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非活字表現手法に付き

様々なものがあります。映画、お芝居、歌舞伎、能、(歌詞のない)音楽、絵画、漫画、TVドラマ、etc・・・
他方これらは非活字ゆえに想像力喚起に乏しく好ましくないもの、という意見をよく聞きます。
果たしてその言が真実であるならば、上記各非活字ものは早急に規制すべきでしょうか。或いはその一部のみを規制すべきでしょうか。或いはその世間で喧伝されている言がそもそも誤っているのでしょうか?

A 回答 (3件)

例えば。



映画やお芝居の一場面を見ても
・なぜ、この人はこんな行動とったのだろう?こんな台詞を言ったのだろう?
・作品中で、このシーンが象徴しているのは何だろう?
・これからどうなっていくんだろう?
・その服、どこで買ったんだろう?
と、いろんなことが想像できます。

能を少しでも見たことありますか?
同じような造りの舞台で、無表情の面を付けているのに、まったく違う表情、まったく違う場面を演じ分けています。

音楽だって、想像をかきたてます。
「美しき青きドナウ」を聞くと、雄大な川の流れを思い浮びます。(ドナウ川行ったことないけど)

例示された他のものも同様。


逆に、数学の問題などは活字ですが、記述通りに解釈することが求められます。
変な想像が入ってくると困ります。


「非活字ものは想像力喚起に乏しく好ましくない」等とは、「非活字ものからも様々な想像が浮ぶ」ということを「想像できない」人の「想像力に乏しく好ましくない」意見です。

ましては、規制すべきなどとは、まったくの暴言です。
厳密でなければならない分野(科学等)に対する冒涜です。

この回答への補足

>「非活字ものは想像力喚起に乏しく好ましくない」等 とは、「非活字ものからも様々な想像が浮ぶ」ということを「想像できない」人の「想像力に乏しく好まし くない」意見です。

基本的にその手の方は想像力に欠けているからこそ、活字からの想像力に無上の喜びを見出しているのでしょうね。非活字の代表的世界ともいえる三次元空間=リアル社会での充実があればもっと余裕ある発言になるはずですし。

補足日時:2013/07/12 23:47
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
全くその通りですよね。
私達は日常生活で、相手の表情や仕草に発言イントネーションの変化他からも想像力を駆使して生活を営んでいるわけですから。

活字の世界だけで生きているならば別かも知れませんが、活字の世界よりも現実の三次元空間での生活時間の方が圧倒的に長いわけですしね。

お礼日時:2013/07/09 11:37

「活字もの」と「非活字もの」(文字情報とそれ以外の意味だと理解しますが)という分類自体大雑把過ぎて乱暴です。



例えば、「非活字もの」である放送系のメディアでも、テレビドラマとラジオドラマではまったく異なり、ラジオドラマは聴取者が自由にその情景を思い浮かべられる性質があり、「想像力喚起」の大きな力があります。また映画でも、例えば「2001年宇宙の旅」という邦題で公開されたSF映画で、動物の骨を武器として使用し猛獣を倒した霊長類が投げ上げた動物の骨が静止し宇宙船に変身する有名なシーンなどは、具体的な映像の背後に作者が込めた様々なメッセージを想起させるものです。

「活字もの」の同じ小説でも「微に入り細を穿った具体的な描写」のものもあれば、「抽象的象徴的な記述」のものもあって、どれも同様に「想像力を喚起」するものでもないでしょう。

さらに言えば、ある芸術作品が「想像力を喚起させる」かどうかは、その作品の価値というより性質のうちの一つであって、決してすべての評価を決めるものではありません。「非活字ゆえに想像力喚起に乏しく好ましくないもの」と主張するのは、むしろ主張する当人の「想像力の乏しさ」を示しているように思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

やはり非活字というだけで見下すその単純思考は相当に問題ありですね。
しかし、現実には兎角活字関係者は想像力を根拠に自己を過大評価し非活字を事の他見下しています。
もうこれは治らないのかも知れませんね。

お礼日時:2013/07/09 11:53

 こんばんは、夜分に失礼します。

僕もNo.1の方に同感です。
「非活字」であるからといって、それが言語として成り立っていないとの判断は極めて暴論に近いといえます。何となれば、自然科学の領域、たとえば地質学などでは「化石」から「地層の年代やその生物がいた環境など」を推測します。これは法医学分野での「死者からの声を聴く」ことと同じです。歴史学ならば、史料は古文書や書物になりますが、それだけではありません。画像史料として知られる「絵図」や「絵巻物」「屏風絵」などがあることなどは高校生でも知っています。
 絵画資料や画像資料だからこそ、そこから聴くことのできる言葉は広がりを持つとも言えます。見方によってその対象の意図が異なるからでもある。学問領域で「一つの事象に対し一つの理解しか成り立たない」などは学問そのものをも否定する行為であり、もし学問に携わる者がその様な発言をしているのであれば、それは学問の自殺行為にも等しいといえます。「非活字」だから、逆に言葉を補って理解するだけの余地があることになり、ご指摘の論理は表明される以前に論理的破綻を来しています。
 少なくとも「非活字」を言語として見なさないのであれば、それに見合うだけの根拠と言説を理論的に公開の場で説明する必要もあります。恐らくは袋叩きに遭うことも間違いはありません。
 結論として、僕は「その様な言説自体が誤りである」となります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
人間の知の分野は多岐に渡っておりそこにおける研究もまた多岐に渡っていますよね。
寧ろ活字のみを対象とする分野の方が少ないかも知れないくらいかと思えます。

> 少なくとも「非活字」を言語として見なさないので あれば、それに見合うだけの根拠と言説を理論的に公 開の場で説明する必要もあります
非活字を見下す方でその根拠を万人に納得させ得る説明を果たした方を私は知りません。

お礼日時:2013/07/09 11:46

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