あなたの習慣について教えてください!!

 にんげんの前史を終えるということ(!?)について――あらためて――問います。


 § 1 ヒトの定義から入ります。

 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。

  (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通

  (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。
        したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ
       の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)

 § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。

  (あ) 第一次の権力関係:
       ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく
      ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― 
      まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者
      とに分かれる場合。

       この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと
      めあっている自生的な性格のものと
       そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ
      うにそれが必ずしもよいことだとは思われない人為的・人
      工的な性格のものとがある。

  (い) 第二次の権力関係:
       第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工
      的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし
      てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと
      して出来たもの。

       身分関係。その世襲制度。 

       特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階
      建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで
      は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する
      場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係
      およびその社会構造がかたちづくられる。
       (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての
      流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。

 § 3 階級ということ

  (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。

  (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。
  言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。

  ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。
  ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。

  (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。


 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》

 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。

 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)
 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) 
 (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?

 しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。

 このふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。

 前史を終えて後史に入ると見てよいのか?
 そう見るのが ふさわしいのかどうか?

 ご教授ください。



 § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか

  いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。

 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。

 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度においてすでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。

 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

A 回答 (15件中1~10件)

馬鹿の考え休むに似たりと言いますが、休んだ方がずっといい状態にありますね。


質問者がそういうならば、まずは御自身の歴史を終わらせてみませんか?
まず隗よりはじめよと言いますし。いつやるの? 今でしょ!なんて言葉もありますから。

ご賢察を願います。
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この回答へのお礼

 さき_ながつかさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 よほど気になると見えますね。それとも余裕がさらにあまっているのでしょうか。

 ★ 馬鹿の考え休むに似たりと言いますが、休んだ方がずっといい状態にありますね。
 ☆ 話し合いにおいて自分の考えを述べるときには理由を明らかにするということが だいたい中学生か小学生高学年からまなぶことでしょうね。


 ★ ~~~~~
 質問者がそういうならば、まずは御自身の歴史を終わらせてみませんか?
 まず隗よりはじめよと言いますし。いつやるの? 今でしょ!なんて言葉もありますから。
 ~~~~~~~
 ☆ とっくに終えています。

 ただし その現われ方は 社会つまり人間関係の成り行きとともに具体的にその現象の中に部分的な要素要因としてのみであると捉えるのが 正解だ思われます。

 言いかえると そのつど《いま・ここなるわたし》が 原点を過程的に動態的に一歩一歩あゆみつつかたちづくって行くし そのようにあゆんでいると自負しています。

 つまり 誰もがそういうふうに――潜在的には・つまりまたは 前史にあるという場合には あたかも陰画(ネガ)のごとくにして のちの陽画(ポジ)を目指して――すすんでいる。ということだと考えます。


 ただし このことは 一人ひとりの理解と自覚と心づもりが必要ですし その深まりや広がりも大事なことであるはずです。

 あとは自由にそれぞれ生活日常における万般にわたるみづからの自己表現としてのイトナミが ものを言うということになっていくのではないでしょうか。


 ★☆ ご賢察を願います。

お礼日時:2013/05/31 06:40

 非戦論には賛成です。

次の指摘もその通りだと思います。

>階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)

  そうですねえ。階級が回転するということは確かだと思います。だから絶対的に「楯突くことができない」相手というものは、減ってきました。皮肉で返事をするとか、道化師の身振りで茶化してみせるとか、その人を避けて暮らせるようにしてしまうとか。こんなことができる世の中になりました。相手も自分が落ちていく可能性があるので、俺は偉いんだぞー、おまえなんてただじゃすまないぞー、なんてことをいわなくなってきた。
 しかし社会的に上から押さえつける制度をこさえてしまおうとする態度には、何をどうしてよいのかも分からないというのが、実情ではないでしょうか。だから

>ホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?

とは、思いません。むしろ争いが激化しているのが現状ではないかと思います。「例えば」という話を、ぶつけてみることにします。次のユニクロの社長のスキャンダラスな話は、一部がどんどん富を独占する世の中になると予想できるし、それは仕方ないから、生き残りたいなら自分たちもやる他ないという意志の表明です。有名な話なので、知っているかもしれませんが。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview …
http://blogos.com/article/60866/

 年収百万円。ほとんど食べていけるかどうか分からない額です。こんな境遇になったらどうなってしまうのか。エンゲル係数20でやってみると、月あたりの食費が1万7千円ないのです。一日600円も食費がない。酔狂でと言うわけではありませんが、私はこれである一定期間、生活してみました(継続中です)。自分がそういうことになってしまったら、どうなるんだろうと不安に思い、余剰があるうちにやってみることにしたんです。
 苦しいですねえ。お腹がへってへって、一週間で二キロ体重が落ちました。お菓子一つ買うわけに行かない。チョコのひとかけらが40キロカロリー。これが貴重な栄養源だと思えるのです。今まで、食べても食べないでもどうでもいいものだったんですけれどもねえ。しかし家計簿をみると、どうしたって、それ以上のことをするわけに行かない。外食なんて、月に一回もできない。牛丼もマクドナルドも、「ジャンクフード」も無理です。私、料理が得意でしてね。日に600円でも良いものを食べれますが、圧迫感は半端ないですねえ。何より、カロリーが足りないのは明白なんですから。上に行きたいという気にどうしてもなってきます。競争がバカらしいという気持ちにならないのです。

 しかし、ではどうするべきなのか。ユニクロの不買運動を展開するべきなのでしょうか。既製品を買わずに、一点ものの職人の魂のこもったものを買うべきなのでしょうか。しかしそんなものを買ってしまったら、低所得者層の家計は容易に破綻します。年収百万円なのですから。それに仮にデモなどが起き、ユニクロを追い落としても、第二のユニクロはすぐに生まれてくるかもしれません。

>このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。

 人を殺す制度をグローバル・スタンダード化していく日本人が、ですか・・・。うーん。そう思えないんですよねえ。アジアの労働者は外貨が違うので、年収百万円になったら救われるのかもしれませんが、そういうことをいっているのでしょうか?

 世界の先頭に立つということは、グローバル展開する企業に期待を寄せるということですが、そういう良い企業ってあるんでしょうかね。資生堂など言っていることはカッコいいが、内情は惨憺たるものだと思います。派遣社員のようなもの(名称はいろいろとカッコいいのがあるんでしょう)を、正社員が酷使しているだけの企業です。逆にスターバックスコーヒーなどは、福利厚生がしっかりしているんですよね。やはり日本人のやり口はずるいんだなあ、私も日本人だけれど、と思います。

 斜めに問題を切りすぎたでしょうか。権力構造が変化し、競争というものの在り方が変わってきたというところまでは賛成ですが、全然、楽観的な気持ちにはなれません。
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この回答へのお礼

 でぃーくべくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 非戦論には賛成です。
 ★ ~~~~~
 次の指摘もその通りだと思います。

   >階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)
 
 ★  ~~~~~
 権力構造が変化し、競争というものの在り方が変わってきたというところまでは賛成ですが、
 ~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。来し方については おおむね共通の見方に立てるが 行く末は もっと具体的に地に足をつけた見通しを持つようにせよ。とおっしゃっているように受け取りました。

 力強いひびきがあります。そうとうの反応をうながす力強さがあります。

 歳を取ってくると 年収百万円でもやっていけるとしても それは例外的な事態であるでしょう。たまったものではないと言わなければならないと思います。




 
 具体的な展望とそれにまつわる問題点を出して考え合って行くのが まさにこの質問です。

 というふうに みなさんの参加をつのっておいて いまはわたしからは箇条書きのご返答をしるしてまいります。




 1. 理想とする――ということは 生活日常に基盤を張った思想としての――経営理念ないしそれを身につけた経営者が 日本人の中からも どしどし出て来るしかない。のではないか。

 2. 仕事をめぐる条件や環境がわるいと言われる《ブラック企業》は わたしの考えでは 淘汰されて行くと思われる。ふたつの記事が引かれていますが そのようにメディアをつうじて――つまり自然淘汰にまかせるというよりは 人為的にまた人びとのあいだにおける話し合いをつうじて―― 淘汰されて行く・つまり しかるべきは退場させて行くことを目指す。

 3. とは言うものの 《猛烈社員》は 高度経済成長の昔にもありました。そしてただし いまでは 育って来た環境が違いますから それを目指せということも なかなか通じない。
 安易に考えるなら 試行錯誤で互いに模索してその経営理念や労働条件についてよくして行くしかないと思われる。

 4. とにもかくにも 低賃金ではたらく人びとがたくさんいる国々もあって それらの国が世界の資本主義経済に登場してきたし 先進国側は それらを活用しようともして来ている。

 5. そういうとき ユニクロが 《ブラック企業》の汚名を着なければならないのは 明らかに当然だと言うのか。言えるのかどうなのか。そこらへんは 情報をいちはやく公開させて それにもとづき社会全体でよりよい方法を考えて行くしかないと言ったら おまえは何も知らないからそんなのんきなことを言っていると言われるでしょうか。

 6. ▼  (今野晴貴:ユニクロ論 2013年4月23日 ) ~~~
  http://blogos.com/article/60866/?axis=t:1155&p=3
 ユニクロ社長は、国際競争があるのだから、「年収100万円のほうになっていくのは仕方ない」としている。
 国内経済の発展や、安定した成長戦略などお構いなし。
 完全に「自社本位」の発言である。
 安倍首相や自民党は、こういう「ブラック企業」(と朝日で指摘されている)社長を取り締まるべきだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの考えではこれを 古い言葉で言えば《万機公論に決すべし》に付すことだと思うのです。《白黒をつける》前に・あるいはそれとは別の発想においてです。世界的な議論になればよいと考えます。人びとに知恵は湧いて来ましょう。

 7. ▲ (坂倉昇平:ユニクロ論 2013年4月23日) ~~~~~
 ユニクロ柳井会長は「成長か死か」「正社員でいる以上、効率をあげて頑張ってもらわないと生き残っていけない」というけど、ユニクロで正社員で頑張ったほうが、長時間労働でうつを患ったり過労死しかねない。
 日本のまじめな若者たちを死なせてでも、自分たちの会社が生き残りたいってだけだよね。
 ~~~~~~~~~~ 
 ☆ 《 grow or death 》と言うそうですが このような二者択一(二値的論理でしょうか)の表現は 受けを狙って言っているのでしょうから all or nothing の論理でこちらも受けて同じような考え方をすることもないと思います。
 活かすべきよきところがあれば 活かす方向に持って行くのがよいでしょうし さもなければ退場ねがうしかないと考えます。 

 8. 《会社が生き残らなければ 従業員も人びと一般も生き残れない》というような側面が まったくないとも言えない情況なのか どうなのか。
 人びとの絞った知恵をどしどしぶつけて行くなら ユニクロ社長も話に乗れない人ではないでしょう。と思うのですが。

 そこは 非戦論派のユヅリアヒ精神の発揮が見どころでしょう。

 9. ▼ (今野晴貴) ~~~~
 ユニクロの「世界同一賃金」という発想は、とことん労働者の実情を無視している。
 その国によって、生活に必要な賃金は違う。社会保障の水準も、税率も、家族の扶養の在り方も、違うのである。
 ユニクロがグローバル展開するのは結構だが、人間それぞれは、決して「グローバル」にはなれない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これなどは 会社内での従業員としての見解として推し出すべき議論だと思います。
 妥協はいやなのでしょうけれど 相互理解をもっと深めていくことは出来るのではないでしょうか。

 10. 《会社は 社会のもの。人びとのもの》という考え方をもっと推し進めて行くべきではないでしょうか。
 一介の市民・地域住民という見えない株主 持たざる株主のほうが 大事だという見方も 推し進めて行きたいと思いますが どうでしょう。
 ネットでの言論が効くでしょう。(マスゴミにはなかなか期待しがたいものがあります)。

 11. ならば 過去において《アース役》だった人たちに向けて 経営者や会社内外の人びとが パワハラについてごめんなさいと ひとことあやまるだけで 風通しはよくなりましょう。全国的にです。
 日本人は これが出来ると思います。(ほかの国でも出来るでしょうが)。

 12. ★ ~~~~
    >ホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?

 とは、思いません。むしろ争いが激化しているのが現状ではないかと思います。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ということは この《イサカイ》をさらに指向するウゴキと連れだって 逆の向きのウゴキを市民らが言論において起こす。反目せずにやれる場合には 《連れだって〔ぎゃくの方向へと〕》です。


 13. 《お二階さんごっこ体制》は ゆるむと同時に その締め付けをさらに強くして来るでしょうか。
 あるいはひょっとしてこの日本社会も 《階級支配体制》のごとき様相を呈して来ているのでしょうか。
 ユヅリアヒの誇りが 過去からの《伝統》としてその一面での階級関係の味気なさを包み込んで 包容力があったかと思われるのが いまでは形骸と化してしまっていましょうか。どうでしょうか。

 14. 日本人よ われよ 目覚めよ。とカツを入れるだけでは だめでしょうか。

お礼日時:2013/05/31 15:08

 力のはいったお礼、ありがとうございました。

遅れてごめんなさい。言い訳は、カロリーが足りなかったということ(集中力散漫)、難しい話だなと思ったということです。ついに脱落して、食事を買ってしまいました。美味しかったなあ。人間は罪深いものです。もっともこのままやって死んだ人が世にはいます。シモーヌ・ヴェイユは栄養失調で、実質的に餓死したそうです。何だか、子供に供給されている食料が足りないと抗議して、自分がそのカロリーで生きてやると啖呵を切ったそうです。その結果、実質的に自殺になりました。

> 5. そういうとき ユニクロが 《ブラック企業》の汚名を着なければならないのは 明らかに当然だと言うのか。言えるのかどうなのか。

 未だかつてあったブラック企業と比べると、ユニクロはまだマシなのかもしれません。しかしそれでも私は、ユニクロはブラック企業の分類だと思います。福利厚生がしっかりしている企業と比べると、どう考えてもおかしいことをやっていますので。
 私の衣類の約三分の一がユニクロです。これを捨ててやりたいところですが、お金もないので、次回から買わないことにしました。買う時に、店員さんの顔を恥ずかしくてみていられません。この安い服は、この人の労働対価を搾取して成立しているのかあと思うと、特にです。適正な価格で買いたいですよ、本当に。昔のユニクロは、他の衣料メーカーが暴利を貪っているのに風穴を開けてくれたんだと思っていましたが、今は全く違うことをはじめています。
 じゃあ、どこで買うべきかというと、それは分かりません。コムデギャルソンなど割高な店で買えば、それはいいんでしょうが、そんなお金ないですもの。自分で縫うのがいいのかなあと思いますが、今度は布と糸の生産者が搾取されているということになったら困ります。フェアトレードの価格を調べて、考えたいと思います。
 私は正直、安すぎるものは買うべきではないと思います。コーヒーでも何でも、味などで選ばず、もうその値段はそういうものかと思って、お金を支払っています。その代わり、毎日は消費できませんが(笑)。アフリカのコーヒー、本当にまずいですね。エチオピア産でまともなものは、そんなにないです。でも、暮らして行けないと言われると、どうしてもそれを買います。

>8. 《会社が生き残らなければ 従業員も人びと一般も生き残れない》というような側面が まったくないとも言えない情況なのか どうなのか。

 いや、これは論点が違うのではないかと思います。会社は存続して行けるんでしょう。富の分配の仕方が変わるということです。従業員5人に2000万円を支払うとすれば、今は一人400万円だった。これからは、一人が1700万円とり、残りがそれぞれ100万円ずつにせよ、ということでしょう。ですので、

> 11. ならば 過去において《アース役》だった人たちに向けて 経営者や会社内外の人びとが パワハラについてごめんなさいと ひとことあやまるだけで 風通しはよくなりましょう。全国的にです。
 日本人は これが出来ると思います。(ほかの国でも出来るでしょうが)。

 それは夢物語に思えます。そうできるなら、そうしたいけれども(笑)。いや、ここは笑う以外に反応が思いつきません。嘲弄の笑いではなく、無力感を吐露する笑いです。そういうわけで、笑いのついでに、次の詩をお読みくださったらと思います。即興で書いたものですし、他の欄で投稿もしてしまいましたが、ぶらじゅろんぬさんの意見を聞きたいと思いましたので。ちなみに、私の投稿の補足欄を読むと、あの青年は、ぶらじゅろんぬさんの考えに近い発想なんだなと思いました。競争からおりてやる、それが抗議になる、ということですので。

「年収100万円世代の歌
  ーユニクロの社長に捧ぐ」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview …

私の人生で無意味なこと、
それは音楽を聴くこと、
おいしいものを食べたいと思うこと、
本を読み、ものを考え、
家庭を持ち、子供を育てたいと思うこと。

私の人生で有意義なこと、
それは機械のようにルーティン化した暮らしを送り、
ただ栄養剤をちゃんと飲んで保険の審査に合格し、
老衰が起きる前に死亡し、
保険金を老いた両親に残してやること。

私たちに、あらゆる宗教が教えるべきこと。
生きているのは無意味である。
しかし死ぬのも無意味である。
だから生きても死んでも、どちらでも構わない。
なら、生きていようではないか!

私たちの世代は「眠りの世代」だ。
睡眠時間を削って働く者は、ゆっくり眠ることを夢にみて、
低所得者は、カロリーが足りなくて虚脱感のあまり眠り込み、
解雇されたものは憂鬱のあまり一日を眠る。
誰が目覚めていられよう?

おお、心臓はむしり取ってしまえ、
知性は放棄し、よく見える目は潰せ、
生殖器はむしり取ってしまえ、
子を残してはならない、
不幸の種をまくことになるからだ。

おお、私たちを家畜にするがよい、
その覚悟はできている。恋もせず、与えられた餌のみを食べよう。
管理者がくれば、喜んで身を差し出し、売春もすれば、臓器も売ろう。
だが家畜にだって、相応の配慮をするものではないのか。
残しておいてもらいたいものだ、

一つの夢を。それは自分たちが生まれてきた意味があるということ、
食べられたとしても感謝されて食べられるのだということ、
仕事をして他人のために役に立てたという満足があるということ。
だがそれさえも、今は許されていないのだ。
あるのはただ、廃棄処分場で見上げる錆びた空と、何者かの高笑いのみ!
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この回答へのお礼

 ふうむ。とため息まじりに息を継ぎまして まづは ご回答をありがとうございます。


 先に次の問題を取り上げます。
 ★ ちなみに、私の投稿の補足欄を読むと、あの青年は、ぶらじゅろんぬさんの考えに近い発想なんだなと思いました。競争からおりてやる、それが抗議になる、ということですので。
 ☆ まづ わたしは《ゲームから降り》ていません。初めから今日に到るまでです。

 《競争》を・つまり世間と同じ競争を同じようにやるかまたやったかと言えば 同じ外見でおこなった・またはおこなおうとした。心は違っていたのかも知れない。
 結果 究極では 取り合われなくなった。世間が若年の者をひとり取り扱うのに 特別の手立ては要らないということだと思います。

 けれども
 ◆ 静かに暮らしたいだけ 
 ◆ うるさい生活を離れたいと望む
 ☆ ということはありませんでした。人びととは手法をたがえて(できるだけわたし自身の手法で)しかしおおむね同じことをやろうとしていたとさえ考えます。

 歯車は回り続けていました。また人びとのしんがりに位置しようとは どこかで心がけていたのでしょう。そのような気持ちにもとづくわたしの発言は いやがられたか けむたがられたか あざわらわれておしまいだったか。
 こんなところでしょう。

 ですから それからというもの 言論の場で――と言ってもじっさいに公共の場には立ち得ませんでしたが もくもくと――《ゲームの内にいて それとしての競争をおこなって来た》となります。

 《抗議》をしたという感覚はありません。
 ただし 世界観の上で 自分がおかしいぢゃないかと思ったその思想に対しては 抵抗するどころではなく けちょんけちょんにけなして来ました。批判するしかないという理解でした。
 信仰としてのではなく組織宗教としてのキリスト教 ゴータマ・ブッダその人の思想 日本教一般および特にはその二階建て構造の仕組みなどなどです。


 この姿勢ないし態度は ですから ブラック企業の問題についても 当てはまります。
 たぶん むかしとの違いは 歯車の回り方は そうとう違って来ていると思われることです。しんがりからも振り落とされたなら いまは 訴訟にまで持ち込み闘うという雰囲気が満ちています。

 そうせよと言うのではなく この雰囲気があるということは そうとう人びとの思いや気持ちに違いが出て来ているのではないかと思うのですが それでもかえって その逆の反動もつよいのでしょうか?

 つまり 支配的な思潮ないしクウキに反発するチカラが出しやすくなった。にもかかわらず そのクウキを読まない抵抗力の発揮に対しては 反動のチカラも同じく強まっているということなのでしょうか。

 

 でも たぶん それだと ふるい勢力は 自己防衛しなければならないと感じているということですから 時の流れ 歴史の歩みには 逆らえないといった感覚も 次第に深めて来ているのではないか。

 ひとこと誰かが そのお二階さんなる指導層の人びとやその功績について 愛にあふれる讃辞をささげるなら どこかの時点で イチコロになるかも分かりません。風前のともしびかとも思われます。

 いい加減 《アマアガリ》を敢行して歴史の長い人も短い人も その固有の方言としてのアマテラス普遍語――すなわち アマテラス人格語およびアマテラス科学語――の立派さを保つみづからの位置にうんざりして来ているかも分かりません。

 人格語も科学語も(それらは 確かに大事ですが) やはり ほころびを見せて来ている――つまり昔から ただのタテマエにしか過ぎないと分かっていた――と思われます。

 あやまつことのないアマテラス普遍語 これの永久保持は むつかしくなってきたのではないでしょうか。
 あやまち得るスサノヲ人間語――理性だけではなく感性をも活かす人間語――の出番だと考えられます。本音の問題。ホンネをどう表わすかの問題などとして。

 というよりは アマテラスお二階さんは ほとんどつねにスサノヲ市民社会の中から その人間語に磨きをかけてアマテラス語にまで深め高めたその思想や研究の成果を輸入してと言いますか パクって 自分たちの社会や国家の運営にあたって来た。

 そろそろ アマテラス公民圏の人たちよ 大政奉還してはいかがか? と問うときなのではないでしょうか。地域社会(ムラ)の主権という意味です。インタムライズムと呼びます。







 このインタムライズムを国際的にも おしすすめつつ ブラック企業の経営姿勢等々をも見守って行き ムラ市民の声として よりよい方向へ提案をして行く。よりほかにいい案が思い浮かびません。

 振り落とされた場合 訴えることもありと成って来たと言いましたが 訴訟をする方法は けっきょくこれまでのやり方と同じ軌道の上にあるのでしかないと思われるからには あんまりおもしろくありません。






 シモーヌ・ヱイユは 残念ながら やり過ぎたと思います。いいことであっても。


 ユニクロ社長の考えは 年収一億と百万とに分かれるという議論でしたね。見落としましたが やはり会社内外での意見や世論によって このような仕事のあり方についての考え方をみんなで みちびいて行くという手立てが考えられます。

 でぃーくべくさんは すでに抵抗運動を先駆けておられるようですが 何とか みんなのチカラとして表現するかたちに持って行きたいですね。

 しょうじきに言えば
 ★ 福利厚生がしっかりしている企業と比べると、どう考えてもおかしいことをやっていますので。
 ☆ という行き方はわたしは採りません。福利厚生の費用は けっきょく収益からもたらされると考えられるからです。付加価値の分配として 給与や福利厚生もあるわけですから けっきょく 競争力と仕事の働き方といった問題に問題があると思われます。

 あとは 新興国と先進国とのあいだで 報酬の配分がいかにおこなわれるか。一律百万なのか。これは 議論して行けばよいのではないでしょうか。




 ★ 老衰が起きる前に死亡し、
 ☆ は いいとしても
 ★ 保険金を老いた両親に残してやること。
 ☆ となると ご両親のほうがかなしまれますよ。単純に。


 ★ おお、私たちを家畜にするがよい、
 ☆ そのむかし社畜とも会社奴隷とも言われていたわけですが 人びとはけっこう向かって行きました。能天気みたいに。
 その旧世代の遺産が どう成ったのか。
 ううーん。どうしても A 圏のお上のかじ取りが どこかでうまく行かなかったと思ってしまいます。
 ここは 単純に へたぢゃないか と言ってやるのが 思いやりというものではないでしょうか。すねたりせずに。
 家畜に成ってやるから 相応の配慮をせよというのではなく 必ずしもそうではなく おまえさんたち 優秀な船頭さんたち 世界はその優秀さ以上に複雑きわまりなかったみたいだ みんなでそのゼロ地点から再出発しようぢゃないかと 新世代は 言うべきではないだろうか。

 もうしばらくは あらためてアース役になって その尻拭いさえをもやってやるから 元気を出して その能力を発揮してくれたまえと。

 シガラミやゴミの処理は あんがい得意なんだ なぜって われわれは 単純に言って愛に満ちているのだ だからこの世界の中でもっと前へさらに前へ 後顧のうれいなく すすんで行ってもらいたい。


 こう言ってやっておけば たとえすぐに効かなくても ボディーブローのごとくのちになって効いてくるかも分からない。

 けれども 愛に満ちていなくてはダメだ。批判をするにも 愛において。なのかな。


 そのチカラは どこから出て来るのか。
 もともと そなわっている。としか言いようがない。

お礼日時:2013/06/02 14:04

>ふうむ。

とため息まじりに息を継ぎまして 

 私も溜息ばかりなので、顔を変えてみました。未だかつて見たことのない程、人を喰ったような顔をした男の顔にしてみました。まあこれくらい図太くやりたいものです。

>☆ まづ わたしは《ゲームから降り》ていません。初めから今日に到るまでです。

 そうですか。青年とはスタンスが違いましたが。失礼致しました。道を譲るということを、ゲームから降りると同じような意味だと思っていたのですが、浅い理解だったようですね。どう違うのか、私にはまだ今一歩つかめていませんが。道を譲っても、競争からは降りていない。ふーむ。なんのこっちゃ。別に油断させておいて、寝首をかこうということでもないのでしょう。ここをもうちょっと説明してもらえませんか。愛ある提言を行って行くということと、何か関係しそうですが。
 まあ、しかし一つだけ、文句のようなものを言わせてください。右か左かというような大雑把なことで言えば、つまりアマテラスかスサノヲかという区分で言えば、同じところに入っているのじゃないかなと思うのです。すると、もうちょっと大きい枠で一旦同意し、その上で細かいところでは異論があると持っていった方が、論理的じゃないですか。

 さて、話をブラック企業について戻しましょう。

>いまは 訴訟にまで持ち込み闘うという雰囲気が満ちています。 そうせよと言うのではなく この雰囲気があるということは そうとう人びとの思いや気持ちに違いが出て来ているのではないかと思うのですが それでもかえって その逆の反動もつよいのでしょうか? そのクウキを読まない抵抗力の発揮に対しては 反動のチカラも同じく強まっているということなのでしょうか。

 まあ、昔よりは抗議するパワーがついたということでしょうね。しかし経営者の側が無情になったので、抗議するべきことの件数は増えている気がします。

>ひとこと誰かが そのお二階さんなる指導層の人びとやその功績について 愛にあふれる讃辞をささげるなら どこかの時点で イチコロになるかも分かりません。風前のともしびかとも思われます。

 それはないですね。愛あふれる讃辞。呪いの言葉なら出てくるでしょうが、どうもなあ。愛社精神はいつの時代も強要されるものですよ。入社試験の時も、企業調査と称する愛社精神を事細かにチェックされているように思いますね。

>人格語も科学語も(それらは 確かに大事ですが) やはり ほころびを見せて来ている――つまり昔から ただのタテマエにしか過ぎないと分かっていた――と思われます。

 アマテラスの側はうんざりしていないで、高笑いだと思います。スサノオの方がうんざりし始めた。そういうことに思います。
 
>このインタムライズムを国際的にも おしすすめつつ ブラック企業の経営姿勢等々をも見守って行き ムラ市民の声として よりよい方向へ提案をして行く。よりほかにいい案が思い浮かびません。
>ユニクロ社長の考えは 年収一億と百万とに分かれるという議論でしたね。見落としましたが やはり会社内外での意見や世論によって このような仕事のあり方についての考え方をみんなで みちびいて行くという手立てが考えられます。

 提案するためには、株主にならねばならない時代です。どの権利でもって提案できるのかをまず考えないとならなそうです。メディアは全てについてオブザーバーである権利を有していますが、まあ、それだけでも立ち行かないのが現代です。かといって現代思想家がわめきだしても、誰も聞かないでしょう。私は柄谷の言うことも、もう何も感じなくなりました。いや、特に柄谷に限らず、誰が何と言っても、何も感じないのです。偉い先生が言っているから、そうなんだ、というような動かされる気持ちがないのです。

>でぃーくべくさんは すでに抵抗運動を先駆けておられるようですが 何とか みんなのチカラとして表現するかたちに持って行きたいですね。

 応援にはお礼を述べておきますが、抵抗運動はしていないと思います。愚痴をこぼしているだけなのです。ただ何となく、まず過ぎるなあという感覚だけはあります。運動というような、他人を巻き込んだものにする気もないのです。ただ単に、俺はどうしようー。それだけのことです。

> しょうじきに言えば
 ★ 福利厚生がしっかりしている企業と比べると、どう考えてもおかしいことをやっていますので。
 ☆ という行き方はわたしは採りません。福利厚生の費用は けっきょく収益からもたらされると考えられるからです。付加価値の分配として 給与や福利厚生もあるわけですから けっきょく 競争力と仕事の働き方といった問題に問題があると思われます。

 これは細かいデータを列挙しないと、納得してもらえないんでしょうね。まあ、ユニクロが富の分配の仕方を悪い方に持っていく風潮に逆らう企業ではないし、むしろそれに悪のりしているという指摘があるということだけ、お伝えすることにします。
 まあ、ぶらじゅろんぬさんがユニクロを信頼したいとまだ思っていることはよくわかりました。大体の人は信じられない、何かの誤報じゃないか、メディアが煽っているだけじゃないのか、と思うのかもしれませんね。しかし離職率が五割を超えているのですから、主観的な問題ではないことは、もはや明白と思います。実際、似たような企業は、他に吉野家をはじめ、チェーン店の大半がそうなのだそうです。買うところ、食べるところ、無くなってしまいますね。どうしようもないので、暗澹とするばかりです。
 まあそれでもそこでモノを買ったりするというのなら、気が狂わないとできないことです。俺も金がないんだから、泥棒まがいのことをしても許されるに違いない。それくらいの開き直りがないとならんでしょう。こういう羅生門みたいな言い分を、私は「気が狂っている」と敢えて呼びます。そして狂っていないと生きて行けないのが、現代に限らず、昔から世の常なのかなとも思っています。

> ★ 保険金を老いた両親に残してやること。
 ☆ となると ご両親のほうがかなしまれますよ。単純に。

 まあ、生きて行くっていうのはそういうものです。姨捨山をやりたくなければ、自分が死ねばいいのですよ。幸い、保険金のシステムを調べてみますと、死というものについては、まだ敬意が払われているようです。人一人死ねば、ある程度まではお金をくれるというんですから、こんなにありがたい話はありません。

> ★ おお、私たちを家畜にするがよい、
 ☆ そのむかし社畜とも会社奴隷とも言われていたわけですが 人びとはけっこう向かって行きました。能天気みたいに。ここは 単純に へたぢゃないか と言ってやるのが 思いやりというものではないでしょうか。すねたりせずに。

 なるほど、昔からそうだから、敢えて言っても、拗ねているだけにしか思われないということですね。家畜以下になったということを言いたいのですが、伝わらなかったかな。

>おまえさんたち 優秀な船頭さんたち 世界はその優秀さ以上に複雑きわまりなかったみたいだ みんなでそのゼロ地点から再出発しようぢゃないか もうしばらくは あらためてアース役になって その尻拭いさえをもやってやるから 元気を出して その能力を発揮してくれたまえ シガラミやゴミの処理は あんがい得意なんだ なぜって われわれは 単純に言って愛に満ちているのだ だからこの世界の中でもっと前へさらに前へ 後顧のうれいなく すすんで行ってもらいたい。 
>こう言ってやっておけば たとえすぐに効かなくても ボディーブローのごとくのちになって効いてくるかも分からない。けれども 愛に満ちていなくてはダメだ。批判をするにも 愛において。なのかな。

 どうかなあ。向こうは何とも思っていないんでしょう。喩えていば、嫌いな女に告白されても、うざくてしょうがないというようなものです。しかもこちらに恋人がいるのにアタックされると、迷惑きわまりない。同じことで、経営者には株主という恋人が既にいるんです。その他が愛を持って何を言っても、うざいだけでしょう。ただの消費される道具なんですよ。
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この回答へのお礼

 さあ まるでボクシングのラウンドみたいになってまいりました。
 こんにちは。まづは ご回答をありがとうございます。


 ★ 道を譲っても、競争からは降りていない。
 ☆ 《競争》としての現場からは言わばはづされました。おまえの来るところではないといったような感じで。
 
 でも――そしてそれに対して道をゆづりつつも――《ゲーム》を放棄したつもりはありません。同じ社会の中に生息しているからにはです。



 ★ ~~~
 右か左かというような大雑把なことで言えば、つまりアマテラスかスサノヲかという区分で言えば、同じところに入っているのじゃないかなと思うのです。すると、もうちょっと大きい枠で一旦同意し、その上で細かいところでは異論があると持っていった方が、論理的じゃないですか。
 ~~~~~
 ☆ そうですね。

  《スサノヲ市民社会(主権)-アマテラス公民圏(従僕)》なる連関制

 としての民主制のもとにあって 実際には

  《 A 圏主導‐S 圏従属》なる逆立ち連関制

 として 社会はある。この形態として
 ★ 同じところに入っている
 ☆ ことは そのまま出発点です。

 

 ★ それはないですね。愛あふれる讃辞。呪いの言葉なら出てくるでしょうが、どうもなあ。
 ☆ ええ。と言いますか この場合 人(存在)と思惟(行為)とを分けてください。後者の考え方をのろい 前者の《ひと》は 愛してやってください。自分自身を愛するのと同じようにです。その《愛あふれる讃辞》をささげてもよいのではないかと。


 ★ ~~~~~
   >人格語も科学語も(それらは 確かに大事ですが) やはり ほころびを見せて来ている――つまり昔から ただのタテマエにしか過ぎないと分かっていた――と思われます。

 アマテラスの側はうんざりしていないで、高笑いだと思います。スサノオの方がうんざりし始めた。そういうことに思います。
 ~~~~~~~
 ☆ 無理もありません。千五百年つづいたのですから。アマテラス‐スサノヲの逆立連関体制が。
 DNA まですっかりアマテラス予備軍症候群がまとわりついて来ているかも分かりません。思わず お上にさからってはいけないというような行動に出てしまう。・・・

 まぁ 気長に行きましょう。
 もしふるいニンゲンであるならば 朽ちて来るでしょうし さらにその前に腐って来るでしょう。
 《高笑い》の余裕から そのアマテラス語の洗練に磨きをかけて来たとしたら たぶん言わば石の墓を外だけキレイにしているということではないでしょうか。中は 骸骨。

 そのもっぱらの公民の中にも 現状をうれえて どうにかしようとしている人はいないでしょうか。

 

 ★ 提案するためには、株主にならねばならない時代です。どの権利でもって提案できるのかをまず考えないとならなそうです。
 ☆ もちろん おっしゃるとおりです。その上で――その上でです―― 言わば地域住民が持たざる株主として 《無根拠において》 発言をして行く。といったウゴキが考えられませんか? 一人ひとりがそれぞれ見識を深めて水かさを増して行くといったような。
 この長期の視点は イデオロギーを抜きにしたフェビアン主義ですかね。あれっ スサノヲは むしろハンニバルのほうかな。持久戦のことですね。


 ★ 抵抗運動はしていないと思います。
 ☆ 分かりました。まぁ 自由な連帯 あるいは 見えざる連帯 これのほうがつよいと思われます。


 ★ まあ、ユニクロが富の分配の仕方を悪い方に持っていく風潮に逆らう企業ではないし、むしろそれに悪のりしているという指摘があるということだけ、お伝えすることにします。
 ☆ そうなんですか。これまで内情は知らなかったし 今回もまだしらべていません。
 もしそうだとすると 経営陣がとてつもない額の報酬を得るというアメリカ企業のシステムを目指すというのでしょうか。


 ★ まあ、ぶらじゅろんぬさんがユニクロを信頼したいとまだ思っていることはよくわかりました。大体の人は信じられない、何かの誤報じゃないか、メディアが煽っているだけじゃないのか、と思うのかもしれませんね。・・・
 ☆ いやしくも日本の企業が 従業員社会をないがしろにするとは思いもよりませんでした。
 まだ事情を知らないものですから 話し合いをすれば 日本の《伝統》の分かち合いのかたちに戻せるのではないかと思いたい気持ちですが。


 ★ 実際、似たような企業は、他に吉野家をはじめ、チェーン店の大半がそうなのだそうです。
 ☆ もしこの部分に反応するとすれば これは いわゆる家元制度の悪弊なのではないでしょうか? 家元のもとにピラミッド方式で権威料と言いますか 名貸し料をピンハネするといった形態。
 ピンハネの問題ではなく 営業成績の向上を催促しつよく要求するといったかたちで現われているような。


 ★ ~~~~
  まあそれでもそこでモノを買ったりするというのなら、気が狂わないとできないことです。俺も金がないんだから、泥棒まがいのことをしても許されるに違いない。それくらいの開き直りがないとならんでしょう。こういう羅生門みたいな言い分を、私は「気が狂っている」と敢えて呼びます。そして狂っていないと生きて行けないのが、現代に限らず、昔から世の常なのかなとも思っています。
 ~~~~~~
 ☆ ううーん。だけど それだと 思う壺ですよ。アマテラスお二階さんとその高みを目指すアマアガリ・シンドロームに罹った人たちののぞむ社会の仕組みとして。



 ★ 同じことで、経営者には株主という恋人が既にいるんです。
 ☆ そうなんですけれど。たとえば 三河の武士と百姓の血筋のトヨタなら 話が分かるかも分かりません。いつぞやのブレーキ故障うんぬんをめぐるアメリカからのいやがらせにも耐えたぢゃないですか。スサノヲの息吹きは まだ健在ではないでしょうか。

 そして ひとりしづかにの場合においても ことを起こすときには 基本的に《無根拠において》だと考えます。それとも野望をぎらぎらにして パーフォーマンスを繰り広げるか。

 あとは気休めに言うなら どこかで 大どんでん返しがあるのではないでしょうか。






 もし・ひょっとして・万が一にでもアメリカがわれわれを見捨てたとすれば われわれは――スサノヲ市民らが《家畜以下に扱われようとしている》どころの騒ぎではなく そうではなく われわれみんなが―― いわば世界の中で〔思想や神学を抜きにして言うのですが〕十字架に掛けられて行くのではないかとも思われます。
 人びとは いけにえを作り出すことが好きなのでしょうか。

お礼日時:2013/06/03 17:33

>さあ まるでボクシングのラウンドみたいになってまいりました。


 
 ありがとうございます。しかしボクシングは嫌だなあ。殴り合いとか、矢を放つとか、これは苦手です。私、おりるタイプです。スサノオなもので。それにこの顔を見てください。ボクサーのようにストイックな顔じゃないでしょう。何かよい比喩を見つけてください。非暴力的な比喩を。わがままですいません。

>後者の考え方をのろい 前者の《ひと》は 愛してやってください。自分自身を愛するのと同じようにです。その《愛あふれる讃辞》をささげてもよいのではないかと。

 人間讃歌ですか。経営者だけに捧げないでも良さそうですね。うーん。そういう格差を超えた人間讃歌があれば、まあ、某かの繋がりが持てるんでしょうね。音楽とか、そういう役割を果たすことができないものか。しかしそれは期待のし過ぎかな。

> まぁ 気長に行きましょう。

 同意します。そうしないと餓死したヴェイユになってしまいます。ある程度まで、生きて行くことは罪深いことだと開き直る他ありません。

>地域住民が持たざる株主として 《無根拠において》 発言をして行く。といったウゴキが考えられませんか? 一人ひとりがそれぞれ見識を深めて水かさを増して行くといったような。

 みんなで株主になろうって言う発想を、別の問いで立ててみました。しかしその一方で、それをやり過ぎたら、企業を国有化しようという話になり、共産主義の一歩手前に前で行くことにも気がつきました。何という難しいことでしょう! 私、共産主義者ではないんですよね。

>もしそうだとすると 経営陣がとてつもない額の報酬を得るというアメリカ企業のシステムを目指すというのでしょうか。

 おっしゃる通りです。前にアマテラスは謝らないと言いましたが、考えてみたら、最近のドラマで、そういうのありましたよ。「PRICELESS~あるわけねぇだろ、んなもん!~」というキムタクが主演のドラマです。新しい社長が従業員を搾取しまくった結果、みんなで集団退職してしまい、会社が実質的に倒産します。社長が泣きながら謝って、事なきを得るという話です。ドラマは見ないでしょうが、フジの月9という看板時間帯のドラマのテーマになるくらいに社会問題になっているということは言えると思います。こういうドラマができるってことは、みんな、経営者らに搾取してごめんなさいと謝ってもらいたいんでしょうね。

>家元のもとにピラミッド方式で権威料と言いますか 名貸し料をピンハネするといった形態。
 ピンハネの問題ではなく 営業成績の向上を催促しつよく要求するといったかたちで現われているような。

 昔から日本にあったということなんですね。

> ★ ~~~~
  まあそれでもそこでモノを買ったりするというのなら、気が狂わないとできないことです。俺も金がないんだから、泥棒まがいのことをしても許されるに違いない。それくらいの開き直りがないとならんでしょう。こういう羅生門みたいな言い分を、私は「気が狂っている」と敢えて呼びます。そして狂っていないと生きて行けないのが、現代に限らず、昔から世の常なのかなとも思っています。
 ~~~~~~
 ☆ ううーん。だけど それだと 思う壺ですよ。アマテラスお二階さんとその高みを目指すアマアガリ・シンドロームに罹った人たちののぞむ社会の仕組みとして。

 どうしましょうね。思うつぼでしょうね。私もどんでん返しがあると良いなと思います。キムタクのドラマみたいなことなんでしょうけれど。最後はみんなで退職せよ、か。これも一案ですね。
 皆で株主になる集団が複数出現すれば、何か変わるような気がしないでもないのですが、うーん。生け贄については、私はそうなのかなと思いますよ。人間にはあまり期待はしていません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★(あ) 生け贄については、私はそうなのかなと思いますよ。
 ★(い) 人間にはあまり期待はしていません。
 ☆ いやぁ この二点は ずしりと重いんですけれど。

 (い)だとしたら けっきょくやれるところまでやって ダメだったら 適当なところで取りやめるということなんですか?
 それでは 持久戦でもないような感じですが。
 イベリア半島を遠回りしてローマを目指すというハンニバルには遠く及ばないですねぇ。
 
 断続的にまた何度でもやるといったかたちですか。


 (あ)は かんたんに答えが返って来ましたね。
 《そうなのかな》ということは 日本人は世界中から 石打ちに遭い あるいは 磔に遭うということ。これが かなりの確率であり得るということですよね。

 まぁ 慰安婦問題をめぐる橋下発言が尾を引いている または それまでの一連の右寄りの発言が首相らからあったことに起因しているのでしょうが 日本人 だめですかねぇ?





 ★ こういうドラマ(「PRICELESS~あるわけねぇだろ、んなもん!~」というキムタクが主演のドラマ)ができるってことは、みんな、経営者らに搾取してごめんなさいと謝ってもらいたいんでしょうね。
 ☆ これは あたらしいニュースですね。そういうストーリを考えつくほど 情況は逼迫しているということに聞こえます。(東京という特殊事情も多少はあるでしょうが)。
 
 もしそれこそスネテ見るならば これは ガス抜きになりませんか? アマテラスびとの考えそうな。

 けれどももしこうだとすると イタチゴッコのようになって来ますね。
 ★ 最後はみんなで退職せよ 
 ☆ なるシナリオをまねて やれるものならやってみろと言っていますか どうですか。

 いやぁ これは わたしも泥沼に・・・。




 そうしてこのやり取りは わたしはやったことのない連歌のお手合せみたいになって来ましたね。

 しかも どうひねっても何も出て来なくなったみたいです。どうしましょう。
 弱りましたね。



 あぁ そうです。《愛あふれる讃辞》でした。《人間讃歌》です。
 日本人だけというわけではないですが いまは自信を取り戻すのによいわれわれ自身のよきところを いくつかさまざまに うたって行くのもよいかも知れません。

 歌と言えば かの万葉集は 実際には4,500首ほどだそうですが その過半数は 名もないスサノヲ庶民のうたったウタです。
 そういった路線(?)は考えられませんか?

お礼日時:2013/06/03 19:08

 連歌ですか。

なるほど、それはいいかもしれませんね。やったことはありませんが(笑)。ネタが尽きた当たりで、お開きとするあたりがちょうどいいのかもしれません。

> ★(あ) 生け贄については、私はそうなのかなと思いますよ。
 ★(い) 人間にはあまり期待はしていません。

> (い)だとしたら けっきょくやれるところまでやって ダメだったら 適当なところで取りやめるということなんですか? それでは 持久戦でもないような感じですが。断続的にまた何度でもやるといったかたちですか。

 ダメだろうなあという暗い気持ちで、鬱々と続けるということです。

> (あ)は かんたんに答えが返って来ましたね。 《そうなのかな》ということは 日本人は世界中から 石打ちに遭い あるいは 磔に遭うということ。これが かなりの確率であり得るということですよね。

 あるでしょう。私もブラック企業を利用した共犯者として、石を投げられるかもしれません。いや、それほどの人間じゃありませんので、可能性は少ないけれども。
 が、私は有名な思想家がナイキの靴を履いていたので、キレたことがあります。搾取の廃絶を訴えているのに、お前がそこの消費者になってどうするんだ、と。しょぼんとしていましたが、言い出したら切りがないですね。
 坂本龍一を起用しているニューバランスがちゃんとした会社か?と言われると、わかりません。時間がなければ、靴屋に行って、何も考えずに買ってしまうことはあるかもしれません。凝りにこった靴なんて、普通の店じゃ買えません。もっといえば、それらは革靴で、スニーカーではまずないでしょう。それに高い(笑)。

>まぁ 慰安婦問題をめぐる橋下発言が尾を引いている または それまでの一連の右寄りの発言が首相らからあったことに起因しているのでしょうが 日本人 だめですかねぇ?

 これはまた別の話ですが、日本人ダメだと思いますよ。まあ、あとの方に書きますが。

> ★ こういうドラマ(「PRICELESS~あるわけねぇだろ、んなもん!~」というキムタクが主演のドラマ)ができるってことは、みんな、経営者らに搾取してごめんなさいと謝ってもらいたいんでしょうね。☆ もしそれこそスネテ見るならば これは ガス抜きになりませんか? アマテラスびとの考えそうな。

 うん。アマテラス様(電通様?)が用意した、ガス抜き装置でしょう。フジですので、やる気はないでしょう。しかし問題提起くらいにはなっているんでしょう。

 ガス抜き装置と言えば、慰安婦もアマテラス様が用意した装置なのかもしれませんねえ。いや、わかりません。私は歴史研究家ではないので、何となく、買春の必要性を叫んでいるやつが嫌だなあと思うくらいです。もっとも、抱く男も抱く男で、皆が喜んでいたんじゃないとは思いますけれどもね。「俺ってモテない男だけれど、こんな可愛い女の子とセックスできてラッキーだよな。お上は慈悲深いなあ。ぐへっへ」みたいな男が全部ではないと思います。誰だって劣悪な環境の中でセックスなんかしたくないでしょうよ。私は嫌ですね。

 しかしブラック企業を利用した時、石を投げられる覚悟をしないとならないのと同じで、買春した方は、何を言われても仕方ないのだと思います。大体、橋下さんがソープ通いをして、違法ではないんだけれど、奥さんと修羅場になるなあとぼやいていたような人でしょう。あんまり罪の意識がないんだと思いますよ。買春についてね。和気あいあいと楽しく、買春できると思っているんでしょう。何しろ勝ち組だから(笑)。売る側の辛さなんて考えないのかな。売る側っていうのは、当人だけじゃなくて、親とか恋人とか、そういう人も含んでいますけれども。

> 歌と言えば かの万葉集は 実際には4,500首ほどだそうですが その過半数は 名もないスサノヲ庶民のうたったウタです。そういった路線(?)は考えられませんか?

 うーん。恨み節の歌集を編纂するということですか。うまく行けば売れるかもしれませんねえ。しかし私にはどうやったらいいのか、見当もつきません。

 まあ今のところ、これくらいにしておきましょうか。話も出尽くしてしまったと言うし、私の考えも十全に伝わったと思いますので。要するに、現実に私は失望しており、困ったきり、解決は見いだせないのです。かといって、明日明後日、私が切腹しないといけない話でもなし、気長に考えていくことにしましょう。今後ともよろしくお願いいたします。
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この回答へのお礼

 こちらこそよろしくお願いいたします。
 そして ご回答をありがとうございます。


 連歌のたしなみもないのに言ってしまいました。でも 無難なところで。



 ★ 要するに、現実に私は失望しており、困ったきり、解決は見いだせないのです。
 ☆ そうですか。

 わたしは 人びとの最後に《失望》なら失望することにしていましたが そうやって行動した結果は――つまりまわりの人びとはみなひととおり失望しており嫌気がさしているという情況になると わたしも失望しようと思ったときには―― 究極の悪というものを考えるようになったのでした。

 失望はせずに これこれの行動や思惟は 悪というものだと。

 ところが この悪というのは 善の欠如だと来ています。そう言い習わしています。

 かくなる上は 怒りの持って行く先は どこかと言いますと 究極の悪・つまり《第二の死》と呼ばれる悪 でした。

 シカバネが生きているという状態。もしこれがあるとすれば ここに世の中の暗い側面の原因があるのだなと。


 ですから――という推論でよいとすれば―― わたしは能天気です。解決は見い出せずにいるのですが たぶん困りはしないのだと思います。




 ★ ダメだろうなあという暗い気持ちで、鬱々と続けるということです。
 ☆ 分かりました。写真の人は 《鬱々と》からは自由なお顔に見えますが。

 あと ブラック企業 あるいは 搾取 ということにかんして 鋭敏なのですね。
 わたしは 能天気が昂じると そういったときには その事態を言わば気持ちの中に飲み返すというような処理をすると思います。
 自分ではおこなわないけれど ひとのやったその搾取なるおこないを飲み込んでおくといったことをすると思います。あとで搾取者に会ったときには その人はわたしに感応するものと思います。ちょっとしたブーメラン効果です。嫌われると思います。


 考え続けたいと思います。

お礼日時:2013/06/03 21:42

 こんばんは




[国際化・脱工業化時代を迎える日本人への提言]

 私の見るとろ、世界のリーダーとしての役目を果たすのに、その国の政治機構や経済力からいって日本ほどふさわしい国はない。もし日本が、おのれの過剰な自信を抑え、新しい世界のビジョンを受け入れるならば、日本がネメシスの報いを受けることはないであろうし、人類全体にも大いなる貢献をするであろう。 
 日本の読者が、自らの成し遂げたすばらしい成果が単に経済の分野のみならず、政治、教育、社会のさまざまな面にわたることに気づかれると同時に、こうした新たな認識が過度なプライドにならずに、より大きな真の自信となり、国際政治において指導的役割を果たす結果を生むことを心から願っている。

E. ヴォーゲル著『ジャパン アズ ナンバーワン』TBSブリタニカ、1979年 帯裏より


日本型経営の成功の原因を、

1. 終身雇用制

2. 年功序列型賃金体系

3. 企業内労働組合

 の「3点セット」に求めました。


1. 終身雇用制
「これらの基幹産業は政府の強力なバックアップを受け、資金の調達もしやすく、安心して長期的な雇用の保証を与えることができた。こうして多くの投資をして養成した人間をずっとその企業に引き留め、習得した技術を十分に発揮できるように終身雇用制を採用したのである」

2. 年功序列型賃金体系
「日本の経営者は年功序列制のほうが西欧式経営法よりも優れていることを認識し、以後は独自の経営哲学の確立を目指すようになった」

3. 企業内労働組合
「企業側は自分たちの意向を反映した協力的な組合をつくりあげていくとともに、組合を経営のために積極的に活用しようとさえ考える。労働者の不満を解消して労働効率の上がるよりよい職場関係をつくるにはどうしたらよいかを、労働組合を通して探ろうとする。このように日本の多くの労働組合は企業側によってつくられた側面があり、したがって産業別組合の力は弱い」


 もちろん、これらは今日の日本では放棄されています。

 本当にこれらが日本が”ナンバーワン”になりえた理由なのかどうか、そして、その後の上記3点セットの放棄に至る経緯も含め、今後の展望を述べていきたいと思ってます。


 問題提起のみにて今回は終わりとさせていただきますが、次回からは、具体的に見ていきたいと考えています。
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この回答へのお礼

 にゃん_にゃんこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。何もかもはと単純に述べるなら 新興国群の台頭でしょうか。
 旧ソ連の崩壊による東欧等の そして中国の 資本主義化。低賃金での労働というあらたな条件がくわわった。
 これからもそうでしょうし その人口から言って半端ぢゃなかった。・・・


 たとえば――例の《もし》ですけれど―― 三点セットの日本型経営を保ちつづけたとしたら どうでしょう。自分たちもみんなが給与を体系的にさげて 余剰人員も 失業保険に向かわせることなく 会社がそのまま抱え込みつづけて 死守しようとしたら どうでしょう。
 
 そうせよとまでは言えないでしょうから それだけのこととしますが

 ▲ (E.フォーゲル) もし日本が、おのれの過剰な自信を抑え、新しい世界のビジョンを受け入れるならば、
 ☆ 《過剰な自信》があったのですね。少なくとも周りからそう見られていた。



 集団志向は――集団主義と言うにしても―― けっきょく個人個人のチカラを自由に発揮することが出来るようにその環境をととのえるのであって・それによって会社全体としても発展することを目指すのであって 人びとを締めつけて働かせるためにあるのではない。

 三点セットがまるごとそのままでいいかどうかの議論の余地を残しつつも 生活の安定・しかも人生設計の出来る長い期間における安定が人びとのはたらくことの基盤であって これは 日本人にとって当たり前のことであるし 国家という二階建て構造の社会形態になる前から伝統であります。
 
 上からのしわざであったとしても 万葉集には 無名の者のうたったウタが数多く採り入れられています。
 日本書紀では――つまり国の正式の歴史書では――対手を次から次へと暗殺によって葬って行った雄略オホハツセワカタケルのことを《大悪天皇》と呼んでいます。自由度もしくは度量が見られました。



 日本人のよさに合った仕事のあり方や環境 あらたな世界の情況に日本人として対応するという進め方をも考慮してよいのではないか。
 もともと利益率は低いのですから 効率や合理化を推し進めればよいというのではないあたらしい方策があるのではないか。全員参加で 一人ひとりのチカラが発揮されうるように環境をととのえ仕組みを模索することのほかにないように思われます。



 ★ 本当にこれらが日本が”ナンバーワン”になりえた理由なのかどうか、そして、その後の上記3点セットの放棄に至る経緯も含め、今後の展望を述べていきたいと思ってます。
 ☆ 先ほどの雄略とは別の雄大な展望になるかと期待しています。

お礼日時:2013/06/05 05:44

おはようございます。





支配関係、身分関係、これは組織・社会を効率的に運営するために、自然発生的に──これが《人間前史》なのかどうか?──生まれてきたものでしょう。意見集約、組織の意思決定の迅速化、ということを考えると、これは必要悪ではないでしょうか。横並び、平等、これは結構なことなのですが、これでは社会を構成するすべての構成員から意見を汲み上げ、構成員すべてがみずから、その利害関係の調整などを行ない、社会・組織としての意志を決定しなければならない。効率の観点から、これは現実的ではないのではないと思います。
どうしても、議会、行政などの組織が必要になると思います。

問題は、権力や財産などの《世襲制》ですね~。

○世議員に代表される〔政治〕権力の世襲制、これは前近代の産物ですわね~。
にもかかわらず、日本やアメリカ(USA)などでは、子が親から、直接、選挙の基盤(親のネームバリューを含みます)を引き継ぐ。。。
これは問題ですね~。親は立派だったかもしれませんが、その立派さを子供が引き継いでいるかどうかは、極めて疑わしいですので。
せめて、公党───自民と民主党など───には、政治家の子供が親と同じ選挙区で立候補できないなどのシバリが必要になるのではないか。これだけでも、○世議員とその選挙民の意識が大きく変わる……。

最大の問題は、財産、つまり、家庭の経済事情ですよね~。
経済的に貧しい家庭に生まれた子供は、よりよい教育を受ける機会を奪われている。
そして、貧困が親から子へ、子から孫へと引き継がれてゆく。
これは、超~問題ですよね~。
人間は生まれながらに平等だと言いつつ、現実には、大きな格差がある。
自由社会の平等とは、結果の平等ではなく、機会の平等である、と言われますが、経済的な格差などが、貧しい人たちから、その機会を奪っている。
これは、是非とも、何とかしなければならない。
親から子への財産の移譲、相続などに、手を入れないといけない。
でも、生命・身体の自由とならび、財産の自由は、個人の自由に関わる。。。
ジレンマ、ジレンマ!!

ロールズの《格差原理》、つまり、〔経済的〕不平等は最も不利な状況(貧しい状況)の人たちの利益を最大化することをもってのみ正当化される、《正義》となる、って考え方を、もっと大胆に社会システム・福祉のなかに導入せねばならんのではないか。。。
つまり、金持ちからは、もっといっぱい税金を取って、現在、不利な状況におかれている人たちの福祉───このお金は、要らない道などを作るなどの公共事業に、ぜってぇ~使ってはなんねぇ~───に使う必要がある、と思いやす。
でなければ、全ては、絵空事で終わってしまう。。。
ですので、
《人間前史》を終えるためには、まず、
「生まれながらに発生する、こうした格差の是正するプログラムやシステムが必要になる」
と思いやす。

ネコとしては珍しく、今回は政治・経済的な発言をちょいとしてみました。

大体ですね~、億を超えるような財産を、親の死後にその子供が受け継ぐってのは、どう考えてもおかしい。親の生前に、その子供は、その恩恵は十分に得ていた。親が死してなお、その恩恵を受けるというのは、どうなんですかね~。これは、《正義・Justice》といえるんすかね~。
「その莫大な財産は、労働者から搾取したお金」とはまったく考えませんが、
その財産を稼いだヒトの財産とは、何らかの便益を社会に与え、それが社会の構成員から支持されて、その便益供与の代価として社会から与えられたもの。あの世にお金を持っていけるわけではなし、死後、社会にその富を還元する、返すってのは、それほど理に適っていない話ではない。そして、そのお金は、福祉のためにのみ使う。
これと言った財産を持っていない《眠り猫》は、かく考えます。
「子のために、あえて美田を買わず」なんて、言葉もあるようですし。。。




《格差原理》
────────────
…その著《正義論A Theory of Justice》(1971)において,功利主義に取って代わるべき実質的な社会正義原理を〈公正としての正義justice as fairness〉論として体系的に展開し,規範的正義論の復権をもたらした。平等な基本的自由を保障する原理の優先が強調され,最も不利な状況にある人々の利益の最大化のための社会経済的不平等が正当化されるとする〈格差原理〉が提唱されているところに,その正義原理の内容的特徴がみられる。〈原初状態〉という仮説的状況で自由・平等な道徳的人格者たちが全員一致で合意するものとしてこのような正義原理が導出・正当化されるという,社会契約説的構成がとられており,このような方法論は,自律性と定言命法に関するカントの考え方を手続的に解釈した〈カント的構成主義〉と名づけられている。…
────────────
「コトバンク」より引用。
http://kotobank.jp/word/%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E5%8E …
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。この問いとして第二セッションになります。

 日本人がもっと自分たちの生活態度としてのよさを自覚するべきだという点がくわわっています。われわれは 日本人論が好きな割りには よさの自覚には《控え目》です。

 哲学においてさえも 徹底的に最後までは議論をしないという中途半端やあいまいさが その反面であたかも控え目の精神の裏側であるかのように よわいところであるように思います。

 具体的にはさまざまな主題や問題が引き出されて来ると思いますが そういった側面をにらみながら 《前史の終わり方・終え方》について問い求めます。

       *

 ◇ 支配関係、身分関係・・・は・・・自然発生的に生まれて来たもので・・・必要悪ではないでしょうか。
 ☆ 対話の原則の違反で失礼な引用の仕方をしましたが たぶん《悪》だとしても それは ユヅリアヒにおける《縁側》のようなアソビ(ゆとり)として受け容れられるものと思われます。特に《自然発生》の側面としてだと思います。

 したがって
 ◇ どうしても、議会、行政などの組織が必要になると思います。
 ☆ このムラ(市町村)の立法機関や行政府は 市民政府として自生するものと思われます。
 言いかえると そこから・そのムラの次元を一階として さらに第二階を形成して二階建ての社会形態に成って行った場合には どこまでが自然発生に成るものか 考えて行くことになるかと思います。

     *

 ◇ 問題は、権力や財産などの《世襲制》ですね~。
 ☆ たぶん ムラ次元の《権力》であれば たとえ一世代や二世代が世襲したとしても ムラびとの総意において容易にその制度化は阻まれるものと思います。

 《財産》は むつかしいですね。世襲つまり相続の問題より前に その働きぶりの問題があって 甲斐性というような言い方をするならば これは 確かに人間を《ひとり》なる存在として捉えており その個体としてのいわゆる所有がみとめられて行くことになります。

 もっとも のどが渇いたムラびとが 畑のスイカを失敬して食べたとしても それは泥棒には当たらないといったナラワシは じゅうぶんにあったと考えられたりもします。
 サモワでしたかは いまでも よその家のモノを――自転車だとか電気製品だとかを――無断で拝借しても それは生活の共同体として当たり前のことであるというふうなことをテレビの番組で紹介していましたが。

 穫り入れのときに初穂を神々にささげるというのは 《所有》論において どこまで有効な主題となるか。どういうふうにその理論に組み込めるか。
 消費者や地域住民に企業の成果をどこまでどのように還元しうるか。
 あるいは というよりもその前に 会社はそもそも従業員社会として従業員と向き合ってどこまで共生としての思想(生活態度)において 生きているか。会社が生きているか。

 これからの課題であるかと思います。
 (ねむりねこにゃあさんと同じような名の にゃん_にゃんこさんがこれに取り組んで行かれるとか たのしみです)。


      *

 ◇ ○世議員に代表される〔政治〕権力の世襲制、これは前近代の産物ですわね~。
 ☆ 世襲制は 何よりもかによりも《国民統合の象徴》なる家が 血筋の問題として建てられていますから。
 あるいはそれでも アマテラス公民圏とよぶべき第二階の住民となった面々が その真似をしないですすむことが出来るとよいのですが。
 
 万世一系は――男系か否かを別として――誰でもそのように生まれて来ているのですから その血筋の問題が社会の役割りをになう職務にかんして当てはめられ例外的に相続するようにと定めておくのも 世界における事実問題において 王制の名残りとして《必要悪》と言えばそうなのかも知れません。

 言いかえると 民主制にのっとって話し合いでその去就は決められるのでしょう。変更するのなら 《名誉革命》がいちばんなのでしょう。

 
 とは言っても 世襲議員の問題は むしろ選挙民の問題であるかも知れません。落とせばよいのですから。あるいは利害関係にかかわるようなシガラミが強く根を張ったように受け継がれているのでしょうか。


      *

 ◇ ~~~~
 最大の問題は、財産、つまり、家庭の経済事情ですよね~。
 経済的に貧しい家庭に生まれた子供は、よりよい教育を受ける機会を奪われている。
 そして、貧困が親から子へ、子から孫へと引き継がれてゆく。
 これは、超~問題ですよね~。
 ~~~~~~
 ☆ 同感です。昔は貧困家庭の優秀な子や苦学生を応援する人も思想もナラワシも じゅうぶんにあったはずです。人間が劣化してしまったのでしょうか。



 ◇ つまり、金持ちからは、もっといっぱい税金を取って、現在、不利な状況におかれている人たちの福祉───このお金は、要らない道などを作るなどの公共事業に、ぜってぇ~使ってはなんねぇ~───に使う必要がある、と思いやす。
 ☆ またもむかしはですが 累進課税は 所得税が最高で七割ほどだったとか。住民税を合わせて 九割くらいは――それでも収入のではなく課税所得のですが―― 持って行かれていた。

 日本人は劣化してしまったのでしょうか。


 ◇ ~~~~
 ですので、
 《人間前史》を終えるためには、まず、
 「生まれながらに発生する、こうした格差の是正するプログラムやシステムが必要になる」
 と思いやす。
 ~~~~~~
 ☆ これが 通奏低音としてつねにささやかれ続けることを欲します。政策化もむろんですが。



     *

 ◇ ~~~~~~~
 大体ですね~、億を超えるような財産を、親の死後にその子供が受け継ぐってのは、どう考えてもおかしい。親の生前に、その子供は、その恩恵は十分に得ていた。親が死してなお、その恩恵を受けるというのは、どうなんですかね~。これは、《正義・Justice》といえるんすかね~。
 「その莫大な財産は、労働者から搾取したお金」とはまったく考えませんが、
 その財産を稼いだヒトの財産とは、何らかの便益を社会に与え、それが社会の構成員から支持されて、その便益供与の代価として社会から与えられたもの。あの世にお金を持っていけるわけではなし、死後、社会にその富を還元する、返すってのは、それほど理に適っていない話ではない。そして、そのお金は、福祉のためにのみ使う。
 ~~~~~~~~
 ☆ いつも思うのですが たぶん――皮肉でも何でもなくて いつもそのときの思惟に限界があると自分で思うことですが―― 《正義》やあるいは《権利・義務》といったバタ臭い概念とその発想からわれわれは抜け出せ得ないでいる。のではないでしょうか。

 【Q:権利と義務という次元を掘り下げることはできないか? (もののあはれ)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5949269.html

 この質問では 《無根拠》を持ち出していますが なおまだ課題だと思います。


 そうして松下幸之助は 《財産は 死んだあとあの世にも持って行きたい》と言ったとか言わなかったとか言いますが 《所有とは何か》なる主題だと思います。


    *
 
 ○ 格差原理
 ☆ これは 考えてみれば 社会契約説に必ずしももとづかない《(ω)非戦論型》においては むしろほとんどその初めに初期条件として設定されていると思われます。つまり 《お山の大将》型人間を想定していると思われます。

 このヒトキワ目立ちたがるアマアガリ志向の人についても 或る程度は好きなようにさせその所を得させる社会(人間関係)の仕組みを人びとはこしらえている。

 (社会の神棚に祀るまでの処遇の仕方は けっきょく行き過ぎだったのでしょう。この《くにゆづり》の弊害は 教訓として行くべきでしょう。
 (ただし《(α)主戦論型》の社会においても その形態が二階建て構造なる国家として成ったというのは 人間の普遍的な習性にもとづくのでしょうか)。

 つまり《くにゆづり》にまで到った社会では 人びとの生活日常の思想として 格差原理を初めに織り込み済みである。とは見られまいか。


 言いかえると――推論を端折ってすっ飛びの議論になりますが―― ムラオサ(市町村長)としての〔スサノヲ市民政府としての〕アマテラス公民は 人びとの上に立つなどということは金輪際ごめんこうむるという人間に 当番として町内会の当番制としてのごとく 順番制だから おまえも今度はやってくれと言って成るようにするとよいかも知れません。

 この路線とそして《正義や権利義務》論にもとづこうとするかたちの
 ▲ 自律性と定言命法に関するカントの考え方を手続的に解釈した〈カント的構成主義〉
 ☆ なる路線との比較対照をなんとか掘り下げて行けませんでしょうか。

お礼日時:2013/06/05 10:44

 こんばんは にゃんこです。


 

> そうですね。何もかもはと単純に述べるなら 新興国群の台頭でしょうか。
 旧ソ連の崩壊による東欧等の そして中国の 資本主義化。低賃金での労働というあらたな条件がくわわった。
 これからもそうでしょうし その人口から言って半端ぢゃなかった。・・・
↓↓↓

 仰られますように、新興国が頭角をあらわしたため、必然的にデフレ化現象も生じたと思います。ただ、ここまでの長期に渡るデフレに陥ったのは日本だけだったかと思うのですが(これには政府の失策もありますが)。
 では将来、日本も景気回復し、さらに人件費の安い国々もいずれかはインフレが到来し、その結果日本並みの人件費になっていくものと思われます。ですが、そのようなときになっても、「終身雇用制」が主張されるかといいますと、おそらく「されない」と考えています。


> たとえば――例の《もし》ですけれど―― 三点セットの日本型経営を保ちつづけたとしたら どうでしょう。自分たちもみんなが給与を体系的にさげて 余剰人員も 失業保険に向かわせることなく 会社がそのまま抱え込みつづけて 死守しようとしたら どうでしょう。
↓↓↓

 国際競争力の低下をきたしたかもしれません。
 倒産の危機に瀕した場合は別の話しとなりますが、では、残った人、成功した人たちとはどういった人たちなのか? なんです。以下に柳内氏(ファーストリテイリング会長)の履歴を示しています。

 早稲田大学政治経済学部を卒業後、父親の勧めでジャスコ(現在のイオンリテール)に入社。ジャスコ四日市店で家庭雑貨売場を担当したが、働くのが嫌になり9ヶ月で退職、半年程友人の家に居候した後帰省して実家の小郡商事に入社。  <中略>
1984年(昭和59年)、父の後を受け小郡商事社長に就任。
柳内正
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95% …

 もし、一般人ならば、こんなことはできないと思います。たった9ヶ月で会社のことなんかわかるはずもありませんし、はっきり言いまして、自分専用の受け皿が用意されていたからできた芸当だと思います。

 そこで、「日本人が甘えていて「変わらなければ死ぬ、と社員にもいっている」」そうなのですが、「甘えている」と言う資格が柳内氏にあるかといわれますと、「ない」といえましょう(もちろん、柳内氏は経営能力を持っているでしょうが、やり直しができたというのは紛れもなく、お父君の七光りのおかげでしょうから)。


> ▲ (E.フォーゲル) もし日本が、おのれの過剰な自信を抑え、新しい世界のビジョンを受け入れるならば、
 ☆ 《過剰な自信》があったのですね。少なくとも周りからそう見られていた。
↓↓↓

 これは、おそらく日本人への“警告”だったと考えています。
 この著書を読んだライシャワー氏は、米国人に読ませるには価値があるかもしれないが、日本人に読ませるには問題があるかもしれない、と釘をさしたようですから。


> 集団志向は――集団主義と言うにしても―― けっきょく個人個人のチカラを自由に発揮することが出来るようにその環境をととのえるのであって・それによって会社全体としても発展することを目指すのであって 人びとを締めつけて働かせるためにあるのではない。
↓↓↓

 集団・グループといえども、個人の集まりであります。この意味においては個人の自由意志を重んじるのは、むしろ好ましい方向に向かうと思われます。
 そこで、「向上心がある人は、より自分を高めようと努力する」との希望から始まったのでしょうか、1990年代に成果主義なるものが導入されました。ですが、予想に反し、「失われた20年」といわれるように、実際は異なっていました。
 この結果、見えてきたのは、

・従業員の会社への信頼感・忠誠心が低下。
・従業員同士の足の引っ張り合い。

 でした。


> 三点セットがまるごとそのままでいいかどうかの議論の余地を残しつつも 生活の安定・しかも人生設計の出来る長い期間における安定が人びとのはたらくことの基盤であって これは 日本人にとって当たり前のことであるし 国家という二階建て構造の社会形態になる前から伝統であります。
↓↓↓

 ただ、皆様が仰っておられますように、この「安定」が特権階級にある“お二階様”のみの安定であればどうでしょうか。
 今では、平屋に住む人が上を見上げますと、“透明な天井”があるだけであります。“上に行けそうだけれども、その透明な天井で、大空を羽ばたくのを阻まれてしまう”、というのが現状だと思われます。


> 上からのしわざであったとしても 万葉集には 無名の者のうたったウタが数多く採り入れられています。
 日本書紀では――つまり国の正式の歴史書では――対手を次から次へと暗殺によって葬って行った雄略オホハツセワカタケルのことを《大悪天皇》と呼んでいます。自由度もしくは度量が見られました。
↓↓↓

 そうでございますね。
 また近年(1980年代後半)でも、携帯電話、ノートパソコン、デジタルカメラ・ビデオ始め幅広い電子・電気機器に搭載されるようになったリチウムイオン二次電池(LIB)も名もなき日本人によってなされました(名前を知っているひとはいるかもしれませんが少数だと思います)。
 では、これからも、このようなすぐれた発明がなされていくかと問われますと、大いに疑問であります。

 
> (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?
 前史を終えて後史に入ると見てよいのか?
 そう見るのが ふさわしいのかどうか?
↓↓↓

 益々保身に勤め、逆に攻撃を受けそうになれば、「最近の若者は甘えている」と逆ギレするだけかと思います。
 まだ、前史に戻ってしまったのではないか、との懸念があります。


> 日本人のよさに合った仕事のあり方や環境 あらたな世界の情況に日本人として対応するという進め方をも考慮してよいのではないか。
 もともと利益率は低いのですから 効率や合理化を推し進めればよいというのではないあたらしい方策があるのではないか。全員参加で 一人ひとりのチカラが発揮されうるように環境をととのえ仕組みを模索することのほかにないように思われます。
↓↓↓

 個人主義、一般には“成果主義”とよばれるものは、達成可能かどうか分からないもののリスク・責任までをも、末端の一従業員に被せる訳です。詰め腹を切らせられるのは、末端の従業員なわけであります。
 それのみならず、何分、一個人の成果が問われるわけですから、当然足の引っ張り合いが横行し、日本人が持っていた“和”の精神も消失してしまいました。何分、限られた“パイ”の奪いあいという状況ですから。
 もちろん、お二階様に取りましては、高みからの見物は面白いかもしれませんが・・・


> ★ 本当にこれらが日本が”ナンバーワン”になりえた理由なのかどうか、そして、その後の上記3点セットの放棄に至る経緯も含め、今後の展望を述べていきたいと思ってます。
 ☆ 先ほどの雄略とは別の雄大な展望になるかと期待しています。
↓↓↓

 すみません。何か愚痴っぽくなってしまいました。
 誠に申し訳ございませんでした。

 もう一度、この失敗の反省をすべきかと、そう考えています。
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この回答へのお礼

 にゃんこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 (1) 日本型経営の三点セットを維持するというとき 終身雇用制についておぎないます。

   ・ 長期にわたる生活の安定を図ることによって能力を自由にじゅうぶんに
    発揮することがかなうためである。

   ・ ひとつところにとどまることを嫌う場合 むろん 移動は自由である。
   ・ 転職の自由をうばうためのものではない。

   ・ 言わば《一社懸命》の働き方と自由な移動のそれとは むろん対等である。

   ・ 不動と移動との割り合いは ひとの性格によるであろうから 自然生成の
     過程として成る。


 (2) ユニクロ社長の経営理念について考えます。
 
 ヰキぺによる問題の指摘から拾います。

 ▲ (ヰキぺ:ユニクロ) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B% …

 § 4 ユニクロへの批評
 § 4.3 労働環境

 週刊東洋経済(2013年3月4日付け)・・・の記事によると、

  ユニクロでは社員の労働時間の上限を240時間と定め、
  サービス残業も禁じており、

  労働時間の上限を超えたりサービス残業を常態化すると降格や退職勧奨などの社内処分を行うとしている一方で、

  特に店長が店舗業務(現場業務・管理業務)がこなしきれないためにサービス残業を常態化させており、名ばかり管理職の疑いがあると報じている。
 ▲ (ヰキぺ:管理職) ~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E3%81%B0% …

 § 4 「名ばかり管理職」の問題
 『名ばかり管理職』は、十分な経験を積まないうちに「管理職」に就かされる。長時間労働、そして労働量に比べれば低い賃金(後述の店長職など)で企業に酷使されるこれらの「名ばかり管理職」には、体調を崩す者も相次いでいる。

 悪質な例となると、社員全員に肩書きを付けて「管理職扱い」にし、労働基準法の規制を不当に免れる例もある。
 このような「名ばかり管理職」は、残業手当が支払われないため、給与総額が役職無し社員よりも低くなることが多いという特徴があり、それを悪用する企業が後を絶たない状況が続いている。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 これは 次の方策の――片寄ったかたちでの―― 一環であると見ます。
 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~
 三点セットの日本型経営を保ちつづけたとしたら・・・自分たちもみんなが給与を体系的にさげて 余剰人員も 失業保険に向かわせることなく 会社がそのまま抱え込みつづけて 死守しようとしたら どうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちその片寄りとしては 経営トップから全員残らず減給にすることをしていないということです。
 従業員を・そしてその内の一部分の者たちをはたらき過ぎにさせるためではなく――またそうであっては ふつうの方策にすらならない―― 新興国の安い商品に対抗するための施策だと見るべきだと考えます。

 言いかえるなら 競争力をつけるために考え出した労働条件であって これだけからは 準お二階さんなる経営陣によるハラスメントだとは見ないかたちでさらに改善策を考え話し合えるようにし練って行くのがよいと考えます。

 これは 日本なら日本の・そしてその企業から働く人びとから家族の者までみんなの問題だと捉えなければ いい考えは出て来ないように思います。
 政治が音頭を取るべきだと思います。むろん誰からであっても よいアイディアを出してかまわないはずです。


 (3) さらに柳井正について

 ★  もし、一般人ならば、こんなこと〔*つまり 大学新卒で就職したあと短期間でやめていること〕はできないと思います。たった9ヶ月で会社のことなんかわかるはずもありませんし、はっきり言いまして、自分専用の受け皿〔*つまり 父親の会社〕が用意されていたからできた芸当だと思います。
 ☆ これは どうでしょう。当たっていたとしても 議論の問題点にはあまり成らないと考えます。
 
 (あ) 新卒の新入社員が短期間で辞めてしまうという事例は 受け皿がなくても ないとは言えないと推測します。
 (い) そのようにせっかく自分がえらんで入った会社を何の経験にもならないかたちで辞めるという行動を取ってしまうと或る種の欠点 これは――そういう若いときの経験だと見るならば―― その人のその後の人生をすべて決定してしまうとするのは 狭い見方だと考えます。

 (う) もし狭い見方でなかったとしたら・つまりたとえば そのような性格ないし人生観であるから 従業員に(その幹部候補生などの一部に)過酷な労働条件を課すことをしたり あるいは 将来の展望として一般の従業員は 年収百万に向けて収斂するだろうと言ったりするのだ としたら:
   その場合は おそらくその思想をゆるすのは
  (i) 労働組合の側の思想とチカラの問題である。
  (ii) あるいは 株主の思想によっている。
  のだと考えられる。(ii)は 柳井氏じしんがそうだとすれば あとは
  (iii) 世論による。
  と思われます。

 (え) 資本主義は・その欠陥は 資本家個人の責任には帰し得ないと考えます。つまり 柳井氏個人にも問い質すと同時に 社会がともに考え合って行かなくては何ごとも成し得ないと考えます。


 (4) 《にんげん》の問題ではないか

 社会にわるいことがあれば 誰かひとりの人間にその責めを負わせるというマの違った思想 つまりそれとしてのにんげんの問題があると考えます。

 会社に問題が起きているとすれば すべてその代表取締役の責任だという見方に片寄る思想 としてのにんげんの問題があると考えます。

 そのような思潮の反動としてのごとく ゆるい相似形としてのごとく こんどはぎゃくに上のほうから:
 ★ 個人主義、一般には“成果主義”とよばれるものは、達成可能かどうか分からないもののリスク・責任までをも、末端の一従業員に被せる訳です。詰め腹を切らせられるのは、末端の従業員なわけであります。
 ☆ と見ることも――事実問題として――出来るかも知れません。


 けれども
 ★  それのみならず、何分、一個人の成果が問われるわけですから、当然足の引っ張り合いが横行し、日本人が持っていた“和”の精神も消失してしまいました。何分、限られた“パイ”の奪いあいという状況ですから。
 ☆ というのであれば われらスサノヲ市民従業員の一人ひとりも そういったアマテラス族からの提案や施策の実施を打ち出されて 右往左往するような状態になるのなら もともと《和》の精神も 看板倒れにしか過ぎなかったのであろうし 《成果主義》なる思想を そもそも・もともと自分たちが持ってそのように生きていた。ということにほかなりません。

 こういう《にんげん》問題なのではないでしょうか。


 ★ もちろん、お二階様に取りましては、高みからの見物は面白いかもしれませんが・・・
 ☆ という認識が せいぜいわれら自分たちの手に残ったものであるとするなら 
 ★☆ もう一度、この失敗の反省をすべきかと、そう考えています。



 ★ ~~~~~
  また近年(1980年代後半)でも、携帯電話、ノートパソコン、デジタルカメラ・ビデオ始め幅広い電子・電気機器に搭載されるようになったリチウムイオン二次電池(LIB)も名もなき日本人によってなされました(名前を知っているひとはいるかもしれませんが少数だと思います)。
 では、これからも、このようなすぐれた発明がなされていくかと問われますと、大いに疑問であります。
 ~~~~~~~
 ☆ この伝統とその共有とそれの強固な要塞化 でしょうか。必要なことは。自由な市民の自由な連帯。

 スサノヲ庶民のゆづりあう精神 その精神の基にハンニバルの不屈の精神を取り戻したいと思います。(ハンニバルは破れましたが)。つらすぎますかねぇ。

お礼日時:2013/06/07 11:05

 こんばんは




> (1) 日本型経営の三点セットを維持するというとき 終身雇用制についておぎないます。
   ・ 長期にわたる生活の安定を図ることによって能力を自由にじゅうぶんに
    発揮することがかなうためである。
ひとつところにとどまることを嫌う場合 むろん 移動は自由である。
   ・ 転職の自由をうばうためのものではない。
言わば《一社懸命》の働き方と自由な移動のそれとは むろん対等である。
不動と移動との割り合いは ひとの性格によるであろうから 自然生成の
     過程として成る。
↓↓↓

 まとめていただきまして、どうもありがとうございました。あと一点追加させていただきたいのですが、会社はたとえ、その会社が気に食わなくとも、一生(定年までは)面倒は見てくれる。そして、生活の不安もないためローン等も組める。だったら、会社への忠誠心は芽生えてくる。
 これに対し、いつリストラに遭遇するかわからない状況では、ローンは組めない。また忠誠心なんて持つことができない、といった点も挙げられるかと思います。
 ヴォーゲル氏によれば、会社・自分の属しているグループに、忠誠心を持って働くことができるのは、日本人だけなのだそうです(他の国々は厳格な契約のもとに労働するのだそうです)。


> (2) ユニクロ社長の経営理念について考えます。
 ヰキぺによる問題の指摘から拾います。
 § 4 ユニクロへの批評
 § 4.3 労働環境 
 ▲ (ヰキぺ:管理職) ~~~~~~~~
 § 4 「名ばかり管理職」の問題

 『名ばかり管理職』は、十分な経験を積まないうちに「管理職」に就かされる。
<中略> 悪質な例となると、社員全員に肩書きを付けて「管理職扱い」にし、労働基準法の規制を不当に免れる例もある。
 それを悪用する企業が後を絶たない状況が続いている。
 ~~~~~~~~~~~~~~
↓↓↓

 一応、日本は法治主義国家であります。”労働基準法”に瑕疵があるとするならば、法改正すればいいわけですし、「法改正しない」というのならば、従うべきかと考えています。


>  ☆ すなわちその片寄りとしては 経営トップから全員残らず減給にすることをしていないということです。
 従業員を・そしてその内の一部分の者たちをはたらき過ぎにさせるためではなく――またそうであっては ふつうの方策にすらならない―― 新興国の安い商品に対抗するための施策だと見るべきだと考えます。
↓↓↓

 全てとは言い切れませんが、多くの、少なくとも利益をあげている企業ならば、問題はないと考えています。
 具体例を挙げさせていただきますと、城 繁幸著「たった1%の賃下げが99%を幸せにする」東洋経済新報社 にもありますが、

 今までの「年齢給・終身雇用」は高成長期にしか適用できない。としつつも、既得権を持っている人々に、ほんの少しの賃下げを受け容れてもらえれば、または、極わずかな譲歩を認めてもらえれば、社会の安定や各種制度の保全につながり、長期的に見れば皆の利益に繋がることを主張していました(デフレの原因、”デフレ・ギャップ説”、つまり、「総供給と総需要の差」との説に従えば、おそらく、ある程度安定した雇用制度の確保、ある程度の昇給がなければ、デフレはなくならないと考えています)。
  

> 言いかえるなら 競争力をつけるために考え出した労働条件であって これだけからは 準お二階さんなる経営陣によるハラスメントだとは見ないかたちでさらに改善策を考え話し合えるようにし練って行くのがよいと考えます。
↓↓↓

 まず、経営者(代表取締役)と一従業員との話し合いでは、圧倒的に従業員は不利な立場だからであります。経営者+弁護士、に対して、一従業員では太刀打ちできないでしょうから。


> これは 日本なら日本の・そしてその企業から働く人びとから家族の者までみんなの問題だと捉えなければ いい考えは出て来ないように思います。
 政治が音頭を取るべきだと思います。むろん誰からであっても よいアイディアを出してかまわないはずです。
↓↓↓

 政治が音頭をとる以外に方策は、限られるとおもいます。確かに・・・
 また、マスゴミがこの社会の歪みから最も大きな恩恵を受けているため、こんなまともな意見はなかなかメディアから聞くことはまず不可能でしょうから。


> (3) さらに柳井正について
 ☆ これは どうでしょう。当たっていたとしても 議論の問題点にはあまり成らないと考えます。
↓↓↓

 どうも失礼致しました。ごめんなさい。少々感情的になっていました。


> (あ) 新卒の新入社員が短期間で辞めてしまうという事例は 受け皿がなくても ないとは言えないと推測します。
 (い) そのようにせっかく自分がえらんで入った会社を何の経験にもならないかたちで辞めるという行動を取ってしまうと或る種の欠点 これは――そういう若いときの経験だと見るならば―― その人のその後の人生をすべて決定してしまうとするのは 狭い見方だと考えます。
↓↓↓

 「その後の人生をすべて決定してしまう」とは誇張が過ぎたかと思います。ですが、何の経験もない大学を出たばかりの新卒社員が、転職により給与があがることはないと思います。
 なお、新卒の新入社員が短期間で辞めてしまう理由としましては、


不況により企業が新規採用を厳選した結果、新入社員は一定の能力・専門性を持ち仕事に高い意識を持つ者が多くなった。これは、入社試験の厳しさから(今から20年前では考えられない程過酷であります)、新卒者は高い”能力・専門性”が求められると思ってしまったのでしょう。

しかし実際働いてみると、与えられる仕事は従来の年功序列型での新入社員に対するものと同様で、希望していた業務と実際の業務とのギャップが大きくなった。役職についた人物は当初思っていた高い”能力・専門性”を持った人物ではなく、単なる社内政治に没頭するひとたちであった。

若い世代は将来、(上の世代と同様の)高い賃金をもらう可能性が殆ど無いことに絶望。
さらに業務内容も、年功序列型企業では若手=下級にはやりがいの無いものが割り当てられてしまう(出世のレールは上でつかえている状況)。
 つまり、現在の日本企業で取り入れられている成果主義の多くは年功序列型の上にかぶせただけで、問題を解決していない。さらに申しますと、名ばかりの「成果主義」だったという訳なんです。

城著「若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」光文社 から要約


> (う) もし狭い見方でなかったとしたら・つまりたとえば そのような性格ないし人生観であるから 従業員に(その幹部候補生などの一部に)過酷な労働条件を課すことをしたり あるいは 将来の展望として一般の従業員は 年収百万に向けて収斂するだろうと言ったりするのだ としたら:
↓↓↓

 はい。ファーストリテイリングのステイクホルダーと柳井氏、そして、一部の知識人かと思っています(確か、ユニクロには組合がなかったと記憶しています)。


> (え) 資本主義は・その欠陥は 資本家個人の責任には帰し得ないと考えます。つまり 柳井氏個人にも問い質すと同時に 社会がともに考え合って行かなくては何ごとも成し得ないと考えます。
↓↓↓

 その通りだと思います。


> (4) 《にんげん》の問題ではないか
 社会にわるいことがあれば 誰かひとりの人間にその責めを負わせるというマの違った思想 つまりそれとしてのにんげんの問題があると考えます。
↓↓↓

 この閉塞感に満ちた日本社会では、「スケープゴート」を作り出してしまいやすい傾向にあることは間違いないと思います。残念ではありますが。


> けれども
 ☆ というのであれば われらスサノヲ市民従業員の一人ひとりも そういったアマテラス族からの提案や施策の実施を打ち出されて 右往左往するような状態になるのなら もともと《和》の精神も 看板倒れにしか過ぎなかったのであろうし 《成果主義》なる思想を そもそも・もともと自分たちが持ってそのように生きていた。ということにほかなりません。
 こういう《にんげん》問題なのではないでしょうか。
↓↓↓

 これは難しい問題だと思います。

・「成果主義」に関して肯定的な新卒者が入社試験で高得点をとることによって、入社できた。

・「和」の精神と、今後の(将来の)家族のことを天秤にかけた場合、どちらを選択するのか。

 残念ながら、わたくしには答を持っておりません。


> スサノヲ庶民のゆづりあう精神 その精神の基にハンニバルの不屈の精神を取り戻したいと思います。(ハンニバルは破れましたが)。つらすぎますかねぇ。
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 不可能ではないと思います。この機会にでも、特に若者達の不退転の決意なりを見せてもらいたいと願っています。
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この回答へのお礼

 にゃんこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 わたしは 精神論に落ち入った感がありましょうか。
 ただ いままでのやり方において もっとしっかりせよと言っているのではないことで模索して行きたいとは思っています。

 パイの奪い合いをゆづり合いという方針で分かち合う。そのための方策をみんなで考えて行く。これだけなのですが 方向転換ができればよいと考えます。

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   > スサノヲ庶民のゆづりあう精神 その精神の基にハンニバルの不屈の精神を取り戻したいと思います。(ハンニバルは破れましたが)。つらすぎますかねぇ。
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 不可能ではないと思います。この機会にでも、特に若者達の不退転の決意なりを見せてもらいたいと願っています。
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 ☆ という声を明かしていただきました。

  

 ★ ヴォーゲル氏によれば、会社・自分の属しているグループに、忠誠心を持って働くことができるのは、日本人だけなのだそうです(他の国々は厳格な契約のもとに労働するのだそうです)。
 ☆ この見解は いろんな検証が必要かも分かりませんが おそらくこの日本人のあいだにおける協働作業のあり方をめぐる特殊性は じつは人間のあいだにおける普遍性であるかも知れません。



 日本型経営の三点セットもしくは終身雇用制について
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 あと一点追加させていただきたいのですが、会社はたとえ、その会社が気に食わなくとも、一生(定年までは)面倒は見てくれる。そして、生活の不安もないためローン等も組める。だったら、会社への忠誠心は芽生えてくる。
 これに対し、いつリストラに遭遇するかわからない状況では、ローンは組めない。また忠誠心なんて持つことができない、といった点も挙げられるかと思います。
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 城 繁幸著「たった1%の賃下げが99%を幸せにする」

 既得権を持っている人々に、ほんの少しの賃下げを受け容れてもらえれば、または、極わずかな譲歩を認めてもらえれば、社会の安定や各種制度の保全につながり、長期的に見れば皆の利益に繋がることを主張していました。
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 ☆ 終身雇用制を外して働く人びとが分かち合う(あるいはつまりその外にいる非正規社員らに分かち与える)という場合と 終身雇用の仕組みを保ってみんなが減給しつつ 競争力を持たせる場合とだと思います。


 ★ 政治が音頭をとる以外に方策は、限られるとおもいます。確かに・・・
 ☆ そして そのことをも妨害する従来のマスゴミではないあたらしいメディアが必要となるかも分かりません。
 
 ★ ユニクロには組合がな〔い〕
 ☆ そうですから。




 ほかでもあまりしゃれた応答が出て来なくなっています。
 仕事とそれによる生活ないし人生の安定を第一に図ること。を基礎としたいと思っています。たとえ終身雇用制を取り外してもだと思います。

お礼日時:2013/06/09 08:08

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