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  《無限集合にはその大きさの大小があるということ》

 というカントールの定理をめぐる次の証明の仕方はマチガイではないでしょうか?
 なるべく数式を使わずにおしえてくださるとありがたいです。

▲ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点) ~~~~
  http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164 …

 2.神の証明
 (その後半部分)

 ( a ) 次に、2つめの定理〔*--《無限集合にはその大きさの大小があるということ》--〕を見てみましょう。

 ( b ) これもわかりやすい例を挙げて説明します。無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。

 ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。例えば、

  0.17643567……
  0.23482435……
  0.62346286……

 ( d ) 次に、この無限列の各行に対応する各々の無理数と、1から始まる自然数とが次のような1対1対応を作ると仮定します。

  1⇔0.17643567……
  2⇔0.23482435……
  3⇔0.62346286……

 ( e ) ここで自然数1に対応する無理数から小数点以下1番目の位を取ります。次に自然数2に対応する無理数から2番目の位を取ります。これを続けていけば0.133……という無理数が得られます。

 ( f ) この無理数の小数点以下の数字を各々勝手に変えます。このような操作によって例えば0.245……という無理数ができます。

 ( g ) この数は、自然数1に対応する無理数とは小数以下1番目の位で違い、自然数2に対応する無理数とは2番目の位で違い……となり、自然数と1対1対応させたどの無理数とも異なっていることが明らかです。

 ( h ) すなわち、無理数全部の集合は自然数全部の集合よりも濃度において大であることが示される訳です。
 ~~~~~~~~

 【Q‐1】 ( c )の《(0と1の間の)すべての無理数》というとき そのすべてがリストアップされうるのでしょうか? それは 無限――つまりこの場合 可能無限――であると見てよいか?

 【Q‐2】 もし前項の無理数の集合が 無限であるならば ( d )の 1,2,3,・・・とやはり対応させられる自然数の数も無限になる。と捉えてよいか?

 【Q‐3】 もしよければ ( f )に言うあらたに勝手に作った無理数(例えば0.245……)は もともとその無理数の集合の中にふくまれているものではないか?

 【Q‐4】 言いかえると その無理数((例えば0.245……)も とうぜん自然数の無限の列挙と初めに対応していたはずではないか? なぜ( g )のような結論にみちびかれるのか?

A 回答 (63件中21~30件)

No.41 お礼欄 >>>


 ☆☆ 真無限=実無限=神
 ☆ は 数学から見れば 強引すぎるようですので

 ○ 真無限=実無限≒神

 とします。でも 真無限は 非経験の場という想定なのかなぁ。つまり =神 だろうか。
<<<

「真無限」という概念が不明なので、なんとも申し上げられませんが、
あえて数学記号を用いて書くのなら

「実無限」∈「神」
ないし
「実無限の集合」⊂「神」
でしょうか?。(「⊂」は「真部分集合」の意味)

「実無限は神に含まれる」です。

ただし、この場合、
∀「存在するもの」∈「神」(すべての存在するものは神に含まれる)となって、汎神論に近づきます。

いずれにしても「神とは○○で【ある】」という肯定的な定義を「どうしても」行おうとしておられるようにしか見受けられませんが。。。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ 「実無限は神に含まれる」です。
 ☆ いや これは 言わずもがなのことです。
 
 この経験世界はすべてが 神に――あるいは《無い神》に――ふくまれます。
 つまり:

 ★ ~~~
 ただし、この場合、
 ∀「存在するもの」∈「神」(すべての存在するものは神に含まれる)となって、汎神論に近づきます。
 ~~~~~ 
 ☆ そうではありません。汎神論も その人の自己表現の形態であり その一環であるというに過ぎません。ほかの自己表現を成す人もいます。つまり 人間が神をひとつの内容として規定することは 自由ですが 普遍性をそのままでは持ちません。

 言いかえると その文体としての自己表現は つまりは《神とワレとの関係》を語ろうとするわけですが この神体験は けっきょく神(ないし無い神)のことをその表現に出さないことが もっとも普遍性を持つ。ということになるかと考えます。
 (《語ろうとした》場合にであって 語ろうとしていないときに《神のことを出さない》から普遍性を持つという意味にはなりませんが)。


 この神の定義をめぐって
 ★ いずれにしても「神とは○○で【ある】」という肯定的な定義を「どうしても」行おうとしておられるようにしか見受けられませんが。。。
 ☆ と受け取られてしまうということですので なかなか伝わらないうらみがありますが いま言っていることに大きなマチガイはないと思っています。

お礼日時:2012/10/27 08:45

>>> No.41 お礼欄


★ おっしゃっているのは、「小数点以下が【無限】に続くタイプ」(順に小さくなる数が続いていくタイプ)ということであって、「実無限」であるかとか「可能無限」であるかとかの区分とは本質的にことなります。
 ☆ これは 可能無限ではないのですか?

 実無限は 数学で言うばあい その無限につづく数が どこか一次元うえの場から見て 人間から見れば限りなくつづくところを限りがあると見立てたその見方による数を言うのでないですか?
<<<

そのように考えておられたのですか?

「実無限は 数学で言うばあい その無限につづく数が どこか一次元うえの場から見て 人間から見れば限りなくつづくところを限りがあると見立てたその見方による数」ではありません。

まず、無限は「有限(限りがある)では【ない】」でしょう。

また、「どこか一次元うえの場から見て」ではなく、「別の視点・定義から見て」であって、上下的な視点の位置の違いといったことにはなるでしょうが、「あくまで人の思索の範疇」になるでしょう。

私がNo.4で引用した哲学者・横井氏の文章は、bragelonneさんの立場(視点)に近いから理解しやすいだろうということで、参考としてあげました。記述の全てが「そのまま正しい」とするのは良くないと思います。
横井氏から「いわば神様的な」といった言葉が飛び出してしまうのは、「実無限」という概念を受け入れがたかった記憶があるからでしょう。だからこそ、数学の範疇での「無限公理」という概念を受け入れざるを得なかったときに、あたかも上位の次元からの「いわば神様的な」概念に思えたからではないでしょうか?

>>> No.40 お礼欄
・円周率の完全な値は、はじめから決まっているといういわば≫神様的な考え方≪です。
<<<
引用するなら、「いわば」を含めるべきだったのではないでしょうか?
そうすれば、No.36 お礼欄の(え)も「(そもそも)人間のままでも公理(ないし、そういった仮定がある)として考えることができる範疇(なのだが)」となるのではないでしょうか?

そもそも、人知(の更に狭い範疇としての記号化可能部分の更に狭い範囲での論理化可能部分)の範疇内部での話でしかないのです。
だからこそ、数学の世界で扱いうる話なわけです。
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この回答へのお礼

 つづきましてです。

 実無限の仮定ないし無限公理の設定のときに必要となる視点は 通常の視点との違いがあってそれは
 ★ 上下的な視点の位置の違いといったことにはなるでしょうが
 ☆ これでわたしは満足です。

 ▼ いわば≫神様的な考え方≪
 ☆ としての視点でしょう。



 つまり
 ★ まず、無限は「有限(限りがある)では【ない】」でしょう。
 ☆ を精確に言えば:

  ○ 実無限は 限りなくつづく数のあり方を限りがあると見るチカラを有している者がそのように見たそのことを表示する概念である。

 でしょう。つまり
 ▼ いわば≫神様的な考え方≪
 ☆ です。
 ★ だからこそ、数学の世界で扱いうる話なわけです。

 ゆえに
 ★ そもそも、人知(の更に狭い範疇としての記号化可能部分の更に狭い範囲での論理化可能部分)の範疇内部での話でしかないのです。
 ☆ はマチガイです。雲をつかんだと――その主観において――表現しうることは 人知に属しますが そのことの当否や成否は あくまで仮りの物語としてあつかうのだというつつましさを人間は持ちます。

お礼日時:2012/10/27 08:34

(特に)No.33でのお礼欄に対する当方の考えについて、順に分けて記しております。



No.33 お礼欄 >>>
(5) ★ bragelonneさんが「神概念」を「人智の及ば【ない】ところ」と(否定神学的に)定義されるのであれば、如何なる無限の概でも言い表せ【ない】ものとすべきです。 
 ☆ につきましては まづ
  
  ☆☆(No.15お礼欄) 神:考えても《分かるか分からないかが分からない》もの

 と定義しています。
 言いかえるならこれは ひとりの人間の主観の内においては《分かったぞ》というヒラメキがあるかも知れないことを意味します。

 (6) ただし その主観を超えて その認識をほかの人と共有することは出来ない。なぜなら 出来てもその妥当性についての証明はついぞ成し得ない。からです。

 まぼろしやあるいは錯覚のまま いわば《神体験》は 推移します。

 その神体験を活かそうと思えば ヒラメキ(直感および直観)を経験合理性にもとづく言葉で表現しなおせばよいということになります。表現し直せるかどうかも 問われるわけです。


(7) 《神》にちなんで〔だと思いますが〕
 ★ 実無限は「はじめから、無限という概念が【ある】」です。
 ☆ という定義をなさっています。これは 《無限》という概念の定義がさらに求められます。実無限の定義は まだ定まりません。

 (8) 言いかえると もしこの実無限=神 だとしますと それはひとつに《概念としてある》ものではない です。むろん言葉ないし概念を仮りに当ててそれをとおしてわれわれは認識しようとしますが 概念ないしイデアではありません。もしそうなら 精神に属しているものということになります。神が です。
<<<

まず最初に、(7)は、当方の明らかなミスです。申し訳ない。
 ★ 実無限は「はじめから、無限という概念が【ある】」です。

 ★ 実無限は「はじめから、実無限という概念が【ある】」です。
になります。

可能無限と実無限についての定義を再掲したのは、それぞれ否定的な【ない】か肯定的な【ある】かのどちらを用いるかの違いだということを強調するためです。

さて、
>>>
(5)
  ☆☆(No.15お礼欄) 神:考えても《分かるか分からないかが分からない》もの
<<<

ということは、「認識論の側からの定義であって、存在論の側からの定義ではない」ということですね。

当方の「神概念」も「認識論としての神」という意味です。まさにNo.33お礼欄での(5)に相当します。(「概念」は、厳密に表現可能なら「定義」とか「公理」とかいった言葉に置き帰ることが可能なものです。)

認識する主体にとって、(仮想的・幻想的に)「神」が設定されうる。「存在論としての神」については「ある・ない」のどちらでもOK(認識主体にとって、存在の有無は不明)。認識主体にとって「存在しうる」と明言できるのは「概念としての神」(神概念)まで。
たとえば、否定神学的な神を想定するのなら、

(A)「神概念」として「どのような言葉でも表すことができ【ない】存在」という表現そのものが相当する。

ですし、

相当する「神」については、

(B)神概念を通した先(認識の外)の「存在する」か「存在しない」か不明な「神」

です。

同様に(訂正版を使用させていただきますが)

(C) ★ 実無限は「はじめから、実無限という概念が【ある】」です。

での、「実無限の概念」は、実無限の定義に該当する「無限公理」に該当します。(厳密に「言葉として」表現可能なので、「概念」というより「公理、定義」になります)

(D)無限公理は「空集合を要素とし、任意の要素 x に対して x ∪ {x} を要素に持つ集合が存在する」
なので、
(C)は
(C') ★ 実無限は「はじめから、『空集合を要素とし、任意の要素 x に対して x ∪ {x} を要素に持つ集合が存在する』という無限公理が【ある】」です。
になります。

したがって、
>>>
(8) 言いかえると もしこの実無限=神 だとしますと それはひとつに《概念としてある》ものではない です。むろん言葉ないし概念を仮りに当ててそれをとおしてわれわれは認識しようとしますが 概念ないしイデアではありません。もしそうなら 精神に属しているものということになります。神が です。
<<<

は誤解です。
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この回答へのお礼

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。みぞが埋まって来ているようにも感じますが ここは細かくまいりましょう。

 まづ 神の定義にかんしてです。

 ★ ~~~~
    (あ)☆☆(No.15お礼欄) 神:考えても《分かるか分からないかが分からない》もの

 ということは、「認識論の側からの定義であって、存在論の側からの定義ではない」ということですね。

 当方の「神概念」も「認識論としての神」という意味です。まさにNo.33お礼欄での(5)に相当します。(「概念」は、厳密に表現可能なら「定義」とか「公理」とかいった言葉に置き帰ることが可能なものです。)
 ~~~~~~~~
 ☆ 《まさにNo.33お礼欄での(5)に相当します》とまで言ってもらっているのですが やはり細かく見て行きたい。

 たしかに(あ)は
 ★ 「認識論の側からの定義であって、
 ☆ ですが 微妙に見るなら
 ★ 存在論の側からの定義ではない」ということですね。
 ☆ にもならず じっさいその想定の結果 神の《存在(有る または 無い)》をもさだめています。

 ややこしいことを言いますが:

 (あ‐1) 人間にとって《分かるか分からないかが分からない》という意味での《非経験の場》 これを神と想定する。

 (あ‐2) どうであるか人間には分からないのですから この《非経験の場》はチカラでもあり得ます。《〈神は有る〉という表現をえらぶ》にしても《それは〈無い神〉だ》と断定するにしても 或る種のチカラとしてこの経験世界にまでハタラキをおよぼしているかも知れない。

 (あ‐3) 経験世界におけるあらゆる経験則を超えているという意味は――想定だけの問題としても―― そういうあり方(あるいは 無さ)を取ると推理されます。

 (あ‐4) つまり そのようにすでにチカラないしそのハタラキと言っているからには 初めの想定としての認識論がすでに《存在》論をも予定していた。となるはずです。


     *

 
 同じ主題が つづきます。

 ★ ~~~~
 認識する主体にとって、(仮想的・幻想的に)「神」が設定されうる。「存在論としての神」については「ある・ない」のどちらでもOK(認識主体にとって、存在の有無は不明)。認識主体にとって「存在しうる」と明言できるのは「概念としての神」(神概念)まで。
 ~~~~~~~
 ☆ (い) 想定するとき それは《仮想的に》になりますが 好んで《幻想的に》にはならなくてよいと思います。このことは 重箱の隅をつっついたのですが 次は きわめて微妙な理論になります。

 (う) ★ 認識主体にとって「存在しうる」と明言できるのは「概念としての神」(神概念)まで。
 ☆ (う‐1) 主体は われわれ一人ひとりの人間です。《認識(知解)》も《記憶》もそして《意志》もあります。

 (う‐2) 神については人間が何も《明言できる》ものはありません。すべて想定であり そこからの推理として 属性規定や神の飾りの形容句が派生するのみです。つまり 神の話は すべてが物語です。雲をつかもうとしているのみです。

 (う‐3) 神の物語を語るとき むろん神を人間のことばないし概念で仮りに表わして 推理して行きます。けれども 神が《概念になった》わけではありません。架空の言葉をあやつって 雲をつかむ話を編んでいるだけです。

 (う‐4) 物語にして語るときその神は 《存在しうる》とかましてその《存在を証明する》とかの議論にはなりません。語ろうとしていることは あくまで語るひと本人の主観を述べているということです。

 (う‐5) 言いかえると 人間はおのおの自己表現の動態として生きている。その表現をもって互いに交通しあう。その一環として いわば信仰の談義もありうるということだと見ます。雲をつかむような信仰の談義でも そこから経験事物にかんする思想が得られて来る。ゆえにです。

 (う‐6) 言いかえると 人間がつねに自己表現を繰り返し重ねつつ生きるというその動態は 《文体》という過程だと見ますが――ですから この文体が人間である(《 Le style, c'est l'homme même. 文は人なり。》) となりますが―― その表現においてわれわれが明らかにしているのは けっきょく《神(ないし無い神)とワレとの関係》であると捉えられます。

 (う‐7) 神などいるものか。という自己表現のひとつは まさにその人の――そのときの――《神とワレとの関係》です。神は愛なり。という自己表現のひとつと まったく同じかたちです。神関係(神対峙)としての類型が 同じです。表現の内容がちがいます。

 (う‐8) ちなみに この神の想定――つまりそれとしての 神とワレとの関係――において 可能無限を仮りにひとつのまとまった無限つまり実無限として見なすという仮定を持つ。ということだと見ます。

 (う‐9) そのとき特に《実無限は存在する》というふうに言う必要はないと考えます。《仮りにそのように見なす》というかたちだけでよいはずです。

 (う‐10) 言いかえると そのような《応用》の場合にも 神について肯定神学も否定神学も関係ない。でしょう。

 ・(う-8)からの事項は 次にもつながります。

       *

 実無限の定義など。

 ★ ~~~
  (C) ★ 実無限は「はじめから、実無限という概念が【ある】」です。

 での、「実無限の概念」は、実無限の定義に該当する「無限公理」に該当します。(厳密に「言葉として」表現可能なので、「概念」というより「公理、定義」になります)
 ~~~~~
 ☆ 無限公理について わたしは自分が納得の行くかたちで推理しました。おおむね同じだと思います。

お礼日時:2012/10/27 08:19

>>> No.33 お礼欄


★ ・・・「濃度の低い無限」を「可能無限」と誤認し、「(濃度の低い)無限は(広義の)有限だ」という暴論を吐かれるに至っています。
 ☆ つまりこれはどうして《誤認》であるかについて まだ指摘されていないか それとも わたしが気づいていないかのどちらかですが 少なくとも定義としてのご説明はもらっていないように思うのですが どうでしょう?


 (3) すなわち 特に次の部分ですね。

  (あ‐1) ω‐2(広義の有限):可能無限
         :《有る無し》の測定がついぞ確定しえない経験事象
         ・《縁起》の事象に それでも かかわっている。
 
 ☆ つまりこれは √2や π のような可能無限を考えれば そうなると思います。いくら無限であっても この経験世界における相対的で有限な事象におさまるものであるという意味ですが。
<<<

おっしゃっているのは、「小数点以下が【無限】に続くタイプ」(順に小さくなる数が続いていくタイプ)ということであって、「実無限」であるかとか「可能無限」であるかとかの区分とは本質的にことなります。
1/3で切った点を0.333...と無限に「3」が続くタイプと同じです。
1/3を3つ足し合わせると「1」という数になり、
0.333...を3つ足し合わせると「0.999...」という数になる。
No.11での「1=0.999...」というのと同じことです。

書き換えるなら、
===>
  (あ‐1) ω‐2(視点を変えると有限):小数点以下の数が無限であるが、一定の値を持つ。
         :《有る無し》の測定がついぞ確定しえない経験事象
         ・《縁起》の事象に それでも かかわっている。
<===
でしょう。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ おっしゃっているのは、「小数点以下が【無限】に続くタイプ」(順に小さくなる数が続いていくタイプ)ということであって、「実無限」であるかとか「可能無限」であるかとかの区分とは本質的にことなります。
 ☆ これは 可能無限ではないのですか?

 実無限は 数学で言うばあい その無限につづく数が どこか一次元うえの場から見て 人間から見れば限りなくつづくところを限りがあると見立てたその見方による数を言うのでないですか?

 その観点は 《神様的な見方》であると。


 ★ 「0.999...」
 ☆ これは 限りなく数がつづくので 可能無限。
 もし仮りに  0.999...=1 というかのように限りをもうけて捉えたなら それは 実無限。



 ☆☆ 真無限=実無限=神
 ☆ は 数学から見れば 強引すぎるようですので

 ○ 真無限=実無限≒神

 とします。でも 真無限は 非経験の場という想定なのかなぁ。つまり =神 だろうか。

お礼日時:2012/10/27 00:50

No.36 お礼欄 >>>


(え) 無限集合を 全体として捉え それに対して一気に或る操作ができるということ。これは 《神様的な考え方》であるのだけれど それをすでに人間が人間のままで持ち得て そこへ操作手段としての対角線論法を用い得るのだ。

 ということでしょうか? どうもそうらしいですね。
<<<

既に何度も述べているように、上記は正確には

===>
(え) 無限集合を 全体として捉え それに対して一気に或る操作ができるということ。これは(bragelonneさんにとっては)《神様的な考え方》であるのだけれど それを(数学者にとっては)行いうると【仮定して】 そこへ操作手段としての対角線論法を用い得るのだ。

ということですね。
<===
と、記述してもいいでしょうに。。。(やっぱり、平行線でしょうね。。。)

No.36にてNemurinekoNyaさんが参照しているサイトはNo.4にて、既に紹介済みのサイトです。

>>> No.4
「実無限」を用いるということをも「(ZF公理を用いると)仮定」しているわけです。
<<<

ここでは、無限公理≒実無限ですね。

NemurinekoNyaさんが混乱しておられる公理系の関係は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86% …
にまとまっています。

あと
No.34の「お遊び」こそ、まさに「選択公理(から派生するパラドックス)」になるようです。

バナッハ=タルスキーのパラドックス
http://samidare.halfmoon.jp/mathematics/BanachTa …
から連続する5ページ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A% …
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ○ 《神様的な考え方》
 ☆ これは おそわった参照サイトに書かれている表現です。

 ▼ (第3章  真の第一原理を求めて 第7節 カントールの実無限という考え方) ~~~~
  http://swansong3478.web.fc2.com/002400kanntoruno …

 ○ 実無限
 (特徴) 無限をあるまとまったものとみなそうということです。

 (例) ・ たとえば自然数全体、実数全体など。直線とは、実数の集まりを目に見える形にした表現だとします。たとえば0から1の直線とは、0以上1以下の実数のすべてを見ているということなのです。

 ・円周率のすべての小数位の数字は、はじめから完全に決まっているという考えです。

 ・円周率の完全な値は、はじめから決まっているといういわば≫神様的な考え方≪です。
 ~~~~~~~~~~~~


 あとは 基礎の知識ということでしょうか。

お礼日時:2012/10/27 00:28

No36で《無限公理》と書いたけれど、本当に《無限公理》?


アレ、アレ、《無限公理》、それとも《和集合の公理》?
《置換公理》?
アレ、アレ、また分からなくなってきた。。。。
この全部?
ZF公理?

オレ、どうしたんだろう。
今回の質問をとおして、公理的集合論、全然、分からなくなってきてる。
数学のアタマが壊れた???
何だ∀や∃って。
∀と∃が目の前で踊っている。
アレ、アレ、アレ。
えへへへへ。。。。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ 《置換公理》? ZF 公理?
 ☆ これはまだ 把握し得ていません。


 ★ 公理的集合論
 ☆ 素朴集合論を基礎にして展開されたとか。

お礼日時:2012/10/26 21:40

『自己関係の諸形態と思考の類型についての覚え書』 藤澤賢一郎 著


http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream …



『民族世界観の源泉』 石本三郎 著
http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/04/11/119-02.pdf
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ちょいと新ワードを思いつきました。



  実無限 → 虚実無限

なんていかがでしょうか。
この方がカントールの実無限を言い当てているような(笑い)。
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この回答へのお礼

 このカントールの実無限というのは 何とも分からないですね わたしには。

 ○ 非経験の場――実無限
 ○ 経験世界――可能無限

 この区別としての定義しか いまは考えにくいように思っています。

 ★ 虚実無限
 ☆ それとしての理由があるのでしょうが・・・。

お礼日時:2012/10/26 20:30

こんばんはです。




☆☆☆☆☆☆
われながらNo34の《反論》では少しいいことを書いたかも。。。。
しかし、あのままでは哲学にならない。数学を理解していないおバカの戯れ言になってしまう。
なので、少し変更。

「 何かい、自然数の集合、偶数の集合、奇数の集合は、無限集合であるのと同時に、空集合っていうことかい。
 こんなバカな事、ぜってぇ~あるか!!」

「 何かい、自然数の集合、偶数の集合、奇数の集合は、無限集合であるのと同時に、空集合っていうことかい。
 無限集合は、《空(くう)》の集合、夢・幻のようなもので、そんなものはない、と言いたいのかい、あんたは。
 無限集合は、数学者の勝手にこしらえたもので、そんなモノはこの世界には存在しないと。」

の方が哲学的。そして、示唆に富んでいる。
数学の《無限》は、英語のinfiniteの訳語だぁ~。この方が原義にかなっている(笑い)。


☆☆☆☆☆☆
bragelonneさんの疑問に平易に答えているサイトを発見しました。調べてみるものですね。なので、リンク先をご紹介します。

http://swansong3478.web.fc2.com/002300mugennsuun …
http://swansong3478.web.fc2.com/002400kanntoruno …
http://swansong3478.web.fc2.com/002500jitumugenn …

「 このZFの公理が確立されているからこそ対角線論法もありえるのです。ですから、どんなに対角線論法などおかしいと思い、事実、対角線論法が無効になってしまうような証明ができたとしても、それはZFの公理以外でなされたものになってしまいます。ZFの公理を前提とするかぎり、対角線論法は可能になるのです。」 (上記のサイトの《ペアノ公理とZF公理の違い》から引用)
とあるように、ZF公理(とくに無限公理)を認めなければ、対角線論法を葬り去ることができます。

いや~、bragelonneさんとのやりとりを通じて、わたくし、眠り猫は《無限公理》に疑いの目を向けていたというわけですか~。

「ですから、ペアノの公理で対角線論法をやろうとすると、本当にひとつずつ1,2,3・・・と無限の時間をかけてやらなくてはいけなくなってしまいます。これでは、対角線論法はできません。」 (《ペアノ公理とZF公理の違い》から引用)

なので、対角線論法を保証するためには、さんざん突っ込まれたアレ、アレが必要。。。。
無理数が番号付けられたと仮定しても、《無限公理》を採用しなければ、No8での、もとの無理数から新しい無理数への変換、そして、それをもとにして、No8のbという新たな無理数を構成することができない。
《無限公理》に疑いの目を向けた眠り猫は、できる根拠を《選択公理》に見出した。。。。

* 無限公理 空集合を要素とし、任意の要素 x に対して x ∪ {x} を要素に持つ集合が存在する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86% …

《無限公理》がないと、対角線論法が成立しないというわけでした。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ううーむ。

 まづ 参照サイトから引きます。

 ▲ (第3章  真の第一原理を求めて 第6節~第8節)~~~

 (あ) 《実無限》: 無限をあるまとまったものとみなそうということです。

 (あ‐1) そこでは 自然数全体、実数全体という考え方ができる。この考え方によって、自然数全体を一気に変換できてしまうのです。
 
 (あ‐2) 円周率の完全な値は、はじめから決まっているといういわば神様的な考え方です。


 (い) 《無限公理》: 0を含むある集合があり、しかもある数がその集合のひとつなら、その次の数も同様にその集合のひとつであるような自然数という集合が存在する。

 (い‐1) 自然数そのものが集合として定義されてしまっているので、自然数の集合の要素すべてに一気にある操作ができるようになるのです。この操作もツェルメロ・フレンケルの公理では置換公理で保証されています。

 (う) このZFの公理が確立されているからこそ対角線論法もありえるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ もしこうだとしますと:

  (え) 無限集合を 全体として捉え それに対して一気に或る操作ができるということ。これは 《神様的な考え方》であるのだけれど それをすでに人間が人間のままで持ち得て そこへ操作手段としての対角線論法を用い得るのだ。

 ということでしょうか? どうもそうらしいですね。

 
 ひとつに: 

  (お) では 並べられた自然数のほうにも いわば直線論法を用いて あたらしい別の自然数を作り出して 対角線論法で作り出されたあたらしい実数と対応させることは出来ませんか?

 という問いだったのですが 何だか 分からなくなって来ています。

 《無限公理》の性格と言いましょうか その中身と言うべきか いったいその公理はどういう成り立ちをしているのか? これがいまひとつ把握できていないかと 自分ながら 思います。

 

お礼日時:2012/10/26 21:37

 #32です。



 ウェーバーの時は、結局応えようがなくて尻切れトンボに終わりましたが、今回の話題は自分の専門に近いので、行けるところまで行ってみようと思います。

 前々回言ったように、無限を扱う場合は、構文論だけでは駄目で、どうしても意味の助けが必要になるので、ふだん自分が行っている行為の根拠を訪ねるために、今回のやりとりは有益だと感じています。

 まだ閉じないで下さいね(^^)。たぶん今日の夕方以降に・・・。
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この回答へのお礼

 ヱーバーのときは たのしかったです。

 あそこまでの対話が出来たのは 昔のヱーバー専門家でもぎりぎり出来たか出来なかったかといったところだと思います。

 ――おっと ででてx3さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。――

 なぜなら ヱーバー(ないしそれを専門とする研究家としての人たちは 自分たち)にとって不都合なことは おくびにも出さないだろうからです。分かっていても 仲間のことをも考え 不利になるようなことは オモテに出さないはずです。大塚久雄くらいですかね 正直なところは。




 さて ふるい変な表現を用いるなら 何の因果があってか こういうふうな経過をたどっています。
 前回などは こちらは じっさいお手上げに到ったわけです。降参とまでは言わなかったかも知れないとしてもです。

 そのあと一二時間すると ヒラメキがありました。何の因果でしょうか。




 ★  前々回言ったように、無限を扱う場合は、構文論だけでは駄目で、どうしても意味の助けが必要になるので、ふだん自分が行っている行為の根拠を訪ねるために、今回のやりとりは有益だと感じています。
 ☆ わたしの感覚では これはどうも《起源論》ではないかと いま 捉えています。ゲネシスですね。
 まただからこそ 文系のあたまでも或る程度は考えるし ついて行こうとするのだと思います。


 さて どうなりますか。ほんとうに どうなりますやら。



 そう言えば さらにみなさんにも参加して欲しいところですね。
 少なくともわたくしには 先は見えていませんから。

お礼日時:2012/10/26 13:36

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