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「質問」ではないかもしれませんが、何でもいいので意見下さい。

大学生ですが、最近生きる事の無意味さが頭から離れません。最近何か辛い事があったとかきっかけがあるわけではなく、小学生の頃からただ漠然と「何のために生きるのか」ずっと考えてきました。

(1)生きる目的は種の保存のためと言う人がいますが、では生命は何のために種を保存し子孫繁栄するのか。地球上である種がずっと続いて、それでどうなるのか?だから何なのか?

(2)個体に限った話でも、異常を知らせる「苦痛」というシステム、肉体維持のための食欲と睡眠欲、死への恐怖がある。でもなぜそんな機能を持ってまで個体を維持しないといけないのか?

(3)人はなぜ子供を作るのか?一度産まれてきた子供が可愛いのは分かりますが、まだ存在していない子供を可愛いとは思えないはずなのに。子供は生きる事を望んで産まれてくるわけではないのになぜ子供に「生きろ」と言えるのか?

(3)に関しては自分の両親には聞けません。両親が傷付くというのは何となく分かりますし、両親が僕を産まなかったとしてもまた別のどこかの誰かとして「自分」という意識が生じていた可能性があるからです。

生きる事の無意味さに気付いてからは自殺も考えました。でも死ぬ瞬間の苦痛に対する恐怖という機能には結局逆らえず(自分の意識が消滅する恐怖は僕には全くありません)、確実に死ねるとも限らないので、早く死にたいなと思いつつ生きています。それからは「死ねないから仕方なく生きるのだ」と考えました。生命賛歌の考え方も、肯定するしかないから肯定するだけじゃないかと思ってしまいます。

(4)幸福になるため→僕は特に生きてまで幸福になりたいと思いません。というより幸福になる必要性を感じません。幸福を感じる事もありますが、個人的にそれが生きる事の無意味さを上回る事がありません。趣味もいくつかありますが、暇潰しとしか思えずそのために生きるとまではいきません。

(5)恵まれすぎてるからそう考えるんだ→仮に不幸な環境になったとしても、それはそれで不幸だけを見て生きる事の無意味さから目を背けられるというだけで、解決にはならないと思います。それこそ幸福になる意味がなくなる。

(6)死んだら悲しむ人がいる→その人達のためだけに生きるのも納得出来ません。

これから先の無意味な人生が途方もなく長く感じます。身体的症状は全く無いので鬱病ではないと思います。「じゃあ勝手に死ね」という言い分も正しいとは思いますが、僕と同じ様な方いませんか?

A 回答 (29件中21~29件)

>そして見つかったとしても、


>それが死によって終わってしまうという
>また別の悲しみが生まれてしまうと思います。


「ありがとう、さようなら」でいいんですよ。

この世のものは、実は何一つ所有できません。
自分の体でさえも、すべて神さまや宇宙からの借り物です。


所有の幻想にとりつかれると、それは執着になります。
神からお借りしているものを、お借りしている間大切に、感謝して。


執着すると、自分が不幸になりますからね。

たとえば手のひらに羽根をふわっとのせるように、
ぎゅっとにぎらずに、
手の中にある間、大切にしていればいいんですよ。


だいじょうぶです。あなたはまだ大学生です。
人生は過程です。
目的地は過程を進むためのエサであり、
目的をさだめようと願っている今も、過程であり、そういう時期なんです。
さまよっていた苦悩もまた、振り返れば大切な思い出となります。
いまという人生の季節を存分に味わってください。


わたしは大学生のころ、そんなことすら考えていませんでしたから、
あなたは今はわからなくても、将来見えてくるものがあるでしょう。

想像もつかないかもしれないけれど、
10年後、20年後のあなたに聞くことができたら、
大丈夫だ、
今はそういう時期なんだ、って答えてくださると思いますよ。

この回答への補足

僕はどうしても宗教的な考え方までは出来ませんが、「それは所有への執着だ」という点にはなるほどと思いました。

「昔こう考えてた時期があったな」といつか言える時が来ればいいなと思います。

補足日時:2014/02/21 22:29
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 22:29

こんにちは。



こんな書き方をすれば、読む気がなくなるでしょうが…
ほとんどの人間、誰しも一度は同じことを考えると思います。
私もよく考えることがあります。
結局、それが分からないから生かされているのだと思います。

私が「生きる意味」を考えていたある時、ネットで見つけた言葉は
「生きる意味を作るために生かされている」
でした。

つまり、生きることに意味が存在しないならば、
「意味がないなら死んでやる」
ではなく、
「意味がないからこそ意味を作りだす」
べきなのでしょう。

その意味を探さなければいけないのが、人生なのだと思います。
「自分の幸せのために生きる」
のは質問者様の生きる意味にならないようですね。
それならば、
「誰かを助けるために生きる」
とか、
「生きたくない世界を大きく変えるために生きる」
でもいいし、
「とにかくお金を稼いで、出来ることを全部試し、生きる意味になることを探すために生きる」
のでもいいでしょう。
どのように生きるのかは、本当に人次第、自分次第なんです。
あなたにとって素敵な「生きる意味」が見つかると良いですね。

この回答への補足

僕なんかが思い付く事なのだから、絶対に誰もが同じ事を考えるはずだと確信していました。ある意味、だからこそ質問させて頂いたのです。

僕にとっての個人的な「生きる意味」が見つかれば、それはとても幸運な事だと思います。一方で、現時点で「生まれてしまったからには生きる意味を作ったり探さなければならない」という強制があるという事に対して怒りを感じてしまうというのも少しだけあります。あくまでまだそれらが見つかっていない現時点では、の話ですが。

「必要性のある生きる意味がある」と信じて探すしかないのですね。

補足日時:2014/02/21 13:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 13:36

ずっと昔、そんな風に考えたことがあります。


自殺したいとまでは思いませんでしたが
「何で生きてるんだろう?なんで死んだらダメなんだろう?」と。

繁栄をしようという意思は
自分が生きた証明を後世に残したいからじゃないでしょうか?
生まれたからには存在したことを認めてほしい、みたいな。

ではなぜ「生まれたことを認めて欲しい」のか?
それは生まれたことが無意味でないと信じたいからかもしれません。
自分が努力したこと耐えたこと喜んだことに意味があると思いたい。
自分は不必要なものではなかった、存在してよかったんだと思いたい。
つまり「自分を誰かに認めて欲しい」というような感じでしょうか?

ではなぜ「死んではいけない」のか?
辛いことがあったとき、なぜ死ねないのか?怖いのか?
それは洗脳に近い何かなんじゃないかと思いました。

はるか昔の祖先が「生きた証明を残したい」と思い子を作る
その子は親の「生きた証」です。子はそれを必死に守ります。
親が死んでもなお。そして自分が大人になると思います。
「生きた証明を残したい」そして信頼できる恋人と子を作ります。
(優秀な遺伝子、異なる遺伝子に惹かれるというのはそのため?)
そうして積み重なった「生きた証」が遺伝子的に濃くなっていき
人は「死=証明の消滅」というような感じに本能的に考えるようになった。

自殺する人は「自分なんかいなくても」と思う人が多いですよね?
つまり「生きた証」がいらないと思っている人です。
自分の生きた証がいらないから、祖先の生きた証もいりません。
もちろん人がそこまで考えて生きているとは思いませんけどね^^;

そうやって証明の消滅を恐れる気持ちが
死への恐怖になっていったんじゃないかと思います。
老衰で亡くなる方の最後の顔は笑顔が多いですよね。苦しそうではありません。
それは「十分に生きた、証を残した、満足した」からだと思います。

ではなぜ「痛みなどの機能がある」のか?
本能(死への恐怖)を忘れないためだと考えました。
もちろん本能なので忘れることなんてありませんが
生命を脅かす危機に直面した時に、本能ではなくその人の意思・理性の部分で
「これは危険だ」としっかりと認識するために必要な機能なんだと思います。
本能を守るため自然とつけられた機能です。



では初めの人間はなぜ死ななかったのか?
初めから痛みという機能はあったのか?

それは人間の誕生から知らないといけないので
無知な私にはわかりません。
猿が人間に進化したなら、1匹目の猿から考えなければいけませんし
男と女が一人ずつ現れたなら、その二人はただ愛し合って子が生まれ
結果「子が死なないように機能がつけられた」のかもしれません。

まあ、これらは私が高校生の頃に思って
その時にある知識だけでいたった答えなので時代遅れかもしれませんが^^;

考えている途中で
まあ、私には死ぬ勇気とかないから生きますけどね
と考えることを放棄してしまいましたしね^^;

この回答への補足

失礼な言い方かもしれませんが、かなり推測に由る部分が多い考え方だという印象を受けました。「生きた証明を残したい」というのは集合的無意識のようなものなのでしょうか?

例え僕個人が証明に無関心でそれに反する意思を持っていたとしても、逆らう事は出来ないという事でしょうか?僕の中の怒りや悲しみは僕が自分で何とか処理するしかないのでしょうか?

補足日時:2014/02/21 13:26
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 13:19

こんにちは。



意味というものの回答があったから、それに沿ってじゃあこうしよう(例えば死のう)
のように考えるのではないと思いますので、意味があるかないかは不要ではないかと思います。

他の回答者様が仰っていますが、私も含めおおよそ大多数の方は一度はそう考えたことは
あると思いますよ。

人間が「生きる意味」「死ぬ意味」を考えるということは、私はとても傲りだと思います。
じゃあなぜ他の生物がいるのか。
なぜ地球があるのか。
なぜ宇宙があるのか。

答えはありませんよね。あったとしてもわからないですよね。

「生きる」も「死ぬ」も自然界の一部でしかないです。
それに意味を求めること自体、ナンセンスではないかと思います。
人間が~、ではなく生き物全てに言えることです。
人間に限る話は、それこそ傲慢ではないでしょうか。

4~6に関しても、上記の理由から「意味を見いだせないからこそ意味を作る」という
理性的な人間の知恵そのものだと考えます。
理由がなければ行動できない、という思考の結果なのでしょうね。

あくまでも私個人の「生きる意味」というものへの打開策でしかなく、答えは人の数だけ
多数存在すると思います。

この回答への補足

「人間の生死は自然界の一部でしかなく、それに意味を求めるのはナンセンスである」。確かにその通りですし、僕もそう思います。

その上で個人的な生きる意味は自分で探すしかなく、「必要性のある生きる意味があるはずだ」と信じるしかないのですね。

補足日時:2014/02/21 13:35
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 13:35

【僕と同じ様な方いませんか?】


うーん、あなたは中島義道?氏みたいですね。
哲学者です、本も読みやすいようなのを何冊も書いてる。

そして、彼が、なんで哲学を目指した・・というか、なったというか、結局は、
’何をしても、人は、死んでしまう、それがいったい何になるのだ’ということらしいです。
哲学者は喰えないので、とりあえず、ドイツ語教師をしたそうですが。


’・・・・でも、死んでしまう’と思うと、いてもたってもいられないという、子供のころからだそうです。

わたしは、ふーん、と思いましたよ。
私だって、いろいろと、子供ながらに考えることがなかったわけじゃないから。
いや、マンガでね、長生きする人の話があるじゃないですか、人魚を食べたとか、吸血鬼だとか、いろいろと
タイプは違うし、ずっと若くあるというのもあるし。

でね、考えたんです、同じような時代を生きて、体験して、そして、死ぬから、人生おもしろいとね。

世代で話が合わないといいますが、一言でいえばそういう事。

今、生きている、それだけが、人生の意味です。

喜怒哀楽というのは、苦あれば楽ありともいうが、へこんだところがなければ、でっぱりもない。
ずっと快適というのはないのです、基本。

水がおいしいためには乾いてなければならないし、若さに意味があるのは、老いるから。

そういう、人生の凸凹を経験するために、’今’の連続が人生。
だから、今を生きるためにが、生きることそのものです。

でも・・・死んでしまう・・・と、私は心配もしないし、悲しくもないし、
今を悩むこともなくなりました。
できることをするしかないし、間に合わなくても、できなくても、自分が、最後に、できることは
とりあえず、やったかな?と思えればそれで、上々。

ま、あなたも好きなだけ悩んでください。
たぶん、わたしなら、悩む代わりに、その辺を走るかな?泳ぐかな?
とりあえず、今の、私は、こうやって走ることができると、確認作業するのが性に合うようなので。

今の自分に何ができるかを、常に知ることは大事かなって、悩む前に、’アイテム確認’しなくちゃ・・・・でしょう?

この回答への補足

僕は中島義道さんという方を存じませんが、僕は最終的な結果や行き着く所が死という同じ場所だから無意味だと思っているのではなく、刹那を切り取ったとしても本質的に無意味だと思っているんです。

「今出来る事をする」というのはとても前向きで素晴らしい考え方だとは思いますが、それはつまり「今出来る事をして無意味さを忘れる」という事になりませんか?

あなたの考えを否定する気は全くありません。でも少なくとも僕は例え何をしていても無意味さを忘れる事が出来ないんです。

わざわざ回答して頂いたのに、言葉を返すようで申し訳ありません。

補足日時:2014/02/21 12:57
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 12:49

広義では、


1,生物は生きるために生きているとか、
2,繁殖のために生きているとか、
でもそれは動物的レベルの話であって。

人類全体としては、1はもう卒業していると思って差し支えないと思います。

2の段階に重点をおいている人が多いと思いますが、
すでに2も卒業している人も少なくなく、
そういう人が自分の生きる意味を探す傾向が高いと思います。


狭義では、生きる意味は一人ひとりちがうと思います。

動物的な段階を終えたら、種ではなく個としての自我や理性が生まれます。
そのあとは自分の人生が自己表現の手段になるのだと思います。

あなたは、あなたの生きる意味を探してください。

何によって幸福を感じるかも、人によってちがうのです。



わたしは、わたしの生きるテーマは、

・プライベート(家庭)の安寧 と
・生まれたままの自分とは程遠いほどの人格成長

と、認識しています。

それがわたしにとっての人生を通しての自己表現になると考えています。
人生は一つのアートであり、
人は一生かけてそのアートを作り続けるのではないでしょうか。
アートを見せる相手がいるとしたら、神、宇宙、自分、他者


上記のテーマがどこから出てきたかと言いますと、
西洋占星術、インド占星術で、自分の出生図から
人生のテーマについてヒントをもらい、
それが意外なほどとても腑に落ちるものがあったためです。


自分の軸が一本通った後は、ブレません。

とにかく自分の腑に落ちたのですから、
上記のテーマが本当かどうか疑う必要などありませんでした。
軸が通ったことが大事なのです。


自分の人生のテーマにコミットしていますから、
その軸から離れずにいれば、
安心して困難にも飛び込みやすくなります。

この回答への補足

「幸福や人生のテーマは人によって違う」。確かに仰る通りだと思いますし、僕はあなたの人生のテーマが素晴らしいと思います。

人生のテーマが見つかるまでは無意味さと悲しさに耐えるしかないのでしょうね。そして見つかったとしても、それが死によって終わってしまうというまた別の悲しみが生まれてしまうと思います。

補足日時:2014/02/21 12:45
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 12:41

多かれ少なかれ、誰でもご質問者様と同じようなことは考えると思います。


それぞれに対する細かい回答は書かないですが、個人的な全体の考え方だけ回答します。

単刀直入に言えば、生きるのに意味なんて必要ないよねって話です。
そもそも、生きることに意味があるかどうか考えること自体がナンセンスです。

そもそも、「生きることに意味があるか」なんて、それこそある程度の知能のある人間くらいしか考えません。
大多数の生き物は、「生きる意味」なんてなしに生きています。
そういう事実があるのに、人間だけに「生きる意味」が必要であるような議論をすること自体ナンセンスです。
そもそも生きることに、「意味」なんて不要なものなのですから。

でも、人間は知能があるが故に、「自分が何をしたいか」を理性的に考えられる生き物です。
だから「自分のしたいことをして生きる」ということは無意味ではないと思います。
その課程で、「自分は意味がある人生を生きたい」と思うからこそ、人間は自分の人生の意味について考えてしまうのだと思います。

だとしたら、人生の意味とは、自分自身の評価でしか確認できないものです。
普遍的に必ず「生きる価値」という測れるものがある訳ではなく、あくまで「自分は意味がある人生を生きたい」と考えた時点で発生する利己的な考えに過ぎないということです。

つまりご質問者様のように、「生きる意味」を人間にとってあたかも普遍的に存在する観念として考えることはナンセンスと言うことです。
あくまで「生きる意味」は利己的な意識であって、世の中にある普遍的な理ではありません。
そんなものに答えが存在するわけもなく、答えのないことに思い悩むこともナンセンスな話です。

ご参考まで。

この回答への補足

わざわざ回答して頂いたのに言葉を返すようで申し訳ないのですが、普遍的に存在する観念として「生きる意味」が無いというのは僕も分かっているんです。

質問文後半で利己的、個人的な視点を強調したつもりだったのですが、言葉が足りず申し訳ありません。

でも人間として利己的に「無意味な事はしたくない」と思うのは間違っているのでしょうか?

補足日時:2014/02/21 12:39
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 12:35

無意味と言いつつ、こんなところでグダグダ質問している時点で、


実は無意味じゃない、あるいはどこかに意味があるんじゃないか、って思っているということでしょう。
本当に、心の底から無意味だと思っていれば質問する必要もないわけで。

デカルトじゃないけど、
「生きる意味があるんじゃないか」
「生きる意味を感じられないのはなぜか」
と悩む時点でもうそれは生きる意味になっていると思う。

この回答への補足

確かにこんな所で質問するという行為自体すでに理性的でないというのは仰る通りです。自分の中で勝手に板挟みになってしまい、吐き出さずにいられなくなったというだけです。

「実は意味があるんじゃないか」というよりは、「あるに越した事はない」という感じで、無意味だとは心の底から思っています。

補足日時:2014/02/21 12:32
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 12:32

死にたい人や、貴方が死にたいのなら、 貴方のする質問は全く無意味だから


答える必要もありません。

死ねば全てが解決になります。
でしから、無駄なかったもうありません。
死ぬ人間に、人生を説いたって無駄なだけ。

それとも何かの理由でもつけて自分を慰めたいの?
別に人間の100人200人死んだところで何の不具合もありません。
あなたもそのひとりになるだけです。 私は困りませんし、ここにいる大多数の人も困りません。

他人様の命なんて1円にもなる価値なんかないんですよ。

この回答への補足

「死にたければ勝手に死ねばいい」。その言い分はとても正しいしその通りだと思います。ただしあなたが「答える必要がない」とご自分で仰っているように、僕の質問に対する答えにはなっていないと思います。

こんな事を言ってもあなたは「知った事か」と思われるでしょうが、死にたくても死ねないのです。

補足日時:2014/02/21 12:26
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/21 12:21

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