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江戸町奉行が隠岐島へ遠島を言い渡している例があります。
『御仕置裁許帳』に載っているそうです。
江戸からだと伊豆諸島の方が近いですが、なぜ遠くの隠岐島ですか。
罪状によるのでしょうか。

それから、ご存知でしたら教えて頂きたいのですが、
罪人は、出雲までは陸路ですか、それとも江戸から隠岐の島まで直航の海路ですか。
隠岐島といっても島前、島後のどこへ送り込んだのですか。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

暗礁に乗り上げて座礁気味の dayone でございます(><)


なので、ここは焦らずコーヒーブレイク^^

「(下段)副題?」に関しましては、
・GoogleBooks「流人 別府港」検索では、
『島根県の歴史(県史シリーズ32)/松尾寿ほか/山川出版社/2005』(241頁)
「…隠岐の別府港に到着するとまず島前・島後に流人を分け、
島後の流人はそのまま島後にむかうが、島前の流人は
別府村(隠岐郡西ノ島町別府)にある松江藩の島前代官所で流人受取事務をすませ、
村の流人数が村高にほぼ比例するような割合で村々へ配分…」だそうです。

「(中段)副題?」に関しまして、
1742年以前の江戸・隠岐間または江戸・大坂間の流人移送の
情報を探し求めておりますが、海路・陸路ともに情報に辿り着けません(><)

余談ではありますが、前投稿の
〇「瀬戸内海交通史の一節 : 竹原町政史料による/西村嘉助」
『社会科教育論叢 (2,3)/全国社会科教育学会/1955-02-28』(44-83頁)
に関する、「流人の行先は享和二年まではずっと隠岐嶋であったようであるが…
多少の不規則はあるが大体天草・薩摩嶋・五嶋・壱岐・隠岐の順で一回毎に変わっている。」
に関し、他で情報を求めたところ、
〇『大阪市史.第2巻/大阪市参事会編/大阪市参事会/大正3.8』
「第七期 寛政六年より天保八年に至る」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980476/93
<93/530>(158・159頁) 大阪在勤及地附諸役 ・流人役
(一八)流人役二名
など同趣旨の記述が見つかります。
また、江戸後期の天草事例に過ぎませんが、
〇『大阪市史.第4上/大阪市編/大阪市/昭和2』
「御觸及口達/  天保三壬辰年」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218205/520
<520/628>(998・999頁) ・流人船入札
[觸]四九八六 三月十七日
など『大阪市史 索引』を使えば、御質問の回答には直接結び付きませんが、
何項目かの「遠島、流人(船)」情報が得られます、片や江戸の情報は伊豆七島一辺倒…

おっと、前回の不甲斐ない投稿に続き、今回はボヤキ投稿になってしまいましたm(_"_)m
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この回答へのお礼

私は脱線したり寄り道したりで、もともと何を質問したのか、忘れる始末です。
まとめておきます。

1.江戸からだと伊豆諸島の方が近いですが、なぜ遠くの隠岐島ですか。
罪状によるのでしょうか。

特に理由はなさそうです。 罪状によって流刑先を決めていたわけではない、ということが分かりました。
費用が掛かろうが、日数が掛かろうが、家綱・綱吉の時代、江戸から隠岐島へも流刑したということで納得しました。

京大歴史研究会 「日本流刑史」
http://kurekiken.web.fc2.com/data/2003/030606.html  

一部抜粋します。
“初期には流刑地は一定化されていなかったが、” 公事方御定書により、江戸から流される者は伊豆七島に、京・大阪以西の各地から流される者は薩摩五島・隠岐・壱岐・天草諸島に流されることになった。 その後、1798年に、伊豆七島のうち伊豆大島、御蔵島、神津島、利島は流人地指定から外れる。


2.罪人は、出雲までは陸路ですか、それとも江戸から隠岐の島まで直航の海路ですか。

dayone 様が根気よく調べて下さったお陰で、様々な新しい発見をしました。
今のところ、まず「海路」だと言えそうですね。
江戸初期、八丈島へ宇喜田秀家を遠島できるくらい、航海術も船もしっかりしていたのだ、と再認識しました。

「1742年以前の江戸・隠岐間または江戸・大坂間の流人移送の情報」が見つかればよいですが、難題ですね。

3.隠岐島といっても島前、島後のどこへ送り込んだのですか。

>「…隠岐の別府港に到着するとまず島前・島後に流人を分け、
>島後の流人はそのまま島後にむかうが、島前の流人は
>別府村(隠岐郡西ノ島町別府)にある松江藩の島前代官所で流人受取事務をすませ、
>村の流人数が村高にほぼ比例するような割合で村々へ配分…」だそうです。

よく分かりました。
ただ、「島後の流人はそのまま島後にむかうが…」この後どうなるのか、調べています。
後日もう少し調べてみようと思います。
いろいろ教えて下さって真にありがとうございました。
明日、締め切りたいと思います。

お礼日時:2014/06/04 22:45

再々度、失礼致しますm(_"_)m



私ド素人の話半分の当て推量は数日で修正を余儀なくされる
可能性が大きく膨らみましたので、時間的制約もあるため、
実質的には殆ど進展しない中ではありますが、一応カキコミさせていただきます。

前回No.4投稿の(※熊本県天草郡)『松島町史』に関しまして、
新事実が浮上しました。

GoogleBooksの検索キーワードを変えて試していましたところ、

「江戸 隠岐 流人船」検索約343件ヒット中
・松島町史-565ページ
1987-
生類憐み令元禄十五年(一七〇二)八月には、江戸から五五人、
同十六年にも同じく江戸から四五人.・・・翌十年一七二五)にも流人来島、
ここまでは、大体、江戸送りの流人であり、これを最後に、流人配当は・・・

「享保 江戸 大坂 流人」検索約886件ヒット中
松島町史 - 565 ページ
1987
生類憐み令元禄十五年二七〇二)八月には、江戸から五五人、
同十六年にも同じく江戸から四五人. ... なお享保九年に送られて来た江戸流人四八名の
その後の運命であるが、木山家文書『御届申立候覚』によると、
四 0 年後の明和元年(一七六 ...
川付山方役高田家文祷『流上方 3 人 3 たる人一件、青木周蔵控』)があり、
天草は再び流刑地と定められ、上方所在各奉行仕置きの遠島者を、
大坂表より雇船で差し送るということになつた。

前回投稿分の断片情報を併せて改めて編集加工してみますと…

「生類憐み令元禄十五年(一七〇二)八月には、江戸から五五人、
同十六年にも同じく江戸から四五人、・・・
・・・享保九年(一七二四)四月十六日にも、江戸流人五〇名の天草送りがあって、
そのうち一人が江戸の牢屋で獄死、一人は護送途次摂州兵庫で死亡、
残り四八人が富岡着船、・・・翌十年(一七二五)にも流人来島、
ここまでは、大体、江戸送りの流人であり、これを最後に、流人配当は・・・
・・・天草は再び流刑地と定められ、上方所在各奉行仕置きの遠島者を、
大坂表より雇船で差し送るということになつた。・・・
・・・もっとも差し遣わし候節は、右奉行より相達し次第、
隠岐国流人の通り大坂表より御□船をもつて天草まで差し遣わしにてこれあるべく候。・・・」

上記を素直に読めば、
享保十(1725)年までは、天草(富岡港等)へは江戸送りの流人船、それ以降は、
(公事方御定書(1742)制定や遠島削減策(1731)より前なので気になるところですが…)
「天草は再び流刑地と定められ、上方所在各奉行仕置きの遠島者を、
大坂表より雇船で差し送るということになつた。」と読めるようです。

毎年か否かまでは定かではありませんが、
毎回40、50人規模の流人が船で江戸から天草へとなりますと、
40、50人規模が例外ではなく通常であって、逆に少人数の方が例外と言わざるざるえません。
その結果、前投稿、話半分の私ド素人の当て推量に関しましては、
少なくとも天草に限っては「大人数=例外、少人数=基本」では辻褄が合わず
「大人数=基本、少人数=例外」と逆に捉える方が自然であることが分かりました。

江戸から天草だけが特別扱いと考えるよりは、
隠岐も天草と同様に江戸から船と考えるの方が自然です。
そうであるならば、
前投稿「隠岐に流人が多くなるのは江戸中期以降である。
これは先に記した如く、大坂より船によった為、」
<『仏像を旅する:山陰線/西川杏太郎・‎佐藤昭夫/』(205頁)>の記述は、
江戸発大坂経由と大坂発の両方を含め「大坂より船によった為」と解釈せざる得ません。

ただ「隠岐国流人の通り大坂表より御□船をもつて」が1726年頃からか
以前からか、単に大坂からの事か江戸からの分も含むのかなどによって
天草と隠岐では取扱に差異があったと考える余地も残ります。

江戸・隠岐間の流人船が無かったと仮定した場合でも、
先ず江戸・大坂間は陸路と決めつけるよりは、
江戸・大坂間は他船に便乗しての海路利用も有り得ますから…
など際限なく妄想はひろがります…

江戸から西国遠島に流人船利用の始期から1725年の間と
1725~1726年頃に何があっての転換かも気になるところですが、それ以上に、
1726年頃から遠島削減策の1731年経て1742年の公事方御定書制定直前まで間の
江戸・大坂間の流人の海路利用または陸路利用の実例が欲しいところです。
が、残念ながら発見に至りません。

あとは、余談ですが、残念ながら江戸・隠岐間ではなく、大坂・配流地間に過ぎませんが、
〇「瀬戸内海交通史の一節 : 竹原町政史料による/西村嘉助」
『社会科教育論叢 (2,3)/全国社会科教育学会/1955-02-28』(44-83頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007873904
<10~12/40> 三.流人
から、宝暦十三(1763)年~安政五(1858)年の間の瀬戸内海利用の記録があるようですから、
江戸時代中・後期の大坂─隠岐・壱岐・天草・薩摩嶋・五嶋など配流地間における
流人の海路利用の傍証にはなります。
あと、下記なども残念ながら今回は役立ちません(><)
〇『司法資料.第221号/司法省調査課/昭和11』
・「德川裁判事例卷之八/遠島 自享保三年至安永八年」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462390/348
・「德川裁判事例卷之九/遠島 自天明元年至萬延元年」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462390/401

以上 不甲斐ない投稿で誠に申し訳ありませんm(_"_)m…トホホ…
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

実は私も「松島町史」に目をつけて調べていました。
断片をつなぎ合わせてみましたが、根気のない私はすぐに諦めました。
と言うよりは、次から次へと興味が出てきて深入りしそうになったので、一度打ち切ってまとめてみようと思いました。

質問の要点は、「江戸から隠岐への遠島の理由」ですが、根拠として採り上げた『御仕置裁許帳』は、明暦3年から元禄12年までの記録です。
寛保2年制定の「公事方御定書」よりざっと40-90年前の仕置きの記録です。
(質問した時点ではここまできちんと調べていませんでしたが)

隠岐を選んだ理由についてはよく分かりません。
幕府の天領(松江藩の預かり地)でしたから、郡代・代官の支配体制ができており、流人の管理体制もできていただろう、くらいしか浮かびません。
「公事方御定書」制定後は、江戸からの遠島は費用面から八丈島、三宅島、佐渡となったのでしょう、という程度の解釈ですませています。
伊豆諸島の中から八丈島と三宅島が選ばれた理由に関しては専門家がいろいろ言及されていますが、隠岐送りを止めた理由は、推定するしかないようです。

だいたい、隠岐へ送られた流人数をまだ調べていません。
おおよそ3千人という数字を見た覚えがあります。
その中で江戸から隠岐へ遠島となった流人数もおそらく不明でしょう。

江戸から隠岐へは「海路」か「一部陸路(東海道)」かの疑問は、今のところ、まず「海路」だと言えそうですね。
一つのテーマを決めていろいろ想像や推定しながら調べるのは楽しいです。
dayone 様推奨のサイトは、私の知識では思いつかないものばかりで、これらを読み始めると面白くて、自分が何を質問したのかを忘れてしまい、脱線ばかりしています。

「瀬戸内海交通史の一節 : 竹原町政史料による/西村嘉助」も興味いっぱいです。

佐渡金銀山の水汲人夫は、大坂から船で移送されていますね。
では、江戸からも海路だろうか、と考えていくとなかなか前へ進みません。

>江戸時代中・後期の大坂─隠岐・壱岐・天草・薩摩嶋・五嶋など配流地間における流人の海路利用の傍証にはなります

「薩摩嶋」がどこなのか調べているのですが分かりません。

#6のご回答はまだ読んでいません。明日の楽しみです。

お礼日時:2014/06/03 20:34

再度、失礼致しますm(_"_)m


的確な古記録・古文書にも辿り着けず無防備^^のまま
当て推量で「(中段)副題?」に向かうド素人を笑ってやって下さい^^

WEB上で江戸・隠岐間の遠島移送事例を探してみましたが、私には荷が重く見当たらないため、
伊豆七島関連から隠岐に通じる航路の一端でもと淡い期待を込めて物色してみましたが、
下記など記述は詳細なれど隠岐の事は付録の年表に数カ所散見される程度(><)
「近世伊豆流人御仕置考/重松一義」(『中央学院大学 法学論叢 第7巻第2号/1994-03-31』

やむを得ず「公事方御定書」制定(1742)以前の大坂の事例を探しましたところ、
大規模ゆえ特殊ではありますが元禄五(1692)年事例が目に止まりました。
〇「元禄五年流罪の行人方僧の名簿/日野西真定」
『密教文化 No.145/1984』(68-84頁)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/198 …
<12/17>(上・下段)
(元禄五年)八月十一日、従(=)紀州橋本(-)、到(=)和歌山(-)、
従(=)和歌山(-)同十五日来ル備人、請取之嶋々ヨリ迎船来リ候内、…
(元禄五年九月)
五日 肥前、五島ヱ、七日 大隅、薩摩ヱ、十日 天草、隠岐ヱ、十一日壱岐島ヱ、
但、…内大阪川口ニテ壱人相果、又五人牢屋ニテ相果申候、

上記から「橋本→<川路※『日本獄制史の研究/重松一義/2005』、三〇艘の牢船に分乗>→
和歌山→<海路※同前、一六〇挺立の大船で大坂川口に護送>→大坂→<海路>→(瀬戸内海)→
<海路>→各配流地」が推定され、特殊事例ではありますが、
元禄五(1692)年時点で、大坂・隠岐間でも流人移送に海路が利用された事実が浮かびます。

また事例数は少ないですが、前掲No.3投稿の
〇『古事類苑.第20冊/神宮司庁編/古事類苑刊行会/1908-1930』
「法律部三十五 下編上 遠島」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873981/150
<150/537>(272・273頁)
在路逃亡/
・〔御仕置例類集 二ノ二十七〕文化十(1813)酉年御渡…
・〔公案比事 四十七〕流人を船圍ひに而取逃候…安永九(1780)子年二月…
<150・151/537>(273・274頁)
・〔御仕置例類集 二ノ二十一〕文化十酉年御渡…(※トンデモ珍事^^)
などから、
江戸時代前期の実例が見出せませんので、
大坂・隠岐間の流人移送の海路利用の始期までは定かではありませんが、
西廻航路、東廻航路、江戸・大坂航路の確立時期を考慮すれば、
遅くとも江戸時代前期末以降からは、大坂・隠岐間では海路利用だった可能性が高いと思われ、
江戸時代中期・後期には海路利用が確立していたと言えそうです。

私には荷が重く手こずっておりますところの、
肝心の「(中段)副題?」江戸・隠岐間の流人移送につきまして、
一つの手懸かりが浮かびました^^
プレビュー可能以外は、文字化け・中略など問題も多く確実性はありませんが、
困った時の GoogleBooks 頼り…
キーワード「大坂 隠岐 流人 船」検索約119件ヒット

関連部分をコピペ(一部省略)してみますと下記のとおりです。

・Tip Fakultesi mecmuasi-第21巻-565ページ
İstanbul Üniversitesi. Tıp Fakültesi-1958-
享保九年二七二四)四月十六日にも,江戸流人五0名の天草送りがあって、
そのうち一人が江戸の牢屋で獄死、一人は護送途次摂州...
もっとも差し遗わし候節は、右奉行より相违し次第、隠岐国流人の通り
大坂表より御遛船をもって天草まで差し遗わしにてこれ...

・松島町史-565ページ(※「松島町史」=熊本県天草郡松島町)
1987
名の天草送りがあって、そのうち一人が江戸の牢屋で獄死、
一人は護送途次摂州兵庫で死亡、残り四八人が富岡着船、...
もっとも差し遣わし候節は、右奉行より相達し次第、
隠岐国流人の通り大坂表より御厢船をもつて天草まで差し遣わしにてこれあるべく候。

上記二つを併せ可能な範囲で編集加工してみますと…

「享保九年(一七二四)四月十六日にも、江戸流人五〇名の天草送りがあって、
そのうち一人が江戸の牢屋で獄死、一人は護送途次摂州兵庫で死亡、
残り四八人が富岡着船、・・・もっとも差し遣わし候節は、右奉行より相達し次第、
隠岐国流人の通り大坂表より御□船をもつて天草まで差し遣わしにてこれあるべく候。」

ポイントは「護送途次摂州兵庫」でしょうか、
江戸から陸路だと仮定した場合、ふつうなら後半部の記述のとおり
「大坂表より船をもつて天草まで」になるはずのところ、
「摂州兵庫」とは江戸・大坂航路の大坂側港(大坂・西宮・兵庫)の一つと解すれば、
この事例では江戸から海路移送の可能性も浮かびます。
ただし、中略部分の長短も不明の為、推測の域を出ませんが、
江戸・大坂間は陸路で大阪出帆後に「護送途次摂州兵庫」で死亡の余地は残ります。

あともう一つ、
・仏像を旅する:山陰線-205ページ
西川杏太郎,‎佐藤昭夫
そのためか困窮者もあったようだが全般的にみれば、
隠岐は流人にとって生活のし易い処があったらしく、
島抜けといった事件も殆どなかったようである。
教免隠岐に流人が多くなるのは江戸中期以降である。
これは先に記した如く、大坂より船によった為、相当多...

「隠岐に流人が多くなるのは江戸中期以降である。
これは先に記した如く、大坂より船によった為、」のフレーズは、
筆者に西川杏太郎氏が含まれることから信憑性があります、
ただ、江戸中期以降では時期が絞り込めません。

さて、改めまして最後に私ド素人の当て推量を述べさせていただきますので、
話半分で読み流して下さいm(_"_)m

前記では、流人移送時49人と大人数なので江戸から海路の可能性も高い例外事例と考えます。
ふつうはもっと少人数の事例の方が多いはずですから、GoogleBooks情報を採用すれば、
江戸・隠岐間の流人移送のうち、通常は江戸・大坂間が陸路、大坂・隠岐間を海路とする
「隠岐国流人の通り大坂表より船をもつて差し遣わしにてこれあるべく候」が基本と考えます。

あと、傍証とまでは言えず、また逆行事例ではありますが、下記によれば、
江戸時代後期1823年に至っても大坂・江戸間でも囚人の陸路利用が伺えます。

〇『古事類苑.法律部12/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「法律部五十一 下編下 囚禁下」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897707/63
<63/115>(300頁)
〔驛鑑錄〕文政六(1823)未年掛合之上極ル
大坂町奉行より江戸江囚人差下し候節、人馬賃錢拂方之事、
同所ニ而は是迄御證文人馬之外差立候人馬之分をも、無賃ニ而繼立候處、
京都町奉行所ニ而は、御證文人馬之外は不(L)殘賃錢拂方有(L)之候ニ付、
道中奉行より大坂町奉行江掛合之上、以來京都町奉行所取計同様、
所司代御城代御證文之外は、賃錢相拂候積リ極ル、

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

態々調べて下さって真にありがとうございます。

結論は、大坂から隠岐までは、例外があるかも知れませんが、“船”として間違いなさそうですね。
江戸から隠岐へは、「困った時の GoogleBooks 頼り」を信じましょう。

>前記では、流人移送時49人と大人数なので江戸から海路の可能性も高い例外事例と考えます。
>ふつうはもっと少人数の事例の方が多いはずですから、GoogleBooks情報を採用すれば、
>江戸・隠岐間の流人移送のうち、通常は江戸・大坂間が陸路、大坂・隠岐間を海路とする
>「隠岐国流人の通り大坂表より船をもつて差し遣わしにてこれあるべく候」が基本と考えます。

東海道筋では、旅人の日記や本陣の記録が多くのこっていますから、流人に関する記述があるかも知れません。留意しておきます。
しかし、1742年に公事方御定書が編纂され江戸から隠岐への遠島がなくなる吉宗の時代以降の記録・日記を調べてもダメですね。

「困った時の GoogleBooks 頼り」は、名言です。私も早速チャレンジしました。

気になる情報は、(以下2件コピー)
「隠岐の流人船は中世までは特別に仕立てられたが、近世になると三百石積の菱垣廻船が当てられ、年に二回流人を運んだ。 ... 京,大坂の流人には、陸路の木曾路を下って越後のお雲崎(新潟)から船で佐渡へ渡るル—トと、敦賀(福井)から渡るコ—スがあり、船は日本海を北上する北前船に便乗した。」

「予史談会蔵)には、大坂から流人 3 人を隠岐島行の船にのせるからという通^があったことが記されている。これら幕府公用船の通行にはまず「浦触」があって、何日頃どこを出発してどこまで行くから、その通行のために便宜を計るようにとの通知がある。」

佐渡送りの場合ですが「北前船に便乗」とあります。
幕府公用船とは、大坂から流人 3 人を隠岐島行の船にのせるからということなので“チャーター便”だと思います。
江戸から大坂へも同様の場合もあったのかも知れません。
しかし、記録されているか、大いに不安です。

あれこれ読んでみると結構、面白いですね。
しかし、あと少しというところで切れてしまうので、欲求不満になります。

高野山の「元禄騒動」のことは全く知りませんでしたので、いろいろ疑問が湧いてきています。
毎日疑問の洪水です。


>あと、傍証とまでは言えず、また逆行事例ではありますが、下記によれば、
>江戸時代後期1823年に至っても大坂・江戸間でも囚人の陸路利用が伺えます。


これも気になります。どんな事情で陸路にしたのか。

今回も大変お世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。

お礼日時:2014/06/01 11:55

主題(前段)から少し外れた投稿かもしれませんが…



『御仕置裁許帳』は編者・成立年不詳とはいえ、
江戸小伝馬町の牢屋に収監された庶民の記録である牢帳から、先例となるものを抜粋し、
1657-1699(明暦三-元禄十二)にわたる970件余を231の犯罪類型に分け収録・編纂、
寺社奉行・勘定奉行管轄の事件も含まれており、江戸の奉行所の最初の刑事判例集3巻。
(『角川日本史辞典』電子辞書版)とあって、また下記では
〇kotobank>御仕置裁許帳(世界大百科事典第2版)
http://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E4%BB%95%E7%BD …
「《公事方御定書》制定(1742)以前の幕府刑政を見る重要な記録である。」 とのこと。

次に、
〇『古事類苑.第20冊/神宮司庁編/古事類苑刊行会/1908-1930』
「法律部三十五 下編上 遠島」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873981/144
<144/537>(261頁)
・配流地/〔御定書百箇條〕御仕置仕形之事

※1742(寛保二)年に一応完成した「公事方御定書」は、その後、条文の追加が行われ、
1754(宝暦四)年に法文が最終確定。上下2巻、上巻は81条の法令集、
下巻は103条で大部分は判例を抽象化・法規化した刑事判例集。
「御定書百箇条」は下巻の俗称。

上記「御定書百箇条」では、「従(=)前々(-)之例」(前々よりの例)と記されていますように、
「江戸からは伊豆七島、京・大坂・西国・中国からは薩摩、五島、隠岐、壱岐、天草」などと
後追いで成文化されたのが1742(寛保二)年。

「公事方御定書」制定以前の事となりますと、
『御仕置裁許帳』などの先例に基づく慣習はあったはずですが、
幾つもの犯罪類型に遠島が適用されていること、判例の不統一も散見されること、
表向き明らかでない弁償・被害者側減刑願など内済的要素もあったでしょうから、

・寛文九年酉七月廿三日/五島江流罪/謀書を致持参代銀百六十目余之釘を語り取候
・寛文十年戌四月朔日/薩摩え流罪/主人之金銀横取仕候(主人印章不正使用)
・天和三年亥十二月十二日/隠岐島え流罪/茶館四拾二本語り取其上右茶之代相済候由謀判仕候
(欺まし取った茶代を請求された際、支払済と主張して提示した受領証の判が謀判であった)
・天和三年亥十二月/隠岐島江流罪/大坂江遣候金子、方々より取集百三拾両紛失

など制定法なき時代にあっては明確な基準となるとハッキリしません。

ただ一つ言えることは、下記のとおり、No.1の SPS700 様と同趣旨になりますが^^
荻生徂徠によりますと「公事方御定書」制定以前から既に
〇『古事類苑.第20冊/神宮司庁編/古事類苑刊行会/1908-1930』
「法律部三十五 下編上 遠島」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873981/145
<145/537>(262頁)
・〔政談 四〕
※『政談(1726年頃成立とも)』…荻生徂徠(1666-1728)著
=『政談:校正.巻之4/荻生徂徠/丁子屋栄助等/明1.11』
<41/69>(四十一オモテ9行目~)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783374/41
「大嶋八丈嶋ハ江戸ヨリハ遠流ニテハ有間敷也大嶋ヨリ舩ニテ蛤
ナト賣ニ來ルト云商人入込テ嶋ト云様成コトニテハ無ト也
八丈嶋モ殊ノ外近ケレトモ近云コトハ嶋代官ノ秘スルコト也ト
云殊ニ安樂ナル所成由ナレハ遠流ト云コトニハ當ル間敷ナリ」
との認識もあったようですから、『御仕置裁許帳』時代に「隠岐」への遠島となれば、
伊豆七島よりは重い裁決との解釈は成り立ちます。

では、何故上記の様な認識があったにもかかわらず、
「公事方御定書」制定に際しては「江戸からは伊豆七島」に止まったかと言えば、
下記URLの如く、享保十六(1731)年三月、
「幕府が遠島者削減策として、遠島等をなるべく重追放に替える方針」を示した事も
理由の一つになると思います。
〇「<資料>基礎法学研究室収集古文書(4)/関西学院大学日本法史研究会」
『法と政治 36(3)/関西学院大学/1985-09-20』(575-603頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000213604
〔表題〕公事方御定書并伺之上被仰渡書付 下
<10/29>
二十六 遠嶋御仕置之部 享保十六亥年御書付 遠嶋者減方之事

主題(前段)につきましては 以上でございます^^
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。

疑問の発端は、なぜ態々多大な費用がかかる隠岐を選んだのか、ということです。
陸路であれば罪人の奪回や逃亡を防ぐために罪人の数より多くの役人や籠かきが要りますから。
江戸から隠岐は遠いですが、大坂からだと遠いとはいえ、江戸より近いです。日本海がありますから舟で渡らねばなりませんが。
それに「遠島」とは島抜けを防ぐために陸地から遠いという意味で考えていました。
伊豆諸島へ流刑の場合、島割(流刑先)を言い渡すのは奪回を防止するために出帆の前日であり、そして浦賀沖で停泊して風待ち後、出帆しています。
浦賀沖でも他の舟を寄せ付けぬ厳重な警戒をしています。そこで、隠岐島へ流刑の場合はどうなのだろうか、と思いました。
さらに不思議なのは、薩州へ流刑していることですね。
ご回答にある寛文10年の例の他にも貞享3年に目明し、延宝9年に武士が流刑されています。薩州とはどこかという質問も考えましたが、欲張りすぎるので控えました。
いろいろ疑問はありますが、「制定法なき時代にあっては明確な基準となるとハッキリしません」ということに尽きますね。

図書館でも法制史に関して調べましたが、分かりませんでした。費用が掛かろうが、日数が掛かろうが、家綱・綱吉の時代なぜか江戸から隠岐島へ流刑したということで納得しました。


>「公事方御定書」制定に際しては「江戸からは伊豆七島」に止まったかと言えば、
>享保十六(1731)年三月、
>「幕府が遠島者削減策として、遠島等をなるべく重追放に替える方針」を示した事も
理由の一つになると思います。


なるほど!!
幕府も財政難でした。しかし、「所払い」も多かったので、江戸近辺の村々は治安が悪化したことでしょう。
いつも、詳しく調べて下さって誠にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。
隠岐島へは陸路か海路かについては、何か別件で調べるとき、ひょっこり回答が見つかるかも知れません。一応、今回は明日締め切りたいと思います。

ここまで書いてきて#4続きのご回答が来ました。まだ、読んでいません。

お礼日時:2014/05/30 20:38

江戸から隠岐へ島流し、珍しいですね。


江戸町奉行所よりの遠島は、伊豆七島へ、
京都、大坂町奉行所よりの遠島は隠岐島が
通常です。

関西の旅人{商人か)が途中の江戸で罪を
犯し、遠島に処せられたのでしょうか。
ご赦免の可能性のある罪人だったので、
その時地元にすぐ帰れるように配慮したのでは
ないかと思います。

結構温情味のある判決があります。

罪人は通常のように罪人籠(唐丸籠)で陸路
出雲の境港に護送され、のち舟です。

ふつうは島前のようですが、島後もあったようです。

伊豆大島への島流しは陸地に近く島抜けが容易な
ため廃止されました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

中公新書ラクレ 笛吹明生著『大江戸とんでも法律集』から拾い出しました。
隠岐島流罪の例(他にもあります)

天和3年(1683)9月、無宿者の太郎兵衛は、新湊町の息子だが、勘当されて無宿になった。勘当を解いてほしいと訴え出たが、流罪。
元禄2年10月、三島町の九兵衛の息子・長右衛門は12年以上前に勘当されたが、九兵衛のところに現われて暴れた。流罪。
天和3年11月、新両替町の五兵衛は、医者の家主の戸に火札を貼ったので流罪。

元禄4年4月、人妻に艶書を出して八丈島へ流罪された八王子千人同心の例もあります。
何か基準があるような気がします。
質問にも書きましたが『御仕置裁許帳』に載っているそうです。

お礼日時:2014/05/27 20:45

1。

 江戸からだと伊豆諸島の方が近いですが、なぜ遠くの隠岐島ですか。

    「遠島」というのは遠い島という意味ですから、隠岐島の方が伊豆諸島より遠いので当たっていると思います。

2    罪状によるのでしょうか。

   そうでしょう。伊豆諸島だと「キントウを申し付ける」事になると思います。

3。  それから、ご存知でしたら教えて頂きたいのですが、罪人は、出雲までは陸路ですか、それとも江戸から隠岐の島まで直航の海路ですか。隠岐島といっても島前、島後のどこへ送り込んだのですか。

    いらっしゃった事があるかもしれませんが、ちっぽけな島ですから、島前でも島後でも、全部が行動許容範囲でも、長くなれば自宅に蟄居させられたアウンサンスーチーみたいな処刑だと思います。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
自活さえすれば島内ならどこにいてもよい、いわば“放し飼い”ですか…。

お礼日時:2014/05/27 20:12

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