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喜びのそして悲しみの涙、生きている限りそれはもう色々とあるのでしょうが、いい年して涙が最も似合わぬはずの私は、恥ずかしながら今でも涙腺が相当に緩い。

或る時は母という文字に敏感に反応して、また或る時は、よせばいいのに「火垂るの墓」を繰り返し見ては、未だ嗚咽を漏らしてしまうレベルです。

思い起こせば、長野オリンピックで見せた原田選手・起死回生の大ジャンプでの貰い泣き、また今WBCで台湾が日本を応援してくれている報道を見てじ~んときて、果ては毎夏恒例の「NHK特番:戦場に若い命を散らした特攻隊員」では、事前にハンカチを握り締めて泣く準備です。

まあ色々とありますが、未だ両親が健在である我が人生最大の悲しみの涙は、幼い頃愛犬の「ぺス」が死んだ時の事、どこぞで貰ってきた雑種でしたが、物心付いた頃より我が家におりましたから、それはもう家族同然。
愛犬を過保護なまでに可愛がる昨今とは違い、当たり前の様に残飯のぶっ掛け飯が彼女の常食でしたが、それはもう嬉しそうに食べていた生前を思い出しては、びーびー泣いておりました。

それから何代目かの愛犬を今も飼ってはおりますが、幼い頃のトラウマが余りにも強烈、依って死んだ時の悲しみを考えると、今一つ感情移入しきれないのもまた正直なところ。

反対に喜び(この辺りの感情は少々複雑でしたが)の涙は、我が愛しい妹が結婚した時の事、本来であれば娘を手放す父親がしんみりと泣くはずの場面で、私の方が先に嗚咽を漏らして辺り憚らず号泣し周囲の注目を集めた為、親父殿はみっともなくて泣けなくなったと、今でもこぼしております。

前置きが長くなりましたが、さて皆様は、どんな種類の涙を流した経験がお有りでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

5歳の時に母と妹(3歳)が爆撃で死んだとき母は黒焦げになっていましたが.



妹は母が抱くようしていましたので寝ている様でした。

父は戦場に行っていて一人で母と妹とを荼毘にしてもらい遺骨を首からぶら下げていました。

毎日泣いていました。

父も戦死しましたが涙は出ませんでした。覚悟はしていました6歳なりに。

戦災孤児になり生きて行く事にどうしたらよいか泣いていられませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>5歳の時に母と妹(3歳)が爆撃で死んだとき母は黒焦げになっていましたが.
>妹は母が抱くようしていましたので寝ている様でした。

すみません、お礼の言葉が見つからないほどに、絶句しております。
もう目がウルウルしてきましたが、何と申して良いやら・・。

>父は戦場に行っていて一人で母と妹とを荼毘にしてもらい遺骨を首からぶら下げていました。
>毎日泣いていました。
>父も戦死しましたが涙は出ませんでした。覚悟はしていました6歳なりに。

No.5の回答者様にも申し上げたのですが、陳腐な慰めは却って失礼に当たるようです。
それにしましても、何と過酷な運命と現実、それはもう当の貴方様にしか分からないのでしょうが・・。

>戦災孤児になり生きて行く事にどうしたらよいか泣いていられませんでした。

これも戦後日本が抱えた厳しい現実であったのでしょう、何はともあれ若輩者の私なんぞがどうこう言う事ではないようです。
その後の回答者様の人生が、それなりにお幸せであられたとするならば、私としましても嬉しいのですが・・。

お礼日時:2013/12/22 09:15

isoken さん。

はじめまして。40代おっさんです。愚答ですがよろしくお願いします m(__)m

>貴方が涙した(する)時

私は人前で泣いたことが殆ど無い(はず)です。でも一応冷たい人間でも涙は出るみたいです。陰でひっそり泣くこともありました。

その中で…涙していることにすら気が付かなかったことがあります。

お題と違うかもしれませんが…みっともない話です。

当時わたしは20代半ばで結婚して子供も生まれた時期。仕事も大型案件のPMを初めて任されてました。その中である日電話があり、亡母の入院を知りました。

医師との面談を亡父に言われ帰省(新幹線で数時間の距離)。淡々と言われたのが、スキルス性胃がん、ステージIV、末期、多臓器転移でもう手が付けられない、余命4ヶ月もつか…。

亡父と悩み相談の上、亡母には余命の話はしませんでした。当人生きる意志がはっきりしてましたし。

その中である時亡母を見舞いました。仕事のついでで寄ったと…(実は年休でしたが)

私が来るとの事で、亡母は付き添いの叔母(彼女は元々、その県で最大の病院の看護婦長をしていたスペシャリスト)に頼んで、私の好物の料理でお弁当を作ってくれてました。

何も食べれない亡母(その時点で流動食)を前にですが、食べての声で有難く頂きました。美味しかった…半分ぐらい食べたころふと亡母が
母『美味しい?』
私『うん。好きだねこれ…』
母『ゴメンね、作ってあげられなくて…』
私『・・・・・』

その後、また元気になったら作ってねとか何言ったか殆ど覚えてません。平常心?かつ味もわからず食べ終わり、普通に談笑して帰りました。

実家に戻り暫くして、亡父と叔母が来ました。そこで叔母に言われたのが

『お母さん、貴方見て、こんな事で涙こぼして…と言ったよ…』

私は泣いたりも涙こぼしたもなかったと思い、はぁ~?イヤ違うよ勘違いだし何も無い!と言いました。
しかし、叔母も亡母も弁当食べながら、あの言葉の瞬間ぽつりと涙をこぼしたのを見ていたそうです。特に亡母はそういう所特に良く観ていました。頬を伝わらなかった。何もわからなかった。一生の不覚…。

俺…よりによって母の前で涙こぼしたんだ…orz

間もなく母が亡くなりその数年後亡父もガンで、叔母も追うように亡くなりました。私も気が付けば三十路…他にも親戚はいますが祖父母も近親もみな他界しているし兄弟のいない私は遂に一人きり…。

年末、あと数日で亡父の命日が来ます。クリスマス・正月ですが、家人とは別に暗い影が常に付きまといます。亡父の時は私が喪主ですし、泣きたくても泣けない…。ビジホで遂に耐えきれず悲鳴のように泣いて隣の部屋から通報されたのも遠い昔…。

今じゃ涙も枯れたかな…所詮枯れたおっさんですけどね…(苦笑)

私的な長文の愚答…失礼しました m(__)m
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この回答へのお礼

uniwanko さん、はじめまして、回答ありがとうございます。

>私が来るとの事で、亡母は付き添いの叔母(彼女は元々、その県で最大の病院の看護婦長をしていたスペシャリスト)に頼んで、私の好物の料理でお弁当を作ってくれてました。

亡きお母様の貴方への愛情、他人の私の胸にすら、沁みてしまいます。

>叔母も亡母も弁当食べながら、あの言葉の瞬間ぽつりと涙をこぼしたのを見ていたそうです。特に亡母はそういう所特に良く観ていました。頬を伝わらなかった。何もわからなかった。一生の不覚…。

余りにも悲しみが大きいと、自分の挙動すら分からなくなってしまう、そういう事なのかも知れませんね。

>今じゃ涙も枯れたかな…所詮枯れたおっさんですけどね…(苦笑)

誰しもが、いつかは通らねばならない悲しい道を、他人より一歩早く辿られた、恐らくそういう事なのでしょうが、分かってはいても決して理性で割り切れるものではないでしょう。
しかしながら奥様とお子様がおられる由、幸せも手に入れられたようで、何よりです。

>私的な長文の愚答…失礼しました m(__)m

とんでもありません、御両親の他界という、恐らく生涯の痛恨事を語って頂きました事、慙愧に耐えません。

お礼日時:2013/12/23 01:30

心優しい人間に許された時です。


許す心って何て美しいのだろうと実感させられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>心優しい人間に許された時です。
>許す心って何て美しいのだろうと実感させられます。

この世の中は誠に広い、人の失敗を糾弾し・揚げ足を取る方がおられる一方に於いて、神仏の様な慈愛に満ちた人物もおられるようです。
若者の未熟さからくる過ちに寛大な大人は、昔はよくおられたが、これもそれも時代という事なのでしょう。

お礼日時:2013/12/23 00:50

こんばんは。


 
仕事納めならぬ質問と回答納めのつもりでしたが、
お邪魔させていただきます。

私など涙腺が切れているのかな?
そう思うことがあります・・・
>どんな種類の涙?
そうですねぇ、私も母親を思い出すと泣けて・・・
もう、随分前に亡くなりました。
年に不足のある年齢でもありませんでしたが、
朝、声をかけたら眠るように逝っておりました。

長患いをして家族に苦労をかけるでもなく、
まことに見事な人生の幕引きでした。
予感でもあったのでしょうか?
遺書を書くような人でもありませんでしたが、
べッドの下に遺書が残されておりましてね・・・・
最後に「長いあいだどうもありがとう・・・」
そう結んでありました。

充分な親孝行も出来なかッた不肖の息子でしたが、
嬉しいことでもあったのでしょうか?

ですからNO7の方の回答を拝見させていただいで、
お母さん、どんな気持ちで言われたのかな?
NO7の方はどんな気持ちだったろう?
思うと・・・もう駄目で涙がこみあげます・・・。
isokenさんは、御両親が健在でいらっしゃる?
「親孝行したいときに親はなし、さりとて石にふとんも着せられず」
この言葉もあります。
どうぞ、親孝行してさしあげてくださいな。

長くなりましたので、最後に・・・
先日、TVを眺めていまして、伊達家を出奔した成実、
小十郎の帰参の説得にも耳をかしません、
上杉との戦いで伊達軍は窮地におちいります・・・
遠くから単騎、武将が敵陣にわけいり孤軍奮闘!獅子奮迅!
それを見て政宗が「おお!!あれはまさしく成実!」
これにまた泣けます・・・
最近は殆ど、のべつまくなし涙ぐんでいるようです。

先日、ご挨拶は済んでおりますので省略を。
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この回答へのお礼

こんにちは、回答ありがとうございます。

>そうですねぇ、私も母親を思い出すと泣けて・・・
>もう、随分前に亡くなりました。

「母の愛」、個人的には私の琴線に最も触れるワードでしょうか。
言うも愚かですが、親・特に母親とは誠にありがたいものでして、turukamejirou さんの様に人格的に立派な方のみならず、私の如きぼんくら・馬鹿息子にですら、過分な愛情を注いでくれる、それはもう得難い存在です。

>ですからNO7の方の回答を拝見させていただいで、
>お母さん、どんな気持ちで言われたのかな?
>NO7の方はどんな気持ちだったろう?
>思うと・・・もう駄目で涙がこみあげます・・・。

事情はよく分かりませんが、親だからこそ・そしてお腹を痛めた子供にだからこそ注げる無償の愛、NO7の回答者様も、そんなお母様の胸中に改めて触れられたという事なのでしょうか?

>isokenさんは、御両親が健在でいらっしゃる?
>「親孝行したいときに親はなし、さりとて石にふとんも着せられず」
>この言葉もあります。
>どうぞ、親孝行してさしあげてくださいな。

幸い私・家内共に両親が未だ健在ではありますが、逆に申しますとそう遠くない将来、悲しい別れを恐らく立て続けに経験せねばならない訳で、親不孝と心配を掛け続けた我が身を振り返り、せめて生前中に万分の一でも恩返しをと、心して仕えております。

>先日、TVを眺めていまして、伊達家を出奔した成実、
>小十郎の帰参の説得にも耳をかしません、

この人の出奔に関しては謎だらけで諸説あるようですが、何しろ正宗に尽くし抜いた武将ですから、どれもこれも少々説得力に欠ける、上杉景勝・徳川家康からの誘いも袖にしているようですし・・。

尚先に「誰の為なら死ねるか?(戦国乱世編)」で質問させて頂いた際に触れた、真田幸村がその娘を伊達政宗に託すくだり、私としましては何度読み返しましても泣けてきます。
敵味方とは言え、互いに認め合った男と男の交情、同性にとってこれほど涙腺を緩ませるものでしょうか。

さて最後になりますが、こちらからの御挨拶がまだでしたので、手短に・・。

私は年内一杯、こちらで遊ばせて頂き、元旦早々から、家内と共にマカオ旅行に出掛ける予定です。
当地には、恐らく過去数回程度は参っているはずですが、恥ずかしながら例に依って博打三昧でして、投宿したホテルとカジノ以外、世界遺産はおろか何処にも行った事が無い。
今回はかみさん孝行のつもりで、楽しんで来たいと思います。

今年一年色々とお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
是非とも良いお年をお迎え下さい。

お礼日時:2013/12/23 00:42

うーん、昔無くて、今あるのが「苦し泣き」ですな。



いわゆる「エズキ」っていうやつですか?…咳が止まんないのね。
泣ける泣ける…苦しくて(汗)。
…齢だなぁ。

まあ「泣きの人生」でしたから、よくまあ泣いてきました。
いじめられて泣き、寂しい気持ちになってポロリと泣き…辛くて泣いた時も数多くあるし。
ペットの死で泣いた時もあります。
情けなくってね、不甲斐ない、いい加減な飼い主だったからね。

…でも「泣けない人生」って、寂しいよ。
これは50近くになってわかったことだけど、やはり泣ける人生のほうが「救われる」気がする。
泣けないのは辛いもんだね。

だから、泣けるうちに泣いといたほうがいいよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>いわゆる「エズキ」っていうやつですか?…咳が止まんないのね。
>泣ける泣ける…苦しくて(汗)。
>…齢だなぁ。

所謂「えづき」って、それ相応の年齢に達した大人特有の症状らしいですね、幸い私はまだ経験がありませんが・・。

>…でも「泣けない人生」って、寂しいよ。
>これは50近くになってわかったことだけど、やはり泣ける人生のほうが「救われる」気がする。
>泣けないのは辛いもんだね。

それはね、私もその通りだと思います。
喜びの涙はともかく、悲しみの涙には、記憶を風化へと導き・悲しみを沈静化させる作用もあるそうですから・・。

>だから、泣けるうちに泣いといたほうがいいよ。

そうさせて頂きます。

お礼日時:2013/12/22 23:44

こんばんは。


お久しぶりです、いつも回答下さりありがとうございます。

実話なのでこの内容を見た時にはずっと泣いてました。
繰り返し今までに何度も見ていますが、毎回涙が出ます。
http://kokorodo.net/e1538
京都母子

温情判決
http://www.youtube.com/watch?v=PkhPuEvZi6c

今単身のため、こういう曲を聴くとつい涙が溢れます。
子供がメールや電話もくれますが、時々子供が涙流しながら「いつ帰ってこれるの ?」
この言葉を受話器越しに聞くたびに涙が出ます。

帰りたくなったよ - いきものがかり
https://www.youtube.com/watch?v=o5NMrTxiPfM
新沼謙治 ふるさとは今もかわらず
https://www.youtube.com/watch?v=sip7U0gbbSc
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この回答へのお礼

Stayin-Alive さん、こんにちは、お久し振りです。
今回は回答を賜りまして、誠にありがとうございます。

添付の記事、拝見しました。
切ない話ですねぇ、言葉を詰まらせた裁判官、並びにまばたきしていた刑務官共に、理性を総動員して涙を堪えていたのでしょう。
仮に私が法廷で傍聴していたとするならば、必ずや号泣したと思います。

>「本件で裁かれるのは被告人だけではなく、介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。 こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを 行政の関係者は考え直す余地がある。」

裁判官の最後の言葉は、事件の本質を言い当てているものと思われます。
それにしましても、事件へ至った経緯と下された判決、その双方に涙する要素が存在する、元被告の方は、恐らく執行猶予期間をつつがなく過ごし、今は晴れて自由の身なのでしょうが、是非ともお母さんの分まで、幸せになって欲しいものです。

お礼日時:2013/12/22 23:34

鬱でどうしようもない感覚に襲われて、「このまま死んでしまうのではないか」時に感情とは無関係な涙が出てきます

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>鬱でどうしようもない感覚に襲われて、「このまま死んでしまうのではないか」時に感情とは無関係な涙が出てきます

寂寥たる心の病、それはもうその当事者にしか理解出来ない、究極に追い詰められた状況なのでしょう。
個人的にその種の経験は皆無ですが・・。

お礼日時:2013/12/22 09:19

こんにちは。



数年前、母親が大病して何ヶ月か入院しました。
やっと退院ということになり、
病院に迎えに行って、実家に戻り、
あれこれ話していたとき、
ふいに母が
「もうあんたが家に帰って来ても何もしてやれない・・」と。
それまで私が実家に帰ると
母はあれこれ料理を作ってくれていました。
私は母の前で泣いてはいけないと、
座っていた母のベッドにうつぶせになって
涙を隠して普通をよそおっていました。

親というものはありがたいものですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>ふいに母が「もうあんたが家に帰って来ても何もしてやれない・・」と。

お母様のお加減は、まだ宜しくないのでしょうか?
御心配ですが、親とは居てくれるだけで嬉しいものです。

>私は母の前で泣いてはいけないと、
>座っていた母のベッドにうつぶせになって
>涙を隠して普通をよそおっていました。

「親の心子知らず」私などはその典型ですが、恐らくそんな歴史が延々と繰り返されてきた、そして未来永劫受け継がれて行くのでしょう。

>親というものはありがたいものですね。

本当にそう思います、若い頃は当たり前の様に思っていた親の存在ですが、年齢と共にそのありがたさが身に沁みて来るようです。

お礼日時:2013/12/22 09:02

isoken様はうちの旦那さんに負けず劣らずの涙もろさですね(^-^)


うちの旦那さんは、映画やスポーツでもよく泣くし、私達の結婚披露宴でも恥ずかしいくらい号泣して、花嫁の私はケロッとしていたから、何だか立場が逆で気まずかったです(^_^;)
それに旦那さんが実家で飼っていた犬が死んだ時は、あれほど悲しみに打ちひしがれて泣く彼の姿を見たのは初めてで、それを見て、私は何があってもこの人を守りたい、と思いました。両親の不仲、離婚、ヤンキーでコワイ2人の妹しかいない家庭内で、犬だけが彼の心の友で彼を支え続けていましたから。可愛いお嫁さんをもらったつもりが、妹よりはるかにコワイ鬼嫁だったというオチですが(^_^;)
私は時間差、それも数カ月遅れて涙が出る傾向があります。5年間住んでいたオーストラリアから帰国する時、家族も見送りに来た友達も泣いていたのに、私は一人でケロッとしていて、母に冷たい子ね、と言われましたが、帰国して数カ月たったある日、ふとオーストラリアで友人と一緒によく聴いたり歌っていた曲を聴いていた時、あの日々は、永遠に失ったんだ。。二度とオーストラリアでの生活は戻る事はないんだ。。と改めて身にしみて実感した時、私の中の何かが壊れて、近所中に響き渡るくらいの大声で泣きわめき始めました。家族が一体何事?と驚いて二階の私の部屋にやって来たくらい。人間の心って不思議ですよね。年月がたって初めて本当にわかって感じる事ってありますよね。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>isoken様はうちの旦那さんに負けず劣らずの涙もろさですね(^-^)

いい御主人を持たれたようで、何よりです。
そういう方を選ばれた、haiji さんの選球眼も中々どうして立派なものでしょう。
私の場合は単なる泣きたがり屋でして、涙の純度には我ながら疑問を持っておりますが・・。

>可愛いお嫁さんをもらったつもりが、妹よりはるかにコワイ鬼嫁だったというオチですが(^_^;)

まあ御謙遜なのでしょうが、愛情を持った鬼嫁も悪くない気はしますよ。

>人間の心って不思議ですよね。年月がたって初めて本当にわかって感じる事ってありますよね。。

杓子定規では計れない人情の機微、それがあるから人間なのでしょう、更には悲喜交々だから人生は面白い、そういったところでしょうね。

お礼日時:2013/12/22 08:50

3才の頃、母が妹のお産の時に妹と一緒に亡くなりましたが


死んだことが分からず一晩一緒に母と寝ました。
そして、次に日になり、やがて近所の人や親戚が大勢集まって来て
母が何となくもう二度と起きて来ないことが分かり
階段の所で火がついたように泣きました。

後、23才の時に、4つ上の兄が仕事がキツいせいか荒れていましたが
体調が悪いので医者に行ったら、末期ガンであることが分かりました。
それを聞いた時、あまり仲が良く無かった兄でしたが
まるで、腹を思い切り殴られたような痛みを感じ
畳の上をのたうち回り嗚咽しました。

そして、割に最近、嫁さんの親友が乳ガンに罹りましたが
手術が成功し、しばらくしてから、私が働くレストランに食べに来てくれました。
私も親しくしていましたので、嬉しくて、バックヤードで少し泣きました。

最後に、これも嬉し泣きですが
タチの悪いバイトを辞めさせたせいで
1日15時間、半年休み無しの状態だった時
昼過ぎに上がったパートさんが、夕方に制服を着て来たので
私がキョトンとしていると
「○○さん、今日は誕生日でしょう?私が替わりますから上がってください」と
言ってくれました。
しかも、手には私が大好きな店のケーキを持っていました。
私は、そのケーキを持ち、泣きながら帰りました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>3才の頃、母が妹のお産の時に妹と一緒に亡くなりましたが
>死んだことが分からず一晩一緒に母と寝ました。

これはもう陳腐な慰めを申し上げる言葉が無い、世にこれほどの悲しみと残酷な現実があるものなのか・・。

>それを聞いた時、あまり仲が良く無かった兄でしたが
>まるで、腹を思い切り殴られたような痛みを感じ
>畳の上をのたうち回り嗚咽しました。

「兄弟は他人の始まり」、この諺が身に染みる昨今ですが、その生死となるとやはり別なのでしょうね。

>「○○さん、今日は誕生日でしょう?私が替わりますから上がってください」と
>言ってくれました。
>しかも、手には私が大好きな店のケーキを持っていました。
>私は、そのケーキを持ち、泣きながら帰りました。

いい話です、人情紙風船と形容される昨今の世相ではありますが、今尚あるところには人情が残っている。
きっとalterd さんの御人徳なのでしょうね。

お礼日時:2013/12/22 08:37

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