【あるあるbot連動企画】あるあるbotに投稿したけど採用されなかったあるある募集

  《無限集合にはその大きさの大小があるということ》

 というカントールの定理をめぐる次の証明の仕方はマチガイではないでしょうか?
 なるべく数式を使わずにおしえてくださるとありがたいです。

▲ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点) ~~~~
  http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164 …

 2.神の証明
 (その後半部分)

 ( a ) 次に、2つめの定理〔*--《無限集合にはその大きさの大小があるということ》--〕を見てみましょう。

 ( b ) これもわかりやすい例を挙げて説明します。無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。

 ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。例えば、

  0.17643567……
  0.23482435……
  0.62346286……

 ( d ) 次に、この無限列の各行に対応する各々の無理数と、1から始まる自然数とが次のような1対1対応を作ると仮定します。

  1⇔0.17643567……
  2⇔0.23482435……
  3⇔0.62346286……

 ( e ) ここで自然数1に対応する無理数から小数点以下1番目の位を取ります。次に自然数2に対応する無理数から2番目の位を取ります。これを続けていけば0.133……という無理数が得られます。

 ( f ) この無理数の小数点以下の数字を各々勝手に変えます。このような操作によって例えば0.245……という無理数ができます。

 ( g ) この数は、自然数1に対応する無理数とは小数以下1番目の位で違い、自然数2に対応する無理数とは2番目の位で違い……となり、自然数と1対1対応させたどの無理数とも異なっていることが明らかです。

 ( h ) すなわち、無理数全部の集合は自然数全部の集合よりも濃度において大であることが示される訳です。
 ~~~~~~~~

 【Q‐1】 ( c )の《(0と1の間の)すべての無理数》というとき そのすべてがリストアップされうるのでしょうか? それは 無限――つまりこの場合 可能無限――であると見てよいか?

 【Q‐2】 もし前項の無理数の集合が 無限であるならば ( d )の 1,2,3,・・・とやはり対応させられる自然数の数も無限になる。と捉えてよいか?

 【Q‐3】 もしよければ ( f )に言うあらたに勝手に作った無理数(例えば0.245……)は もともとその無理数の集合の中にふくまれているものではないか?

 【Q‐4】 言いかえると その無理数((例えば0.245……)も とうぜん自然数の無限の列挙と初めに対応していたはずではないか? なぜ( g )のような結論にみちびかれるのか?

A 回答 (63件中31~40件)

こんばんはです。




☆☆☆☆☆☆
何から何まで疑わしくなったわたくし、眠り猫、
何で自然数と偶数が同じ可算集合なのか、分からなくなりました(「なっ、ワケねぇ~だろうが…」とひとりツッコミ)。
……や、「○○は無限にあるから」、「無数にあるから」という言葉を使わずに証明するには、どうしたらいいのだろう?

こう言うとき、数学や論理学の∀や∃という記号は本当に便利ですね~。
これを使うと、…や《無限》という言葉をいっさい使わなくて証明ができてしまう。
しかし、本当にそうなのか。
∀や∃という記号にごまかされているだけなのではないか。
分かったつもりになっているだけなのではないだろうか。

では、数学的帰納法を使う。。。。
これも考えてみれば、何か胡散臭いよな~。
……の域を越えていないし。。。。

背理法?
直接法で証明できるのに、なんで背理法を。。。。
う~ん。。。。



☆☆☆☆☆☆
ちょっとお遊び!!

【反論】
 自然数の集合から、偶数の集合を取り払ったら、奇数の集合がのこる。
 奇数の集合も無限集合だ。
 ぜってぇ~、自然数と偶数を残らずに1対1(全単射)で結べるはずがねぇ~。
 じゃあ~、何かい、奇数の集合も自然数の集合と1対1に結べるって~のかい。
 濃度とか言うのをつかうと、
 アレフ0 + アレフ0 = アレフ0
 ∴ アレフ0 = 0
 となっちまうじゃねぇか。
 何かい、自然数の集合、偶数の集合、奇数の集合は、無限集合であるのと同時に、空集合っていうことかい。
 こんなバカな事、ぜってぇ~あるか!!

こう反論する方を説得するには、どうしたらいいんのでしょう。
結構、手強そう~(笑い)。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 わたしゃあ 一階術語論理とか やって来なかったんだも~ん。

 アレフとか 全単射とかは 少し調べたことがあったけれど。

 そもそも文系の数学を高校までやったということは うちの学校(地域あるいは時代?)では 集合をやっていないんだから 仕方ない。

 
 というようなわけでして・・・。トホホ。

お礼日時:2012/10/25 23:57

No.23の補足欄にあるような思索方法に拘泥している限り、bragelonneさんは他の方と「永遠に平行線」です。



まずは、bragelonneさんのいうところの「真無限」と「神概念」と「実無限」とを、いったん切り離す必要があります。

そうして、「無限の濃度」は「実無限」の概念を一端は仮定することで、数学的には比較的簡便に理解されうる概念だということです。「無限の濃度」は「実無限」や「可能無限」といった概念とは本質的に別の概念です。どちらに属するというものではありません。数学的に証明するには、とりあえず「実無限」という概念をつかって一気に処理した方が判りやすいというだけのことです。(というより、可能無限の概念に拘泥していては、証明不可能なだけです)

その「仮定」部分を受け入れられないのは、「真無限」=「神概念」=「実無限」という仮定を既にbragelonneさん自身が行っているからであり、何人たりともその神聖な領域には足を踏み入れてはならないという考えをお持ちなわけです。

それゆえ回答者の皆さんは苦労して「実無限」という言葉や概念を伏せつつ「可能無限」のみで理解していただこうとされましたが、どうにか理解したと仰るところの「濃度」概念を自説に含めるにあたり、「濃度の低い無限」を「可能無限」と誤認し、「(濃度の低い)無限は(広義の)有限だ」という暴論を吐かれるに至っています。

bragelonneさんが「神概念」を「人智の及ば【ない】ところ」と(否定神学的に)定義されるのであれば、如何なる無限の概でも言い表せ【ない】ものとすべきです。それをbragelonneさんが「真無限」と、新たに定義されるのは自由です。(無限概念内部で操作するのではなく、神概念自体の次元を一つ上げるべきでしょう。でなければ、bragelonneさんの「神概念」が数学的な思索内部に埋もれてしまいます。)

可能無限は「有限では【ない】もので、(そこに属する)どんな数であっても、必ずその次の数(大きい、小さい、あるいは順序で次の数)がある(=その数では終わら【ない】)」でしょうし、
実無限は「はじめから、無限という概念が【ある】」です。

濃度と「可能無限」・「実無限」とは別概念であることを理解すべきです。
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この回答へのお礼

 じねんんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ここでは 概念の整理をします。
 
 No.32の補足欄に あれふ( α )さんとわれわれ人間との違いを強調したようなことを質問者からは書き込みましたが これがインパクトを持ちましたでしょうか?

 いづれにしましても そしてむろんその整理は 質問者の主観によるものですが それでも互いに話を進める上では 欠かせないことですから 概念整理をおこないます。つまり 今回のご回答内容とは少しづつ微妙なチガイがあるように思われますから。


 (1) 有限と無限についての区別とそれらの一般的な概念

 次の認識は 現在もまだ変わっていません。

 ☆☆(No.23補足欄) ~~~~~~~
  (あ‐1)世界の成り立ち ~~~~~~~

   α 無限:真無限(実無限):非経験の場
        :神(《有る無し》を超える場のチカラ)
        :これは ただの想定である。
        
     ・想定から概念(属性?・形容句)が派生して来る。
      =永遠・不可変性・絶対・全知全能・創造主・
      至高の善・愛・慈悲・無・空・・・


   ω 有限:《有る無し》ないし《因果関係》にかかわる世界
    ω‐1(狭義の有限):有限
        :《有る無し》が確定的に測定しうる経験事象

    ω‐2(広義の有限):可能無限
        :《有る無し》の測定がついぞ確定しえない経験事象
        ・《縁起》の事象に それでも かかわっている。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~


 (2) すなわち じねんさんの認識との違いは たとえば次です。

 ★ ・・・「濃度の低い無限」を「可能無限」と誤認し、「(濃度の低い)無限は(広義の)有限だ」という暴論を吐かれるに至っています。
 ☆ つまりこれはどうして《誤認》であるかについて まだ指摘されていないか それとも わたしが気づいていないかのどちらかですが 少なくとも定義としてのご説明はもらっていないように思うのですが どうでしょう?


 (3) すなわち 特に次の部分ですね。

  (あ‐1) ω‐2(広義の有限):可能無限
         :《有る無し》の測定がついぞ確定しえない経験事象
         ・《縁起》の事象に それでも かかわっている。
 
 ☆ つまりこれは √2や π のような可能無限を考えれば そうなると思います。いくら無限であっても この経験世界における相対的で有限な事象におさまるものであるという意味ですが。



 (4) この経験事象を超えるもの――すなわち 因果関係などの経験法則から自由な場――は これを《非経験の場》として 真無限=実無限=神 と定義しています。


 (5) ★ bragelonneさんが「神概念」を「人智の及ば【ない】ところ」と(否定神学的に)定義されるのであれば、如何なる無限の概でも言い表せ【ない】ものとすべきです。 
 ☆ につきましては まづ
  
  ☆☆(No.15お礼欄) 神:考えても《分かるか分からないかが分からない》もの

 と定義しています。
 言いかえるならこれは ひとりの人間の主観の内においては《分かったぞ》というヒラメキがあるかも知れないことを意味します。

 (6) ただし その主観を超えて その認識をほかの人と共有することは出来ない。なぜなら 出来てもその妥当性についての証明はついぞ成し得ない。からです。

 まぼろしやあるいは錯覚のまま いわば《神体験》は 推移します。

 その神体験を活かそうと思えば ヒラメキ(直感および直観)を経験合理性にもとづく言葉で表現しなおせばよいということになります。表現し直せるかどうかも 問われるわけです。


 (7) 《神》にちなんで〔だと思いますが〕
 ★ 実無限は「はじめから、無限という概念が【ある】」です。
 ☆ という定義をなさっています。これは 《無限》という概念の定義がさらに求められます。実無限の定義は まだ定まりません。

 (8) 言いかえると もしこの実無限=神 だとしますと それはひとつに《概念としてある》ものではない です。むろん言葉ないし概念を仮りに当ててそれをとおしてわれわれは認識しようとしますが 概念ないしイデアではありません。もしそうなら 精神に属しているものということになります。神が です。

 (9) もうひとつに 仮りの表現として概念を用いる場合でも 神は《ある》というふうに定義されるものではありません。《分かるか分からないかが分からない》のですから 《有る無し》が人間には測定できないのです。

 (10) 言いかえると 有る無しという経験世界の認識方法を超えているということ。これは 逆にその《非経験の場》なる神が 人間からは 《有る(有神論)》とも《無い(無神論)》とも表現して持たれうる。こうなります。これが 神です。




 (11) ★ 可能無限は「有限では【ない】もので、(そこに属する)どんな数であっても、必ずその次の数(大きい、小さい、あるいは順序で次の数)がある(=その数では終わら【ない】)」でしょうし、

 ☆ というふうに《可能無限》について定義がありますが もしこうだとしますと この可能無限は――《多い少ない つまり 有る無し》を測定しうるか 測定しうると見なされるかの場合ですから――明らかにこの経験世界における事象であるわけですので 経験世界という広義の有限に属すると定義できると思われます。


 (12) すなわち (2)の引用文には明らかな誤解があると思います。
 言い直せば 《濃度のもっとも高い可能無限も すべて広義の有限におさまる》と言っています。

 (13) ★ 「無限の濃度」は「実無限」や「可能無限」といった概念とは本質的に別の概念です。どちらに属するというものではありません。
 ☆ わたしの理解では 実無限は 広義の有限から自由な――つまり経験的な相互の因果関係があるといった見方から自由な――《非経験の場》です。
 《可能無限》には それを強引に数え上げることが出来るという仮定のもとに それぞれの濃度がある。です。

 (14) ★ 数学的に証明するには、とりあえず「実無限」という概念をつかって一気に処理した方が判りやすいというだけのことです。(というより、可能無限の概念に拘泥していては、証明不可能なだけです)
 ☆ 広義の有限世界に属するという理解のもとに《可能無限に拘泥して》 無限論は成されると考えますが 実無限という概念の活用は けっきょく ででてx3さんの提出された《あれふ(α)さんという存在》すなわち

  ◆(回答No.19) 可算無限を数え尽くせる存在〔を認める〕

 のことだと見ます。つまり 早い話は 《あれふ(α)さん》とは 神のことだと見ます。

 (15) ★ ~~~
 その「仮定」部分を受け入れられないのは、「真無限」=「神概念」=「実無限」という仮定を既にbragelonneさん自身が行っているからであり、何人たりともその神聖な領域には足を踏み入れてはならないという考えをお持ちなわけです。
 ~~~~~~~~
 ☆ たぶんわたしは 《その「仮定」部分を受け入れ》ていると思います。
 《「真無限」=「神概念」=「実無限」》 これはすべてが仮りの代理表現によっていますから 《神概念》というより《神》としたほうがよいと見ます。
 そこで問題は
 ★ 何人たりともその〔* 《真無限=実無限=神》なる〕神聖な領域には足を踏み入れてはならないという考えをお持ちなわけです。
 ☆ 《神聖な領域》かどうかは この《非経験の場》をその人がどのように受け留めるかの問題です。自由なはずです。 
 問題は: 

 (16) 問題は:
 この《神》の場には 《足を踏み入れる》ことが出来るかどうかさえ 人間には分かるか分からないかが分からないということです。

 早く言えば 誰かが おれは神の領域に足を踏み入れたぞと言った場合 それは その真偽や妥当性が 人間にはついぞ分からないという意味です。
 表現の自由は保証されていると同時に くだらんことは時間の無駄ということにもなります。
 無駄は その人本人にとっては これも自由ですが ほかの人に手間暇を取らせて迷惑をかけることは 自由ではない。こういうジョーシキとしての判断になると思います。



 (17) なお《実無限》の扱い方として まだよく分からないところがあることはあります。ででてx3さんの文章の次のくだりです。

 ◆(回答No.23) ~~~
   数学では、「有限手続きで確認できるもの」しか基本的には認めません。やろうと思えば、枚挙して確認できるだろうと考えるからです。
 数学って(少なくとも集合論は)、つうじょう考えられてるより、ひどく即物的なんですよ。
 ただ、可能無限としての可算無限までは、公理なしの実無限として認めても良いのではないのか?という事は、少なからず誰もが思っている事だと思います。
 それに対しては、常に経験領域で、その任意断面を見る事ができるからです。でもそれすらも、ゲーデルの不完全性定理は、確認不能と言います。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ つまり次です。
 ◆ 可能無限としての可算無限までは、公理なしの実無限として認めても良いのではないのか?

 (字数制限となりました)。

お礼日時:2012/10/25 09:06

 #28です。

話が拡散してるぞ、との指摘もありましたので、「#29にあるような無限後退(または#30の直線論法)」についてと、「有限手続きしか認めないといいながら、自然数から実数への1対1かつ上への対応なんぞというトンデモナイ仮定をなぜ許すのか?」および、「不完全性定理と集合論の見切り発車」について応答します。これら三つは切り離すと、見通しが悪くなる気がしますので・・・。


 #29を読んで、やっとあなたの意図がわかった気がしました。確かに地道に数えて行けば、現実には#29のような無限後退(無限直線追加)になりますよね。ふだん背理法は証明のショートカットと割り切って使っているので、少なくとも背理法の最中は、仮定に疑義をはさむのは将棋の待ったのようなもので、禁じ手だからやってはいけないという意識があります。結果が思わしくなければ、その公理系を(追加した仮定や公理を)捨てれば良いだけじゃないか。ただしそれは、背理法をやり終わった後での事です。これだけの事なのに、なんでそれが人間性の問題にまでなるのだろう?と、ちょっと戸惑っていました。

 次の部分は、他所へは持ち出さない方が無難です。持ち出したら、たぶん総攻撃を食らいます・・・(^^;)。

 じつは無限1から無限2への1対1対応の規則を下手に与えると、無限2に余りが出る事なんて、日常茶飯事なんです。例えば偶数全体の集合から自然数全体への対応の規則を正直に、2→2,4→4,・・・と与えると、自然数の半分は明確に「余ります」。

 では、偶数全体より自然数全体の個数の方が多いのか?というと、対応1→2,2→4,・・・で明確に1対1かつ上への対応になるので、1対1かつ上への対応が一つでも存在すれば同濃度(同数)、という定義を妥当と認めるなら、この事態はなんとか解決する必要があります。偶数全体と自然数全体のように、可算無限どうしの比較くらいなら対応を具体的に考え直す事によって、何とかなるかも知れませんが、自然数から実数のような一般的状況では、そのようなトライアンドエラーには、ほとんど望みがありそうにありません。

 ところで有限どうしの比較なら、トライアンドエラーは起こらないのは明らかです。それはどうしてか?、と数学者たちは反省しました。ちょっとだけです・・・何故ならそこから暴走するからです(^^)。

 無限の比較でトライアンドエラーになるのは、可算無限とかの終わりが見えないからだ。有限集合なら数え尽くして、終わりを見る事ができる。だから結果に疑問の余地はない・・・。この考えが無限の定義に反映されたと、自分は思っています。

 終わりが見えないから、結果が不明確になる。だとすれば、終わらせれば良いのだと、こっから暴走します(^^;)。つまり可算無限なんかを数え尽くせる存在を想定すれば良いではないか(数学は自由だ!)。可算無限なんてもったいない事を言わず、全ての実無限を認めれば良いのだ。「無限公理を要請せよ」・・・最初の応答が妥当だったなと、今では思います。

 無限公理を認めた瞬間においては、無限に階層があるとか、可能無限の可算無限は実無限になり得るのか?とかは、いっさいわかっていません。その後で他の公理も勘案すると、可算無限は実無限の無限集合として存在する事になります(事になるだけですよ)。そうすると、可算無限を数え尽くせる存在を想定して良い事になります(良いと強引に思ったのです)。可算無限を数え尽くせる存在を、αさん(アレフさん)としましょう。

 αさんにとって可算無限は、我々が扱う有限と同じです。終端が見えるからです。一方、実数の無限はαさんには、我々にとっての可算無限と同じように見えます(連続体仮説を受け入れるなら)。αさんが地道に彼にとっての可算無限(我々にとっての実数無限=連続無限)を、我々の可算無限(彼の有限)で数えれば、彼の有限はすぐに彼の可算無限に対して底を尽きますが、そこで彼が「数え方が不味かったのか?」と思わないのは明らかです。我々が、我々の有限で我々の可算無限を数えて、余りが出ても、当たり前じゃないかと判断するのと同じです。

 ただしαさんと我々には、大きな違いがあります。我々は、我々の可算無限の終端さえ見えないからです。それで、対角線構成という、間接的手段を介して、αさんと同じ結論を得ていると推測(想像?)する訳です。


 ・・・こうやって書いてみると、暴論ですよね(^^;)。トンデモの部類に入りそうな推測(推論では絶対にありません)ですが、過去の論理資産である第一階述語論理を無限に使用するに当たっては、このような(余り言いたくありませんが)実在論的立場の「運用」を、現在の集合論はやっているように感じます。そして現在の集合論はこうして、無限後退への退路を断ちます。


 上記のような実在論的発言が、証明に書かれる事は絶対にありません。トンデモだって言われるのがわかってるんだもん。それで形式的証明過程だけを書き、「背理法の追加仮定(公理)には疑義を挟むな」「挟まなければ、論理的に明らかなはずだ」「これだけ言ってもわからないなら、小学生からやりなおせ」と、したり顔で言う訳です(その気持ちも、わからないではないですが)。


 上記はかなり極端に書いたとは思いますが、20世紀初頭の集合論の専門家達は、けっこうこういう感覚ではなかったのかな?と想像します。ゲーデルも、自分の意見ではたぶんそうです。でも彼は、上記のような推測は、このままでは暴論だと感じたに違いないと、自分は思います。ゲーデルが完全性/不完全性定理に手を付けた時、無限集合論は既に見切り発車されていました。そのとき既に、標準的な数学者に取って無限集合論は、手離せない手段となっていました。

 それでゲーデルは後付けでも良いから、ヒルベルトの夢を実現できないか?と願ったのだと、自分は思います。じっさい完全性定理が出た時には、皆さん、どれほど喜んだことか・・・。

 というのは、大きな無限集合を可算無限などの、「有限個の」小集合に分解し、分解された「有限個の」小集合の間の関係を論じるのが、普通の数学の業務だからです。ゲーデルの完全性定理は、そういう通常業務の全てに対して、「アプリオリなOK」を出してくれたんです。みんな狂喜乱舞したのは無理もありません。

 後は小さな無限集合の妥当性だけです。ゲーデルの余りにも鮮やかな手腕に、誰もが期待したのですが、駄目でした。当時の落胆ぶりを数学史で読むと、とても金字塔を立てるような騒ぎではありませんでした。


 結局、数学者達は無限を扱う際には、自然科学をやるような態度で事に臨むしかない、と覚悟を決めます。

 「有限の手続きだけ」で保証されるものしか認めないのが理想なのだが、ゲーデル兄ちゃんが「有限手続きで、それは不可能である事」を証明しちゃったんだよね・・・と。現行の集合論をこれからも維持したいなら、「有限の手続きだけ」では駄目なのははっきりした。それでも「有限の手続きだけ」にこだわるなら、それは直観主義数学のような生産性の劣る数学になる。でも、自分はそんな数学は、やりたくない。

 だったら、「無限公理」などは「積極的に」認めよう。不完全性定理は、そうしても必ず間違いになるとは、言っていない・・・。「無限公理」は証明できないが、正しいのかも知れない・・・。そして経験的に正しそうだ。もうこうなったら、自然科学と同じだ。


 という訳で、前世紀後半に典型的な数学教育を受けた人間(自分もそうです)は、無限公理を余り考えずに受け入れるので、自然数から実数への1対1かつ上への対応を仮定する、なんて事は、出来るに決まってるじゃないか?と、思う訳です。


 でもこれって、「有限の手続きだけしか認めない」とした19世紀数学の、無限に対する敗北宣言なんですよね。

 以上の話を、他所に流出させては駄目ですよ(^^;)。

この回答への補足

 ひとつ考えが思い浮かびました。

 こうです。

 ★ ~~~~
  αさんにとって可算無限は、我々が扱う有限と同じです。終端が見えるからです。

 一方、実数の無限はαさんには、我々にとっての可算無限と同じように見えます(連続体仮説を受け入れるなら)。

 αさんが地道に彼にとっての可算無限(我々にとっての実数無限=連続無限)を、我々の可算無限(彼の有限)で数えれば、彼の有限はすぐに彼の可算無限に対して底を尽きますが、そこで彼が「数え方が不味かったのか?」と思わないのは明らかです。我々が、我々の有限で我々の可算無限を数えて、余りが出ても、当たり前じゃないかと判断するのと同じです。


 ただしαさんと我々には、大きな違いがあります。我々は、我々の可算無限の終端さえ見えないからです。
 それで、対角線構成という、間接的手段を介して、αさんと同じ結論を得ていると推測(想像?)する訳です。


 ・・・こうやって書いてみると、暴論ですよね(^^;)。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 暴論ですよね。

 つまり
 1. αさんの眼から見て 実数の無限を数え得た。

 2. われわれ人間には数え得ていない。

 3. そこへ《対角線構成という 間接的な手段》をあてはめるのは われわれ人間が理解しうるようになるためですが  その手段は αさんにとっては要らないものです。

 4. つまりは αさんの得ている構図――つまり実数無限を数え得たというそのありさま――を われわれ人間も得ることが出来てあたかもその数え方の構図を目の前にしてのように そこへ対角線論法を当てはめる。これは 越権行為であるのではないか?

 5. αさんの眼の能力をわれわれ人間も持てるし持てたと決めつけたことになると思われます。

 6. いや 違う。αさんにとっては 対角線論法など要らないわけです。そしてつまりは われわれ人間の仮定によるなら αさんの眼には 実数無限と自然数無限とが一対一に対応して見えているというものです。そう仮定したのですから。

 7.つまり このαさん側の構図は ゆるがない。

 8. それが 揺らいだのは 対角線構成をこんどはわれわれ人間が αさんのように成ってか それとも αさんの世界をわれわれ人間の世界に引きずり降ろして来てか いづれかの想像の世界において描いてみせた。

 9. αさんから見れば一対一に対応して見えているその図柄を そこから《数え切れた》という有限性だけをけっきょく盗んで来て その有限性をこんどは前提として(――ということは 人間の眼から見ても数え切れたとどういうわけか一たん見なして――) 対角線論法を用いるなら・そしてそれに対応するはずであるところの自然数の側から直線論法をもはや取り出すことをしないなら なるほど今度は 一対一の対応をしない事例が出て来ることになる。

 10. これは 暴論です。

 11. ★ ~~~~
 トンデモの部類に入りそうな推測(推論では絶対にありません)ですが、過去の論理資産である第一階述語論理を無限に使用するに当たっては、このような(余り言いたくありませんが)実在論的立場の「運用」を、現在の集合論はやっているように感じます。そして現在の集合論はこうして、無限後退への退路を断ちます。
 ~~~~~~~~~~~



 このあと どう考えればよいか よく分かりません。
 たぶん おしえてくださるでしょう。

 と言うより 幕は上がった。すでに上がっている。つねに上がっている。ゆえに 芝居は続けられなければならない。というように――支障がないかぎり・またじっさい支障もないようなので―― 答えておられるでしょうか。

 ううーん。そして ううーむ。

補足日時:2012/10/25 00:40
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この回答へのお礼

 ででてx3さん こんばんは。ご回答・ご説明をありがとうございます。


 出直します。

 反応も一夜明けてからにしたいと思います。
 
 明日になっても 何も思い浮かばなかったりして。

 とりあえず ありがとうございました。


 補足欄にてです。

お礼日時:2012/10/24 23:31

2012年2月21日 第9回安心生活創造事業推進検討会議事録


http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000026ag …

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000alm …
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あっ、そうか。


哲学するサラリーマンのリストアップという言葉に引きづられ、
「原理的にすべて取り出せる」を「原理的にひとつずつ取り出せる」と書いたところから、
思考が迷路に入ったのか。
「ならば、《選択公理》。。。。」となったのか。
納得、納得。

この回答への補足

 往生際のわるい いな そのわるいことをほこるぶらじゅろんぬが みづからの鎌首をもたげて来ました。

 みなさんにうかがいます。


 無理数の無限集合を――それは 大きく広義に有限なる経験世界における事象であるゆえに―― 要素ごとにすべてリストアップしナンバリングもきちんと出来たとする仮定 これは いまでは認めなければいけないと思います。

 ただし そのあと対角線論法を用いるというそのわざは なかなか認められません。

 なぜって もしその論法でそのリストの中になかったあらたな無理数が得られたとしても それなら やはりそのリストに関する限りナンバリングを更新すればよい。となりますか?

 つまり 一たんリストの中で打った最後の番号に一を加えてあらたにナンバリングを完成させればよい。と。直線論法です。


 安易すぎますか?

 まむしのぶらじゅろんぬでした。

補足日時:2012/10/24 09:07
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。




 《全単射》ということが

  ★ 「原理的にすべて取り出せる」あるいは「原理的にひとつずつ取り出せる」

 のふたつのことと それぞれどのように同じなのか・違っているのか それがわたしにも理解できたらなぁと思います。





 どこまで来たのかも もうあいまいな感じです。

 みなさんのすすめて行かれるところに就きます。

お礼日時:2012/10/24 07:30

まず、いくつか訂正いたします。

先ほどのは感情的な表現になっていますね。

(1)数学の証明に疑問を持つことを否定する積もりはありません。「勝手にすれば」というのは、そういう意味ではありません。とにかく認めろと言うのではありません。bragelonneさんのご意見が、詰まるところ
:実数も数える事ができる筈だ。なぜなら、自然数も数え終わることができないのであって、それは実数も同じことだから、無限であることに違いはないと言える
という主張であると見做したのです。この主張は、自然数と実数とは1対1対応が可能ではないこと、と両立可能です。ですから、その主張を元にした証明への異議申し立ては拉致があかない、と見えると申し上げたのです。bragelonneさんの異議立てで微塵も揺いではいませんが、納得できないものをただ信ぜよなどと言う積もりもありません。

(2)選択公理の件は確定的なことを言うほど勉強していないので何とも言いかねるので、若干あいまいな扱いになります。その昔勉強した頃、といっても明治ではないのですから、選択公理もツォルンの補題も学びましたが、対角線論法にそれが必要だという記憶はありません。少なくとも、NemurinekoNyaさんの言われる意味であれば、関係ないでしょう。別の方も同じなのですが、話をいたずらに拡散させている、と見えます。もちろん、焦点を絞るために間口を広げるということはあるでしょう。が、現状では、単に混乱が広がっているだけに見えます。その意味でつい「スカート云々」と書きました。大変失礼いたしました。
NemurinekoNyaさんは2重の誤解を為されているとお見受けします。NO.8のなかに、「任意の二つの集合 A,B について、A から B への単射がある」などという仮定は使っていないのではありませんか。
また、No.28のご説明の中の選択公理の中で、全単射と濃度の話が出ていますが、もしかして、この話と重なっていません?

(3)カントールの証明は、自然数全体の集合から実数全体の集合への全単射があるという事を否定している訳です。その論法は、その全単射があると仮定すると、かくかくの手続きによって、全単射になっていないと示される、というものです。
bragelonneさんの異議立ては次のようなものです。
カントール:全単射があると仮定すると、かくかくの手続きによって、xがその全単射からのけ者にされていることが示された、さあ、全単射があるという仮定は否定されたではないか。
bragelonneさん:いやそうではない。そのxはたまたま抜け落ちていたのだ、自然数は無限にあるのだからそれを加えて新たに全単射を構成すればいいだけだ、何しろ自然数は無限にあるのだから、何時でも修正可能だ。
カントール:では、その修正された全単射でまたのけ者にされたyを発見したよ、こっちは何時でも発見できる手を持っているのだよ。
bragelonneさん:いやそうではない。こうやって無限に続くのだ。自然数も実数も無限なんだから。
old_sho:それではまるでどこかの国の政治家みたいじゃないか。
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この回答へのお礼

 おうるど_しょさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 かなり認識も立ち場も変わってきましたよ わたくしも。

 さきほど ででてx3さんへの応答として かなりあたらしいことを書き込みました。


 上の(3)についてあたらしく変わったという内容は たとえば次です。

 ☆☆(No.28お礼欄) ~~~
  1. 《濃度》が分かりました。(と思い込みました)。

  1-1. だって 無限集合であってもその要素を《数え上げることが出来た》と仮定するのですから そう仮定した限りで その結果としての度合いも それぞれの無限集合について 決まることになる。ゆえです。

  1-2. 数え上げることが出来たのですから その結果のアタイに いくつか多い少ない(大きい小さい・濃い薄い)がある。と帰結される。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 変わりましたでしょう?

 そのほかにも そのNo.28お礼欄に書き込んでいますので よろしかったらご覧ください。いえ ぜひご覧ください。

お礼日時:2012/10/23 23:20

 #23です。

自分は技術屋なので、補足の方にはどうにもお応えしようがありませんが、お礼の方には、なんとか応答できそうです(なんとかレベルですが)。そこで思ったのですが、集合論に関する全般的状況をお話しした方が、参考になるかも知れないと考えました。ただし、取りとめない話になるかも知れません。数学カテで以下のような事を書くと炎上し兼ねないので、これは良い機会と、筆を滑らせます。


1.素朴集合論

 集合論の創始者はカントールです。カントールは、こう宣言します。人間が思考によって弁別し得る対象である限り、その集まりは常に思考可能で、集まり自体も人間の思考によって弁別し得る。従って、無限集合は存在する。何故なら、数学は人間の思考の楽園であるから。数学は自由だ!。

 上記の宣言は、あなたの立場に非常に近いのではないか?と、自分には思えます。そして本当にそうであれば良かったなと、個人的には思いますが、その後カントールの立場では、余りにも自由すぎる事がわかります。言ってしまえば、論理学という過去の資産との衝突です。カントールの立場を素朴集合論と言い、日常的にはそれで十分なのも事実なのですが、集合論の限界を考え出すと、全ての集合の集合が集合にならない矛盾とか、ラッセルのパラドックスなどが出てきてしまう訳です。これらは全て、自己言及性という同じ根を持つ事もわかります。ひねくれた見方をすると、対角線論法は、自己言及性のパラドックスを過去の資産と整合するように、利用しているんです。この辺りは、技術の塊である数学のあざとさかも知れません。

 それで素朴集合論には、過去の資産と矛盾しないように、色々と手枷足枷が追加され、現在の公理論的集合論になります。手枷足枷は、素朴集合論の矛盾を解消するのではなく、素朴集合論の適用範囲を制限するためにあります。特に、全ての集合の集合やラッセルのパラドックスを導く集合(自己言及的定義を持つ集合)には、それらを集合とは認められないようにする、巧妙な仕掛けが加えられています。矛盾を解消しないという意味において、この仕掛けはあざとい言えます。


2.ヒルベルト

 それでもカントールの楽園に居続けたい!と願う、数学界の巨星はやっぱりいたんですよ。ヒルベルトは、次のように考えます。「なるほど、全ての集合の集合などが矛盾を導くのはわかる。しかしそれは、意味論を考えた場合だ。数学の証明行為の全ては、現実問題として記号操作に尽きる。そこに意味論はなく、構文論(文法)で全てを処理するのが、現実ではなかろうか?」

 だとすれば「意味論的に全ての集合の集合が矛盾を導いたとしても、その証明過程が構文論的に正しいなら、それは正しい証明だろう。構文論的に正しいなら、意味論的に矛盾するのは、数学の定理を表す記号列に対する解釈の問題に過ぎない。ここで数学の定理を表す記号列とは、有限の長さを持つ記号列の事であり、自分はそれしか認めない。何故なら、有限の長さであれば、枚挙する事によって物理的に確認可能可能だから。そういう事が可能なら、我々はカントールの楽園を出る事はない!。誰かやってくれ!」。

 それでヒルベルトは、次のような事も言います。「点や直線のかわりに、ビールやコップで幾何学を構成する事も出来る・・・」。この発言が、その後、色々な誤解を生みます・・・。


3.ゲーデル

 ヒルベルトの言った事を、本気で実行してしまったのがゲーデルです。注意すべきは不完全性定理の前に、完全性定理がある事です。ゲーデルは、ゲーデル数というナンバリング規則を定義します。ゲーデル数の構成は、技術的には難解極わりないものでが、結局漸化式のようなものなので、コンピューターにだってやらせる事ができます(プログラマーが、その規則を理解できれば)。

 ゲーデルはゲーデル数によって、論理的に真な関係式を一つずつナンバリングして行きます。そして有限個数の対象に関する関係式を扱う限りにおいては、通常の数学の論理は、絶対に矛盾を与えない(偽の結果を導かない)事を確認します。つまり有限個数の領域においては、数学は完全であり、自己無矛盾性を、それ自身で確認できるのです。

 「有限個数であれば、枚挙可能なのだから総当たりで確認できる」のは当然なのですが、これは意味論を使っています。ゲーデルのすごいところは、それを構文論だけで証明してみせたところです。だから当然みんなは期待しました。無限に対しても同じ事ができるのでは?、と。

 しかし駄目でした。後知恵の小賢しさで言えば、それは当然なんです。何故なら人間は、有限の長さの記号列しか扱えません。そこで「無限」を扱おうとすると、有限の長さの記号列に「無限という意味を」どこかで割り当てる訳です。ゲーデル数は漸化式のようなものなので、完全に有限的で、コンピューターでも生成出来ます。しかし無限は、いかなる任意有限より大きいものなので、いつかは「意味論的に」、ゲーデル数の重複が起きるんですよ。その構図は、ラッセルのパラドックスであり、対角線論法と同じあり、再び自己言及性矛盾の繰り返しです。

 ゲーデルはゲーデル数を巧妙に操作して、あるゲーデル数に対応する真な論理式Aと、その否定~Aのゲーデル数が一致させられる事も示します。これが不完全性定理です。コンピューターが生成した完全性定理に基づく出力結果を人間が読んだ時に、意味論的に人間は「やばい」と思うわけです。よって不完全性定理は、有限手続きによって証明できます。

 有限領域では意味論と構文論が完全に一致する、が完全性定理の言ってる事だと思います。不完全性定理は、無限を相手にする時は、そうとは限らないと・・・。自分の意見では、ゲーデルの不完全性定理は、意味論と構文論の衝突です。


4.その後

 では不完全性定理以降、数学者たちは反省したのか?というと、そうではないです。不完全性定理が成り立つならば、十分注意して集合論を使おう、となりました。

 それが公理論的集合論なんですが、現在の数学者達は、自分の行っている事が「嘘八百かも知れない」という可能性を覚悟しながら議論しています。それには理由があります。

 現在の全ての数学は、集合論の中でモデルを作れる事がわかっています。つまり、現行数学のどこかで回避し得ない矛盾が生じたら、それはそのまま集合論の矛盾になります。と言う事は、現行の集合論は日々世界中で、とてつもない数の真偽テストを受けてる事になります。しかし決定的な矛盾は、報告されていません。これが現在の数学の状況であり、皆が安心ている理由です。

 カントールが集合論を作ったのは、まるごと200年も前です。そしてそれ以前から集合論的考えはいくつもあり、カントール以降も、回避し得ない決定的な矛盾は、ふつうの数学を行っている限り報告されていません。ここから自分も含めて、ふつうの人達は、安心してる訳です。

 実際、現行の集合論が(ZF体系が適用範囲内で)矛盾してるという話は、いくつかありましたが誰も信じませんでした。そしてその矛盾証明は、後に間違いである事がわかります。現行の集合論が駄目になるたとしても、それは人間が誰も言った事のないような、人外魔境の話だろうと、誰もが信じてる訳です。


5.選択公理

 個数という概念は、有限に特有のものです。3個の要素を持つ集合の個数が3個である、という事実は、指折り数えるしかないんですよね?(これは数学ではありません)。では可算無限個とはどういうものかと言うと、「指折り数える」という行為を、数学的に抽象化したものです。

 「1対1かつ上への対応」が成り立つとき有限世界では、同数と言いますよね?と。そこで「1対1かつ上への対応」でもって、無限世界においても「同数」を定義できるとした訳です(数にには、もはやなりませんが)。「1対1かつ上への対応」の事を数学では、「全単射」もしくは「双射」と言います。

 「全単射」の存在が同濃度(同数)という事を、有限世界と同じように認めるためには、じつは次のベルンシュタインの補題が必要です。

  ・集合AからBへ上への対応がある(Aの個数はBより多い)、かつ、BからAへ上への対応がある(Bの個数はAより多い)、
   ならば、AとBは同濃度である(同数).

 上記を証明するためには、選択公理が是非必要なんです。だから、「原理的には全て取り出せる」という立場は、是非必要な立場でもあります。

 自分は「選択公理」に関して、こういう目に合いました。「無限足の手袋がある。あなたは、無限の彼方の手袋に対して、それが右用か左手用かわかるだろうか?」と、とある一般啓蒙書に書いてありました。自分の答えは「わかる」でしたが、続く一文には、「その時あなたは、選択公理を使ったのだよ」とありました。

 これが現行の集合論の立場なんですよ。現行の集合論はとても素直であり、たとえ無矛盾性が不確かだとしても、自分はそれを信じます。何故なら不完全性定理は、そう信じても、必ず間違いを引き当てるとは言っていないからです。不完全性定理の言ってる事は、わからないです。
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この回答へのお礼

 ででてx3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ほかの方々の反応はそれぞれ明らかにされましょう ただただ無限について明らかに知りたいという欲求を持つだけの人間としては 次のような反応になります。


 1. 《濃度》が分かりました。(と思い込みました)。

 1-1. だって 無限集合であってもその要素を《数え上げることが出来た》と仮定するのですから そう仮定した限りで その結果としての度合いも それぞれの無限集合について 決まることになる。ゆえです。

 1-2. 数え上げることが出来たのですから その結果のアタイに いくつか多い少ない(大きい小さい・濃い薄い)がある。と帰結される。


 2. それは いくら無限と言っても 可能無限の場合は 経験事象に属しており それは相対的なコトであり 有限であるからです。

 2-1. よって この相対的で有限の経験世界においては その中にあるモノゴトについてすべて人間はその能力によって認識しうると想定したい。

 2-2. 認識しえない場合は 認識しえないということが分かるかたちで 人間の知性はモノゴトに対して優位に立つ。

 2-3. ★ ~~~~
 これが現行の集合論の立場なんですよ。現行の集合論はとても素直であり、たとえ無矛盾性が不確かだとしても、自分はそれを信じます。何故なら不完全性定理は、そう信じても、必ず間違いを引き当てるとは言っていないからです。不完全性定理の言ってる事は、わからないです。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 無矛盾である命題は いかにそれが完全性を持つ保証がなくとも またいかにそれがみづからの無矛盾性を証明し得なくとも この経験世界のモノゴトにかんする限りでは 人知の極致にまで到ることが出来るのだ。と《信じる》。――でしょうか?

 2-4. たぶん ここで経験事象について《信じる》を用いるのは げんみつにはマチガイでしょうから 《考える・思う》ということでしょうが それはおそらく もし不都合なことが起きたとしたら その不都合の成り立ちや理由についてなら人間は知り得ると思っている。ということでしょうか?

 
 3. かくて 数学は モノゴトの概念化とそれのさらなる抽象化を 行き着くところまで広げかつ深め それらを駆使し世界の認識についてあらゆる推理をおよぼすのだと宣言しているのでしょうか。

 3-1. いかに自己言及性が問題をかかえているとは言え それはむしろこの世界を 大きく最大限に《有限世界》と捉えるかぎりでの自己認識であると言うものなのだ。とかえって ほこらしくやはり宣言するのでしょうか?

 3-2. 自己認識のその結果内容は たしかにその当否・成否あるいは是非について判定しがたい。しかもこれを 認識作業としては やり遂げたい。

 3-3. つまりは人間一人ひとりの自己認識は その結果を互いに語り合ってこれを考え直して行くことができる。ところが 世界全体についての――人間がおこなう――自己認識は それはもはや その認識内容の修正過程を持ち得ない。それでも 数学はすすむ。

 3-4. そのすすむ過程で 不都合な事態に遭うことでもなければ 見直しはむつかしい。しかもその不都合な事件があれば おそらくわれわれ人間は 数学者であるなら その原因と理由をしらべそのことを明らかにするであろう。と。


 4. ★ ~~~~
 有限領域では意味論と構文論が完全に一致する、が完全性定理の言ってる事だと思います。不完全性定理は、無限を相手にする時は、そうとは限らないと・・・。自分の意見では、ゲーデルの不完全性定理は、意味論と構文論の衝突です。
 ~~~~~~~
 ☆ この《意味論と構文論の衝突》について もっと考えてみたいですね。
 
 4-1. そう言われてそう考えると そうだとすれば――よく分かんないまま言ってみるのですが―― ゲーデルの不完全性定理というのは たとえば無限集合論を 見切り発車させるために出されたものように考えられます。

 4-2. いやいや。見切り発車なんかではあり得ないということでしょうね 数学としては。堂々とあたかも勝利宣言をあらかじめおこなっておくというような金字塔なのでしょうか?

 4-3. 人間とその世界については 知らずにおけようかと。

 4-4. 《意味論と構文論の衝突》という観点は 魅力的で生産的なように感じます。まだ 反応が出て来ませんが。






 ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/23 22:55

No8の証明でいいんかなぁ~。


《任意の無限集合から可算集合を作ることができる》ということを前提に置かなくて。。。。
この証明には、《選択公理》が必要だし。。。。
《任意の無限集合から可算集合を作ることができる》の前提の真偽が不明だと、そもそもNo8の証明、成立するんだろうか。。。。

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8A%9E% …
にも書いてある通り、
  任意の二つの集合 A,B について、A から B への単射があるか、または B から A への単射がある。
でしょう。
だから、《選択公理》を公理主義的集合論では公理として採用するわけだし。。。。

すべての細かい議論ををぶっ飛ばして、できたと仮定する。
いいような、わるいような。。。。
No8の証明でいいような、悪いような。。。。
細かすぎるのかな~、オレ?
こだわりすぎ?

なんか、この質問のやりとりをしているうちに、
集合論や濃度などが、何が何だか分からなくなった。
困ったもんだ。

構成したbが無理数であるかどうかも疑わしいしく思えて、「bが有理数だったらどうしよう」となってしまった。bが無理数でなければならないことは、確認できたんだけれど。
いや~、いい経験になった。
勉強になった。
自分の数学の知識がいかに曖昧なものであったか、よ~く分かった。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 みなさんで きちんと整理のつくところまで問い求めて行かれるとよいと思います。

 わたしが及び腰になるのも 仕方ないと思いますので。


 今回 それでもわたしから発言してみようかなと思ったことは ふたつです。

 ★ ~~~
 すべての細かい議論ををぶっ飛ばして、できたと仮定する。
 いいような、わるいような。。。。
 ~~~~~
 ☆ たぶん ここまでは むしろ人間にとって強引であってよいのだと考えます。
 なぜか。
 つまり――このところ 書いても来ましたが―― いかに無限集合と言えども それは可能無限であるということ。つまり 経験事象であるということ。つまり 数の値そのものなりその拾い上げなりが限りなくつづくと言っても それは あくまで経験事象としてです。つまり 相対的で じつは 有限の世界における出来事だと考えられます。
 大きく基本的に《有限の事象》である。のなら 仮定として強行突破してもよい。というように思われます。数え上げが出来たと 何も言わずすんなりと 仮定する。と。

 ただそのあと 対角線論法を持ち出して来るとか その結果 どちらの無限集合が大きいかとか その議論には まだついて行けません。
 《有限の事象であるから 数え上げることが出来たと仮定する》 ここまでは納得です。ここまでのみです。




 もうひとつは 可能無限のことよりも 実無限について 数学においても どのように認識されているのか? この点に関心があります。
 よく分かりませんが わたしの考えたところは 

  ○ No.15お礼欄 神とは何か――真無限について――

 に書き込みました。
 そして まさに強行突破のごとく もうひと言添えますと 実無限にくらべれば可能無限は 有限世界に属しており その無限集合といった事象そのものは大きく有限であるからには 濃度が濃い薄いという度合いを認識することもありかも知れないと思ったことです。わたしには その内容が理解出来ていませんが。





 みなさん さらにすすめてみてくださいませ。

お礼日時:2012/10/23 21:17

bragelonneさん、なかなか頑張って居られますね。

このサイトの規約に文句を言われるかも知れませんが、他の回答者に言及します。

NemurinekoNyaさんはとうとう白旗ですか。選択公理のスカートの下に逃げた、というと侮蔑になるので、撤回しますが、そのような印象を持ってしまいます。なぜなら、支離滅裂になっているからです。NemurinekoNyaさんは、「選択公理が不成立なら、自然数全体の集合と実数全体の集合は1対1対応できる」と言っている事になるのですよ。「無理数の集合を可付番の集合とする数学の構築も可能」とはそういう意味でしょう。

NemurinekoNyaさんの論理がひっくり返ってしまったは、「ナンバーリング」に選択公理が必要だという思い込みからのようです。しかし、カントールの対角線論法は、「ナンバーリング」ができたと仮定するところから始まるのですよ。「無理数全体の集合を可付番の集合とする」ことを否定しているのですよ。
言葉は悪いですが、NemurinekoNyaさんがbragelonneさんの手に落ちた最大の原因は、選択公理等ではなく、No.14で、
>原理的には、一つづつ拾い上げて行くことは可能ですが、
と言ってしまった事です。

ここから、bragelonneさんへも言及することになります。

その場合の「可能」というのは、数えるという行為をしたければ勝手にすればよい、あなたにはそれをする自由がある、という事に過ぎない。それを「原理的に可能です」などという勝手な事は言ってはいけないのですよ、NemurinekoNyaさん。原理的に不可能であるというのがカントールの証明なのですよ。bragelonneさんが自然数も実数も同じく無限にあるのだから数え得ると主張するのは、ですから、あなたの自由です。数学で言っているのは、自然数と実数とは1対1対応はつかないということであって、数えるという行為をしたければ勝手にすればよいのです。

最初にサラリーマン氏の勇み足と書きましたが、それは不用意にリストアップする等と言う言葉をはさんだ事を差しています。その言葉が「bragelonneさんにつけ入る隙を与えた」、リストアップできるなら数える事はできると。

---規約違反と言われるなら、いつ消去されてもかまいませんが、取敢ず以上です。
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この回答へのお礼

 わっかんない。

 まづは おうるど_しょさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。



 ひとつに こうですか?
 つまり――引用するとき 簡単なように符号をつけます――
 
 (あ) すでに――へんな言い方をすれば――片が付いていることだ。
 (い) ゆえに その定理も証明法もゆるがない。
 (う) しかも その揺るがなさというのは ほかの考え方を採りたければ 採るがよい。
 (え) というかたちで成り立っている。に過ぎない。


 (お) つまり 選択公理は 公理なのだ。
 (か) すべては そこから出発するのだ。
 (き) あなたは 出発するかしないかだ。
 (く) どっちをえらぼうと 自由である。
 (け) 公理から船出したなら 確実に港に着く。
 (こ) その一連のわざは 確定するのだし すでに確定している。



 No.23の補足欄に さきほどあらたに考え直したことを書き込みました。それを参照していただければさいわいですし 上の受け留め方について合わせて捉えていただけるかと思います。




 つまり もう感想とか印象のようなことになりますが 選択公理と言いますかその公理の立て方 そしてその仮定の中にひそかにすべり込ませた対角線論法をまんまと行使したということ この技法について おうるど_しょさんは ズルイとお思いになりますか?

お礼日時:2012/10/23 11:09

同性間の〈婚姻〉に関する批判的考察


― 日本の社会制度の文脈から ―
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/result/mem …

国籍法 (日本)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B1%8D% …

系統樹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%BB%E7%B5%B1% …

家系図・親等数まとめ
http://jp.happy.nu/gengou/kakei.html
http://aimon.s6.xrea.com/min/kazoku01.html


性同一性障害夫婦の人工授精、嫡出子と認めず
http://ikujizubari.com/topics/2010/1_12.html

普通養子と特別養子とは?
http://123s.zei.ac/souzoku/youshi.html
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