入る事を恐れなくなる場合です。逆説的な言い方をするなら『天国を求めなくなる場合です。』

「不安に対する防壁」は、言葉で著すなら、『小さな不安でさえも避けようとして、不安を受け入れないようにして、天国を求めている事』を意味します。

話を判りやすくするために、『死に対する不安や恐怖』と言う事で話を進めたいと思います。

死を恐がる、或は死にたいして不安が湧き上がる場合を想定します。この原因は『現状を受け入れられない事』を意味します。

この逆に『死に対する不安や恐怖を感じないでいられる場合』は、自分の全てを受け入れる事が出来た場合です。絶対肯定と言う足場に立つ場合です。

この意味は『自分自身を知る』と言う意味になります、禅における見性体験です。悟りを開くという言い方もあります。

この意味は、自身が『死を恐がっていた理由が、自身の中の、命の働きとしての自分自身を恐れていた事が分るからです。』

人間の脳内(心の中)には『二つ意識がある事を知る』体験が見性すると言う意味です。

この脳内に二つの意識が存在している事を、脳の血管が破裂した体験から、味わっている脳科学者の動画が参考になると思いますので載せておきます。


URL:


自分で自分を怖がっている事を、仏教では『無明』と表現しています。自分自身を知る事によって『死でさえ畏れなくなる』事を、生死の問題が解決すると言って、禅宗では『見性』する事に、専心しているようです。

自分自身を知る事を、ソクラテスは『汝自身を知れ!』と叱咤しています。本当の意味において、『アイデンティティが、確立する。』と言う意味になると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
覚悟を得るにはある程度衝撃的な経験が必要という事になるのでしょうか…

お礼日時:2012/08/19 10:21

不安をぬぐい去ることは可能だと思います。



不安はどこからきているのか明らかにして対応すれば、不安は消えるからです。

不安の多くは、「知らない」「分からない」「対応が見つからない」ですから
知ること、理解すること、対応策を見つけ出すこと(相談含む)で
一つ一つ確実に潰していけば、不安は拭い去られます。


それでも不安が出なくなることは無いと思います。
自己の未熟さへの警告ですから、まったく出なくなる方が怖いですね。

自己成長の為の糧が不安だと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2012/08/19 10:18

[バウマンは、アイデンティティを「不安に対する防壁」に喩え、その防壁が完成をみるのは不可能だと示唆します。

]
○ これ四文字熟語で「諸行無常」のことですね。あるいは、鴨長明の『方丈記』「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず・・」のほうがもっと詩的で深淵ですね。
つまり、この世ではどのようなものにすがっても永遠に存在するものは何もないので、不安を解消することはできませんという意味ですね。肉体生命に依拠すればその通りですね。
この世にすがりついて肉体の死後も冷凍保存して、いつか医学が進歩すれば生き返ると信じて実践する人もいますね。電気が止まれば腐ってなくなってしまいますがね。
まあ、バウマンの考える通りですね。
私には一切の不安はありません。その理由は生まれる前と、何年か後に訪れる死後の世界でも私は私であることを知っているからですね。これは「諸行無常」「諸法無我」の先の「涅槃寂静」という四文字熟語になりますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も、「私は私」と強く感じられるようになれればと思いました!

お礼日時:2012/08/18 09:34

 こんにちは。



 お尋ねしますが
 ★ 不安を拭い去る事は可能か
 ☆ ということは 《可能か可能でないか》を問うておられましょうか?

 可能ではありません。
 ですが 問題は その克服なのではないのですか?
 
 たとえば根拠を われわれは つい 求めます。なにごとにも。
 ですが 移ろいゆかざるを得ない経験世界のものごとに どうして根拠があるのでしょう。
 あるいは その根拠を求めて その認識は出来るかも知れません。知識は得られるでしょう。
 でもそれも じつは移ろいゆくものですよね。
 
 ですから 不安は次から次へと起こりますから 拭い去ることは出来ないでしょう。

 ただし その克服は可能です。
 《無根拠》に身をゆだねてみてください。
 根拠は 確乎としたものはないだから 開き直りです。
 無根拠が 決め手です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
無根拠に身を委ねる。わかりますよ。
でもそれは僕がもっと年をとってからがいいです…(笑)

お礼日時:2012/08/18 09:32

不可能ですね。


よくも悪くも人間の生まれ持った感情です。
ある方が自然です。
問題は不安に向き合って払拭することですが、
払拭するということは不安が沸いてくるから
払拭するわけです。
なのでそもそも論、不安は「あります」。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2012/08/18 09:30

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