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謙信はあの日大軍勢を率いて出兵するはずでした
しかし厠で倒れてそのまま逝ってしまいました。

その日出兵するはずだった上杉軍は関東の北条を叩くつもりだったのか?
それとも織田信長に大決戦を挑むつもりだったのか?

もしも畿内に生まれていれば天下人となったであろうと言われたその男は
どこを目指して死んでいったのでしょうか?

A 回答 (2件)

上杉の名と関東菅領を引き継いだ以上、関東が最優先ではないでしょうか?



対する北条氏康は古河公方として足利義氏を擁立して名目上の関東菅領にし、謙信の関東菅領拝命を完全否定しているから
氏康は関東菅領としての謙信の命に従うつもりはさらさらないのですから


謙信が織田を破ったといわれる手取川の戦いはほんとにあったかどうかかなり疑わしいし
(織田側の惨敗とされるにも関わらず、高名の武将が一人も死傷していない、誰もそれにより職を追われたり追放されていない
天王寺の戦いで織田側の旗頭として戦い、雑賀衆に討たれ惨敗した大和国主塙直政は戦後一族全員追放されました
越前国主も柴田になるまで一向衆との戦いで失態のあった朝倉旧臣は国主から除かれました)


それに謙信にとり不安なのは面従腹背の神保、椎名という越中の小大名で
謙信が越後に退いた後に謀反を起こすことも度々

また同盟したとはいえ
それまで越中で激しく対立、戦っていた一向衆にどれだけの信頼を置けるのか
謙信には不安ではなかったのでしょうか?


西は織田との緩衝地帯として越中、能登に影響力は残しつつ
対関東政策に専念するのが謙信の本意ではないでしょうか


越後一国のみの国主で兵農分離されていない兵力で
強力な北条を背面に残し、上洛など遠距離で長期間の多正面作戦は不可能に近いと思います


長文失礼致しました
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/09 10:29

こんばんは。



第2次信長包囲網に参加する予定でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/09 10:29

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