あなたの習慣について教えてください!!

受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。

海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。

恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・

 日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪い不器用な人間が勉強に努力しすぎる傾向があると思います。

努力しすぎる人に限って、勉強以外にアイデンテティがなかったり、いじめにあってコミュ力に障害があって勉強で挽回しようとしたり・・・
でも、そういう人は結局、世渡りベタであるが故に、努力してない人よりも社会で苦労を経験してしまうような・・・・

最近、就活から挫折して自殺した人のTwitterを見ました。
貧乏ではないし、家族は誕生日にはプレゼントもくれる様な愛がある家庭ですが、結局、その人は人としての無力感に苛まれて生きてました。
楽がしたい、就職する事が全てないです。、勿論、そういう意識はその人にもありました。しかし、その事以上に、その人はこの世の楽しみ、生きるべき喜びに気付く事できなかった様に私には見えました。
死ぬまでは毎日、苦悩の叫びを100回以上、つぶやいてましたが、その時間が私には非常にもったいなかったったように思えたというか、

それで思ったのですが、学ぶ機会が、やはり重要なのではではないかと思いました。
生きてる喜びを学べたら理想なのですが、しかし、そういうのは思いつけませんでした。思いついたのは、対処療法的に授業の科目種類を増やしてくのが良いのではないか・・・という事です。

これはアイデンティティの問題で、科目が多ければ多いほど、得意分野を発見しやすいという事であり、そういう所から人としての自信を得られる機会が増えるのであれば、死を考える絶望機会よりも自分に希望を抱いて生きようとする機会も増えるんではなかろうかと。あんまり説得力がないと思いますが・・・

また、授業時間を増やす程、塾等で個人で勉強する機会が無くなり、学習格差も相対的に減ります。
結果的に受験競争に費やされる労量も減るのですが、これが世の中にプラスに働くと思うんです。
これもあまり根拠が無いのですが、会社が必要としてるのは結局、勉強する必要のあった不器用な人ではなく、勉強せずとも飲み込みの早い人であるからであり、そうある方が社会的にも合理的なのではなかろうかと。

受験競争が加熱してる国、例えば中国、日本に限って、気づけば人口の1割が欝化してるという現状がありますが、これが受験競争の歪が影で隠れてるんではなかろうかと。

また、私自身、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」と単純に思う事があります。

大人になった後に起こるであろう、さまざまな人としての失敗は、学校にて学ばせてくれていたら、避けられるものが多かったとも思うし、学べたら、それはそれで楽しいものと思うのです。

例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。
遊びたいだろうし、親の手伝いとか、色々な問題で現実的ではないだろうとは思うのですが、社会にでたら一日14時間の残業労とか有りえる訳ですし、そういうのに受け入れられる様に、長時間授業で慣らしていくのは重要なんだと思います。

家に居ないのが当たり前の生活なら、もはや帰る家は必要ない訳で、いっそ、寮生活を義務付けるのも有りかなと思うし、そっちの方がある意味で虐待家庭の子供を助けられる訳だったりで、
長時間の集団生活でいじめ等の問題もはらんでるだろうけれど、だからこそ問題に対処、矯正できる機会に恵まれるだろうとか。

だらだら書きましたが、結局、私がしたい質問は、「私が気付いてない事柄は何か?」という事らしいです。
本来なら編集して判りやすい文章に纏めるべきでしたが、申し訳ない事に気力が無いので妥協させてください。

A 回答 (6件)

ゆとりは最後まで頑張って結果を出したあたりで感じるべき満足感です。



何も結果をだしていない子供の頃からゆとりをすすめる人は自分が成功できなかったので育てたくない意識が働いていると思っていましたね。

ところで東大をけなしている方がいますが、私は東大はすばらしいと思います。
アメリカがどういおうが英語でないだけの問題で低く見積もられている気がします。
アメリカが学力低下を言うのは笑えます。
東大の医学部やエンジニアの研究などすばらしいと思いますね。人間も質が高く真面目です。
でもほとんどがそこまで行かれない。それは親の意識、環境、経済、それと学校を学ぶ場所だと勘違いするからでしょうか。
体力、知力、財力、人間関係、すべてが一体となって総合戦力になるわけです。

私は英語圏で子供を育て、今は国立医学部に入っています。
日本の教育で間違いだと思うのは世の中は公平ではないと教えない事。公平であるはずがないでしょう。
お金を稼ぎたかったら勉強するように教えない事。
勝ち負けは確かに存在する意識である事を教えない。
人生には賞味期限がある事を教えない事、学生は学ぶ事が社会的に許された旬の時期である事を自覚させていない。
公立の先生が駄目ですね。山の登り方をひとつぐらいしか教えられない視野。
そのほうが楽だからでしょうか。だからみんな同じにしたがるのか。
その方法を教えられないなら潔く自分の能力を認めて、
生徒に勉強は家でする、学校は復習と交流の場にしなさいといえばいい。
それをできもしないのに権威をつけるかのようにいろいろ要求するから子供は疲れるのではないでしょうか。

ここでは高額私立にまかせっきりで、日本人学校の役員をやっているような母親の子はほとんど脱落しました。
自然淘汰。
あるいは頑張ってもせいぜいローかビジネス学部程度でしょう。サイエンスやエンジニアは競争が激しいです。

流れは簡単です。無駄を省き合理化をはかる。
まず稼ぎたい額を考えその職業を頭に描く、その職業に就くための学部を選ぶ。
その学部に入るための要求されている科目をl高校で選ぶ。それが選べるには中学校から理数がダントツである事。
それには勉強をずっとしてきた者だけが残ります。ゆとりはずっとやっているから心から休む時間が得られるだけです。
遅れている人達にゆとりがあると思うほうがおかしい。

若い世代に世界をもっと見てほしいです。
その上で他の国がどんなに批判をしようと、その国の実態を知れば大したことがない、生きる方法ですら見えてくるかもしれません。
しかし再度書きますが、学校は復習の場、交流の場です。
勉強は自ら先にする、これだけは息子と実施してよかったと思いますね。
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>例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。



苦痛になる時間を単に延ばしたから学力が伸びたではなく。
生徒が授業を楽しく受けられるのかが焦点なんです。

楽しく勉強するのと、苦痛で詰め込み教育を受けるのとでは、別次元です。
例えば、東京大学を卒業した者が社会で使い物にならないのと同じで、アメリカからの指摘では国際競争力が低下していると注文され、東京大学の対策は海外からの留学生を多く通って貰うと勝手に勘違いし馬鹿を産出している姿です。
こんなアフォな大学は、国立の枠でなくても良い、例えば私立に叩き落すとか。

小・中・高・大の教育者の考えを改め、学生が勉強していて楽しいと云うような学習カリキュラムを整えて貰いたい。
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>受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。



影響に関しては、短期的・長期的に構造が違うだろう
総合的に勘案すれば、当人を通して波及する影響は、プラスよりはマイナス部分が多いだろう
しかし、過当競争であることが問題ではなく、受験生自身の問題という現実もあろう。

>海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。

東アジア諸国は全般的に同じ。日本と韓国は似ている。インド・シンガポールも日本に近い。ただし大学の相対価値が日本と諸外国では大きく異なる

>恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・

含蓄のある文章だと思える
「学んでゆく環境が整っているから」という指摘は、教育評論においては要諦とも言えるだろう
つまり、当人の能力以前の「学習環境」が重要という見解であろう。
その認識は正しいと思うので反駁はしないが、
その学習環境整備については、将来的には、全ての国民・住民が平等である状態が教育制度としては望ましいようには思う
予備校講師という立場で指摘させてもらうに、都市と地方での学習環境の較差は拡大している。
都市部では、成績の優秀な学生と悪い学生が二極化して奇妙な階層が出来つつあるように指摘される
一方、東北地方などの地方部では全員が総じて同じ成績水準であることから、都道府県別では地方の相対的優れている現実もある
できれば、学習環境の較差是正のためにネット・タブレット端末などの電子教材普及に努力したいが、ビジネスとしては厳しい模様。

> 日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪い不器用な人間が勉強に努力しすぎる傾向があると思います。

指摘は否定しない。”努力しすぎる”というのは、否定的なニアンスだろうが、努力過程は無為にはならないだろう。
「合理的ではない」という論説であれば、否定できないが、当人の意思で行われている以上は、是非論の余地はないように思う
もっとも、”センスがない”という類の学生は存在する事実は否定しようがないが

>努力しすぎる人に限って、勉強以外にアイデンテティがなかったり、いじめにあってコミュ力に障害があって勉強で挽回しようとしたり・・・
でも、そういう人は結局、世渡りベタであるが故に、努力してない人よりも社会で苦労を経験してしまうような・・・・

一概には結果論は言えないだろう
世渡りが下手な人間は少なからず存在するのが必然である。
「パレート最適」という理論があるが、それで考えるのが最適な話とも言えるだろう


>最近、就活から挫折して自殺した人のTwitterを見ました。
貧乏ではないし、家族は誕生日にはプレゼントもくれる様な愛がある家庭ですが、結局、その人は人としての無力感に苛まれて生きてました。
楽がしたい、就職する事が全てないです。、勿論、そういう意識はその人にもありました。しかし、その事以上に、その人はこの世の楽しみ、生きるべき喜びに気付く事できなかった様に私には見えました。
死ぬまでは毎日、苦悩の叫びを100回以上、つぶやいてましたが、その時間が私には非常にもったいなかったったように思えたというか、

それで思ったのですが、学ぶ機会が、やはり重要なのではではないかと思いました。

重要ではある。「学ぶ機会」を得るためには、様々な分野にアンテナを張る必要性があって、大変なことではある
そういう意味では、学校のみならず、一歩外を出る教育にシフトした「ゆとり教育」の相対価値は高いだろう

>生きてる喜びを学べたら理想なのですが、しかし、そういうのは思いつけませんでした。思いついたのは、対処療法的に授業の科目種類を増やしてくのが良いのではないか・・・という事です。

仕事論でも言えることだが
”マイナスなことは仕事に没頭することで忘れる”という行動原理は多い
学生と勉強にも同じ関係がありえるだろう。学ぶ環境を強いられている状況によって、マイナスを忘却する・・ということだが

しかし、これは単なる現実逃避にすぎない。逃避して問題解決する事例ならば、有効だが
時間が解決しえない問題 に対しては、問題の先送りになる


>これはアイデンティティの問題で、科目が多ければ多いほど、得意分野を発見しやすいという事であり、そういう所から人としての自信を得られる機会が増えるのであれば、死を考える絶望機会よりも自分に希望を抱いて生きようとする機会も増えるんではなかろうかと。あんまり説得力がないと思いますが・・・

上記したようにゆとり教育は、学校外の「学ぶ機会」を創造し、多様化させる効果がある
そのような視点がないと「ゆとり教育」の評価は出来ない

>また、授業時間を増やす程、塾等で個人で勉強する機会が無くなり、学習格差も相対的に減ります。
結果的に受験競争に費やされる労量も減るのですが、これが世の中にプラスに働くと思うんです。
これもあまり根拠が無いのですが、会社が必要としてるのは結局、勉強する必要のあった不器用な人ではなく、勉強せずとも飲み込みの早い人であるからであり、そうある方が社会的にも合理的なのではなかろうかと。

方法論としてアリであろう
では、一方で家庭生活の時間・部活時間などの関係性は軽視してよいだろうか?
受験競争に浪費される社会資源の再分配先は当人が決定することだが、受験勉強よりも望ましい社会資源の再分配が可能だろうか?正直分からない
当人の自由意思で「学ぶ機会」を選択できるようにするのが望ましいのであり、そのためには、”学校教育の限界がある”ことを大前提にする必要性がある


>受験競争が加熱してる国、例えば中国、日本に限って、気づけば人口の1割が欝化してるという現状がありますが、これが受験競争の歪が影で隠れてるんではなかろうかと。

受験戦争というよりも、学歴戦争ではなく生来の社会較差による問題だろう。教育論の範疇とは思えない

>また、私自身、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」と単純に思う事があります。
大人になった後に起こるであろう、さまざまな人としての失敗は、学校にて学ばせてくれていたら、避けられるものが多かったとも思うし、学べたら、それはそれで楽しいものと思うのです。

”失敗でしか人は学べない”・失敗だけを学べば良い
これは日本社会では否定されることが多い
特に政治思想として保守系の人々は、失敗経験を全否定することに躍起になる傾向がある
今後の失敗学の教育は期待できないが、当人が失敗から学べることは良いことであろう

>例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。
遊びたいだろうし、親の手伝いとか、色々な問題で現実的ではないだろうとは思うのですが、社会にでたら一日14時間の残業労とか有りえる訳ですし、そういうのに受け入れられる様に、長時間授業で慣らしていくのは重要なんだと思います。

法的に不可能というしかない
法改正で対応するにも、家庭生活との折り合いが問題になる。
学校教育は、教育の一旦に過ぎず、教育全般を担う存在ではないことを踏まえて考えて欲しい

>家に居ないのが当たり前の生活なら、もはや帰る家は必要ない訳で、いっそ、寮生活を義務付けるのも有りかなと思うし、そっちの方がある意味で虐待家庭の子供を助けられる訳だったりで、
長時間の集団生活でいじめ等の問題もはらんでるだろうけれど、だからこそ問題に対処、矯正できる機会に恵まれるだろうとか。

見解は理解する
しかし、単純すぎるようには思われる

>だらだら書きましたが、結局、私がしたい質問は、「私が気付いてない事柄は何か?」という事らしいです。
本来なら編集して判りやすい文章に纏めるべきでしたが、申し訳ない事に気力が無いので妥協させてください。

”気づいていないこと”が要諦なので、回答できない
仮に、それを当方が示唆したとして、血肉にならないものだろう
教育の要諦は「気づき」であることを質問者は皮膚感覚で理解しているようだが、その気づきに至る過程は様々であって、正解はない・・と言える

この回答への補足

>影響に関しては、短期的・長期的に構造が違うだろう
>総合的に勘案すれば、当人を通して波及する影響は、プラスよりはマイナス部分が多いだろう
>しかし、過当競争であることが問題ではなく、受験生自身の問題という現実もあろう。
 今更ですが私もその様に思います。
 全体的な競争力が飛級の無い国においてのみ高いのであれば、飛級国と比較して成績水準がはるか上にあって当然の筈ですが、実際はそうでもない気がします。
 背景に過当競争性があったとしても、それはあくまで一部の受験生において起きるもであり、それを相殺する位に勉強の努力をしない人が居るのかもしれません。

>都市部では、成績の優秀な学生と悪い学生が二極化して奇妙な階層が出来つつあるように指摘される
>一方、東北地方などの地方部では全員が総じて同じ成績水準であることから、都道府県別では地方の相対的優れている現実もある

 上記の一文がまさしくそれを証明しているのかもしれません。
 実は私の通ってた高校では「勤勉な人」と「勉強は程々に遊んじゃう人」に2極化していました。
 私学なので結構金が掛かるのですが、イケメン金持ちは放課後合コンざんまいであり、貧乏でイけてない人は、モテナイ劣等感からか勉強に逃げてしまうというか・・・

 遊べる環境が手近かにあるかないかで、また金持ちが集まるかどうかが成績の2極化に関わるとしたら、都心部おいてのみそれが見受けられるのは納得です。
 
 その格差是正においてタブレット端末の導入ですが、凄く良いと思います。
 ビジネス的にどうかという視点には確かに疑問の余地はありますけれど、民間にやれない事こそ、国がやる価値があるのかもしれません。
 話題がどんどんズレちゃいますが、ソフトバンクの光の道についてご存知でしょうか
 ああいうの夢があって楽しそうなんですけど、

補足日時:2012/11/16 02:09
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「逆ゆとり教育」は賛成です。


って言うか、勉強が出来ない子供のレベルに合わせる様な、ゆとり教育が逆ですから、逆で正解です。

ただ、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」などはどうかと。
それは本来、義務教育から先に、自分で探して学んでいくものですから。

なぜ自分で学ばなかったんですか?
あるいは、なぜ今、学ばないんですか?
大きな本屋に行けば、学びたいことに関する書籍の1冊や2冊はあるでしょう。
判らない点があれば、それこそこんなQ&Aサイトなどもある便利な時代です。
学べない理由など、無いと思いますが。

そう言う自立的な考え方が、「気付いていない事柄」ではないですかね?
あるいは、「学問は与えられるもの」と言う依存的な考え方が、義務教育の問題・弊害なのかも知れません。

それと学校は、基本、知識を得る機関であって、しつけ機関などではありません。
学校はそう言う役割も担いますが、社会性や適合性などは、自分で身に付けていくものであって、またしつけは、主に家庭において行うものですよ。

やはり、学校に過度に期待・依存し過ぎている様にも思います。
もう少し主体的にお考えになれば良いですよ。

そもそも「日本の教育がダメ!」などと思うなら、自主的・主体的に考えれば、自分が良いと思う海外の教育を受けても良いし。
別に日本の法律はソレを禁じていませんので。

この回答への補足

学校に期待するとか子供に期待するとかもあるんですけど、それ以外のベースも重要なのかなと思うんです・

大人な自分でも、知的好奇心を満足させる事柄ってあるでしょう?
 学校では無機質な教科ばかりだけれど、みんなが、ちょっと興味がある分野を学べる時期に学んでしまえたら、それは単純に凄く良さそうな社会じゃないかなと。

私の主観的経験側ですが、本屋に行って自主的に学びたい事を学んでるだけでは、致命的な失敗を避ける様なフォローはできないと思うんです。
主観的な自由度があると妥協する事も自由になるから、本屋に普通に通う分では学べる機会がないというか、失敗してから学習に興味を持つ分野もあると思うんです。
失敗するまでは興味の湧かない分野である場合、学習段階で似た失敗を活用して応用して学んでいくのが重要になるのではないかと。

例えばギャンブルだと如何に儲からないかを検証したり、日常に潜むギャンブル性とか、世の中のギャンブル問題性とか、それについて如何に教育していくかという教育論段階の問題そのもを子供に投げかけたり。
あらゆる立場の人間の心理を想像する教育の過程で、結果的にいかに犯罪がいかにいけないかの道徳論教育もしやすいだろうし。

うまく説明できませんが、はっきりした答えが存在しない問題というのがあるでしょう? 
AかBかCか、答えは多岐にあるけれど、それを仮説段階において、いかに証明できないのか困難性について学んだりして、あらゆる物事が如何に深くものであるかを気付いたり・・・
こういう事は本屋ではまず学べません。
インターネットなら可能ですが、折角、ふれあえる集団性ができあがった学校があるんだから、そっちでやったほう学校としての存在価値を惜しみなく使えるだろうかとか、コミュ力がUPするのではないかとか。断定はできませんが・・・

余談ですが私は良く学習教材にアニメが導入できるかどうか考える事があります。。
アニメで学習をさせる訳では無く、娯楽性の強いアニメから派生して心理学を教育していく様な感じです。

授業の内容は、遊びみたいなものもあって良いと思うんです。
テレビゲームインターネット、漫画。アニメ。小説。いろんな分野を一通り強制する流れがあっても良いのではなかろうかと。

そういう遊びの視点から、心理学や道徳的なものを皆で考察したり、自ら物語を書いてみたり、仲間と感想を言い合ったり。

そういう視点から弁論、社会情勢を教えたり、。
ニート問題、少子化問題いろいろ、どうやって解決できるか、徹底に討論したり、社会では、努力をいくらしても結果がないと給料は貰えない現実とか。
生活保護予算は世界的に見たら、妥当かどうかとか国政レベルまで考えるみたいな・・・
いじめシュミレーションゲームしたりとか。例えゲームだと分かっていても、「嫌い」という言葉に傷ついたり、逆に傷つく人は居ないひとがいたり、笑っていたり泣いたり、個性の違いについても認知できる環境があるといいな~みたいな。
犯罪について刑事罰は妥当かどうかとか。
取り調べの可視化の必要性不必要性、あるいは留置所は都会と地方でどのように違うとか、そこでは人権があるのかないのかとか。

多様な問題性をネットをフル活用して、各自がテーマを調べてレポートにまとまるなどすれば、同時に色々なスキルが身につくとも思うんです。

人として知っておくべきことは、限りなく学ぶべきだと思うし、実際、学びたいと思うもんだと思うんです。楽しいし。
でも、学校では楽しい事については全く学べない。
大人になって好奇心があって積極的に調べようとした人にしか、学べない。

もし、今の授業体質で大人になるまでに死んでしまった人は損でしかありませんよね。
学ぶならせめて楽しい事から好奇心を持続させて学ぶ方が絶対合理的と思います。

色々と長々書いてしまいましたが、この感覚は恐らく人類共通点だと思うんです。
国家の財政以外の問題を除けば、肯定するしかない事情でもあると思うんです。

だから?? と問われてしまうと身も蓋も無いですが・・・・

ただ思うのは、世の中の経済的な意味で理屈が先走る社会と、感情論を優先させてくれる感じの社会とだったら、例え不景気でも感情論が先行してくれる社会なら、楽しく生きていけるんじゃないかなと。

でも、なんやかんやあれこれ考えても結局は不可能なんでしょうけどね。
最終的には親がしっかりするしかないでしょうね。

補足日時:2012/11/15 19:59
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パンドラの箱ってご存知ですか?


開けてはいけない箱を開けてしまい、
中から「災い」が溢れ出し、世界中に拡散してしまった話です。

その時直に箱を閉めたのですが、殆どの「災い」は外に出てしまい、
箱の中には1つだけ残ったそうです。
それが未来を知る「予知能力」だそうです。

人間は未来を知る事が出来ないから、
今を大切に、一生懸命生きる事が出来るそうです。

近年、質問文にもあるような自殺志願者や自殺者の多くは、
「自分は生きてる価値がない」や「挫折して将来が見えない」等
の意見を良く聞きます。

これは、情報が錯乱しまくっている現代社会の「災い」だと私は思います。
インターネットを開けば、凄まじい量の情報が溢れ、
自分と似た境遇の人間の結末がそこには書かれていたりします。
また、こうした質問サイトで、答えを安易に求める事も同様です。

自分がこれからの人生の中で、見て、聞いて、体験して感じる事を、
インターネットの情報で経験した気になり、やる気をなくしていっているのだと思います。
これはまさしく、災いの「予知能力」と同じだと思います。
この先経験して得る情報を、ネットで知れてしまう訳ですから。

なので極論ですが、インターネットの情報量を
まだ自己判断も出来ない子供達に晒す事を辞めるべきだと思います。
それこそ18歳未満はネット閲覧禁止にするくらいの事をしないと、
これから生まれてくる子供達は、どんどん勝手に知識をネットで得て、
そして、それをあたかも自分が経験したように感じ、
その果て無気力な感情しか持たなくなりそうで、恐怖を覚えます。

この回答への補足

ネットであたかも自分が経験したように感じるというのは判る気がします。
それが原因で夢が一個潰れてしまう様な、それで興味が無くなってしまって選択肢が一個潰れる様な経験私もあります。

好奇心は猫をも殺すとかありますけど、でも人間ならば好奇心が尽きない限りは生きれるとも思うんですよね。
無気力になっても、好奇心さえ誘発できれば何とかなりそうな気がするというか・・・

その自殺した人のTwitterなのですが、病んでる感じの人達が互いに共感しフォローし合ってたのですが、最終的に一部の人が自殺を勧めていく話の流れになってました。
無気力にプラスして、その人に共感して死に希望を導く流れがあって・・・

反面、ネットが人を救うパターンもあって、例えば人間関係に悩んだ子供が自殺を考えてて、何気なく自殺というキーワードでネットサーフィーンしてたら感動する小説に巡り会って、立ち直ったとか。
自殺声明文を書いて警察が自宅に駆け込んで来て救助した話とか。

ネットの良い面と悪い面を数量化できたら良いと思うんですが、それはきっと不可能なんでしょうね。
凶悪犯罪率に関しては少なくともネット発展とは変化はなさそうですが、自殺者は近年増加傾向にありますし、ネットの発展性もしかしたらあるかもしれません。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2740.html
調べましたら、少子化中であるにも関わらず、10代の自殺数が一定水準ありました。
これはもうネットが関与してる疑いは濃厚ですが、それにしても50代の自殺者数の減り具合が凄いです。一体何があったのか非常に気になるところであります。

補足日時:2012/11/15 18:30
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>「私が気付いてない事柄は何か?」



現実は厳しい。というところでしょうか。

大人になれば必然的に気付くから
別にあわてて気付く必要もありませんし。

この回答への補足

確かにそうなんですけど、「現実は厳しい。」というのは現実の厳しさを知らずにトントンびょうしに勝ち組になった人は、負け組の視点に想像が及ばないのだと思うんです。
知らず知らずの内に発言した事柄は確実に悪い意味でのプレッシャーとなって負け組に与えてる気がするというか・・・
勿論、良い意味でのプレッシャーもあるんでしょうけど、そういう諸事情についても、早めに学んでおけば対策方法も見つけやすいのではないかと。

これはあくまで私の推測に過ぎないのですが、人本来の学習の能力差自体はそれ程大差なく、集団生活の中においてのみ強烈に運の要素が働き、人本来の学習の能力差を乖離させていく様な・・・
その結果、教育を終わる段階において、例えば優秀組2割、ダメ組2割みたいな感じになって、その全体の努力総量には一切関係なく、統計上そうなる必然性があるみたいな・・・
上手く説明しにくいんですけど、その仕組み自体を義務教育の時点で学んでおけば・・・どう良いか判らないけど、何か価値がありそうな気がするんです。

補足日時:2012/11/15 17:11
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