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快楽はなぜ求めてはならないんですか?
わたしの考えだと快楽は人間の真の人生の内にある目的から目を逸らさせるからです。
みなさんどう思いますか?

A 回答 (15件中1~10件)

人間は欲望を満たす時に快楽を感じます。

欲望を満たすために経済も科学(医療・電気製品・自動車などなど)も発展してきました。肉体的欲望も精神的欲望もです。欲望も快楽も天(神様)が与えてくだっさったプレゼントでしょう。

最も強く感じるH(セックス)の場合、快楽を感じないとセックスレスつまり子孫が増えない事も事実ですが、私生児をつくったり、不倫や強姦・獣姦することは、神様や相手を不幸にし悲しませることになります。

旧約聖書の「伝道の書」(ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉)に「若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ」と書いてあります。

貴方のおっしゃるように「快楽」だけを追求すると結果的に、むなしさ(空)をあじわう結果になる可能性もあります。愛する相手が出来る人はいいですが、相手がいない人はどうすればいいのか、という問題は残りますが。自分自身で解決できるひとは自分でということでいいでしょうか。
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この回答へのお礼

あなたはすばらしき道徳感を持った方だ。
見事な回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:27

求めて、得られないと、苦しいからです。

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/09 01:18

食えば食うほど腹が減る、という言葉があります。

人間は際限を知らないんですね。勤勉であるためには、快楽に対して慎重でなければならないのだと思います。だからこそ、キリスト教の七つの大罪の多くは快楽を伴う欲望であり、神はそれを退けておくようにと人に戒めている訳です。かくいう私は、睡魔に魅入られています。いわゆる、「怠惰」です(笑)。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/01/09 01:18

それは、どこの宗教や哲学者の主張ですか。



快楽に溺れてはならない
というのであれば聞いたことがある気がしますが。

また、快楽とは性的快楽のみではありません。

食事や読書を楽しむことも禁止されていると言われているのですか。
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この回答へのお礼

うーむ
少し言葉不足だったかも知れません、出直してきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 01:38

快楽の結果として、自分も他の人も幸福になるのならいいと思います。

快楽を得た後に虚しさが残るのは、幸福ではありません。逆に禁欲や苦行を得たとしても、苦しみばかりで何もなく、他の人の幸福にも全く貢献できないなら無意味だと思います。
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この回答へのお礼

快楽の結果幸福になるようなことってあるかな?
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 01:41

 こんにちは。



 問題は 
 ★ なになには なになに《してはならないのか?》
 ☆ という問い方にありましょうね。

 なぜなら 仮りに《してはならないわけではない》とか《してもよい》とかの答えが出たとき初めて 自分は自分の判断で考え行動するというのでは 困りましょうね。


 ということだと考えます。
《快楽》の問題ではないのだという回答です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:12

快楽というのは通常、本能的な衝動を短絡的に発露


させて充足する場合を指します。
それに対して、そうした欲求を認識的過程に乗せて、
迂回させて発露させる場合を、幸福などと言います。
決して、欲求を抑圧するものではなく、意識という
キャンバスにおいて、より大きく発揮して、より大きな
充足感を可能にするものなのです。

快楽は生理的・短絡的・即物的であり、すぐ色あせたり、
時間経過において矛盾したりするものであり、それを
長期的に最大化するのが認識であり、その結果が
幸福感なのです。

生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の
最大化=生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生の
通算で最大」にコントロールする認識力×その達成度
×それを把握する認識力)であり、そこにおいて認識性
の発達は、単に成果の最大化だけでなく、その感受に
おいても関数を成す、最重要なファクターなのです。
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この回答へのお礼

最後の結論はすごい論理的と言うか数学的というか・・
理解までは到達できませんでした。

回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/31 02:39

仮に、真の人生の内にある目的から目を逸らさせるから快楽を求めてはならない、としましょう。




つまり人生の内にある目的とは、快も楽ももたらさないもの、ということになります。
この要件を満たさない(すなわち悦びが得られるような)目的であれば、
それは同時に快楽を求めることになってしまうためです。

いや、真の目的を達成したときに得られる悦びは質が違うのだ、というのであれば
快楽を追う心そのものを否定するのはおかしいし、
(そもそも人生の真の目的とは、達成していないからこその目的であるのですから)
同時に達成したときの悦びなどは、誰も経験したことが無い以上
他の快楽を否定する根拠としては成立しないのではないでしょうか。



どう思うか?うーん。

世の中にはムチでたたかれる苦痛を快楽と感じる方や、
苦痛と快楽、幸福と不幸を分離できない人もいるので
質問者さんのそれも良くある変態的性癖・・・じゃなかった思想でもあるかとは思うんですが、
それでも快楽を禁止することが、快や楽と感じてしまったときには
それは全く致命的な自己矛盾がおこるんじゃないかな?と思います。
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この回答へのお礼

>それでも快楽を禁止することが、快や楽と感じてしまったときには
>それは全く致命的な自己矛盾がおこるんじゃないかな?と思います。

うーん、まあそうですね・・
ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:34

>快楽はなぜ求めてはならないんですか?



 騙されてはいけません。自分が快楽を得るために、人に快楽を求めないようにするのが宗教です。

 私の崇拝する尊師は、信者達に禁欲を促し、自分は毎晩若い信者とセックスの快楽を楽しんでいました。

 男全員が禁欲になれば、女は全員俺のもの~~。

 おいしい肉を食べてはいけない、セックスしてはいけない、酒をのんではいけない・・・


 私も、道徳と倫理と禁欲を説きつつ、毎晩酒を呑み、おいしい肉と肴を食べ、少なくとも週に1度は援助交際の相手とセックスてます。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:25

哲学という割には、快楽の定義が曖昧です。

まずはそこからやり直しましょう。
ちなみに法華経には「衆生所遊樂」という言葉があります。この単語で検索すると、
創価学会系のサイトが多いですが、あそこも法華経関連だから自然と言えます。

「衆生(民衆)は遊び楽しむために生きる」という風に教えてもらいました。
ただ、それを継続するためには、快楽に耽ってしまうとだめなのです。
遊ぶためには働かなければいけない。原因があって結果がある。遊び楽しむ為の
原因を作っていかなければならない。例えば、薬物中毒で快楽を得られても、
身体にダメージが残れば結果的にはダメという事です。

逆に言えば、しんどくても苦難に負けない自分自身を形成できれば、極論だが、
人生の荒波を渡っていけるという事でもあるかもしれません。食事もバランスが
求められます。「楽あれば苦あり」結局はバランスの問題なのでしょう。
だから、快楽「だけ」ではダメなのだと思います。

この回答への補足

>哲学という割には、快楽の定義が曖昧です。まずはそこからやり直しましょう。

確かにそうです、失礼しました。出直してきます。

補足日時:2012/12/31 02:24
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この回答へのお礼

的を得た回答だと思います。
ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 01:53

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