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ある若者が関係した事件について,この若者が「彼女さえいれば,幸せになれただろう」ということを意図する主張をしていたことが判明しました。

彼女という存在,つまり,パートナーという存在がいれば,人間は幸福をたどりつくことができるのでしょうか?





参考までに:

孤独でいることよりも,パートナーの存在がいることのほうが,いくらかは,何かしらの「幸福」を手にすることができるのかもしれません。

その一方で,このような恋愛観は,不幸をもたらすという指摘もあります。

人間にとっての幸福,それも,いわゆる「最上級の幸福」とは,パートナーという存在がいることなのでしょうか? わたし自身は,そういった経験がないので,そのように思ってしまうときがあります。(いわゆる,「隣人の妻」的なものとして)

また,パートナーがいることで,いろいろと「悩み」をかかえるかもしれませんが,いわゆる,おひとりさま,ひとりぼっちでいるときの「ナヤミ」よりかは,少々,「まし」なのかもしれません。

A 回答 (7件)

> 彼女という存在,つまり,パートナーという存在がいれば,人間は幸福をたどりつくことができるのでしょうか?



彼女のいない若者だから、彼女がいれば幸せ、という発想になったのだと思います。

人間は、他者からの評価を常に求めます。自分の存在・行動を、誰にも知られなくていい、誰にも評価してもらえなくてもいい、と考えられるのは、修行した宗教者だけです。誰でも多かれ少なかれ、他者からの評価を求めます。

幼児のときは、親からの評価を求めます、
子どものときは、親や教師や友達から評価を求めます。
青少年になると、異性からの評価を求めます。
成人すると、社会的な評価を求めます。

他者に「あなたはあなたのままでいい。そのままのあなたが好き」と高く評価され存在・行動を肯定してもらえるのは、幸福の一つの形ではあります。(他者から評価されても自分が満足できていないと幸福になれないとか、他者の評価と関係なく自分が満足できればいいという人もいるので、幸福の形は他にもあります。)

他の回答者様が書かれているように、事件を起こした若者が考える「彼女」は、「常に自分を高く評価して、自分の存在を肯定してくれる他者」でしょう。でも、現実の彼女なんて、そんなものじゃありません。相手も感情のある人間ですから、彼女がいたらいたで面倒くさいこともたくさんありますし、いない方がいいと思うこともあるでしょう。

> また,パートナーがいることで,いろいろと「悩み」をかかえるかもしれませんが,いわゆる,おひとりさま,ひとりぼっちでいるときの「ナヤミ」よりかは,少々,「まし」なのかもしれません。

自分を肯定する方法があるなら、パートナーは必ずしも必要ないと思います。自分を評価して肯定してくれる存在はパートナーだけじゃありませんから、友人や同僚などの全くの他人でもいいし、親や兄弟などの家族でもいいでしょう。また、自分で自分を肯定できるなら、他者からの評価は必要ない場合もあるでしょう。

要するに、恋愛相手がいるかどうかは幸福と関係ある場合もあるし、関係ない場合もあります。
他の方も書かれているように、事件を起こした若者の言う「彼女」は「理想の彼女」「妄想彼女」ですよね。何の取り柄もない普通の男性を全面的に肯定してくれるような女性はいません。つまり、理想の彼女がいないことが彼の不幸の原因なのだとしたら、彼は一生幸福にはなれません。そんな人は存在しないから。
彼が不幸なのは、自己評価(プライド)が高すぎるので、他者からそれに見合う十分な評価を得ることができないからです。誰でも、他人から十分な評価を得ているわけではないし、求めているたけで与えない人は、他人からも何も与えられないと気付くべきです。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

さて,ネタばらしでもありますが,ここでわたしがとりあげたのは,数年前に,都内のあるところで,多数の人々を殺傷した,あの若者のことです。

「彼が不幸なのは、自己評価(プライド)が高すぎるので、他者からそれに見合う十分な評価を得ることができないからです。」という指摘については,とても興味深い見方であるとおもいます。ただし,当の本人が,ほんとうに,「プライドの高い存在」なのかどうかは,深く分析する必要があるとおもいます。考え方によっては,逆のケースも考えられるからです。

また,「求めているたけで与えない人は、他人からも何も与えられない」という指摘については,正論であるとおもいますが,はたして,いまの日本社会において,あなたが指摘したところの「セイロン」が,ほんとうに多くの人々が,正論であると,受けとめているのでしょうか? 「人を見たらドロボーと思え」,これが,日本社会における「キョークン」ではありますが,「人間を不幸にする社会」と化した,いまの日本社会において,はたして,いわゆる「ギブ・アンド・テイク」は成立するのでしょうか?

お礼日時:2013/06/24 03:44

幸福か不幸かは不明ですが


妻と死別した夫の寿命は約10年短くなるらしいですから
男性にパートナーは必要だと思います。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2013/06/24 03:44

隣の芝が青く見えるだけでしょ

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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2013/06/24 03:39

その若者が想像してる「彼女」は



おかえりなさいと温かいお食事を出してくれる「お母さん」で
悩み事をきいてくれる「カウンセラー」で
看病もしてくれる「看護師」で
掃除洗濯なんでもしてくれる「家政婦」で
自分の都合にあわせての「娼婦」で
甘え上手の「小悪魔」で
なんでも共感して受け入れてくれる「仏様」で
友達に自慢できる「美人」です

いわゆる 「妄想彼女」
実態はありません。 世の中に存在はしていません。 あくまでも妄想の中だけ・・・

「妄想していた完璧な彼女さえいれば幸せになれただとう」という意味だと思うのですが、、、
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2013/06/24 03:38

>>彼女という存在,つまり,パートナーという存在がいれば,人間は幸福をたどりつくことができるのでしょうか?



いえ、その人の”幸福”に対する定義によって違うでしょう。

何を幸福とするのかは人それぞれです。

恋人やパートナーがいてくれるだけで幸福を身に染みる方もしれば、

お金や趣味で幸福と感じれる人もいます。


「彼女さえいれば,幸せになれただろう」という意見はその人個人の考えですので、

必ずしもあっているのは限りません。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2013/06/24 03:37

「彼女さえいれば」という考え方自体が、自分の幸福を他人に任せている姿勢です。


この姿勢そのものが、その人が幸福になれない最大の理由だと思います。

また、この場合の「彼女」というのは特定個人を指すのではなく、一般名詞でしょう。
人と付き合うというのは、相手の個性を尊重することが一番です。
人を自分の付属物的、あるいは道具として扱おうとする姿勢が、「彼女」ができなかった理由でしょうね。


パートナーという存在の有無は、幸福になる必要条件ではないでしょう。
質問者さまもお書きのとおり、パートナーがいることでの「悩み」が発生します。
もちろん、パートナーがいることでの「幸福」も発生します。
悩みや幸福に重さの違いを付けることができるのは当事者だけです。第三者的な順序付けは無意味です。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2013/06/24 03:45

「彼女さえいれば…」 とか書き並べて自分以外の他人への依存心を強く主張する様では、


最後は俗に言う逆玉を探し続けるしかないと思います。
ご自身の自立心が希薄なわけですから。
頑張ってくだささい。
宝くじにあたる様な確率でしょうけど、可能性はゼロではないと思います。
外れたら確実にさらに不幸になります。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2013/06/24 03:37

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