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僕も彼女はクリスチャンではありませんが、彼女はキリスト教系の学校の出身です。
キリスト教、聖書の世界に少しばかり興味を持っているそうです。

僕からお恥ずかしながら「愛しています」というと

「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」
とあしらわれます。

付き合っていていろんな問題が起こった時に

「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」

と言います。

クリスチャンの友人もたくさんいますし、礼拝に参加したこともあります。
百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。

彼女の話を聞いても神が用意したから私はただ受け入れるだけで、それで「合わなければ別れるのも運命」と言います。
自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。


彼女にしても友人を見ても偏っているなぁと感じることが多いです。

「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか?
自分で困難を切り開こうとしないのですか?

A 回答 (13件中1~10件)

神のマニアです。

http://okwave.jp/oodakedo/803.html

>「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」
うちのばあさんもよく似たようなこといってたので、わたしも質問者さん同様によくむかついてました。

>「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか?
宗教の運営側の目的のひとつに「信者を自在にコントロールする」というのがあります。そのためには、信者には余計なことは考えさせないほうが都合がいいのです。そのため、キリスト教では「神の計画」という概念が用意されています。「神が用意した」とは「神の計画」のことでしょう。

神の計画
http://cookingfoil.blog106.fc2.com/blog-entry-12 …

交際相手が信者の場合、そのことを踏まえたうえで、相手に合わせてあげる努力が必要となります。それが嫌なら、お付き合い不可能です。信者に神やら神の教えやらを否定するようなことを言うのは、「日本人は完璧に頭の狂ったキチガイの集団なんだよ。日本人はバカで知性のない下等な連中。」っていうようなものです。そこらへんの所をふまえて、相手を怒らせないように注意しながらお付き合いしましょう。

キリスト教について知りたいなら、このサイトがお勧めです。
http://cookingfoil.blog106.fc2.com/
※このサイトは信者に見せると機嫌が悪くなるので、彼女に見せないように注意!
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 こんにちは。



 ★ 「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか?
 ☆ 意味はありません。

 もしそれでも意味がありうるとすれば それはこうです。
 《〈神が用意した〉とわたしが思っている》という意味です。

 これは じつは 意味がありません。ほかの人に対しては意味がありません。
 その証明のしようがないということも 問題です。

 したがって ほかの人に対しても意味があるようにしようとするのは 狂気です。
 せいぜい そのわたしの《思い》を知って少しはそのことに気を配って欲しいといったところまでは 考え得ると言うべきかも知れません。

 知れませんが それなら そうはっきり言うべきです。つまり《〈神が用意した〉とわたしが思っている》その思いを無下に否定しないで欲しいとはっきり言うべきです。神を出して表現しているが 《わたしの思い》なのだと。

 そうすると おそらくその《わたしの思い》は ただの《思い》であり 神の問題なのではなく自分自身の問題であり おのれの意志のあり方の問題だということになり それに気づけば或る程度はふつうのコミュニケーションが出来るようになるのではないでしょうか?

 神というのは 分からないものなのですから 自分の思い込みが他人(ひと)にそのまま受け容れられると考えているとしたら まだその人はふつうの社会人になっていないと考えるしかありません。

 神が誰にとっても 自分たちの思うとおりの内容の存在であると思い込んでいる組織が 神をあなどり自分自身をころしていると考えられます。
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クリスチャンの問題ではなくて、君の彼女の問題ですよ。

ハズレですね。
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プロテスタントのクリスチャンでモルモン教、統一教会、エホバの証人とは関係ございません。

あえて言えば昔「聖書に帰ろう」と述べたマルチン・ルターの流れの中にいるものです。

>「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」とあしらわれます。

聖書の主題は愛だと思います。聖書では端的に「愛とはその友のために命をすてること」と単純明快に述べております。聖書を開いてあるいは他のクリスチャンに聞いて確認する必要もないほどです。おそらくお友達の女性の方はキリスト教系の学校でそのような事を学ばれたので、軽々に「愛」という言葉を使用して欲しくなかったのではないかと思います。ただ英語の世界では「愛=Love」は煩雑に用いられておりますので、かなり聖書に精通したクリスチャンでない限り、恋愛の愛と神も愛とを峻別していないと思います。

>「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」

私どもの持っているもの、財産や友人やご自分の体でさえ、神が与えなければ存在しないものというのはキリスト教の世界観です。どなたであれ、ご自分で生まれてきたいと意志をもって生まれたわけではございません。また生まれた後で、いろいろ学んできましたが、自分が何者で、どこに向かって生きているのか、その目的さえはっきりしません。つまり私どもはほとんどなにも分かっていないというのがご自分や世界を眺めた時の率直な感想だと思います。

>百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。
>自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。
>「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか?
>自分で困難を切り開こうとしないのですか?

聖書では以下のように述べています。ルカの福音書11章

11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

逆に読みますと、求める努力がないのであれば与えられないと読むことが出来ます。また別の箇所では次のように述べています。これは聖書のなかで最も有名な箇所で、多くのプロテスタントの教会では礼拝の最中に必ず一度は読み上げられる箇所です。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ

つまり日々の食事という当然と思える物も神から与えられて始めて有りつけるもので、そのようなものも毎日もとめてゆきなさいという事を意味しております。さらに聖書の別の箇所では困難な道を選んで努力しなさいと受け取れる箇所あ随所にあります。下の箇所も有名な箇所です。

マタイ7章13節~14節
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

つまり聖書は努力しなさいという事を述べております。しかしその結果なにか社会的な地位や、富を手にいれても、それは神があたえたものなのだというのが聖書の見解です。クリスチャンの人生観はその友のために命を捨てるほどの努力を要求しますが、そのような愛は神が与えたということになります。現代の科学技術をもってしても、ひとの命を多少伸ばすことができる程度で結局はすべての人が死んでゆきます。与えられていると思っている物が実はすべて神から与えられているという事を知ることは幸いなことと思います。

聖書の言葉

『ヨハネによる福音書』15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

これは色々な心の葛藤、死を望むほどの辛い経験をを通してついにクリスチャンになったとき、多くのクリスチャンが体験することです。何の取り柄もないものを選んで、なにか有用なことをさせてさせて下さるかもしれないと思わされます。聖書は明らかに努力することを求めております。比喩的に言えば天国の門にはおそらくこのように書かれいるという説教を聞いたことがあります。

入る側には「求めなさい、そうすれば与えられる」と記載され、また入った後振り返ると、そのの同じ門には「私があなたを選んだ」と記載されています。
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>自分で困難を切り開こうとしないのですか?


 普通のキリスト教徒は教会関係者から言われたことをそのまま信じている人が殆どのようです。ですから疑問に思われることが発生しているのでしょう。事実、全て神に頼っているようで、自分で困難を切り開こうと考える前に、神に祈るようです。祈れば通じるという学説もあります(村上和雄、棚次正和著 人は何のために祈るのか)ので、神が話しを聞いてくれて困難が解決するかもしれませんし、そうでないかもしれません。お賽銭を上げて願い事をするのと同じことと思えば良いでしょう。

 我々日本人の殆どはお賽銭を上げて願い事をしても、そのことが100%叶うとは思っていないでしょう。願い事をすれば気持ちがいくらかすっきりするだけです。従って後は自分で努力することになりますが、キリスト教徒は自分で努力しているのかどうかは分かりませんが、日本人より神に頼る傾向が多いようです。

 私自身は聖書にはものすごく沢山の間違いがあるような気がしており、聖書の最初の頁、最初の文章「初めに神は天地を創造された。」からして間違っていると思っています(理由は長くなるし、私独自の見解なのでここで述べても意味がないので省略します)。

 このようにイロハのイから間違ったと思われる聖書でもキリスト教徒は何にも考えずに信じており、あるイギリス人に会ったとき、その人は世の中は神様がお作りになったと信じ込んでいました。

 このようにキリスト教徒は聖書を何も考えずん信じ込んでいる人が多いので、彼女の場合もそのように信じ込んでいるだけでしょう。少なくとも日本人の殆どは聖書に書いてあるような馬鹿なと思われることは全く信じていないでしょう。このように宗教に入れ込んでいる人は、入れ込んでいない人から見ると馬鹿な考えを信じていると思えますが、宗教に入れ込んでいる人はマジメにそのように信じ込んでいるわけです。

 ですから、どちらが正しいと断定することはできません。

 でも、どのように信じようとそれはそれぞれの人の自由です。ですから彼女の思想を尊重するならそれで良し、宗教に入れ込んでいる他人の主張を認められないなら、宗教に入れ込んでいる人とはつきあわない方が無難でしょう。

 どちらにするかは当事者次第で決まることです。

 私自身はキリスト教は(キリスト教に限らず宗教全般もですが)ある部分については詐欺であると思っていますが、信者はそれでも宗教によって救われると考えているようで、それで私に被害が及ぶわけではないなら、キリスト教徒が教会の指導に従っているならそれはそれで良いと思いますが、私はそのような馬鹿馬鹿しいことは信じることはできませんが、彼らがそう信じているのですから、それを尊重したいと思います。例えば宗教入れ込んでいる異性と結婚しても、相手がどのような思想でその宗教を信じようと、どのような宗教活動をしようと私には関係のないことで、一切制約するつもりはありません。しかし、私自身が相手に会わせて生きることはないでしょう。自分は自分、他人は他人という考え方で生きるでしょう。

 ですから

>「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」
とあしらわれます。

付き合っていていろんな問題が起こった時に

「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」

と言われても、「そーなの!」という返事は返すでしょうが、敢えて相手の考えを変えさせるつもりもないし、私が従うつもりもなく、お互い別の考え方を取るでしょう。

 蛇足ですが、問題はイスラム教のような思想にあり、その場合は人は人、自分は自分というわけにいかず、トラブルが起きますので要注意です。

 例えば「悪魔の詩」を書いた人に対して勝手に死刑宣告をし、死刑を執行した人にはかなりの報奨金を出すとまで公表しています。こうなると彼らはいわゆる「殺人」でさえ、神の意志であり、「正しい行為」と信じているようで(聖書にもそのような記述があり,神がある人々を殺せと命じています)、彼らの思想が我々の概念では間違っていても、そのことを否定するとこちらの命に関わってくるので、絶対に深づきあいしない方がよろしいでしょう。

 考え方が世界の標準とは違うのですから、風俗習慣が同じ人間であると言うことはできないのですから、完全に分離すべきと考えるべきでしょう。

 イスラム教を否定する必要はありませんが、要は近づかないこと、彼らの風俗習慣を乱さないことに注意が必要でしょう。こうなるとどちらが良い悪いと言っても平行線で、共同生活など成り立ちません。

 その点、キリスト教であれば、お互いが尊重し合って、そちらはそちら、こちらはこちらという考えで共同生活ができ、トラブルが起きたときは共通の風俗習慣に従えば良いでしょう。
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一神教は基本的に政治ツールでしか有りません。

それが仏教との大きな違いです。
それに神の万能性に関する言葉遊びですが、こんなものがあります。

神は「絶対にいう事を聞かない者」を創造できない。
もし創造できなかったとしたら、神の万能性にケチがつく。仮に創造できたと
しましょう。では、その者を従わせる事ができるか。できてもできなくても
神の万能性は揺らぎます。結局はその程度でしかない。

偏った思想を掲げていても立派な事を成し遂げた者もいますが、しかし、
偏っている事を否定する事はできません。これが個人的印象です。

敢えて言うならば、その彼女はちょっとおかしい。
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私はカトリックです。

といっても自称「転びバテレン(広義でのバテレン)」ですけど。

聖書には「すべては神が用意した」などとは一つも書かれてはいませんよ
そんな事を教える神父だか牧師がいたらインチキですね。
ましてやキリストの居た時代ならイザ知らず、あるいは階級制度のある国ならイザ知らず、努力次第でどの階層にもいける世界ではそんな教えなどないでしょう。
聖書では現状でも身動き取れなくても耐えて生きろとは教えていますが、それが宿命だなんて一言も言っていません。

ちなみに運命は文字通り運命の運びでいくらでも変えられます。しかし宿命は命の宿るところでありそこから脱することはできません。
私が人間であること、日本人であること、○年○月○日に生まれたこと、そしていずれ死ぬことは宿命です。しかしこの人生は意図的に或いは流されたとしても宿命ではなく運命なんです。
運命を受け入れるか、変えていくかは本人次第なんです。

虐げられるものが幸い・・それはキリストの時代なら、そして今でもユダヤの教えならある程度は宿命。でもほとんどの世界では、宿命ではなく運命です。そしてあがいても上手く抜け出すことができなくってもその頑張りに対し神は天国を用意している、だから投げ出さず生きろ。それが聖書の語る言葉です。
神が用意したもの、それは私という肉体だけです。
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>「『愛』という概念はないんだよ。

だから私は『好き』しか使わない」
とあしらわれます。

愛という概念はあります。宗教的な「愛」という言葉を恋愛に使うのは
おかしいというだけです。

>百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。

神様の恵みを使って、その上で努力するという意味でしょうか。

>自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。

宗教的な「愛」を主張したいなら、それでも愛せなければなりません。
キリスト教の教義で「努力するな」というのは聞いたことがありませんが。
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「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか?


自分で困難を切り開こうとしないのですか?
     ↑
キリスト教では神は全知全能の創造神ですから、総ての事柄は
予め決まっている、神が決めたのだ、という決定論の事だろうと思います。

その彼女はプロテスタントで、カルヴィン派の影響を受けて
いるのではないですか。
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>キリスト教では神は全知全能の創造神ですから、総ての事柄は


予め決まっている、神が決めたのだ、という決定論の事だろうと思います。

その彼女はプロテスタントで、カルヴィン派の影響を受けて
いるのではないですか。

この考え方だと絶望してしまうこともあると思います。
地獄行きが決定されていたら悔い改めても無意味ということに
なってしまいます。
カルヴィン派以外では使っていない考え方だと思いますが。
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