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私は専門知識を大人に教える仕事をしています。
(学校ではありません。)


学校教育はこれからどのように変わっていくのでしょうか?


知識詰め込み教育からゆとり教育になって、
ゆとり教育が失敗だったから、ゆとりはやめたという感じなのでしょうか?


インターネットが全普及した今、知識詰め込み教育に戻したところで、良い方向へ向かうとは思えません。
ゆとり教育の「知識詰め込み部分を少なくして、ほかの事に時間を使う」っていうのは間違っていない気がします。
~20年前とは違い、グーグル先生・ヤフー先生に聞けば大体の知識は手に入ります。


知識を詰め込む部分ではなくて、基本知識を実践(応用)するところを教えていくのが良いのではないかと思っています。
例えば、お小遣い帳をつけるとか、
     校内バーチャルビジネスをやるとか
     地域の○○問題改善に取り組むとか
     書籍を買わずにPCで無料ダウンロードで済ませる実習とか
     学校で習った言葉を実際の仕事で使っている文章に照らし合わせて分析するとか
実践系授業を増やすのが良いのではないかと思っています。
今はそういう系統の授業があることは知っていますが、
知識詰め込みを少なくしてもっともっと実践する時間を増やしていけば良いのではないかと思っています。
(ちなみに、先生方1人1人の事柄について書いているわけではありません。
 現在でも色々な先生が居て、先生によっては実践的なことばかり行う人も居るかもしれません。)


小中高校生はやはり知識つめこみが大切なのでしょうか?


教員免許や教師になる人も(一部分)変えていかなければ実現は出来ないと思いますが。
この先日本の教育はどうなっていくのでしょうか?
知識詰め込み型に戻していくのが良いのでしょうか?

A 回答 (3件)

一つの概念を他の教科と結びつけて


その成り立ちをしっかり教えるべきだと思います。
例えば、微分の概念を物理の自由落下に関連した
速度と加速度の式等で説明するとか。

後は、仰る通り、灘中学の伝説の国語教師であった橋本 武さんのように
小説の中に、かるたが出て来れば、みんなでかるたをやってみたり
駄菓子屋が出て来れば、駄菓子屋に行ってみるとかの
実践系授業であれば、理解も随分深まるかと思います。

問題は、受験重視の親や子供がついて来れるのか
はたまた、それだけの力を持った教師を育てられるのかでしょうね。
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この回答へのお礼

>一つの概念を他の教科と結びつけて
これはとても重要ですね。
何か新たなことを学ぶときに、とてもたくさんのことを身に着けないといけないように感じますが、基本は他の何かと同じと言うことが多々ありますからね。


>問題は、受験重視の親や子供がついて来れるのか
>はたまた、それだけの力を持った教師を育てられるのかでしょうね。


確かに大きな問題ではあると思いますが、徐々にでもそういう方向へ向かっていって欲しいと思います。
まずは、文科省の役人とか政治家がその方向が良いということに気づいて、教師や親や普通の人々にそれを伝えて、理解を得たところで徐々に方向転換していくと言う形になってくれればなぁと思っています。

ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/06 20:37

 これまでの「知識詰め込み型教育」もヤフー先生やグーグル先生も同じですね、たんに知識を得るとの点では。


けれども僕自身がこれからの教育に期待したいこととして、「論理構築能力のある人間」を育てて欲しいとの部分です。
 その一つの形は既に以前から小学校課程でも教科目に採り入れられてもいました。算数での「検算の発想」です。国語ならば「理由を述べなさい」との設問があったなら、文末を必ず「ので・から・ため」で止めることといった基本的な形です。
 これを少し膨らませる形が、自らが問題を立て、それに対する証拠と論証過程を踏まえて、自らで結論を導き出すとの一連のプロセスを無理なくこなすことのできる児童生徒を育てることにつながりもします。
 そのためならば、同じテーマで議論を繰り返すことも大切で、この項目が終わったから次に行きますとの単元設定を優先することには意味がないともいえます。
 更にいけないことは「実践的なものを教える」との発想であって、何が実践的であるか、そして他は役に立たないのかといった不毛な論議を招くことにもなりかねません。
 実践系といっても、その具体的な内容が問題となり、たとえば高校課程で扱う社会科には日本史もあれば世界史や地理や政経・倫理社会もあり、世界史と政経そして倫社は密接な関係にもあります。けれども、実践的ではない、役に立たないといった理由でこれら何れかの科目一つを除外しても、トータルな意味での豊かな社会認識を育成するとの目標からすれば、これはおかしな話にもなってしまいます。
 俺はパソコンのことを良く知っているから他のことなど関係ないよ、で通用するでしょうか。或いは株取引に詳しければ他のことなどどうでもいいといった歪な形を生んでしまう危険性も多分にあります。
 こうしたことを書きますと、必ず反論も寄せられるはずで、それも「株の取引をするには国際情勢などに注意を払っておくのは当然、そんなことも知らないの!」との揚げ足取りの類です。
 実際には株価が一円上がったの下がったので一喜一憂するのが彼等にとっては全てであり、むしろ日常的に株取引のできるだけの状況が「何によってもたらされているのか」との根本的な問題は避けて通りがちです。そうした自分の都合だけに目が向く様な教育のあり方を回避するならば、やはり「論理的にものを考えることのできる人間」を育成することが何よりも肝要であると存じます。
 教育は国家百年の大計であって、近視眼的に結果を求めようとするならば、それは教育自体を殺すことにもなりかねませんから。
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この回答へのお礼

TANUHACHI様と概ね同じ意見です。
少しだけ誤解させてしまいました。
インターネット検索(ヤフー先生、グーグル先生)やPC技術を極めるのが良いと言いたかったわけではありません。
いまや(これからも)当たり前に存在するものという認識です。
ですので、それらをとことん極めることにはあまり意味がないと思います。


例えば、電卓の操作方法を知らなければ困りますが、エキスパートになる必要はないのと同じです。電卓は誰でも使えます。


ですのでTANUHACHI様がおっしゃる様に、論理的に考えられる人の育成が望ましいと思います。私が実践型といったのは、調べれば出てくるような紙面上の知識記憶のみに終始するのではなくて、基本知識を現実の行動に応用できるような力を養うべきかなと思いました。
実践型と言っても、○○を実践する方法という知識をひたすら覚えることに終始するのであればあまり意味がないと思います。
自動車学校で言うなら、始めは教習所の中で決まったコース、決まった場所で練習し、次に一般公道で練習し、さらに免許を取得した後に1年2年と自動車を運転し続けることによって、状況に合わせた臨機応変な運転が出来るようになります。
自動車の知識を記憶することに終始していたら、なかなか上手な運転が出来るようにはなりません。
自動車を運転して、ヒヤリハットな場面に出くわしたり、色々な状況に出くわしたりして論理的に考えて運転が上手になってきたはずです。(それらの行動の一部分としてネット検索を利用することもあるかもしれません。)

わかりやすくするために、自動車を例に出しましたが、TANUHACHI様の意見には賛成です。


ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/07 08:34

  日本と海外で大学より前の教育を受けた経験がある身として思うことを述べます。



 第一に、戦後の日本で今の地位を築いた功績の多くは、「真面目に」「地道でもコツコツと」「一生懸命」与えられた課題に対して努力する精神があったからなのは間違いとおもいます。そして、その根底にあったのが、所謂受験勉強だったり学校教育におけるトップダウン的な指導による、所謂「強制」によってなされていたことが、ともすればだらけたり乱れがちな幼少期の生活スタイルや「頑張る」ということに対する耐性をつけたのに違いないと思います。そう言う意味では、詰め込み式とか、受験勉強というのは単に基礎知識を詰め込むという意味だけではなくて、そういう「地道な努力を続けて成功を掴む」というものの根底としては正しいと思います。実際、昨今の中途半端なAO入試とか推薦入試による結果は、総合的に判断すれば多分失敗だったという場合が多いのが感想というよりも客観的な事実なのは間違いないと思います。

 一方で、詰め込み式の所謂「受験勉強」に特化した教育をしている国って、実は中国と韓国ぐらいなもんです。世の中の先進国の多くは、統一試験はあるにせよ、大学入学や会社のジョブオファーに関してもその人の様々な実績や性格、そしてなによりも根底にある「考え方」とか「その人なりの強み」というものに評価を見出す場合が多いです。アメリカなんかはそもそも細かい知識とか公式ってのは教科書見てわかれば良くて、むしろなにかある課題を提示されたときにどのように考えるのか、意見を述べるのか?ということに重点が置かれています。その点、日本のAO入試とか推薦入試ってのは、なんだかんだいって「英検」だの「生徒会」だの「ボランティア」だの要するに形だけの「優等生」を評価しているだけであって、実際その人の人格とか考え方とかを本気で評価しようとする動きはあまりないんですよね。そもそもそれって評価できんのか?とさえ批判されます。

 ただ、大学という高度な教育機関を出たものに期待される能力ってのは本来であればそもそも「答えのない問題」なんです。世の中や世界の不幸や問題をどうやって解決するか、という社会学的な問題もしかり、企業の経営をどのように考えるかだって、正解なんて存在しません。ただ、そういうものを本気で考えようとすると当然知識や経験が必要になるんですが、日本の高校生でボランティア活動を通じて自分の考え方やものごとに対する考察を深めたという話こそ胡散臭いです。当然それは、昨今の就職活動も然りで、なにも考えずにただ周りと同じようにあるタイミングが来たら説明会にいって、大手企業から片っ端から受けて、あとはその企業で定年まで働くという世の中であれば、結局なにも考えなくても生きていけてしまうのだろうなあと思ってしまいます。

 質問内容とややずれたかもしれませんが、要するに、日本や中国や韓国の受験勉強から就職してキャリアをあげるというスタイルは世界のスタンダートからすると「異常」なんです。当然そんな限られた世界でしか通用しないスタンダードで生きてきた人間は、いざなにもない自分だけの世界で活躍しろと言われてもなにもできないんです。今まではごく一部の行動力のある人間や根性でなんとか出来る人間のみがそういう世界に勇気をもって入り込んでいったわけですが、今後はより多くの人間が世界でリーダシップを発揮すべきというのが少なくとも今の日本の世界での地位でもあるわけです。教育だってたとえばある事柄についてリサーチするにせよ、インターネットで高校生がなにかについて調べるにせよ、日本語で調べている時点で、それは世界の95%ぐらいの情報を捨てているわけです。ボランティアするとかいっても、所詮ゴミ拾いとかその程度で満足していては、それは視野や行動力がなさすぎるのです。もっとアグレッシブに動いて、考えて、そして自分の至らなさを感じる経験をするべきで、その上で初めて学校教育の知識がなぜ大切なのかがみえてくるとも言えるんですね。要するに、意味不明に知識を詰め込むのではなくて、自分の考えを深めるために必要なこととして捉えるべきということです。逆に言うと、世界のスタンダードはそこなわけですから、どんなに教育制度が失敗していようが、「落ちこぼれ」と「優秀」の差が出ようが先進国の教育制度は将来的にはそのような方向にいくのは避けられないんじゃないかと思います。

 その上で、どういう教育がいいのかなんて実はわかりません。受験勉強でコレをやっとけば100%合格できるとか一方的に教えるなら結局今の受身の教育と形が変わっただけで本質的にはなにも変わっていません。少なくとも教師や親が勝手に考えてたところで意味ないわけで、そういうのを、子供自らが模索して将来の不安を抱えながらも自分の進むべきを探していくのが人生なわけでる。ある意味教育とはそういうきっかけをあたり、乗り越えるサポートをするそのためのシステムでしょう。
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この回答へのお礼

>世界のスタンダートからすると「異常」なんです。
身近に外国人の知り合いがほとんどいないため、確認が取れませんが、世界のスタンダードから外れているのかどうかというのは重要なところですね。


もし外れてるというのが真実だとしたら、スタンダードを踏まえたうえであえて外しているのか、スタンダードを知らないなのか、ただ単に思慮が浅いとか視野が狭いとか言うことなのかによっても変わってくるかと思います。


どういう教育が良いか、悪いかは答えはないと思いますし、アメリカが手本であるとも思いません。が、細かい知識よりも問題解決力みたいなところを重視する教育の方が好ましいと思っています。
昭和の高度経済成長期はロボット化・コンピュータ化が今ほど進んでいなかったため、その方が良かったのかも知れませんが、現在~未来はロボット・コンピュータ化が進むため、問題決力の部分の比率が高くなっていくかもしれないですね。


>「真面目に」「地道でもコツコツと」「一生懸命」
実践重視の教育をしたときにはこういう部分は弱くなるかもしれませんね。多少弱くなるのは仕方ないと思いますが、強い向上心を育てるという部分があれば良いと思います。
強い向上心とか野心みたいなものがないまま、ゆとり教育みたいな形になると、「暇だやることがない。ダラダラ、グダグダしよーぜ」ってなってしまうのかもしれません。


こういう話を掘り下げていると、心理学(や哲学)の話もかかわってきそうですね。


ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/09 12:21

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