この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。
*
ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?
なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?
その心の片向きは 弱さから来るのか?
思うようにならないことにやけを起こすことからか?
ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?
けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。
おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。
やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。
はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。
けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。
愛である。
社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。
おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。
世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。
なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。
愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。
知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。
*
《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。
この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。
それは 言うなれば善であると思われる。
その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。
これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。
さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?
悪に同調することと悪を引き受けることと。
考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。
*
《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。
愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。
《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》
悪につき合う悪。
それは 死のほうへ寄って行くようなことだが
しかも愛だ。
*
愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。
A 回答 (38件中31~38件)
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No.8
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No.7
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No.6
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No.5
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No.4です
あちゃ~~~(*_*:)。。。いろいろとやらかしてしまったようですね・・・
これがラブレターとかいった真剣に思いを伝えようとする文章でなくてよかった。。。
bragelonneさんは、手書きのラブレターとかもらったことはありますでしょうか?
私は、幼稚園児の娘にもらったのが最初で最後かもしれません(笑)。
(おっと、少し居眠りしてしまった。。。)
ここでの回答に対するお礼には随分と気を遣う場合があるでしょうね。
あ、いや、bragelonneさん位になると、そうでもないことが多いかも知れませんが、過去に2回ほど物理学カテで質問を立てたときは、お礼に随分と気を遣ったので、他の人もそうかなぁ~と思ったまでです。私の場合、哲学カテで質問を立てたなら、回答に対してお礼するのに、一つあたり半日ぐらいはかかるだろうなぁと思ってしまうので、未だに立てずじまいです。
まぁ、相手によって、あるいは状況によって、また、質問者によって気を遣ったり、それほどでもなく適当にあしらったりと、様々に変化するのかもしれません。
たとえ悪意を持っているであろうと想像することができても、あらゆる回答すべてに、真摯に、心を込めてお礼するということが、おっしゃるところの
《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》
ということでしょうね。。。
あ、そうそう、手書きのラブレターなんて近頃はやらないのかもしれませんね。メールを使ったり、twitterやFaceBookを使ったり、東京タワーの電飾を使ったりと(これはテレビ番組ぐらい?)、公衆の面前でよくもまぁと思えるようなことも、時々見かけるものです。
中学生時代、ラブレターというものは、朝一番の机の中とか、下校時の下駄箱なんかに入っているものだと、どこぞのアニメを見て思い込んでいたのか、思い当たるフシのあったときには、「もしかして」と覗き込んでいたものです。その一方で、悪戯をする目的で、友達とニセラブレターを作る相談をしたりしたこともあったような、なかったような。。。結局、字の汚さでバレバレになるのに、面白がってたことを思い出しました。。。
。。。おっと、また居眠りをしそうになってしまった。
言いたかったことは、状況によっては、そうでもないのにラブレターだと誤認する場合もあるでしょうということです。特にモノではなく「愛・悪」といった抽象化された情を表す言葉(ラベル)の場合には、なおさらその危険性が高まるのだろうな、ということです。
しかしながら、そういった誤認、(あるいは誤配等も含む)が、時として「運命的(いや奇蹟的)な出会い」へと繋がることもあるでしょう。
したがって
>>>
《悪に対してこの悪を引き受ける》といった対応をすることは 善か悪か愛か
<<<
での「善・悪・愛」は、送り手の思いと、受け手の思いと、相互の解釈の差異によって、
《悪に対してこの悪を引き受ける》といった対応をすることは 善
であり、
《悪に対してこの悪を引き受ける》といった対応をすることは 悪
であり
《悪に対してこの悪を引き受ける》といった対応をすることは 愛
であるのだと思います。
いや、前段の
《悪に対してこの悪を引き受ける》
ですら
《悪だと思っていたけれど当人に取っては善のつもりだったことに対し、この悪を引き受ける》
かもしれないし、
《当人にとって善だと言い張っているけれど、どう考えたって悪に違いないことに対し、この悪を引き受ける》
かもしれないということです。
あと、下記は以前提示したかもしれませんが、貼り付けておきます。
私の場合の「愛・悪」といった概念についての考え方になります。
(悪は情ではなく価値観ですが、下記記述にては同等に扱いうると思います。)
※貼り付けで誤魔化すつもりはないんですけれど、眠くてしょうがないので失礼します。。。
>>>デリダの死。。。「存在論的、郵便的」(東 浩紀)を読み返して。。。 http://jinen.exblog.jp/532461
「情」を「知」で扱おうとするとき、「ラベル・記号」としての「言葉」を貼り付けることで、「意味」の共有化を図ろうとする。
しかしながら、「対象物」を共有化できる「静的なもの」ではなく、「情」レベルで扱われるものは「対象物」が存在しない「方向性のみ」を共有できる「動的なもの」である。
数学で言えば、関数と導関数、点とベクトル、に相当する。
「知」は、ありとあらゆるものに「記号・符号・ラベル」を貼り付けるため、同一次元で扱おうとする傾向に陥ってしまう。それゆえに、「語りえぬもの」が一つのレベルに対してであるかのごとく錯覚に陥ってしまいがちになるが、本来「固有名」として扱い得ないものに「記号・ラベル」を貼り付けている以上、2重の意味で「語りえぬもの」(郵便的、存在論的)を扱うことになってしまうのだろう。。。そういった、「知」にとっての対象としての「情」は、「知」と並列し、「知」の外にあり、「知」と相互作用するように見える。。。
しかしながら、「情」の本質は、「知」と、そして「意」を含む「その他」と折り重なりながら相補的に「このわたしのこの」心を作り出すと共に、「動的」であるがゆえ、「他者・外部」との連続性・共感・共生を維持するに、必要不可欠だということである。
「情」を伴わない「知」は「知」たりえず、「知」をともなわない「情」は「情」たりえない。。。
。。。。「知」は静的であり、「情」は動的である。。。
注意すべきは、「方向性」のみが共有可能な「情」に対して、「知」がラヴェリングを行ったとき、その「仮想の対象物」に「共有可能性」を見出したとき、「宗教」が始まるであろう。。。ということである。
※07/05/30 19:10補足・追加
情に方向性があるというとき、対象物の有無は関係しない。
個々に異なる対象物がある(主観的な要因が強い)場合に対し、その方向性のみが普遍化(記号化)され共有化される段階で、対象物がない状態(客観的な要因が強い)へと変化する。
上記「対象物が存在しない」とは、まさに、そのような状況について記述している。
したがって、共有化された情の指し示す先に、何らかの対象物を想定したならば、それは、たとえ存在しなくても存在物として扱われ、宗教的な意味合いの強いモニュメントになるであろう。。。
<<<
>>> 「情」の知による表現とその限界。。。 http://jinen.exblog.jp/619876/
以下、
デリダの死。。。「存在論的、郵便的」(東 浩紀)を読み返して。。。 [2004-10-13 05:28:02.000 by kisugi_jinen]
を、少し掘り下げた内容になっています。。。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
およそ、「情」という言葉でくくられる領域の言葉は、すべて「方向性」のみを有する言葉であり、「対象物」を含まない。「知的側面で扱う場合には」以下のような言葉(ラベル)を用いている。。。
「愛」
「哀」
「怒」
「憂」
「悲」
「喜」
「楽」
「悩」
「快」
「鬱」
「憎」
「望」
「願」
「苦」
「思」
「爽」
「想」
「恋」
。。。
「対象物は含まない」といいながら(「情」の多くは)「具体的な対象物に対して」そういった「情」を抱くわけであるので、本当?ということになるかもしれない。
しかしながら、「情そのもの」を抱くのは「私の心」であり、「情そのもの」は、「私の心から対象物への方向性をもったホトバシリ」以外の何ものでもない。
すなわち、「知でラベリングした情」(上記羅列した言葉・概念・ラベル)として共有可能なものは、「具体的な対象物を有さない方向性」となる。
そして、その程度・深さは、人によりさまざまであるにもかかわらず、「わかるよね?」という程度は共有可能なわけである。ここにおいて「共感」という概念が生まれうる。すなわち、「共感できる」とは、「情の方向性を共有できる」ということに他ならない。
。。。さて、では「こころ」にとっての「情」とは一体どういうものになるのであろうか?
知的側面は、コンピュータ用語(情報処理用語)での「記号化」された「記号」そのものに相当するであろう。これらは、記憶装置に「記憶できる形をとることが出来る」という意味で、静的な存在になる。
「記号化された(コード化された)記号(コード)」とは、現在存在する実行可能なコードも含まれる。
情的側面は、基本的に方向性のみであり、具体的に発動された段階で、静的な「記憶されたもの・記号化されたもの・(哲学的用語としての)固有名」同士を繋ぎ合わせる「ベクトル」的な(仮想の)存在となる。
この場合の「存在」は、「知的側面にて記述した場合」をあらわす。
。。。
以下、知的側面での記述であることに注意
以前までの考察では、「主観的・客観的」という方向性から「こころ」を考えると、「こころ」は2重性(存在論的・認識論的)を露呈した。(ん?逆だったかな。。。)
今回の考察では、「知的・情的」という方向性から「こころ」を考えると、「こころ」は2重性(静的・ベクトル的)を露呈した。(私の発想の段階では、これも、逆かもしれない。。。)
で、「こころ」は、これら「4つ」に分断されうるのであろうか?
否
「方向性」を有しているだけだろう。。。
要するに、「この私のこのこころ」は一つであるが、見方を変えると、その見方にあわせて2重性を呈することになるのであろう。。。
<<<
この回答への補足
お礼欄をおぎないます。
次の(10)以下をおぎないます。
○ (問い求めの姿勢) ~~~~~
・・・・・
9. そしてそれというのも たたき台としては 愛がどうも善や悪よりもさらにより深く潜行しているチカラなのではないかと考えるからです。
10. 《〈悪に対してこの悪を引き受ける〉といった対応をすることは 善か悪か愛か》について 仮りに いづれでもありうると答えた場合のことです。
そのときには 善だという場合と悪だという場合 これらふたつの場合は ともに愛だという場合に含まれると 前項の(9)からは みちびかれます。
11. または愛という答えを基礎としてその上に乗っかる細分化した事例が 善であったり悪であったりする。こういう捉え方です。
12. すなわち 暴力に対して暴力で対応するのは 悪でしょう。話し合いで対応するのは 善でしょう。そしていづれも その基礎は 愛である。
13. 《その悪なる事態をも引き受ける》という判断およびその実行が 愛であるという見方です。
14. この見方考え方からすると ただ単に言葉の上でのアラシなるおそらく悪に対して単純に同調することさえ それが悪であっても その基礎には愛がある。愛がはたらいてこそ その行動が起きている。という見方になります。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ さあ どうでしょう?
ふうむ。まづは ご回答をありがとうございます。
どうも《じねんワールド》に迷い込んだようにも感じますが 分かりました。ひとまづ 分かりました。
というのは すでにじねん理論にもとづき 一貫性をもった議論を展開されているということのようです。
でしたら この質問の問い求める姿勢または筋を理解していただくには じねん理論を論破せねばならないというところまで 連れられて行ったと言いますか わたしが自分勝手にそこまで行くかたちに じねんワールドを読みこんだと言いますか になりました。
質問のねらいは かんたんです。先にそのことを述べます。
○ (問い求めの姿勢) ~~~~~
1. 《悪に対してこの悪を引き受ける》といった対応をすることは 善か悪か愛か
2. この場合には すべて《主観》の中での思惟〔および実行に移るに際しては意志による判断〕において 《悪・善・愛》を捉えるということです。
3. したがって 主旨説明としてのたたき台においては それは愛であると規定していますが この愛だという規定は あくまで一人ひとりの《わたし》がその主観として思惟し判断したところである。こういう前提に立ちます。
4. 要するに《あなたは どう考えどう判断しますか?》という問い方です。
5. すなわち
★ 「善・悪・愛」は、送り手の思いと、受け手の思いと、相互の解釈の差異によって
☆ いづれもありうるというお答えのようですが これらをさらになお《わたし》なる主観がどう捉え最終的に(または基本的に)どういう結論を出すか? が問いです。
6. というのも そのように《いづれもありうる》という答えが出て来るというのは おそらく《〔この悪を〕引き受ける》かどうかに迷う場合があるとしてのことだと思われます。そうではなくて ここではあくまで《引き受ける》という判断はすでにくだしているという前提に立ちます。それが 愛か? 愛と規定しうるか? です。
7. つまり《引き受ける》という前提を置くことは
★ 送り手の思いと、受け手の思いと、相互の解釈の差異
☆ について《わたし》はすでにおのれの主観としての解釈や思惟を終えているということです。そう言ってもまた明日になればその最終判断も変わるだろうというならば それに対しては もう優柔不断だと規定してよいと考えます。《いま・ここ あるいは その時その場》という問題だと言えると考えます。
8. そしてこの《いま・ここ あるいは その時その場》という前提は じつは 哲学としては その結論内容が変更されるに到るまでは 《わたし》の基本的な考えをみちびく前提であると見てかまわないと思うからです。
9. そしてそれというのも たたき台としては 愛がどうも善や悪よりもさらにより深く潜行しているチカラなのではないかと考えるからです。
~~~~~~~~~~~~~~~
*
さてこれだけでは じねん理論に対抗しえないようです。その理論本体に触れないとだめなようです。
さいわいかんたんにと言いますか ひとつの命題をめぐって議論ができると思われましたので 触れたいと思います。
末尾の結論部分を取り上げます。
§ 1 じねん理論は 《知・情・意》すべてを《知》すなわち認識論で把握しようとしているのではないか?
★★ ~~~~
情的側面は、基本的に方向性のみであり、具体的に発動された段階で、静的な「記憶されたもの・記号化されたもの・(哲学的用語としての)固有名」同士を繋ぎ合わせる「ベクトル」的な(仮想の)存在となる。
この場合の「存在」は、「知的側面にて記述した場合」をあらわす。
~~~~~~~
☆ つまり《固有名》――じねんさんなら じねんさんという特定の《わたし》――をも《記号化されたもの》として・つまり認識論における知に 一たんとしてでも 還元している。のではないか?
もしこうだとして そのあとどうなるか?
§ 2 やはり認識に還元するかたちをつらぬいているのではないか?
★★ ~~~~~~~
以下、知的側面での記述であることに注意
以前までの考察では、「主観的・客観的」という方向性から「こころ」を考えると、「こころ」は2重性(存在論的・認識論的)を露呈した。(ん?逆だったかな。。。)
今回の考察では、「知的・情的」という方向性から「こころ」を考えると、「こころ」は2重性(静的・ベクトル的)を露呈した。(私の発想の段階では、これも、逆かもしれない。。。)
で、「こころ」は、これら「4つ」に分断されうるのであろうか?
否
「方向性」を有しているだけだろう。。。
要するに、「この私のこのこころ」は一つであるが、見方を変えると、その見方にあわせて2重性を呈することになるのであろう。。。
~~~~~~~~~
☆ むろん《認識》は とくには事実認識なのですから――仮りに情感についてとしても その情感という事実認識なのですから―― きわめて平面的な・時には点としてのような・モノとしての扱いになります。概念をそのように扱うという意味です。
ところが《いま・ここ もしくは その時その場の〈わたし〉》は――という意味は 《「この私のこのこころ」》のことだと言ってよいと思いますが―― いま上に捉えた《〔静的〕認識》をも持って 《存在》としてある《動態》です。とうぜんのごとく
★ 存在論的・認識論的 / 静的・ベクトル的
☆ の四つの要素を――少し違いもあるかも知れませんが――みな合わせ持っています。
したがって
★ 「この私のこのこころ」は一つであるが、見方を変えると、その見方にあわせて2重性を呈することになるのであろう。。。
☆ という見方は どうも実践論としては 間尺に合わない。
この場合の《一つ》というのは 《「この私のこのこころ」》が その時その場の・いえいえけっきょくつねに世界の 全体に相い対しており その全体としてのひとつであるはずなのです。世界と対応していると捉えなければならないはずなのです。
むろんその《全体としてのひとつ》の中に いろんな要素を持っている。つまり
★ 一つであるが、見方を変えると、その見方にあわせて2重性を呈することになるのであろう。。。
☆ のではなく そうではなく順序がぎゃくであって すでに二重性も四重性も持ち合わせているのですし そのようにいくつかの要素を併せ持つゆえにこそ 見方がいくつかに分かれるということでしょう。
*
何もこれは揚げ足を取ろうということではありません。
《〈悪に対してこの悪を引き受ける〉といった対応をすることは 善か悪か愛か》の問いをめぐって 《わたし》はつねにいま・ここで世界と相い対しているからには その見方なり結論なりが 潜在性としていくつかに分かれるということはすでに大前提とされている。それが 《わたし》なる動態です。しかもこの時この場で ひとつの結論を出す。というところまで導かれるか否かですから 揚げ足取りではありません。
そうして 哲学の結論というのは――むろんつねに変わりゆくことのある思惟であり思想であるのですが―― その変更が成るまでは 《わたし》が主観として生きるからには 自分自身といった《固有名》としてのごとく 一定の内容において持たれるものなのではないか?
そうして ここで《悪をも引き受けることは 愛だ》となれば――《引き受ける》つまりすでに引き受けたという前提に立っていることに注意してください―― おそらくこの愛は 善や悪を生じさせる意志の判断とは別に・そしてさらにその底における基礎にやどるチカラなのではないか?
この見方は 特定の《わたし》の主観のでありながら 人間にとって共通の見方――基礎的な見方――を用意することが出来ているのではないか?
ここまで踏み込んでいる問いです。
なお もしこれを《タナトス》なる死の本能などと言われたなら 目も当てられない。
しかもこのタナトス理論は すでに人間にとっての普遍性を説くというかのものとして 一部では 受け容れられている。これを放っておくことは出来ない。という意味もあります。
善となる場合もあれば 悪の場合もあり また愛の場合もある。と言っていたのでは 埒が開かないし じっさい人びとにとって共通の見方も出来るのではないか? と問うています。
No.4
- 回答日時:
ご無沙汰しております。
この後、仕事に出かけますので、書き逃げになります。
悪しからず、ご了承の程、お願いいたします。
>>>
愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。
<<<
は静止概念ですね。静止概念では「愛」といった情的な思いは表現不可能だと思っております。
おそらく「愛」に該当するのは
「おのれを活かそうとし、相手をも活かそうとする」
といった動的概念になるでしょうね。。。
そうして、方向性があるのでしょう。。。
「愛国だぁ」と内から外へ投げた卵は、とある人の額で割れて、おもわず「愛国じゃなく悪国だろぅ! この害国めぇ!」と叫んでしまうかもしれないでしょう。。。卵でなく石が飛んでくるのなら、意志の力をフル活動して逃げるでしょうね。。。
外に向かって投げたはずの卵の多くは外に届かず内部の人の額で割れ、「愛国だから我慢我慢」と放置していくと時間と共に腐っていくのかもしれない。。。そうして悪臭に慣れてしまうと、さらなる哀愁(愛臭)を欲して相互に抱擁しあうかもしれないし、あまりの臭さに内部崩壊するかもしれないですね。。。
送り手側からの愛は、受け取るか受け取らないかを意志で決めるでしょうし、偶然なり必然なりで受け取った場合、受ける側にとって、場合によっては「愛」として感じられるでしょうが、場合によっては「悪」として感じられるという、ごくごく当たり前のことにしかならないのかも知れません。。。
いや、もっといえば、「公衆の面前で突然差し出されたラブレターをどうするのか?」といった質問に対し、どう答えるかは、差し出した相手が誰なのか・受け手が誰なのか(たとえば男から男)とか、過去の二人の関係は?とか、公衆といいつつ周りはおじいさん・おばあさんしかいないとか、さまざまな状況が複雑に絡み合っているわけですから、一般問題としては回答不可能とも言えるでしょうね。。。
屁理屈から入られましたね。
まづは ご回答をありがとうございます。けっこう何でも話し合える間柄になっていますので――正面から互いに批判をしても かなりのシンライ関係があると思いますので―― 直球を投げてまいります。
ええ。お久しぶりですね。
☆☆ おのれを活かし相手をも活かすハタラキ
☆ という表現は
★ 静止概念ですね。
☆ として
★ 「おのれを活かそうとし、相手をも活かそうとする」 / といった動的概念
☆ を《愛》として提唱すると言う。
この屁理屈に始まり そして残念ながら 屁理屈に終わっている。
★ 一般問題としては回答不可能とも言えるでしょうね。。。
☆ ぢゃあ お尋ねしますが
○(あ) 《悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である》場合もある
ということでしょうか?
でしたら そのように当てはまる場合に集中して まづは 検討してみてください。それが どこまで――部分的な場合ながら それとして――普遍性を持つか? です。
*
★ 送り手側からの愛は、受け取るか受け取らないかを意志で決めるでしょうし、偶然なり必然なりで受け取った場合、受ける側にとって、場合によっては「愛」として感じられるでしょうが、場合によっては「悪」として感じられるという、ごくごく当たり前のことにしかならないのかも知れません。。。
☆ 急いでいて舌足らずだったのでしょう。細かく尋ね返します。
★ 送り手側からの愛は、受け取るか受け取らないかを意志で決めるでしょうし
☆ つまりこれは 一般的に表わせば 《送り手側からの愛》というところは
○(い) 相手のおこなう自己表現
のことですね。でしたら
○(う) 相手のその自己表現を 《愛》と規定するのは
こちら側なのでしょうね?
たぶん相手が自分で自分のその表現行為は《わが愛》であると言ったとしても それの判定をするのは こちら側なのでしょうね?
とすると この一文は こうなりましょうか?
○(え) 相手の自己表現を受けて こちらはそれを《愛》と
受け留めた。その愛は《受け取るか受け取らないかを意志
で決めるでしょうし》などと言っていることになりますが
それでいいのでしょうか?
どうもおかしいですね。つまりまづは《受け取る》でしょう。そしてこれを《受け容れる》かどうかは 別問題ですから。
悪であっても 受け取る(受け留める)だけはします。受け取らなければ こばむことも出来ません。
その相手の愛なる表現に対してどう答えるかは むろんおっしゃるようにこちらの自分の意志で決めましょう。
そのあと このようにすでに分析した内容がふたたび蒸し返されて議論されています。
★ ・・・偶然なり必然なりで受け取った場合、受ける側にとって、場合によっては「愛」として感じられるでしょうが、場合によっては「悪」として感じられるという、ごくごく当たり前のことにしかならないのかも知れません。。。
☆ 《受け取る(受け留める・つまり 相手の自己表現を認識する)》ことは すでにまづおこない済みです。
つぎにその受け取ることが《偶然なり必然なり》だというのは どうか?
たぶんこの場合には 《ただ受け取る》だけのことを言うのではなく すでに《相手の申し出を受け容れる・つまり同意する》かどうかを言っているようです。
《受け容れた》なら《偶然も必然も》なく おのれの意志行為として それはそれとして成立します。つまり こばんだ場合にも それとしておのれの意志行為が成立します。
そうして
★ 場合によっては「愛」として感じられるでしょうが、場合によっては「悪」として感じられるという
☆ といった分析が この段階で出されています。
初めに相手も愛と言い これをこちらがやはり愛だと受け留めるかあるいは悪だと捉えるかは すでにその段階があるとして分析済みです。・・・
ですから このことが
★ ごくごく当たり前のことにしかならないのかも知れません
☆ という事例だというのですが ここから末尾のむすびをみちびいていますね?
つまり――このことをわざわざわたしが示そうとするのは 時間がない中でしたためられたということをこちらが確認したというだけの話ですが――
★ 一般問題としては回答不可能とも言えるでしょうね。。。
☆ が結論として提示されている格好です。ですから この確認は 言わずもがなで済ませるわけには行かなかった。こう思います。
そうではなく 質問の問いが当てはまる場合があると もしするのなら その場合について検討してみてくださいという提案になります。
*
中ほどで 時事問題にからむご見解を示されています。
まづ
★ ~~~~
外に向かって投げたはずの卵の多くは外に届かず内部の人の額で割れ、「愛国だから我慢我慢」と放置していくと時間と共に腐っていくのかもしれない。。。そうして悪臭に慣れてしまうと、さらなる哀愁(愛臭)を欲して相互に抱擁しあうかもしれないし、あまりの臭さに内部崩壊するかもしれないですね。。。
~~~~~~~
☆ たぶんこれは そうなることはないのでしょうね。
★ 外に向かって投げたはずの卵の多くは外に届かず内部の人の額で割れ
☆ ここまでのことでしょうね ありうる事態は。
★ 相互の抱擁
☆ は こと外交関係にかぎらず 生活から社会的な事件に到るまで何ごとにつけても そういうクセを持っており そうすることがよくあるのだと思います。これは 何もしないでただただ泣きやむまで泣きつづけるというような《無限抱擁》だとも説かれて来たもんだいです。
★ ~~~~
「愛国だぁ」と内から外へ投げた卵は、とある人の額で割れて、おもわず「愛国じゃなく悪国だろぅ! この害国めぇ!」と叫んでしまうかもしれないでしょう。。。卵でなく石が飛んでくるのなら、意志の力をフル活動して逃げるでしょうね。。。
~~~~~~
☆ 《とある人の額で割れて》の《とある人》は 国内の人なのですね?
だとしますと こうなります。
つまりこの事例というのは いまさっきの上の事例が 《我慢我慢》で内向きになりそれが腐るに到るまで内攻する場合だったとすると この事例というのは 我慢せず多少は抵抗し反抗するという場合でしょうか?
★ 卵でなく石が飛んでくるのなら、意志の力をフル活動して逃げるでしょうね。。。
☆ この石も いまの分析からすると 国内の人間が自己表現するところのひとつの内容だとなります。卵ではなく石であった場合には 《我慢我慢》の問題ではなくなり 《逃げる》ということでしょうか?
この石が 国外からのものだったら?・・・
*
どうも――分析の視点が片寄っていたかも知れないわけですが―― 《悪に対してこの悪を引き受ける》といった対応をすることは 善か悪か愛かという質問のかかげる問いからは離れているように感じられますが いかがでしょう?
おそらく落ち着いたご説明があるかと思います。よろしくどうぞ。
No.3
- 回答日時:
悪について、
1.社会生命としての人類に反する事
2.その営為に害をなす事
の2つが考えられる。
1.には、現状を打破して進歩する可能性もある。
思索において、批判が先鋭化を助けるように、
必ずしも目先の迎合ばかりが、長期的な
プラスにつながるとは限らない。
しかし少なくとも、自己顕示欲ばかりで飾られた、
認識の深まりの労苦を避けた、修飾だけの詩作
では、その任は務まらない。
あいまい過ぎます。
★ 1.社会生命としての人類に反する事
☆ この表現による命題 これが
★ 修飾だけの詩作
☆ ではないと論証できますか?
★ 社会生命 / 人類
☆ この概念が もんだいでしょう。
要点のみをしるしました。
悪意を〔主観として〕感じましたので ご回答への感謝の意を表すのを失念するという悪で応じます。
No.2
- 回答日時:
bragelonneさん、こんばんは。
「「完璧な人間」なんて、居るのか?」というようなお話が、聖書にあったと思います。
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
ええ。パウロが語っているところだと思います。
自分がすでに完全であるとかそういうことではなく しかも――自分はにせの信仰者であると見られたとしても―― 《わたしのように完全な者になりなさい》というような信仰における態度の問題としての発言があると思います。
あとは 自分のチカラに応じて 悪に対処する。これでよいのではないでしょうか?
そして じつは・じつは・じつは おのれが弱い人間であるにしても強い人間であるにしても けっきょく しばしばわたしたちは 相手の悪に つい同調してしまう。ことが起こります。
そしてむしろこのような場合 たとえきちんと準備したかたちでなくとも 悪に同調すらしつつ 悪を引き受けるということ。善としてかあるいは悪を含むかたちとしてか 悪を引き受ける。ことが起こる。――これは 煮詰めて言えば 《愛》ではないか?
こういう問いです。
No.1
- 回答日時:
・・・ん(酔滝汗)
しかし、もっとシンプルに「他者に関心を持つ」という事象、
それ自体が既に「愛」なのではないか、とも。
つまり他者に「無関心」である事は「悪」な状態なのではないかと。
・・・色々と勉強不足で済みませぬ(_ _;
いえいえ。この主題に関心を持っていただき そしてご回答いただき ありがとうございます。
まだ 出来立てほやほやの考えです。
★ ~~~~~
しかし、もっとシンプルに「他者に関心を持つ」という事象、
それ自体が既に「愛」なのではないか、とも。
つまり他者に「無関心」である事は「悪」な状態なのではないかと。
~~~~~~~
☆ おおむね同意します。
そこでですが そこで 次のような問いが持たれます。
1. なるほど《他者に無関心であること》は 《おのれの善なる能力を働かせないというかたちで つまり善を発揮する機会を見逃すというかたちにおいて善を損ねる》なら 《悪》である。
とするとき では 他者の悪に対して 無関心であることは どうなのか?――という問いです。
2. すなわち 《他者に関心を持つ》なら おそらくその他者の考えやおこないなどの全体について関心を持つと思われる。では そのうち悪〔と思われること〕に関心を持つのかどうか?――という問いです。
3. すなわち 他者の悪について無関心であることは 悪か?――という問いです。
4. すなわち ぎゃくに言えば 他者の悪について関心を持つとすれば それは どこまでのことを言うのか? そしてそれは 悪か 善か 愛か?――という問いです。
5. すなわち 他者の悪に関心を持ったとして それは 自分の頭のなかでその他者の悪について認識することまでとして関心を持つことで よいか? それで足りるか?――という問いです。
6. もし足りないとすれば 認識以上のこととして関心を持つとは どういうことか?
7. たとえば 他者の悪にこちらもつい同調してしまうことがある。その場では きちんと関心を持ってそうしたというのでなくとも あとであらためてそういう結果をも受け留めて 悪に同調したという事態をも あとからでも 引き受けるということ。ここまで踏み込むことは 善か? 悪か? 愛か?
8. 他者の悪に関心を持ち その事態や文脈(環境)にもこちらが分け入って行くこと そのような《悪への参加》は 善か 悪か 愛か?
9. 他者の悪を そして何らかのかたちでその場の全部をともかく――自分が関与しうるかぎりで――引き受けるということ。これは 善か 悪か 愛か?
というような問い求めになっています。どうでしょう?
尖閣諸島の領有を主張することは ウソ・イツワリにもとづく悪だと考えられるとき この悪に対して こちらは どのように・どこまで関心を持つのがよいか?
たとえ悪を引き受けるというところまですすんでも それは 善か 悪か 愛か?
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