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よく、小学校の先生とかが、小学生に対して、

「無限の可能性が、……、すばらしい」

とか言いますが、

無限の可能性ってなぜ、素晴らしいのですか?


たとえ可能性があるとしても、
結果というものは、「できる」か「できない」
のどちらかだと思います。

例えば、ある子供がプロ野球選手になりたいとします。
今にも死にそうな老人からみたら、
確かに可能性はなくはないですが、

いかにも過大評価しすぎだと思います。

練習して、血のにじむような努力をして初めてなれるのです。
周りの強い人に勝てず、涙をして野球を辞めていく人も多いです。


物事というのは、実現して初めて価値があるのではないですか?
たとえ、1つのことを実現するのに100のことを捨てたとしても。

何もしないでいる、若いニートにも価値があると言えるのですか?

A 回答 (10件)

NO3です。

お礼ありがとうございました。

まず私と質問者様の意見とでは前提に食い違いがあるようです。

結果というのはそれを結果とする前提があって初めて成り立ちます。
(プロ野球選手になることを結果とするというような)
しかしプロ野球選手になるということには、なるまでの過程となった後の継続が含まれるわけであり、

「なれなかった」ことから何も得られないとする考え(「なれない」は0「なれる」ことを唯一最上位の結果とする考え)は私の前提にはありません。

私の考える可能性はいわば「確率」
「なれる」可能性が20%ならば「なれない」可能性は残りの80%
合計すれば必ず1になります。
そしてなれなかった80%に新たな前提を設定すれば、新たに確率が生まれる。

砕けた言い方をすれば、時間と想像力があれば何だってできるということ。
もしできないものがあるとすれば、初めから不可能(確率0)が無限の可能性の中から結果を限定していしまってる(確率1)からだと思います。

例えば0から1という数値の間には無限の数が含まれているということでもあります。

良ければ参考にしてください。
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この回答へのお礼

0と1の間の数値のことが無限大ですね。

そこが分かってませんでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2013/02/27 21:36

今現在に至っては未来のことは何もわかりません。



だから可能性はあるのですが、それを可能性として活かすか殺すかは
あなた次第ですね。

あなたがその気になり、そのようになっていけばその先に可能性は
見られます。それがたとえ無駄なことに思えても、何かの形になって
返ってきます。



それに、学生ならば、先生からしたら可能性ですもの。

先生の学生時代からしたら、時代はどんどんと変動して行ってる。
この先は、社会人になった学生たちが社会を作っていくことになる。
絶対といっていいほど変わっていくはずだからね。
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私は違う意味に受け取ります。


「無限の可能性があるとでも思わなきゃ、やってらんないよ!
希望があると思い込もうよ。
希望が無かったら、絶望してニートや鬱になっちゃうから。」
という意味に取ります。

私にとっては、可能性を信じなくても生きられると思う方がよっぽどキレイゴトだと思います。
人生はあなたが思うほど甘い物ではなく、人間なんて常に崖っぷちですよ。
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”無限の可能性ってなぜ、素晴らしいのですか?”


   ↑
希望があるからです。
パンドラの箱です。
どんなに悪い状況でも、希望があれば
何とかなるものです。

開けてはいけない箱を、パンドラという女性が開けて
しまいました。
そしてら、その箱から絶望、疫病・・ありとあらゆる
厄災が飛び出してきました。
パンドラは慌てて蓋を閉めます。
すると箱の中から声が聞こえました。
「開けてください。私は希望です」


”たとえ可能性があるとしても、
結果というものは、「できる」か「できない」
のどちらかだと思います。”
    ↑
こういう考え方を「結果主義」といい、米国に
強い考え方です。
成功したモノが偉い。結果を出せなければ意味がない。
結果を出すためには、何をやってもゆるされる。

これに対して、日本は「行為主義」的傾向が
強い国です。
行為主義というのは、結果如何に関わらず、行為
そのものに価値を置くという考え方です。
試験に百点とることも大切だが、頑張ることは
もっと大切だ、とするものです。
勤労は美徳だ、というのもこの一種です。
勤労の価値は給料だけじゃない、勤労すること
そのものに価値があるのだ、という
考え方です。
こういう考え方は江戸時代の「石田梅岩」
が提唱しました。
だから、日本では敗者にも価値を認める
判官贔屓がはやるのです。

”いかにも過大評価しすぎだと思います。”
    ↑
少年よ大志を抱け、です。

”練習して、血のにじむような努力をして初めてなれるのです。”
     ↑
いくら練習しても、血がにじんでも、素質や
運に恵まれないと結果が出せません。
だから、人生は面白いのです。

”何もしないでいる、若いニートにも価値があると言えるのですか? ”
     ↑
価値というのは関係概念です。
何について価値がある、という言い方をしないと
意味がありません。
ニートですが。
・本人には価値があるでしょう。
・家族にも価値があるかもしれません。
 ニートでもいい。生きてさえいれば。
・社会的にはほとんど価値はありません。
 ニート全員がいなくなっても、社会は困りません。
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No3の方とおおかた同意見になります。


例えばプロ野球選手は無理でも、代わりに他の多種多様な職業に就ける可能性も同時に手にした訳です。
現実を見て、好きな業種の会社員を目指すこともできるという可能性がそこにあります。
もちろん野球選手になれるという可能性もあります。
しかし、どちらも「可能性」という点では同じです。
そのとき選べる選択は1つでも、選択肢は2択ではありません。
枝の先には枝が付いていて、さらにその先でも枝が分かれている。
まぁ、確かに億や兆という可能性があっても「数えたら無限じゃないだろ」といえばそれまでですが・・・。
しかし40歳50歳となってから新しいことを始めようとしても、能力、立場、お金、時間など、足りなくなることも確かでしょう。
それに比べれば可能性は多大です。

起こりうる可能性の大小も気になさっているようですね。
確かに必死に努力しプロ野球選手になる人は当然一握りです。
ですが何千何万ある「会社」というものの中からある1つの会社に勤めるのも、同じようにとても小さな可能性とは思いませんか?
たまたま知り合った友人に、たまたま勧められた趣味にハマって、それをきっかけにその業界の仕事をしようと必死に勉強し、たまたま受けた会社にたまたま受かる可能性ってどんなもんでしょうかね。
それでも行きたい会社に就職できない人もいます。条件は同じようなもんでしょう。
世の中の人はみんなこういう感じではないのでしょうか。
それらも全部ひっくるめて「可能性」と言ってるのではないかなと思います。
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 「宝クジ」みたいなもんでは。



 先生はすでにクジを引いて結果が出ていて、この先も先生を辞める気がないから、良くも悪くも「人生の先(終わり)が見えてる」状態かと。

 生徒は、クジを引く前だから「3億当たったらどうしよう」「1億で家買って…」と夢を語れるワケです。

 先生にとっては、夢や希望にあふれていた、その頃が懐かしいのでは。
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そうやって沢山一人で抱え込める人間はいないですよ!実は優しさゆえに赤の他人の噂やNEWSにつられて嫌な気分になってませんか?更年期障害は若年益々増えているようですから。


文章の書き方や言葉の並べ方がイライラしているのでは?ストレスを蓄積しすぎているのではないですか?
貴方が思うほどそこまで悪い人間ばかりなら貴方は何故今まで食べて生きる事が出来ましたか?
土に種をまくくらいで生命が宿る筈もないですし。今まで身を投じて戦ってきた戦国や戦争または神風特攻隊あんな時代に貴方がいきなりタイムスリップなんて事になりゃなんとなくどうでもいい事で悩んでる余裕がまだあるから貴方は幸せですよ
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「無限の可能性」には、


それを達成させることができる可能性とできない可能性の両方を含んでいると思います。

物事を結果だけで評価した場合、
質問者様の仰る通り「できる」か「できない」のいずれかに帰結するでしょう。

ただ結果というのはあらかじめ決められた何らかの前提や仮定に基づくものであり、
それが生きていくうえでの最上位に位置するわけでも唯一の答えでもないです。

無限の可能性とは「未来を知ることができない」ということを意味すると私は考えます。
未来が想像で不確定要素を排除できない以上、それは全て可能性に過ぎず、

言わば中身がわからないプレゼントを選んで開ける時の高揚感。
そういった希望的観測を持つことができる機会が素晴らしいという表現に置き換わるのではないでしょうか。

もし可能性が初めから無いとすればそれは不自由ということ。
結果が決まっていることに果たしてどのような価値が見出せるのでしょうか。

たとえ結果としてプロ野球選手になれなかったとしても、
プロ野球選手になることができるチャンスがあるのとないのとでは雲泥の差でしょう。

結果はそれに向かうプロセスがなければ到達できません。
そしてプロセスを細かくみれば、それは小さな結果の積み重ねなんです。

ニートという存在はその明確な定義が難しいですが、
その人が一生ニートであるということが確定していなければ、
断片的に見てその人の価値をどうこう言うことはできないと思います。

良ければ参考にしてください。
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この回答へのお礼

一番ひっかかるのは、
「可能性」は足し算できるのですか?

てことですよね?

「できる」が1、「できない」がゼロ、不確定な状態でも「0~1」の間じゃないですか?

だから、0以上1以下… あれ、
わからないなー

お礼日時:2013/02/27 17:20

何もしないニートにも可能性があるということでしょ。


人間才能と努力でどうなるかわからないでしょ。

才能があって努力が出来るって凄いことだと思います。
努力さえすれば確実に上手になってゆくものを見つけたとき
無限の可能性があるといってもよいのではないでしょうか。

矢沢栄吉だってイチローだってそうでしょ。
まず好きだと言うこと、絶対に物にしたいと思うでしょ。

まー凡人は夢はあっても努力が持続しないそれで終わってしまう。
それはそれで幸せなのではないでしょうか。

何も有名にならなくとも大金持ちにならなくとも、
平凡でも確かな幸せを手にしている人はたくさんいるわけだし。

無限の可能性とか別にそんなにむきになって疲れることもないでしょ。
人それぞれでしょ。 
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> 無限の可能性ってなぜ、素晴らしいのですか?


>
可能性は多様性。多様性は文化を創り進化を促すものです。
事実や真実はわかりませんが、そういう風に考えてる人は多いです、自分もそうです。
そして新たな文化やより良い進化が社会をより高次へ導き、その結果、自分や自分の周りがより幸せになれる。
だから、そうなる可能性が無限、もしくは無限に近いということは嬉しいことで、
礼賛すべき素晴らしいことではないでしょうか。

> 物事というのは、実現して初めて価値があるのではないですか?
>
物事というのは確かに実現して初めて価値があるのかもしれません。
しかし、若いということは物事に色んな価値を見出せる、また色んな価値が出てくる可能性がある。
価値が多様性だから、若い人間は何をしても何がしかの価値があります。
野球選手になるために練習がんばった。野球選手にはなれなかったけど努力、奮起、我慢を覚えた。
これはその人にとっても、その人が所属する社会にとっても良い事だと個人的には思います。

> 何もしないでいる、若いニートにも価値があると言えるのですか?
>
価値は、人によって違います。
若いニートは社会にとって価値があるかということならば、それはYES。
ニートだろうがなんだろうが若いということは社会にとってはそれだけで価値があります。
若いということは可能性がある、つまりこの先価値がより高くなる可能性、
もしくは新たな価値を創造する可能性があるからです。

ただ、ニートだとニートじゃない人に比べたらそれらの可能性は低いでしょう。
人類社会は階級社会です、日本の社会もそうです。
日本の場合は、新卒としての就職の結果で階級が決まります。
官公庁や大手企業に新卒で就職した人と、しなかった人・できなかった人では、
人生の「保障」が大きく違います。保障とは可能性のことです。
低い可能性でも幸せな人もいれば、高い可能性でも不幸な人もいますが、
ニートだとその可能性は低いところから始まります。
可能性だけを比べて、より可能性を高めるということを考えると、
ニートの場合は、数周遅れを取り戻す苦労が多いでしょう。
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