
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
私はカントの認識論はちっとも「形式主義」だとは思わないけど、道徳論は「形式主義」だと思っています。
カントの道徳律の基本の「定言命法」というのは、周囲の状況を一切顧慮することなく、ただ己の「良心」と義務感に基づいて、善いことは善い、文句なく無条件にという意味ですから、たいてい道徳と言ったら周囲の状況によって、こうしたら妥当するか妥当しないかを考慮して決めるべきもので、カントはそれを一切無視するわけですから、「形式主義」です。
例えば戦争をしているときに、殺すことは悪いといって敵兵を殺すのをためらっていたら、自分が殺されてしまいますから、道徳や倫理も状況次第です。
だけど、カントはドイツ・プロテスタントの中でももっとも純粋で、人間の内面性を称揚する宗派である「ドイツ敬虔派」の母親に育てられたから、そんな条件付きの道徳である「仮言命法」を嫌っていたんです。
人間の道徳的行為は人間の内面の「良心」に基づき、人間の純粋な自発性によらなければならない、何が正しく、何が正しくないかは内面の「良心」の声に耳を傾けて決定すべきものと考えていたんです。
カントは「道徳形而上学の基礎付け」で以下のように言っています。
「あなたの行為の原則が、普遍的な法則になることを、その原則を通じてあなたが同時に意志することができるような、そうした原則に基づいてのみ行為せよ」
つまり、自己の利益とか、自己の「快」のためとか、また他人をそうした利益のための手段として考えるのではなく、他人を目的として、つまり目的を共有する同胞・仲間として考え、行為せよ、という意味。
「あなたの行為の原則」というのは自己の個人的な行為の方針のことで「格率」といわれるもの、その個人の主観的な行為の原則である「格率」を、普遍的な行為の原則に一致するように調整して行為せよ、ということ。
カントは人間の内なる霊的な「叡智的世界」があることを信じていましたので、人間の道徳的行為はその「叡智的世界」に基づくものと固く信じていたのです。
かれは「実践理性批判」でいいます。
「私の頭上の広大な宇宙と私の内なる崇高な道徳律」と。
カントは広大な宇宙よりも、人間の道徳律の方が、はるかに崇高なものと考えていたのです。
いかにも、ドイツ敬虔派の熱心な信徒がいいそうなことです。
カントには何事も道徳的に考えずにはいられない「道徳的リゴリズム」がありました。
それがカントの道徳が「形式主義」といわれるゆえんです。
No.2
- 回答日時:
形式主義という言葉は理解できているとして話しを進めます。
カントは道徳法則の普遍妥当性を、人間の内部にあるものとしているので
それがカントとしての公理となります。
公理としての定義は、つまりは形式主義ということです。
シェーラーの実質的価値としてでしたら、その価値は外部にあるとされるでしょうから
カントとは背反してますね。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
-
権利を主張するには義務を果た...
-
日本の古代思想?「清明心(き...
-
《君主道徳(貴族道徳)と奴隷道...
-
教えてください。よろしくお願...
-
ね~物を盗んで何故いけないの?
-
「ロマン主義」の説明で『封建...
-
倫理観とは何か。
-
価値の哲学
-
世の中にはカスみたいな人間が...
-
ニーチェ『道徳の系譜』、やま...
-
倫理
-
男が憎いくせに寂しいです。 過...
-
「自己」の反対語ってあります...
-
太っている人をみると不快感を...
-
会ってる時は大好きで、離れて...
-
デブな方を見ると不快に思って...
-
「あらかじめ」、「事前に」、...
-
外国のことわざ
-
「かかわりませず」と「かかわ...
-
女性は別れ際に男性に握手する...
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報