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時代劇の裁判を見ると御定法により、磔になったり、百敲きになったりします。

この様な法律はひとまとまりあるいは民法、刑法のように分かれて、
書かれていたのですか。

六法全書とは申しませんが、法律集があり、お奉行様、与力、同心、岡っ引きは勉強できたのでしょうか。

今も国会図書館かどこかで読むことが出来ますか。

改訂されるときの手続きは分かっているのですか。改訂する資格があったのは誰ですか。

江戸時代より前の時代はどうなっていましたか。

部分的なお答えでも大歓迎です。よろしく。

A 回答 (6件)

>六法全書とは申しませんが、法律集があり、お奉行様、与力、同心、岡っ引きは勉強できたのでしょうか。


種々雑多でした。結果として六法全書のようにまとまったものはありませんでした。
一つ一つの法律ごとにお触書きという形で、関係者に回覧されました。
コピー機はありませんから、原本を必要に応じて各自が書き写していました。
市中や領内の領民に知らせる必要があるものは、高札という現在の神社の絵馬のような形をした大きな板に墨書きして棒の先に付けて道路に立てました。
これを立てる場所があらかじめ決まっていて、高札場と呼ばれていました。
必用と思う人はそこへ行って自分で書き写していました。

これ以外のものは原則として部外秘でした。
原則論から言えば予め高札に書かれることがなかった、犯罪の処罰の軽重などは、奉行所以外の人には分からないことになっていました。
実際は原本から書き写した人のものを借りて書き写すということが行われていた為に、現在でもあちらこちらに残っています。
ひどいのになると、古紙として紙屑屋が集めたものの中に紛れ込んでいるということもあり、それを又チャッカリ売っている人もいました。
有名なのが、上州藤岡出身の須藤由蔵という人がいました。
この人は仕入れた古紙に書かれている文章を、仕入れる都度日記形式で書き残していました。
この日記(通称藤岡屋日記)は現在でも貴重な史料として研究資料として使われています。

以上のように秘密保持に関しては恐ろしくルーズでした。

この為に、漏れては困るような重要なものほど幕閣どうしが口頭で確認し合っていて原本は秘匿されました。
結果として、重要な法律ほど内容を知っている人が少ないという現象が起きていました。

お触れの形で出される法律は、その都度決めていましたので体系化はされていませんでした。
この為に忘れられてしまったお触れも沢山ありました。
これではまずいので、書庫に一括して保管しておき、担当の役人がセッセと昔のものはないか調べていました。
何か問題があって処罰を下すときには、以前に類似の事件の採決がなかったかをセッセと調べて、類似のものがあればそれと同じ処罰を下すということをやっていました。
現在のように、都度法律を解釈して裁可するというやり方ではありませんでした。
この為に、幕府の書庫では見つけられなかった古い判例が誰かの屋敷の蔵の中から出てきて、それを申し立てて処罰を免れるという、現在では考えられないようなことが起きていたようです。(具体な史実は知りません)

与力や同心にとっては、この過去の判決事例が唯一の教育資料でした。
この為に各自が備忘録の形でセッセと書き溜めていました。
これが親から子へと伝えられて行きました。
結果として親子代々与力や同心であった人ほどよく法律を知っている、とう現象が起きています。
この備忘録が市中へ流出するということも多々あったようで、上記の藤岡屋日記にも残っています。

岡っぴきとか御用聞き、目明しと呼ばれる人達は町人です。
同心に個人的に協力していた人達です。
公認ではなく黙認されていました。
給与は雀の涙ほどもらえればいいほうで大半は無給でした。
銭形平次でたとえれば、おかみさんが商売をしていてそれで平次を養っていました。
それで足りない分は、商家から警備料という名目の金銭をもらっていました。
武家世界のものである法令を、教育したり教える人などだれもいませんでした。
結局、本人の正義感に基づく判断で行動していました。
相当にいい加減ですが、このいい加減さが治安維持に役立っていました。
岡っぴきに因縁を付けられないように誰もが注意し合います。
結局、こわもてする博打打の親分のような人が同心に協力していました。
同心の協力者になれば、いざとなれば相手を奉行所の牢に放り込むことができます。
以上岡っぴきというのは法律以前の話です。

>今も国会図書館かどこかで読むことが出来ますか。
お触書にせよ高札の原本にせよ国立図書館や県立図書館、大学の図書館などへいけば閲覧できます。
ただし、旧漢字と変体仮名を使って毛筆の草書体で書かれていますから、大学の専門の先生でも判読できないようなものもありますので注意して下さい。
個々の文字が判読できても、古語で漢文調の文語体ですから相当な素養が必用になりますので注意して下さい。
お寺などの床の間に飾ってある掛け軸をスラスラ読める程度の素養と熟練が必要です。
入門書は沢山売られています。練習用の例文にお触書などがよく使われています。

手軽なものとしては下記の書籍がありますのでご興味があれば図書館などでご覧下さい。
中古品としても売られています。

寺子屋式 古文書手習い 吉田 豊 柏書房
江戸巷談 藤岡屋ばなし 鈴木棠三 ちくま学芸文庫
江戸巷談 藤岡屋ばなし 続集 鈴木棠三 ちくま学芸文庫

この回答への補足

ichikawaseiji さん有り難うございます。
私の欲しい知識は全ていただいたと思います。
お礼の欄を使うと、書き忘れが出たとき困るので、取りあえず補足として送信いたします。

多くの知識を持っておられるので、【ichikawaseiji】で検索して今までのご回答を拝見いたしました。歴史あり、自然科学あり、宗教あり、言語学あり、感心いたしました。しかも根拠を附けたお話が多く、説得力があります。私もリケロ(理系老人)として見習うべきと思います。このサイトが皆の意見交換サロンになればと願っております。

ひとつ、追加質問いたします。
高札に書くことを決めるのは単独の奉行所でしょうか。町奉行、寺社奉行、勘定奉行などが相談したのでしょうか。
あの小さな板に法律全体は書けません。誰が文章を考えたのでしょうか。

罰則規定が公表されていなかったのには、驚きました。関連して、時代劇テレビに出てくる物書き同心(正式名かどうかは別として)に対する理解も深まりました。

ご紹介いただいた書籍
幸いにして私は出身大学の近所に住んでおります。これらの本が、図書館にあることも確かめました。時間を作って行って参ります。

「旧漢字と変体仮名を使って毛筆の草書体で書かれています」はい難しいですね。外務省の外交資料館に一日座っていたこともあります。内閣総理大臣伊藤博文伯爵殿という陸奥外務大臣の毛筆書簡をコピーしてきました。楽しい努力もしております。

今後ともよろしく。

補足日時:2014/06/13 09:05
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 従来の日本史教科書などでは、御成敗式目が貞永年間に制定されたように記されていましたが、幕府法としての式目は将軍や執権が交代した時に改訂されています。

これはとても大事な部分ですので敢えて付記させていただきます。
 そして幕府法を読んでいますと、しばしば「先例に依り云々」との文言に出会うこともあります。この「先例」なる言葉が実際には相当の曲者ともいえ、その解釈次第では幕府法といえども、幕府法の及ぶ範囲外の法による判断とされることもあります。
 その場合は律令であることもあれば、在地の固有法つまりローカルルール的運用を指すケースもあります。そして在地の固有法が必ずしも成文法の形式を持つともいえず慣習法的性質を有する事例が殆どといえます。
 となれば、「法という存在に対する認識のありかた」が改めて問われるべき問題として定立されもし、それは「誰が云々」として特定の職掌にある者を示すとの認識に誤りがあるとの結論にもなります。
 律令にせよ幕府法にせよ寺社法や地下法(じげほう、つまり形式上の上下関係はないものの権力によるヒエラルヒーは存在する組織内での拘束力を有する規定)は権力としての政治的組織、律令ならばシステムとしての太政官制を指すことになります。
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この回答へのお礼

TANUHACHI 様
再々のご回答に感謝いたします。


資料を明示されたことも有り難いのですが、コメントとして触れられた、【先例により】なる文言に対する解説は興味深く拝読いたしました。


現代においても、判例集は法律やさんにとって大切な資料であること承知しております。


延喜式など重要な物は一度自分の目で見てみたいとは思いますが、専門外ではあり、あまり範囲を広げるのは時間の面からも、費用の面からも無理かなと考えております。【自分はリケロ(理系老人)です】


それでも、延喜式がどこで見られるかは調べました。東京大学史料編纂所にはあるようです。ここには別件で行ったこともあり、一度訊ねてみようと思います。(いつの日か)


この様な古文書がダウンロードできるようになっていれば助かりますね。日本に比べ、ヨーロッパの博物館、図書館はディジタル化が進んでいるように思えますが、いかがでしょう。そして、公的機関が、部外者の質問に親切なような印象があります。(理工学分野での経験から)

有り難うございました。リケロ(理系老人)より

お礼日時:2014/06/17 09:00

No.3です


補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。

>高札に書くことを決めるのは単独の奉行所でしょうか。町奉行、寺社奉行、勘定奉行などが相談したのでしょうか。
高札を出す手順につきましては下記のサイトに簡単な説明があります。

触 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/触

このサイトに以下のように書かれています。
○江戸時代には老中・若年寄の下で作成された草案が将軍の裁決を得ると、表右筆が必要な部数だけ写しを作成して老中自らあるいは老中から指示を受けた大目付・目付・三奉行などから諸藩や関係機関を通してあるいは直接一般に向けて触れさせたのである(これに対して知らせる対象を関係機関・役職に限定した命令を達と称した)。触は配布の対象になる地域によって「町触」「村触」「浦触」「宿触」などと称された。

なお、下記のようなサイトがあります。沢山の参考文献が紹介されています。

江戸幕府の発する「触」がどのようにして全国に伝達されたかわかる資料 ...
crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000141357

江戸幕府では、立法機関は老中(武家以外の管理)と若年寄(武家の管理)でした。更にこの上に大老がいました。
大老が決済したものを将軍が承認する形がとられていました。
この決済と承認の関係は大老と将軍の力関係で決まりました。
なにやらかにやら時代小説や歴史愛好家の話題になるような将軍は「オレは認めん」とやったようですが、大半の将軍は面倒なので、大老にまかせっきりでした。

>あの小さな板に法律全体は書けません。誰が文章を考えたのでしょうか。
TVの時代劇に出てくるような小さなものだけではありませんでした。
大きさには特に規定がありませんので臨機応変に対応していました。
現在の役所の公示のように、内容を延々と書くのではなく、要約だけを「○○たること」とか「○○べからず」と一方的に宣言する文章ですから、極めて簡単な文章でした。
高札場や高札の現物のサンプルは下記サイトで見ることができます。

高札 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/高札

珍しい江戸中期の高札について
www.town.oishida.yamagata.jp/oishida-story.files/200506/01.h...

>罰則規定が公表されていなかったのには、驚きました。関連して、時代劇テレビに出てくる物書き同心(正式名かどうかは別として)に対する理解も深まりました
町奉行所や勘定奉行所で事件があって裁定する場合には、複数の関係者で審議して、遠島、死罪などの重罪については将軍の認可を得ていました。
TVの時代劇のようにお奉行様が「○○申し付ける、これにて一件落着」というわけにはいきませんでした。

下記のサイトに説明があります

三手掛 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/三手掛

このサイトの説明の中に以下のような文章があります。
・・・これは公事方御定書をはじめとする江戸幕府の刑事法規を本来裁判業務の部外者であった大目付・目付が見ることが禁じられていたことによる・・・

まぁ~知らしむべからず、寄らしむべし、が徹底していました。
(それにしては秘密保持が杜撰でした)

蛇足
補足の中で過分なお言葉を頂戴しましたが、単なるボケ防止の暇つぶしですので御放念願います。
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この回答へのお礼

再々のご教示有り難うございます。

確実な資料に基づいたお話で説得力があります。
この様な関連解説を歴史書も、小説も、教科書も附けておけばよいのにと考えました。


いろいろな資料をお持ちだと思います。どのように整理保管しておられますか。有名作家や評論家のように大きな書庫を建てるわけには行かず、秘書を雇用するわけにも行かない庶民は困りますね。


漢字を含む、URLを上手に伝えていただいて、助かります。


今後も素人の愚問を連発すると思います。よろしくご協力お願いいたします。
リケロ(理系老人)より

お礼日時:2014/06/17 08:27

 江戸時代以前の法体系、殊に古代法ですが、律・令・格・式の4区分があります。


「律」→サックリ言いますと、現在の刑法に相当する
「令」→同様に、行政法並びに社会法
「格」→律令に対する追加法的なもの
「式」→実際に律令を運用するにあたっての運用ならびに具体的な施行細則
 この4つの区分において実際に機能を発揮するのは格式であり、古文書の形式を基準とするならば
「格」は「符」として「解」を受ける形を採ります。つまり上申文書としての「解」があって、それに対する具体的な回答が「符」になります。
 文言として「解し申す~」に対する「太政官、付す~」で一対一の対応関係にあります。一方で役所間での並行関係を示す書式として「移」があります。
 ここまでは律令にある「公式令(くしきりょう、と読みます)」に示される規定であり、これが日本文学でいうところの「中古」になりますと、変化も生じ始めます。「奉書」や中世文書による法制の生成と変化の過程などといった問題が絡んできます。
 勤務の合間ですので、詳細は後ほどお送りしますが、具体的にご質問されたい部分がございましたら補足をお願い致します。

 簡単に「法令史料集」を紹介しますと、『令義解』『令集解』『古記』『朱記』『穴記』『類聚三代格』『延喜式』『法曹至要抄』『類聚符宣抄』等といった注釈書が現存しています。
 これとは別に武家法および寺社法そして地下法といった「法的拘束力の及ぶ範囲」が限定的なものもあります。
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この回答へのお礼

お礼をお出ししていないのに、追加の情報をいただき恐縮しております。

回答 No.6 の項に、いくつか書かせていただきました。

お礼日時:2014/06/17 08:42

江戸時代から日本は識字率がたかかったので、法律がかかれているだけでなく幕府などからのお知らせ事項は、お触書のようなかんじで、いたに墨でかいたものを掲示していました。

キリシタン禁令などです。

江戸時代以前でも、五箇条のご誓文だとか、法律のようなものを制定することは古くからありました。もともと日本は奈良平安時代に、中国をまねて律令国家という形式の国をつくっており、法治国家の形態をとっていましたから。

この回答への補足

有り難うございます。

街角の御触書には大変興味があります。あの小さな板に、【法律】全部は書けません。どこまで書いたのでしょう。キリシタンは駄目よ!と1行書いてあったのではないと思います。

御触書を書いたのは町奉行所(江戸の場合)でしょうか。その他の奉行所(例えば寺社奉行や勘定奉行)が相談して書いたのでしょうか。
文章は、元の法律(例えば公事方御定書)を書き写したのでしょうか。役人が、適当に作文したのでしょうか。

質問を、どんどん増やしているのではありません。こんなことを考えていると楽しいですね。

補足日時:2014/06/13 08:27
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E4%BA%8B% …


幕府の法律、特に犯罪と裁判。原則は三奉行と京都所司代、大坂城代のみが閲覧を許される秘法(罰則あり)である。しかし評定所では奉行の下で天保12年(1841年)に『棠蔭秘鑑』という写本が作られ、裁判審理の場で利用されていた。また極秘裏に諸藩でも写本が流布し、その内容を把握して自藩の法令制定の参照とした。その為、本来幕府領内でのみ効力を有する法であるが、ある種、日本国内統一法のようなものでもあった。


以上引用
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この回答へのお礼

早速のお答え有り難うございます。
この様な問答の中で、全てを解説することは難しいと思います。
しかし、 tanui4u さんが書いて下さったことを元にして、自分でも色々調査を始められます。

幕府の法律と、各藩の法律が異なることなど、全く気付いておりませんでした。
これから自習する上で、方向を間違えないための重要なコメントと理解いたしました。

今後ともよろしく。

お礼日時:2014/06/12 19:14

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