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最近、私たちは本当に3次元空間に存在しているのかと疑問に思うようになりました。

視覚から得られる情報はあくまで2次元の画像だと思うのです。いわばモニターで映像を見せられてるのとほとんど変わりないのではと。
それでも私たちは3次元空間にいると考えるのは、自分という存在を客観的に外側からみているからだと思うのです。

そうですね、例えば町で道を歩いてるとしましょう。そのとき私の視覚に映る景色は解像度のちがいはあれ、写真やテレビの映像のようなものです。景色はあくまで目の前を平面的に流れるだけです。
しかし私はその町のその道のどのあたりを歩いているかを理解し、現在地を把握し、目的地へたどり着きます。
なぜでしょうか。私は目の前に見えてる映像とは別に、自分の身体を空から見下ろしたような視点を頭の中でイメージし、ナビゲートするから道に迷わずにすむのだと思うのです。

そうですね、例えば私は部屋にいます。目の前には見慣れた机と窓が見えています。ところで私は今、部屋のどのあたりに座っているかと聞かれて、部屋の中心より少し南側と答えます。そのとき私は頭の中で部屋の空間のどのあたりの位置にいるかを一瞬でもイメージします。

つまり私は自分が見ているときと、自分が見られているイメージの二つをめまぐるしく行ったり来たりしながら常に自分の存在を認識しているのだと思うのです。いわばカメラから送られる映像と、3次元座標における自分の位置を確認するレーダーといったところでしょうか。

だとすれば、私たちは本当の意味で3次元の空間を「見る」ことはできないと思うのです。確かに私の身体は3次元空間に存在し動きまわるのでしょうが、その様子はあくまで頭の中のイメージの世界にしかないのだと。

こうした考えについてなにか思うところがあればご意見お待ちしております。
人を平気で傷つけるようなことを言わない、おとなしい系の人の回答を歓迎します。

A 回答 (11件中1~10件)

質問者様のお話から私は、プラトンにあった洞穴での幻視という思考実験を思い出しました。

人間が見ている現実は現実そのものではなく、現実世界から逃避して洞穴に入り、外とは逆の暗闇の方を向いて背中からの情景の反映が穴の壁に見えている(影絵のようなもの)のを眺めている(にすぎない)のだ、という様な内容でした。有名な一節ですからご存知かもしれません。
上記にはいろんな意味がこめられているように思われますが、貴方の見方との共通点は、人間が直接得る環境からの情報は限られているということ、それを活用するためにわれわれは知性を持っており、想像力も持っている、そして環境からの情報を最大限利用するために、まだまだわれわれは自分で努力する努力しろを持っているし、努力しなければならない、少なくとも自分の殻に閉じこもって自分だけの幻想に耽っていてはいけない、ということなどが読み取れると思います。
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お礼日時:2014/05/22 19:14

目玉は二つある!!


目玉ひとつで2次元を再現できるのならば、
その目玉が二つあれば、3次元ぐらい再現できる。
しかも、
目玉は一点をじっと凝視していると思っている時でも、実は絶えず動いている。視点を変えている。

もっとわかりやすくいうと、
xy平面とxz平面(またはyz平面)があれば、三次元の点は正確に表現できる。
xy平面上での位置をかりに(1,2)、
xz平面上での位置を〈2,3〉とすれば、
三次元上の(1,2,3)の点は求められる。

2次元の平面が二つあれば、3次元の点を特定することができる場合もあるんですよ。
カメラが二つあれば、この二つの情報を元に処理を行えば、3次元の写真を作成することができるのであった。
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お礼日時:2014/05/22 19:13

>視覚から得られる情報はあくまで2次元の画像



網膜の情報は神経線維のインパルスに変換されて、脳に
伝達されるので1次元のデジタル情報です。
ただし、その情報の出所が1つではなく、視覚や味覚など、
異なる情報媒体を捉える複数の感覚器官からの情報が、
脳内のニューロネットにおいて相互作用した結果、3次元
空間として再構成されているのです。

そこにおいて、過去の五感の相関した経験の蓄積により、
新たな光や音など情報性の高い先行感覚の刺激パターン
に対して、味覚や触覚といったより生理的な影響の大きな
感覚を励起させる事で「そこまで行った時の影響の予測」
=遠くの存在(空間的広がり)として認識するのです。
しかし実際に捉えているのは、感覚器官表面の受容細胞
表面の分子における量子相互作用(光=量子そのもの、音
=気体分子との運動量の交換(エネルギー=量子)、味覚・
嗅覚=分子構造による識別(最外殻電子による反発=量子、
触覚=物体表面の反発(運動量の交換))に過ぎず、その
1次元的刺激のパターンが、3次元の“外界”を予感さ
せているだけです。
問題は、その「刺激パターン」が、なぜ3次元を感じさ
せる特有のパターンを生じるのか、という点です。

量子論的世界像において、有限的な存在性(=宇宙)は、
認識される事によって派生しているのです。
全ての存在は量子的な不確定性に基づいており、無限に
詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互
作用パターン)の向うに、自己の補完としての(不確定性
原理の相補的不確定性を伴う)宇宙を認識するのです。

過去の自己(=異なるプランク定数h)の時系列化(hの
収束=物体の収縮=宇宙の膨張)において、経験の蓄積に
よる現象表面的定性化=いい加減に捉える(原理的に確定
化しない)事を可能にし、有限な存在性を派生させている
のです(不確定性原理による無限不確定への発散を避ける)。
「現象表面的にいい加減に捉える」とは、原理的な超弦=
量子定常波=光速性を潜在化させる事で、その現象表面
(虚構)的非光速性において、感受表面(量子相互作用=
光速)からの超光速=過去=記憶=自我仮説(時間軸)と
光速下=未来=予測=時空仮説(空間軸)の対発生が可能
になっているのです。
有限な存在性だけでなく、過去と未来も現在(感受表面で
の量子相互作用=潜在的認識可能性の変移)から対発生し
ているという事です。

相対性理論の4次元ミンコフスキー空間において、時間軸は
虚数関係にあり、空間軸との等距離点に0の面(界面原点)
をなしています。
逆に言うと、仮説的に派生する時空的認識に対する無の射影
であり、物理とは仮説的存在認識を『本当は無いんだけどね』
と無へと還元するプロセスだと言えます。
未来(予測)として生じた空間において、その原点(座標の
0=現在)はどこかというと、無の射影としての量子=感受
表面(無=無限の潜在としての認識可能性)での量子相互作用
になります。
ところが、その感受表面(認識体)が、未来としての空間的
広がりに有限な大きさを占めている事で、本質的根拠は失わ
れるのです。過去(経験=時間軸)と未来(予測=空間軸)は、
原点を経ずに接していると言えます。

超弦とは不確定性原理による量子重力(負エネルギー)による
ブラックホール周辺での量子定常波(正エネルギー)であり、
その単位の相互作用~回転~上位単位化(階層現象化)による
認識体は、希薄なブラックホールであると言えます。
そこにおいて、ブラックホールの特性としてのシュバルツシルト
境界の内外での時空軸の転換が反映された結果、「希薄なブラッ
クホール」のシュバルツシルト境界である感受表面の内外に、
過去(超光速)と未来(光速下)を分けていると言えるのです。
そこにおける「プランク定hの収束(物体収縮=宇宙膨張)の
時系列化」としての時間経過は、その感受表面自体のブラック
ホールへの落下を意味します。時系列化=シュバルツシルト境界
の通過は時空軸の転換であり、量子半径での回転につながります。
その感受表面での量子相互作用とは、ホーキングの言うシュバ
ルツシルト境界周辺での量子ゆらぎによる対発生に相当します。
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お礼日時:2014/05/22 19:13

こんにちは。


>ヒトは何を「みている」のか?

ヒトの視覚機能が3次元をイメージ出来るには、
距離感覚=時間の感覚が必要になります。
脳に経験で自然に在るとして、備わる感覚なので
しょう、タブン!
宇宙を見て、星を観るとモニター画面を眺めて
居る様に感じますのは、距離が経験したことが無い
程、遠い事実で距離感を持てないからでしょう。
何?に対しては、脳がイメージしてミタイと思考
するモノを1次元化⇒2次元化⇒3次元化⇒
多次元化の選択をしているのだと想います。
見る、視る、診る、観る、看る、が文字に在ります。

質問の、私たちは本当に3次元空間に存在しているのか?
は、{私たちは3次元空間にいると「考える」}と、
{自分という存在を「客観的に外側から観る」}と、
いずれも、ご自分のイメージを感じ=診て居ます。
結論として↓
{自分が視ている「あるモノ」に在るであろうとした
存在認識は、その「あるモノ」の存在確認をしている
自分を観る位置の空間距離=時間を確認する事で
イメージ出来、3次元を認識できた気持ちになる}
質問者さんの思考に同調できます。

そう想えばそう視えますし、観ないモノは無い!
しかし、ヒトは視得ないモノを強引に見た!
否…見た事として思い込み、悩で病んだりする
事が好きなのです。
勝手なイメージに生きて居る、変な生き物です。d
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お礼日時:2014/05/22 19:13

自分の認識に強く焦点をあてると、そんな感じの感覚を持つと思います。



認識だけを俯瞰(ふかん)してしまうと、自分と感覚が
切り離された感じになっていきますが
実際は、認識も含めたものが自分としての存在です。

目の前にある今を大切に、人生を楽しむことに
意識を向けると、楽しさはやってくるかも?
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お礼日時:2014/05/22 19:14

目が1つなら2次元だし目が2つなら3次元だよ。

なんか、根本がおかしい。誰かを触ってみなよ。その人は平面なの。ごつごつしてるでしょ。奥行きがありますか?あるに決まってます。目に見える映像が2次というのは、目からの情報がそのようにしか見えないだけであって触れば奥行きがあるってわかるでしょ。
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お礼日時:2014/05/22 19:14

何を見ているかといえば、電磁波のうち、網膜が感知できる範囲の波長を脳が感じ取り視覚情報に変換しているのですから、「脳のフィルタを通った信号」ということになります。



モニタから得られる情報は、脳が認知可能な情報のうち、非常に限られた平板なものになります。

脳は、三半規管や気温、時間、嗅覚、聴覚などさまざまな情報を統合し、情報を強烈に操作します。ですから、見えないものが見えたり、恐怖で気絶したり、感動で失禁することもできます。

Double Rainbow Guyと呼ばれる二重の虹を目撃した男の動画を御覧ください。宗教的啓示を得たかのような法悦に浸っています。彼の脳はどんな視覚を彼に与えたのでしょうか。


そもそもモニタというのは境界が見えますよね。こんな興ざめする無粋なものは自然界に存在しません。空間はどこまで行っても連続しており、みっともない枠が見えたりしませんよね。
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お礼日時:2014/05/22 19:14

実際には、多くの場合、両眼で見てるので立体視できてるわけですが、その事を除いても、時間という要素が抜けていると思います。

仮に2Dを見ているとしても、それは止まっているわけではありません。常に経過しているはずです。だから、そこに時間という1次元を足せば、3次元と言えるのではないでしょうか。
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お礼日時:2014/05/22 19:14

こんばんは



>視覚から得られる情報はあくまで2次元の画像だと思うのです
片方の目を瞑って見れば 2次元画像でしょう

>私は目の前に見えてる映像とは別に、自分の身体を空から見下ろしたような視点を頭の中でイメージし、ナビゲートするから道に迷わずにすむのだと思うのです
脳で記憶した映像のことでしょう

>だとすれば、私たちは本当の意味で3次元の空間を「見る」ことはできないと思うのです
両方の目で見れば 距離感が得られて3次元画像になります
五感(見る 聞く 匂う 触る 味わう)を使えば現実だと確認できます 

>こうした考えについてなにか思うところがあればご意見お待ちしております
たぶん 心の状態が不安定になっていて疲れているのでしょうね
規則正しい生活習慣にすれば治ると思います
早寝早起き 適度な運動 規則正しい食事 朝日を浴びれば体内時計も正しくなります 他人と会話をしましょう 自分の好きな事をしたり 癒しの音楽を聴いてリラックスしてもいいかと思います
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お礼日時:2014/05/22 19:12

正直、貴方の説明の感覚は、私には全く理解出来ません。



しかし逆に言えば、貴方にとっての私の感覚も理解不可能なのでしょう。


大切な事は、貴方と私(世界)では永遠に交わる事の出来ない世界と断絶する川が間に流れている事でしょう。

もちろん川を渡る成り、越える成りは、何れは可能かもしれません。

しかし無理かもしれません。


境界を「越える」事や「成す・成さない」は人生においてどれ程の価値なのでしょう。

それよりも今いる流れの中での棹捌きを憶える方が、人生には有益ではないでしょうか。
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お礼日時:2014/05/22 19:13

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