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どうも最近は正義(というか道徳的に正しいこと)が嫌われてるような気がします。
幼稚園の頃や小学校低学年の頃は「いいことをする」のは当たり前でした。
親や先生にもいいことの出来る人になりなさいと教えられましたし、そうなることを望んでいました。
しかし年齢が上がるにつれ、その「正義」は当たり前のことではなくなったと感じます。

「みんなと仲良くする」ことは八方美人に。
「困ってる人をたすける」ことは良い格好しぃに。
「悪いことを注意する」ことは偽善者に。
「ちゃんと勉強する」ことはガリベンに。
「正しいことを言う」ことは奇麗事に。
良いことのはずなのに、何故こんな不名誉な風に言われてしまうんでしょう。
そして未成年のタバコなど、犯罪が憧れられています。
本来逆では?と思うのですが…。

これは思春期特有の反抗期(つまり大人が言う「良いこと」に反発している)からかとも思ったのですが、大人にもこういう人がいるので違うのかもしれません。
マンガや本などでも、昔のような典型的正義の味方は少なく、クロサギなどダークヒーローものが多くなっています。
これは、現代人が昔のような「綺麗な正義」を好きじゃなくなっているということでしょうか。

同時に、神様も嫌われる傾向にあるようです。
最近の主人公は天使よりも悪魔が多く、神・天使などは「神の名の元に人間皆殺しを考えていた」などとして悪者にされることが多い気がします。(私が読んだモノがそうだっただけかも?)
そして私の周りでは「神なんていない」という人が圧倒的に多く、そう言う人はだいたい神様が嫌いです。
幼い頃は神様が嫌い(または神なんていない)という子は少なかったはずなのに、なぜ今は神様がこんなに嫌われてしまってるんでしょうか?

哲学に関して全く無知なので、どなたか分かり易い回答お願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

がると申します。


そうですねぇ、私は「正義」とかいう概念は物凄く嫌いです。
単純に。まず「何を持って正義とするのか」という部分が非常に曖昧なのがとても気になります。
そうして、正義というものの定義が曖昧であることをいいことに、次に行われるのは「正義の名の下での**」です。殺人でも虐殺でも拷問でも戦争でも侵略でも、お好きな文字をどうぞ。
「正しい」とはなんなのか。それはどんな基準でどのような思考に基づいてどのような理論構築によって判断されるものなのか。
そういった部分が「十二分に」考察されてなお気になる概念ではありますが(公にとっての正義が個人にとっての正義であるとは限らない)、それが考察されていないのであればなおのこと、私には、正義というのは「物騒な概念である」としか感じられません。

ちなみに。「正しいことをやっても周りから悪く言われるのが嫌」という発想があるのだとすると(「良いことのはずなのに、何故こんな不名誉な風に言われてしまうんでしょう。」というあたりからの類推です)。
それは正義ではなく、虚栄心とかそういう類のものなのではないでしょうか?

神様、の定義にもよりますが。定義次第ではやはり嫌いですね。
まさに「神の名の下に虐殺」が、歴史上多々起こっていますから。
ちなみに「神様」といってどういう存在を連想されているのか、とりあえずその辺も効いてみたいところではあるのですが。
いわゆる一神教の神は非常に容赦ないことがおおいですが、例えばギリシャ神話の神々は、いっそ楽しいくらいに人間臭いですし。
ゼウスに至っては「男女の区別すらないレベルで好色」ですからねぇ(苦笑
神様といっても幅が広いものになってしまいます。

結局のところ。正義にしても神にしても、それが「人間の盲信と無思考を誘発するもの」であるのであれば、それはとても有害なのだろうと思います。
そうして、それを肌で感じ取っている人たちが、「正義とか神とかが嫌い」である人たちの一部に、存在しているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
正義…難しいですね。私の中では「正義」という仰々しいものではなく、道徳の教科書に載っちゃってそうな「あたりまえ」の「いいこと」(電車で席を譲る・困ってる人の相談に乗るetc)しかなかったので。
ギリシャ神話は昔読んだことがあります。なんか八百万の神様に通じるものがあるように感じました。
多神教のお気楽さ(?)を好んでいるからかもしれませんが「神様?いたらいいねぇ。助けてくれるかもだし」程度にしか思ってませんでした。
物や動物だって時を経ると神になると言いますし、「ぬいぐるみの神様」とか「昼寝の神様」とかいたら面白そうじゃないですか(笑)
だからこそ、ムキになって否定する人に疑問を持っていたのですが…そういう考えもあったんですね。

お礼日時:2006/04/27 23:28

現代は情報があまりにオープンになりすぎて、見せたくないことも見えてきているのが原因ではないでしょうか。


世の中に絶対善というものはありません。
例えばイラクのフセイン元大統領は、力により反対勢力を抑えましたが、テロなどはなく、安定した国でした。
独裁者を倒して民主的な国を作るとした、ブッシュ大統領の理念は正しいですが、現在でもイラクは混乱し、毎日のように罪も無い人々が死んでいきます。
どちらが善でどちらが悪なのでしょうか。
身近な例では、ある老夫婦がアパートの家賃でささやかな暮らしを立てているとします。
そのアパートを借りた若者が家賃を払ってくれず、とうとう1年間で100万円になってしまいました。
近所のやくざがこれを聞きつけ、その部屋に押しかけ、「老人が困ってるではないか!!」と怒鳴りつけて若者を追い出し、家賃の100万円を取り立ててきて、老夫婦には90万円を解決料として請求します。
このやくざは悪人でしょうか?
実は弁護士に頼んで、法律に従って若者を追い出し、家賃を回収すると、200万円はかかります。
200万円の仕事を90万円でやったのですから、このやくざは善人ともいえますが、やり口を考えれば悪ともいえます。
善の実現のため悪の限りを尽くす善人や悪行をしているのに、どういう訳か結果が世のため人のためになってしまう悪人もいます。
昔はこういった負の一面が公になりませんでしたが、現在はすぐに明らかになりますから、何が悪で何が善なのか、誰にも分かりません。
私はかなりの悪人ですが、気が小さいので毎日善行をしています、他人に悪く言われたくないとか恩を売っておけばお返しがあるとか、下心丸出しですから、悪人の項目に入ります。
神様がいない理由も同様に、そもそも善というものがないのですから、神などいません。
ひょっとしたら、悪魔が神であるかも知れません。
永井豪などの漫画(デビルマン、ダンテ)などは、悪魔が善で神は悪だったという題で書いていますし、荻野真の孔雀王なども、悪魔は古代の神であり神は征服者という書き方をしたりしています。
世相でしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
最近だと病院あたりがそうでしょうか。(医龍・白い巨塔など)
善悪の線引きが出来ないから神と悪魔の違いも付けられないですか…そういえばキリスト教での悪魔は征服された土地の神々だったという話を聞いたことがあります。
ちなみに私は自分のために「いいこと」をしていますよ。
嫌われている子とあえて話すのは、それだけ自分への信頼が増えるから。友達の頼みを断らないのは、貸しをつくることと評判を上げるため。相談に乗ってあげるのは、情報を手に入れるため。(言いふらしたりしないのは、評判が下がるから)
仲間はずれにしないのも、助けてあげるのも、相談に乗るのも、一般には「いいこと」です。(たとえ下心があったとしても。)

お礼日時:2006/04/27 23:43

『正義』より『結果』、『神様』より『甘えた環境』という感じでしょうか?



 『ちょい悪』なんて言葉が流行りのようで、『熱血、根性』というストレートな表現が好まれないのでしょうかね?
 『政治不信、社会不信』の蔓延が『普通の正義』を敬遠する理由なのかとも思います。
 今の世の中、何を信じて良いのか分からず『正直者が馬鹿をみる』雰囲気を感じますから。

 僕は『神様が嫌い』ですね。正確には『神の名において全てを正当化する権力者』が嫌いなのかもしれませんけど。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「正直者が馬鹿をみる」…たとえ被害があっても、悪いことはしてないのだから世の中は味方に付けられるんじゃないか、っていう考えは甘いのでしょうか。
私も『神の名において全てを正当化する権力者』は嫌いです。そうやって権力をふるって、人々を困らせるのは「悪いこと」だから。
でもこの「悪いこと」っていうのも曖昧…なんですよね(苦笑)

お礼日時:2006/04/28 00:00

この何度も議論されてきた件に関しては言いたいことがあります。


No.1さんと論争する気は毛頭ないのですが、
私は正義と言うものがそれ以上に邪険にされすぎている気がしてなりません。
困っている人を助けて何がいかんのでしょうか。
もちろん、単純に助ける行為は実は良くないことなのです。その助けられた人は助けた人間を信用します。信用された人間はまた困ったときに助けを求められるわけです。ということはこれは助けられる人にとってあまり良くないことになります。自分で問題を解決しようとしなくなることになりますから。
じゃあだからと言って、助ける人間を偽善者と言っていいことにはならないでしょう。
助けようとしている人間はそれがどういう結果につながるかを良くわかっていないからこそ安易に助けようとするわけですから、そういう人を説得したいなら偽善者と言わずに、「助ければ次も請われる」と説明するべきなのです。
つまり、正義をあまりに重んじすぎ周囲に迷惑をかける行為がメサイアコンプレックスであるならば、それに対して偽善者と言う言葉を安易に使う行為もまた、「偽善に対する畏怖とそれに従った跳ね除け、コンプレックス」の側面を帯びているのです。


とにかく、他の人間が通常正しいとされている行為に対し異論の表明をするのは、自分が過去に期待を裏切られた事例が存在し、それが彼や彼女の心のわだかまりとなっているからです。また同時にただ単純に正しい行為をすればいいというものでもないというのも彼らの経験を元に真実と述べていいことでしょう。
したがって、正しい行為をするには、まずその正しい行為が真に正しいか、良く考える必要があります。次に他人の目を気にしてはいけません。自分の責任の下に行い、裏切られても自分で責任を負わなければいけないのです。
私も以前に、正しいことをして裏切られたことがあるのですが、とあるクラスメートに、普段は話を持ちかけられないのにノートを貸して、そのまま戻ってこなかったことがあります。そのクラスメートに後で催促したら、無くしたとか笑いながら言っていました。
もちろん誰も慰めてもくれませんでしたよ。あんな胡散臭い男に渡さなければ良かった、が彼らの答えでした。最初は酷い世の中だと思いました。でも何度もそういったことを経て、そう思っても仕方ないか、とも思うようになりました。そうしないと身を守れないのです。偽善者などと口に出すのは自分のやっていることが間違っていないことを確認したいからです。でないと不安になるから。・・・でもね。私は自分があの時人を信じた行為自体が間違っていたとは、未だにどうしても思えないのです。
この私の事例を見て、それでも正しいことをしたいかどうか、ということです。最近は私も減ってきましたが、それでも正しいことが起こると信じて、たまにやってみることがあります。・・・この年にもなると周りも大人びて。最近は負け続きです。
ここからは私も答えは分かりません。自分でその場その場一つ一つ答えを出していくしか、無いのだと思います。裏切られても信じるか。裏切られることを恐れて財布の紐をきっちり締めるか。それとも上手くその場その場で吟味して、そのつど答えを出していくか。
どういう生き方をしたいかは、自分で決めてください。皆馬鹿かとは言っても、止めたりはしません。止められません。


正義を丸投げにしたくない人のための回答だと思ってください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
安易に助けるのも良くないんですか…再び頼られるのは別に良いんですが、本人のためにならないのは考えものですね。
私も裏切られたことはあります。いわゆる借りパクでした。
悔しかったですが、「結果として彼女は私の信用を失い、今後私が彼女に与えられたかもしれない利益も失った。さらに他の子の信用も落ちた。良い気味だ」と無理に納得しました。(ひねくれてますね)
本心からの行動を裏切られるのはキツいので、最近では何かと理由を付けて行動しています。

お礼日時:2006/05/06 04:04

>「みんなと仲良くする」ことは八方美人に。


>「困ってる人をたすける」ことは良い格好しぃに。
>「悪いことを注意する」ことは偽善者に。
>「ちゃんと勉強する」ことはガリベンに。
>「正しいことを言う」ことは奇麗事に。
>良いことのはずなのに、何故こんな不名誉な風に言われてしまうんでしょう。

真面目な回答ですが、平和もしくは暇なのではないでしょうか?
生きてることで精一杯な人や忙しい人は、こういう事は考えないと思います。
こう回答している私も暇と言えば暇なんでしょうね。
でも正義の定義って必要なのでしょうか?
誰のための正義? PRしたいため? 定義する必然性がないですよね。
正義であろうがなかろうがどうでもいいんじゃないですか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
寝る前とか電車の中とか歩いてるときとか、ふと考えて(思いついて)しまうんです。昔から。確かに、そんなに生きるのに精一杯ではないです。
正義の定義…というか、賞賛されるべきことが非難されるのに違和感を覚えただけです。
非難されることは誰しも避けますよね。「いいこと」が非難されることによって、皆が「いいこと」をしなくなってきてないか?と思ったので。

お礼日時:2006/05/06 04:15

古代の壁画にも、


「最近の若者はなっとらん!」という意味の言葉が書かれていたと、
いう話もあります。(真偽不明)

たんに年をとって周りが見えるようになったことで、
狭い世界での正義や神が自分だけのものだと気づいただけだと思います。

神の名の下に戦争をする国もある。
戦争中は人を殺すのが正義。
古代においてはタバコだって薬。

ま、価値観はそれぞれってことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
イスラム教徒からみれば八百万の神々も邪教の悪魔になってしまうわけですし…。
見方によって全く逆転してしまう…難しいですね。

お礼日時:2006/05/06 04:21

#4さんの回答を読ませていただき、私も今悩んでいることがあります。


町内に鳩が多いのですけど、餌をやる方がいます。
鳩に餌をやることは、動物愛護の観点から正しいことですし、やらなければ多くの鳩が死んでしまい可愛そうです。
ところが別の面から考えると、増えた鳩によって洗濯物が汚され、植木が枯れてしまい、大変な迷惑なんです。
この立場で考えれば、鳩に餌をやらず、自然淘汰(死んでいく)に任せる事が正義であり、むやみに餌をやる人間は悪の化身に他なりません。
ご質問者が書いている、困った人を助けるという行為も、例えば自立しようと頑張っている障害者などにとっては、訳もなく手助けされることは、自分の自助力を奪われることで、迷惑な話ですし、悪いことを注意するにしても、何が悪いことなのか理解できないこともあります。
人殺しは悪いと言われますが、先般の安楽死など、打つべき手を尽くしてもうこれ以上は患者の負担が増すばかりと、安楽死を選択した外科部長と、命ある限り全力を尽くすという内科の院長の考え方の違いもあるようですが、門外漢にはどちらが正しいのか全く分かりません。
勉強でも、机の上の勉強をする暇があればもっといろいろな体験をした方がよいという方もいます。
価値観があまりに多様化しすぎて、分からない世の中になったということもあるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
近くの公園でもエサ禁止の札を見かけます。どちらも「善」であり「悪」なんですね…。
価値観の多様化…これも良い現象なのか判断しにくいですね。

お礼日時:2006/05/06 04:27

がるです。


結局のところ、人は多くの場合において「よかれ」とおもって行動をすると思うのですが。
その行動が「本当に相手にとってありがたいことなのか」を常に自問自答すると共に、常にそれが「ありがた迷惑であると嫌がられる」「周囲から非難される」可能性を胸に秘めておく必要があるのだろうと思います。
「自分が良かれと思ったのに相手にとってはよくないことで、そのために非難されて他人を救う気をなくす」のであれば、多分それは始めっからやらないほうがマシでしょうし。

よく「相手の立場になって」といいますが。これほどまでに難しい言葉はないと思います。なにせ相手の立場になど間違ってもなれないのですから。時々「相手の立場に"自分が"なった」ことを想定する人がいますが、無意味ですし。

とはいえ、偏屈な人間は例外として、多くの人が普通に「喜んでくれるであろうこと」をするのは、それはそれで「あり」なんじゃないかなぁって思ってます。
それこそまさに書かれているとおり。席を譲るとか。悩んでる人には、愚痴を聞いてあげるだけでも、ある程度までは結構助かったりするものですし。

神様については…多神教ベースだと「いいジャン色々いるし~」って感じですよね、まさに。
ちなみに「ぬいぐるみの神様」は、ツクモガミって名前で実際にあるとされている神様です。昼寝は…いたかなぁ? 探したらいそうだ(笑
こういう多神教レベルでの神様って、身近に感じるとなんか気持ちが豊かになれるように思うのは私だけでしょうか???

字面の定義としての正義やら神様やらでなくて。なにか人として大切なものを探していくと。
きっとそこには、そんな風な「なにか」が見つかるのではないでしょうか?
清く正しくただひたすらに白い何かではなくて。白と黒の境目にある、清濁を併せ呑んだ先にある、ご自身にとっての「素敵ななにか」が見つかることを、心よりお祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本当に相手のためになるかどうか、よく吟味するのが大切なんですね。
その「素敵ななにか」を見つけ出すことができるよう、自分なりにも色々考えていこうと思います。

お礼日時:2006/05/06 04:34

「正義」は逆の立場から見れば「悪」に過ぎない、そしてその逆もあるということです。

「正義」「悪」は主観的、相対的です。客観的、絶対的ではありません。
>ちなみに私は自分のために「いいこと」をしていますよ。
 嫌われている子とあえて話すのは、それだけ自分への信頼が増えるか ら。友達の頼みを断らないのは、貸しをつくることと評判を上げるた め。相談に乗ってあげるのは、情報を手に入れるため。(言いふらし たりしないのは、評判が下がるから)
 仲間はずれにしないのも、助けてあげるのも、相談に乗るのも、一般 には「いいこと」です。(たとえ下心があったとしても。)
No.2さんへの回答ですがこれもそうです。あなたにとって「いいこと」が本当は「悪いこと」かもしれません。
例えば嫌われている子があなたの意図を疑うかもしれないし、嫌われている子と話すあなたを見てほかの人たちも不信感を抱くかもしれません。また、友達はあなたを便利屋と思うかもしれません。
(これらはあくまで可能性です。)
それに、あなたの言う「いいこと」はあなたの主観的なもので「一般には」そうとは断言できません。
>「みんなと仲良くする」ことは八方美人に。
 「困ってる人をたすける」ことは良い格好しぃに。
 「悪いことを注意する」ことは偽善者に。
 「ちゃんと勉強する」ことはガリベンに。
 「正しいことを言う」ことは奇麗事に。
 良いことのはずなのに、何故こんな不名誉な風に言われてしまうんで しょう
「みんな」「困ってる人」「悪いこと」「ちゃんと」「正しいこと」の定義のせいです。これもまた主観的、相対的です。
神が嫌われたのは、神を信じてない人間(無神論者、仏教徒等)や神を信じたり祈ったりしていたのにひどい目にあったりした人間の増加、
科学の発達などが主な原因ではないでしょうか。それと悪魔は人間に優しいという利点があります。これはあなたが言うところの「下心」です。逆に神は基本的に人間に厳しいです。
私自身は神に対しては曖昧な立場です。神がいてもいなくてもどうでもいい、と思っています。もしいれば神が絶対の支配者なら人間の抵抗は無意味、神が傍観者なら存在を無視できる、ただそれだけのことです。

この回答への補足

ご指摘の通り、私の言葉のほとんどは主観的です。
しかし、「みんなと~」以下の5つは一般的にいいことであり、良くないというのは少数だと思います。
というのも、これらは私が幼いころに「善い」と教えられたことだからです。
一般に「良くない」とされていることを子供に教えるでしょうか?

それと定義が曖昧、とのことなので、実例を挙げます。
クラスの子と分け隔てなく話したり遊んだりした。(みんなと仲良くする)
荷物を抱えている人のためにドアを開けてあげた。(困ってる人をたすける)
校則違反を注意した。(悪いことを注意・正しいことを言う)
日ごろから予習・復習をして、テストの結果も上位だった。(ちゃんと勉強する)
これらは結果として陰口を叩かれたり非難を浴びたりしています。
子供に教えるということは、一般的にもいいことのはず。なぜそれがこういう結果になってしまうのか、気になります。
それとも私のこの考えがズレているんでしょうか?

補足日時:2006/05/06 04:45
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
現代人にとっての神は科学だ、というようなことを聞いたことがあります。(ウロ覚え)
科学による証明は宗教的なものを覆していきますしね。(アダムとイヴあたりもそうでしょうか)

お礼日時:2006/05/06 04:45

正義も善も悪も人間が勝手に決めた概念に過ぎません。


まあ、いわゆる善悪で考えた場合、そもそも人間自体が『悪』なのかも知れません。高齢者なんてひどい人が多いし、いろいろ言われていますが若い人の方が純粋で真面目な人が多い。
また、宗教もひどい!
宗教裁判、魔女狩り、火炙り、侵略、戦争………
ハレンチ住職や牧師とか。援交を禁止する法令が施行された時、逮捕された犯罪者第一号は住職でしたね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
環境面から見れば人間の存在自体が悪ですしねぇ…。
援交逮捕者一号が住職とは!驚きです。

お礼日時:2006/05/06 23:26

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