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例えば「隣人を愛せ」という教えは神様を持ち出さなくても理解は可能ではないでしょうか。
宗教から神を除けば哲学的な教義部分だけが残り、それに関しては合理性や整合性云々を意見しあうことが可能なのではないかと思われます。
なまじその部分と神とが一体化しているがために教義の否定が神の否定につながるのではないでしょうか。
そういう意味で多神教はうまくその問題を回避できているように思います。

始まりは便宜上神という概念が必要だったにしろ、これからは神様なしでもやっていけるのではないでしょうか。

A 回答 (9件)

同感です。



神が出てこない仏教や道教がこの世の中心となれば、キリスト教原理主義者がイスラム教原理主義者を攻撃し、イスラム教原理主義者が自爆テロで報復する様な世界はかわること間違えなし。

仏教と道教で人類はみな平和になります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

神のために死んだのか、信念のために死んだのか
どちらにしても神と信念はイコールのようです。

お礼日時:2012/09/17 22:15

No.5です



>>> No.5 お礼欄
包括的といっても結局はどちらが上かということですよね。
神を放棄すればその争いは意味がなくなりますね。
<<<

そういった意味です。

リンク先を見ていただければお判りかとは存じますが、

1.なにがしかの「思い」を共有する集団がいれば、その思いの方向に、シンボル的・モニュメント的な「何か」を想定するものでしょう。
全人類が一斉に「既存の神」を放棄したとしても、上述のように、人が人である限り、共に生きる以上、集団の名称とか旗とか紋章とかが、シンボルやモニュメントとして集団の規約とともに生み出されるでしょう。
2.モニュメントないしシンボルが具体的な「物」であった場合、その「物」を通した向こう側に、元来の「思い」をかなえてくれるような「形而上学的な存在」を求めることになるでしょう。
「形而上学的な存在」は実在の有無とは無関係で、人が知的な創造力・想像力を有する限り生み出されうる仮想的な存在で十分なわけです。

人が希望や願いを将来にわたって思い描き続けるかぎり、そうして、それが一定の集団内部で共有可能である限り、そこに神概念は生み出され続けると言うことです。

集団が法人として活動する場合の法人概念と等価です。
構成員が法人の代表を通して、なにがしかの思いを実践する場合、その法人代表は個人ではなく、実在しないけれど存在する「形而上学的な法人」を具現化しているわけです。そこに入れ替わり立ち替わり交代しうる「個人」を越えた実在を求めようとするなら、それこそが神概念に通じるわけです。

このあたり、「サンタさん」はどうして存続し続けるのか?といったことと同じことになると思います。

よろしければ、下記を参照願います。
クリスマスのジレンマ?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6212220.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

問題はシンボルが争いのもとになるということですね。

お礼日時:2012/09/17 22:13

道徳とか倫理とかマナーとか、拘束力がある法律なんかが、神を切り離した「哲学的な教義部分」に該当すると思います。



多くの国では政教分離によって実現されています。

かつて不合理性の多い宗教が社会のすべてを決めていた時代がありましたが、神官の占いや神のお告げに社会の運命が左右されるという問題や、多民族国家では異なる宗教がぶつかりあって統治が難しいといったいろいろな問題があったからです。


しかし、政教分離政策がとられ科学によって自然のさまざまな現象が解明されてもなお、神様を信じ救いを求める人たちはたくさんいます。

科学や社会システムがどれほど発展しても、万人が神様を必要としなくなるほど世界から不安が取り除かれることな無いのだと思います。


神仏を排除しようという試みは共産主義国家において行われています。排除した側は人民を幻想にすぎない宗教から解放しのだたと言いますが、排除された側は弾圧されたと言います。

神仏がこれらの弾圧から信者を守っていない(少なくとも現世では)ことが事実である一方で、宗教を必要としない理想であるはずの社会システムが途轍もない数の人間を虐殺したことも事実です。

ソビエトの宗教に対する施策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93% …

中国のチベットに対する施策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99% …


現代の日本や中国などには特定の宗教を信じない人たちが多くいます。
それはそれで人生が成立しているわけだから(問題が無いとはいえないけど)、神様を信じない人は信じなくていいと思いますが、信じる人に向かってまであえて「これからは神様なしでやっていこう」という必要はないでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は宗教はそのままに、神様だけ排除しようと考えたのですが虫がいいですかね。

お礼日時:2012/09/15 21:50

”「隣人を愛せ」という教えは神様を持ち出さなくても理解は可能ではないでしょうか”


         ↑
理解は可能でしょう。しかし、お前にその資格があるのか
と言われたらどうしましょう。
人間には必ず欠点があります。
隣人を愛せよ、という主体は、神を持ち出さないとそれは人間だ
ということになります。
その人間は隣人を愛することが出来ているのでしょうか。
「お前、そんなきれい事いうなら、まず自分でやってみろ」
と言われて、反論できなくなる人が多いのではないですか。

更に、何故隣人を愛さねばならぬのだ、と聞かれたらどう答えます。
その方がお互いに幸福だろう。
おれは幸福など望まない。
それに幸福が何故良いのか、論証してみてくれ、と
言われたらどうします。
何故人を殺してはいけないのかを理論的に説明できないのと同じ問題に
行き着きます。

こういう問題があるので、神を持ち出す必要が出てくるのです。
お前にその資格が・・神様だからあるな・・・。
なぜ隣人を愛さねばならぬのだ。
神様がそう定めたのだぞ。文句など言えるか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そういうひねた方々もいらっしゃるとは思いますが多くの人は同意するはずです。
万人を説得する必要は必ずしもないと思われます。

お礼日時:2012/09/15 21:48

一神教での神概念は、他者との関係にあるのではなく、自己の確立(他者・外部からの区別、独立)に根ざしているように考えています。



旧約聖書における「動物に対する人間の優位性の物語」に、その典型が見られるでしょう。

多神教的な立場と、一神教的な立場は、どちらか一方が他方を包括的に論じることができるように見えます。多神教の一つに一神教が含まれるとか、多神教を統括する一神教があるとか。

そういった争いを避ける手だてとして「神を放棄」と考えておられるのであれば、いかがなものでしょうか?

そういったことについて、私も色々と考えたことがあります。

神様という概念は、人類が共に生きていこうとするときに生じるものなのかもしれません。
人が集まって「国」ができたとき、「国旗」や「国家」といったシンボルやモニュメントが形成されるのと同じことなのかも知れません。。。

神様のお話。。。
http://jinen.exblog.jp/8750004/

千の風になって。。。モニュメントの真意。。。切断された情を結びつけるもの。。。
http://jinen.exblog.jp/6918801/

私と境界と宗教と。。。3。。。だまし絵との相関。。。
http://jinen.exblog.jp/3873264/
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

包括的といっても結局はどちらが上かということですよね。
神を放棄すればその争いは意味がなくなりますね。

お礼日時:2012/09/15 21:46

荒れそうで、


あまりこういう話題はしたくないのですが、

戦士や武士に仏教をひろめるときに
戦士や武士の戦いをどう正当化したのか気になるんです。

仏教には殺生戒があります。

戦士や武士に仏の教えを伝えるときに
戦士や武士は救われない。

では普及しない気がするのですがどうなんでしょうか…。

倫理を考える上でもこういう話が
取り上げられているを私は知らないので

問題提起のためにも回答してみました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が思うに戦士や武士のそれは仕事であって殺生ではないという認識なんじゃないですかね。

お礼日時:2012/09/14 19:13

『絶対神』なんて概念を入れるからいけないのでしょう。


あれは「おじちゃんに怒られるから畑の作物取っちゃダメよ」って子供を諭すようなものです。
おじちゃんなんて持ち出す前に、社会通念として勝手に人の財産に手を出してはいけないと教えるべきですね。
そこはあなたの仰る通りです。


でもね。通念とかモラルとかってのは馬鹿には理解できないんですよ。論理としては単純な3段論法ですら理解できなかったりするんですから、『情けは人のためならず』なんて回りくどい概念では納得しない。「絶対そうとは限らないじゃないか」って詭弁を出して、自分で勝手に混乱し始めるんです。「おじちゃんがいつでも見てるからな」って脅されないとやっちゃいけない事への歯止めもできない向きには、「死んだら地獄に落ちるから悪い事しちゃダメ」なんて言うほうがはるかに簡単なんです。
山には山の神様が、便所には厠の神様が・・・って「おじちゃん」を目一杯増やしているのが多神教ですね。

宗教はインテリ層だけ相手にしてちゃ儲からない・・・なんて言っちゃ身も蓋もないですけど、弱者救済を教える都合上、愚者を無視するわけにはいかないし、世の中には賢者よりも愚者の方が遥かに多い。まぁそういうわけです。
つまり神がいるかどうかってのは全く問題じゃない。大衆に布教するためのシンボルというか、ぶっちゃけ『ツール』として神は便利なんですね。
人間、大木の下で長いものに巻かれて守ってもらうって方が、楽なんですよ。ある意味、堕落してるのが文明人の本性ですね。


ちなみに修験道や禅なんかは、その本質としては実は神や仏という存在を必要としません。
神や仏の教えに従うのではなく、「自ら悟って神や仏と同レベルに達する」のが目的なんですから。
儒教も宗教にカウントするなら似たようなものでしょう。
人間も自然の一部であるから慎ましく分相応に助け合って生きるべしって宗教もある。妖怪や先祖霊を中心とした土着の教えに多いですね。ほんとに未開の地で暮らす人々は、屁のツッパリにもならない神など必要としないし、困ったことがあった、あーそりゃ〇〇の仕業だからお祓いして以後自重しろ、って感じ。調子に乗ってるとしっぺ返しがあるし、一族を守って暮らしていれば先祖霊が助けてくれる。そんな社会性教育としての宗教です。占いやシャーマニズムってのが比較的近いですね。
・・・でもそれら教義は一般には難しいので、あまり人気とは言えないですね?

~~~
要は金儲けの必要が無ければ、神なんて存在は別にいらんのですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

神という概念は一長一短でめんどくさいですね。

お礼日時:2012/09/14 19:05

宗教は、神に相当する、人間を超越した存在がいて初めて成り立つものですよ。


単に、「隣人を愛せ」と人間レベルで言うなら、「道徳」「倫理」のレベルで終わり。
でも、「そんなの誰が決めたんだよ!俺はそんなの認めないぜ。道徳とか倫理なんて関係ねーよ。」
ってそれに反対する人に言われてしまえば、お終いです。
なにせお互い人間どうし、対等なんですからね。どっちが正しいか判断つかない。

人間を超えた世界での存在を前提にするからこそ、宗教があり、そして、「すべての人に・・・」という教えが出てくるわけです。
ただし、古い時代の宗教では、「すべての世界の人」といいながらも、世界の認識が、自分たちの民族だけのことだったりして、先住民族は人間じゃあないので皆殺ししてもいいなんて考える宗教もあったりしますけど・・・。

ちなみに、神様どうし(宗教どうし)の場合について、即座にどちらが正しいなんて結論が出ないですね。各宗教の信者さんたちが、神様に代わって代理戦争を行い、決着をつけたりします。
戦争が終わって勝敗が決まっても、ほんとうの勝ち負け判断は、なかなか難しいようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「そんなの誰が決めたんだよ!俺はそんなの認めないぜ。道徳とか倫理なんて関係ねーよ。」ってそれに反対する人に言われてしまえば、お終いです。

でも日本ではそれが成立してしまっていますよ。
無神論者が道徳を尊重して生活しているではありませんか。

>人間を超えた世界での存在を前提にするからこそ

もちろんそういう存在はあるにしてもそれが神である必要はないのではないでしょうか。

お礼日時:2012/09/14 18:24

>始まりは便宜上神という概念が必要だったにしろ、


>これからは神様なしでもやっていけるのではないでしょうか。

そう思うのでしたら・・・。
是非とも、「キリスト教徒」、いえ、「イスラム教徒」、いえ、「イスラム原理主義」の方々と議論されてみて下さい。
お願い致します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね

お礼日時:2012/09/14 18:21

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