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議論なき、哲学はあるものかと思っておりますが、禁止とのことで、質問を変えて投稿いたします。

ある本に、19世紀のドイツでは、文明を機械、技術、物質的要素に関わるもので、文化を価値観や思想、高度な知的、芸術、道徳的な社会的質と定義したとあります。

しかし、マルクスの史的唯物論によると、文明に関わる、機械・技術・物質的要素は「生産手段」や「自然的生産条件」等の下部構造、上述の文化が上部構造となります。

文明は文化の総体と定義すると、逆転します。

マルクスはドイツのヘーゲルの考えを逆転させ史的唯物論を考え出したようですが、19世紀における文明と文化の定義も逆転させたのでしょうか?

恥ずかしながら、マルクス自身が書いた本は読んでおりませんので、どなたか、分かりやすく回答をいただけると幸いです。

A 回答 (9件)

 #3です。

・・・議論は駄目?。自分の記憶では、けっこう議論したおぼえはあるのですが・・・(^^;)。・・・それはそれとして、ちょっとエッセイ(?)を書きます。

 #3では、マルクスは文明/文化の定義に関心がなかったと書きましたが、だからと言って彼が、文明/文化を扱かわなかったという事ではない、と思っています。また自分もマルクスは、たんなる経済学者ではないと思っています。

 生産体制や生産条件は下部構造であり、文化や思想などの上部構造は下部に規定される。語弊を無視して単純化すればこうなると思いますが、注目すべきは、下部/上部構造の対置です。それまで思想や哲学などは、言ってしまえば浮世離れした、人間の頭の中だけに起源を持つ存在だった訳ですが、マルクスは史上初めて、文化の駆動力は経済である事を、明確に言った人だと思います。その全面的成否はおいときますが、納得できる部分は、けっこうあると思います。

 余り注目されませんがマルクスは、進歩史観の持ち主です。ここで進歩史観とは、科学や工学技術に対する限りない信頼です。科学・工学技術は、生産性を高め、生産量をどこまでも増大させ物質的豊かさをもたらす。だからこそ「階級闘争」が起きる。そういう科学・工学技術によって発展した生産者の生産様式と、支配者の支配体制との間に軋轢が生じた時に、時代の主たる生産者達は階級闘争と革命を起こし、自らの利権と権利を開放し、支配者となる。歴史を見る限り、これは否定できない事実だと思います(今のところは)。「機械論草稿」などの、初期の基礎研究の意義は、これのためです。

 マルクスが生きた時代は、成長の限界も(ローマ・レポートも)、グリーンピースも(シー・シェパードも)、地球温暖化なども(ホッケー・スティック曲線なども)、想像すらできなかった時代です。マルクスが進歩史観を持ったのは、当然と思えます。

 こういう観点でマルクスを眺めてみると、じつはマルクスはグローバル化の申し子であると言えます。要するに、物質的豊かさの増大の前には、誰も抵抗できないはずだという話です(悲しいけど、正しい気がする)。じっさいマルクス・エンゲルスは、プロレタリアートによる世界同時革命を目指しましたし、黒船が日本に達したニュースを知った時には、狂喜乱舞したそうです。

 地球を一周してして資本主義が極東にまで達して、全世界を覆ったからには、後はプロレタリアートによる世界同時革命しかないと・・・。

 たんなる経済学者ではなかったマルクスの壮大な未来予想は、細かな点では外れましたが、現在の世界はマルクスの予想通りにグローバル化しようとしています。ここでグローバル化を抽象的に言いかえてみます。

 グローバル化とは、標準化を受け入れる事であり、標準化という考えは西欧に特有のものと思います。しかし標準化の考えをいったん知ってしまうと、誰も抵抗できなかった事になります。標準化を受け入れれば、誰もが同じ訓練量で、同等の成果を出せるからです。これは西欧流の学問や文化の、一つの価値だと思います。

 しかしそうなると、独自文化をどうやって継承するの?、という話にもなります。この点に関して(またも西欧文化圏の人ですけど)マックス・ウェーバーは、

  ・認識の木の実を食べた(グローバル化と標準化を知ってしまった)人間は、社会との異様な緊張を孕む存在となるが、

  ・それが近代人の宿命である.

と言いました。マックス・ウェーバーよれば、上記を受け入れるのが近代人です。


 我々は、近代人としてダブルスタンダードに耐えなければならないと思います。日本の文化と、世界的なグローバリーゼーションの標準化とに。

 ウェーバーの言説は、とても悲観的であるとともに、非常に勇敢な態度だとも思います。

この回答への補足

グローバル化のなか、どのように、思考し行動すべきか。ダブルスタンダードという言葉に一番刺激を受けたので、どの回答もベストアンサーと思い、迷いましたが、この回答をベストアンサーにいたします。マルクスは、資本主義は社会主義の準備段階と考えたようですが、その予言は正しいですかね?とにかく、閉塞気味の今の時代を悲観せず力強く歩んで生きていきたたいものです。回答を寄せていただいた回答者皆様に感謝いたしております。

補足日時:2012/09/20 07:44
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この回答へのお礼

目からウロコのようなエッセイありがとうございます。私は経済は専門でなく、ほとんどわかりませんが、少なくともテレビで日経平均株価だの為替などがニュースの最後に流れるのを見て、「経済は動的(ダイナミックス)」と感じますし、また「文明・文化も動的(ダイナミックス)」であると考えます。経済が文明・文化に影響を与える。キーワードの2つのスタンダード、日本基準と世界基準という発想に感服いたしました。マルクスの社会主義は、イデオロギー(ある特定の政治的・社会的立場に由来する意識や観念と定義)的には失敗したように認識されつつありますが、私は社会主義者ではありませんが、思想は検討の余地があると考えております。今日はこれくらいにして、更なる意見があるかどうか一晩待ってベストアンサーを決めたく思っております。一冊、本を読んだような回答に感謝いたします。

お礼日時:2012/09/19 21:43

 No.2&5です。



 分化 / 文明の問題にそれほどこだわらなくてもよいとすれば 実際の社会における人間観を見てみたいと思います。
 勝手な注釈をつけて引用します。

 ▲ (K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~
  結局のところ 
 (S) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ 
 (A) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)
 (S) とは区別された人間 homme とみなされる。

 なぜなら 
 (A) 政治的人間(* アマテラス公民のそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し 
 (S) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ市民)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。


 (S‐A) 《現実の人間》は
 (S)  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちをおかしうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ 
 (A‐S) 《真の人間》は
 (A)  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし科学概念語)においてはじめて認められるのである。
                  (城塚登訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ここで S:スサノヲで A:アマテラスですが その連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。


  《 S‐A 》連関のかたち: 《現実の人間》:
     あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその中から――あたか
    もその泥の中から―― アマテラス普遍語を磨き上げ そこに花咲
    かせる人間のすがた。


  《 A‐S 》連関のかたち: 《真の人間》:
     簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る
    かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の
    すがた。
     この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。
     つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。


 S / A のどちらが基礎でどちらが引っ張って行くのか・イニシアチヴはどちらにあるのか この基準で S か A かが先に来るかたちとなっています。

 おそらく アマテラス公民種族の無謬性の神話は あくまで《国家》という二階建て構造から成る社会形態と相即的であって ゆえにこの国家について考察することは 人間についてしっかりと考えることになる。こうだと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。マルクスの思想からのたとえ的論理展開に刺激を受けました。やはり「人間とは?」という哲学問題に帰結しますか。しかし、人は誰でも「私とは?」という哲学問題を自我(アイデンティティー)の形成のために考えるものと思いますが、「人間とは?」という哲学問題をはたして普遍的な言葉で表せるものか私は悩んでおります。個性という問題をどうするべきか?それをマルクスがしたのなら、偉大な哲学者です。読みたい本が溜まっていてマルクスには手が出ない状況勉強不足ですがが、死ぬまでには、一度は読んでみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/20 07:30

とりあえず、そのような「文明と文化の定義の逆転」はなかったのではないか、と思います。

マルクスは、唯物史観確立後には、主題的に論じていないことですが、論じたとすれば、文明<文化でもなければ、文明>文化でもなく、「文明=文化」論となったのではないか。
言葉の問題としては、一九世紀の民族意識の高まりが、「文明」対「文化」という把握をもたらしたのでしょう。マルクスは、ドイツが政治・経済に於いてフランス・イギリスに遅れているということは十二分に認識していたでしょう。しかし、「文明を機械、技術、物質的要素に関わるもので、文化を価値観や思想、高度な知的、芸術、道徳的な社会的質」というような、後進国の負け惜しみみたいな分類には与しないのではないか。
amenhotep2000さんは、下部ー上部構造論と「文明」対「文化」という把握に関連を見ようとされるようですが、唯物史観が持っている構造的な把握は、機械的な構造でもなく、構造を固定的なものにする見方でもない。したがって、構造論と「文明・文化」論をからめるなら、まず構造論の概略をやって、次にイデオロギー論と順を追わないと要らぬ誤解の山を築くだけのように思います。そんなたいそうな話ではない、としても最低限、下部ー上部が空間的分離でないのはもちろんとしても、実体的に分離され得るモノでもない、という或る程度の了解は持っておかないと齟齬を来すのは間違いないでしょう。
マルクス主義者は「生産力と生産関係の矛盾」という表現をしますが、生産力とは「機械・技術・物質的要素」で、生産関係が「人々の関係」といった裁断はマルクスに無関係です。「機械・技術・物質的要素」が生産力であるかのごとく現象するのは、一定の「人々の関係」があってのことであり、云々で、生産力とは生産関係なり。キャッチフレーズ的に云えば、「対立物の相互浸透」ですね。こういった具合の、概念そのものの動的把握がなければ、「文明・文化」そのものが、歴史的・「文化」相対的に規定されるものだということを取り逃すのではないか。
構造論と「文明=文化」論をからめて述べるというのは、私には手に余ることですので、以上の否定的な言にとどめておきます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。文明と文化を思考していたら矛盾する考えに至り、弁証法という哲学道具が有効なら、回答者皆様のご意見を聞きながら、どのように止揚させようか考えているところです。マルクスの言った構造論をもう少し私は勉強して理解する必要があると思います。しかし現在の社会学でいうイデオロギーという言葉もはっきりとせず曖昧に感じます。私が調べた限りでは、マルクスとエンゲルスの共著「ドイツ・イデオロギー」(1845/46)でヘーゲル学派の思想家を社会経済的現実の論理から外れた空論家として、イデオローグと呼び非難するのに使われ、史的唯物論(経済学批判序」1859)で社会経済的土台(下部構造)に対し、マルクスはイデオロギー(上部構造)という見方をしたとあります。とすると、マルクスが使った、元々の純粋なイデオロギーという語は文明、文化(特にドイツ)の批判もこめたのでしょうか?それとも、やはり革命を急がねばという、マルクス、エンゲルス、レーニンと言った人物によって、あまり、そこまで考えずに作られたものでしょうか?そのようなマルクスの考えの構築過程の分かるお薦めの本があれば是非再投稿ください。ここでの回答者皆様のご意見は有益です。ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/19 20:55

#1の者です。



>(ブータンに比べ)グローバル化の影響は避けられない日本は
>今後どのような精神文化を伝承すべきでしょうか?

もちろんブータンは、西洋的な資本主義(貨幣制)の浸透が少なく、
自給自足の農民が9割を占め(残りの1割は僧侶と官僚が主)、
生活の基盤は企業ではなく家族とその延長たる地域コミュニティ
なので、そうした「生きがいの心から物への変質」を容易に阻止し
得たが、日本における「個人の生命性の社会的延長」は、企業
から国家~世界へと伸張しており、それを「自己の社会生命性の
自覚化」する事は、困難を伴う。

しかし可能性がない訳ではない。
日本において、ブータンにおける生命基盤であった地域コミュニ
ティに代わり、広く社会に拡張した互助を、カバーできるものが
インターネットである。
既に、ネットを活用した生産者の顔の見える販売は広がっており、
購入者はお金を出して威張るのではなく、作った人への感謝を
感じ、生産者はお金を儲けるためにヘイコラするのではなく、
買った人の喜びを生きがいに物作りに励む、といった具合に。
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。私も回答者様のご意見に賛成いたします。しかし、ブータンは日本に比べ人口密度も少ないので、自給自足型の社会システムも出来ることと思いますが、日本では難しく思います。少子化が問題になってますが、人口密度が減り、ブータン型の社会になれば、日本は立ち行くのか?やはり国力が落ちて、海外の属国となるのでしょうか?どんな仕事をするにしろ社会というものに貢献をして、その対価としてお金をもらうのが、資本主義と考えられますが、自分が何に貢献しているのか、相手が見えにくい。チャップリンの「モダンタイムス」のように、会社の歯車に過ぎないと感じる人も多いのではないでしょうか?また、戦争という人は殺す行為がなくなるのはいいですが、行き過ぎた資本主義というシステムにおいて、金融工学なる技術を使い、莫大なお金を得るためにネットを使用して、戦争という仮想ゲームを楽しんでいるようにも感じます。しかし、投資して運用しないと、会社が厚生年金が払えませんしね。幸せとは?を考えさせられる度重なる回答感謝しております。

お礼日時:2012/09/19 11:11

 No.2です。



 マルクスが
 ▲ キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 
 ☆ うんぬんと言っています。そこで次の観点を添えたいと思います。


 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この内容を図式において示したいと思います。ひとつの解釈です。

 ☆ ひとと社会の成り立ちについての図式 ~~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・・・光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ
 三位一体なる神・・・・・・・父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神
 ________________________________
  スサノヲ( S )・・・アマテラス( A )
_________________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 文化と文明。あたまを田返(たがや)すことと 市民として互いにおとなしく成ることと。
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この回答へのお礼

2回も回答をくださりありがとうございます。ここまで図解で整理して、わかりやすく解説されると、思考しやすいです。ベストアンサーで打ち切ってもいいですが、もう少しどなたかこの図を見て、考えるところのある人がいるか、待ちたく思います。下記のお礼でも書いてますが、文明や文化を考える場合、時間(歴史)というものが、切り離せないものと思います。ヘーゲルやマルクスは弁証法的にこの枠組みの中で進化(上昇)するとしてますが、例えば、芸術面ではファッションの流行には周期性があるとも言われますし、文明、文化という視点で考えると、「歴史は繰り返す」もまた真でしょうか?人間の欲望とは?そこに帰結する問題かもしれません。

お礼日時:2012/09/19 08:43

ど素人でありますが、すみません。



マルクスというのは、経済学者でしょう。


「「自由主義競争」と、それに対する「まっとうな」規制」、というものの行き着く先、帰結、
というのが、「帰結」のほうがかえって喧伝されてしまって、「こうあらねばならない」という急進派によって「(プロセスを度外視した)結果的な平等」が(即物的に)もたらされてしまったのではないかな、と思います。

経済学ですから、文化の出る幕はあまり無いのかなと思います。それを「マルクスは文化をどうこう」と酷評するのは、いかがなものか?
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。私はマルクスを酷評するつもりはありませんし、経済学者に留まらない、偉大な哲学者と考えています。経済学もある哲学的思想を土台に独自の考えを展開するものと思ってます。たとえば、現在、「もしマネ」で有名になった、ピ-ター・ドラッカーも「マネジメント」の冒頭で、現在の哲学はロックの時代からなにも変わってないと、思想の土台を提起してます。しかし、私は、他に読みたい本が溜まっていて、「マネジメント」は熟読していません。すみません。そういうわけで、マルクスは経済学を考えるにあたり、文明、文化も思考したのかという疑問で投稿しました。どんなご意見も参考になります。ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/19 08:09

 自分も原典を当たった訳ではないのですが、マルクスは19世紀のドイツの文明/文化の考えを概ねそのまま流用したし、それらの定義を与えようと努力したようにも見えません。




>・・・19世紀のドイツでは、文明を機械、技術、物質的要素に関わるもので、文化を価値観や思想、高度な知的、芸術、道徳的な社会的質と定義したとあります。

>・・・マルクスの史的唯物論によると、文明に関わる、機械・技術・物質的要素は「生産手段」や「自然的生産条件」等の下部構造、上述の文化が上部構造となります。

 上記2つを比較すると、マルクスは前者の定義する文脈そのままに後者の中で、文明/文化という用語を使用しているように見えます。


>マルクスはドイツのヘーゲルの考えを逆転させ史的唯物論を考え出したようですが、19世紀における文明と文化の定義も逆転させたのでしょうか?

 この逆転の意味ですが、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論では、歴史の先導者は、上部構造である文化(思想や価値観)だと考えられていましたが、マルクスは歴史の先導者は下部構造(生産技術や自然的生産条件)だと考えます。

 マルクスによれば、その結果が「歴史の中に普遍的に見られる階級闘争」です。ドイツ観念論が文化を、超歴史的な普遍的存在とみなしたのと同じように、階級闘争に超歴史的普遍性を持たせる事が妥当かどうかは、もちろん不明ですが、マルクスはとにかく人間の歴史の中に、そのような唯物史観を見い出しました。これが逆転の意味であり、逆転されたとは言え、そこにはドイツ観念論の影響があったような気がします。


>文明は文化の総体と定義すると、逆転します。

 自分もそのような捉え方(定義)のほうが、良いのではないかと感じた事はありますが、マルクスの関心はそこにはなかったと思います。
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この回答へのお礼

歴史という急所をついた回答ありがとうございます。この投稿で考えたかったのは、なんとなく漠然とした言葉で使われる「文明とは?」「文化とは」という定義を考えるものですが、議論になると削除されるようなので、辞めます。現在歴史カテゴリで、「独自文明とは?」という投稿をしている人がいて、どのように回答すべきか迷ってました。ヘーゲルもマルクスも弁証法と言う言葉で、物事は人の叡智で時間と共に進化する(とりあえずそのように定義します)という考えですが、文明、文化というものも、弁証法的発展をするのでしょうか?グローバル化の中、ヒト、モノの行き来国境を越えて激しくなるなかで、どのように文明、文化をとらるか?21世紀の人間の思考で考えたく思います。

お礼日時:2012/09/19 08:24

 こんばんは。



 文明・文化の違いなどについてよく知りません。

 マルクスとマルクス主義とは違うという見方も 大事かと思い 資料としてのように触れておくのもよいと考えました。

 ▲ (マルクス:ヘーゲル国法論批判) ~~~~~~~
 (α) へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが (β) 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。
 宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。

 民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教と他のすべての宗教との間柄のようなものである。
 キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 初めの一文において じんるいが家族という最小の社会単位体から国家という社会形態にまで拡大する過程についての考え方〔(α)〕と そしてそれ以後の歴史を展望する見方〔(β)〕とが示されています。

 簡単に捉えるなら (α)が国家の形成とその内的な共同自治のための発展へ向けて前向きに隆盛になる段階を言っており (β)はその後むしろその解体に向けて やがて後ろ向きに揚棄されていく段階として見ようとしていると考えられます。

 あるいは別の言い方をすれば 《民主制》はだいたい――現代において達成されたものとしては――共通なのですから その中身がまださらにこれから変わって行くものと (β)では 見ているようです。

 また上部構造としてでも そしてそのさまざまに展開されて来た現象はどうであれ 理論上は いわゆるキリスト教が 人間としての普遍性を問い求めるかたちにおいて勝義のかたちだと言おうとしているようです。

 かんたんな資料としてでした。
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この回答へのお礼

上述の再回答にて、お礼いたしておりますが、要約された資料は貴重です。ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/19 08:50

マルクスは、唯物論ですから、その基軸は物質主義=文明です。


そうでなければ「宗教は麻薬だ!」と滅ぼそうとする訳がありません。

マルクス主義の“歴史的必然”である階級闘争は、そうした物質主義
に従属した精神の物欲&拝金主義の結果である以上、宗教的な奉仕
の精神や、文化的なモラル(思いやり、助け合いetc.)は、邪魔もの
以外の何物でもないのも当然です。

人の生きる真の目的が「人生を通算した精神的充足量の最大化」で
あるという本質が見えないノータリン・マルクスは、「人は物を欲しがり、
何もしなくて済む金持ちになりたがる」という結論に達しました。
ところが、そのような短絡的利己主義を前提とした社会体制は、また
短絡的利己を再生産し、抑圧された労働者は働かず、権力を持った
労働者は欲に溺れ独裁者になって、国家は崩壊に向っただったのだ。

かといって、資本主義も同じ「強欲」=お金という馬車馬の目の前の
ニンジンによって、利己的なまま(自己の生存の社会生命化を自覚
しないまま)他律的に社会行動をとらせ、嫌々働く=お金を儲けて
働かなくて済むようになるために働くという矛盾を抱え、物質的には
豊かになる一方、精神的には荒廃し、自殺者や精神病が増加する。

ブータンの掲げる「GNP(国民総生産量)ではなくGNH(国民総幸福量)
を!」こそが、そのどちらでもない精神文化(社会性の世代間伝承)を
基軸とした、革新的な思潮であり得るのだ。
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この回答へのお礼

論理的で分かりやすい回答ありがとうございます。プロフィールを拝見いたしましたが、ブータンに3年も行かれたのですか。そのような経験を持たれる人のご意見を伺うことが出来て幸いです。マルクスが生きた19世紀は労働者にとって現在より過酷な労働条件と考えられ、それに見かねて、マルクスはひとつの思想を考えたと思われます。しかし現在の日本の資本主義もグローバル化の中、正規社員、非正規社員という2極化が進み、19世紀の格差社会と労働条件に逆もどりしているように感じますが、ブータンと比較して、現在の日本はどのように思われますか?ブータンはヒマラヤの山奥の他国の影響を受けにくい立地にあるため、回答者様曰くの精神文化を世代間の伝承出来たと思いますが、グローバル化の影響は避けられない日本は今後どのような精神文化を伝承すべきでしょうか?回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/09/19 07:45

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