先日、父が亡くなりました。生きている事がわからなくて毎日が苦しくてしょうがないです。学校にも心を許せる友達もいなく孤独を感じてしまいます。前はサークルに友達がいたので孤独を感じなかったけどそれもやめてしまいました。どう考えればいいか教えてください。なるべく厳しい意見をおねがいします。

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A 回答 (13件中11~13件)

 まずは、お父さまについてお悔やみ申し上げます。



 とても親御さん思いなのだなと感心します。ただ、あなた自身、限りある命を持っていることと同様、お父さんについても、いつかは別れが来るものです。

 そして、たぶん、他のご家族の方も、つらい精神状態にあると思います。
できれば、残されたご家族で支え合って欲しいものだと思います。

 親父を亡くしてから、僕自身は、仕事にもサークルにも手を抜かないようにしました。
 時間ができると空虚になって、落ち込むから。
 その後、ケガをして、しばし時間ができたときに、なんの悔いもなくいられた自分の存在に気がつきました。
 葬式の時に、友人たちが、焼香や挨拶をしてくれるにつれ、孤独じゃないんだなとも実感しましたし。

 人生の目的を考えてしまうのは、自分に存在意義が感じられず、孤独と思いこんでいるからでしょう。
 でも、そんな思考の渦の中に、たぶん 答えはないでしょう。

 落ち込む気持ちは分かりますが、学校やサークルには、折を見て復帰することをお勧めします。
 みなさんかかれていますが、人とお話をしたり、鬱積しているものを文字にしてみると、心の整理が少しずつできるものだと思います。
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この回答へのお礼

そうですよね。自分だけが苦しいわけではないですよね。当たり前のことだけどたまに見失うことがあります。支えあって生きていきます。

お礼日時:2001/06/15 19:49

人生なんて付属物です。


お父さんの話をしていただければ、答えられるかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。でも、付属物の意味がわかりません。

お礼日時:2001/06/15 19:34

誰かと話せば気持ちが癒えます。

いのちの電話とかではなすとか。私はよくテレクラを利用しました。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってすいませんでした。自分から話していきます。待っていても何も変わらないから。

お礼日時:2001/06/15 19:32

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Q孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか

 1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

 2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 


 




 3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

 4. 孤独どうしであり 孤独関係である。

 5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不自由や不安やまた孤独関係に向き合ってあゆむものか。

 6. それとも われが孤独関係なるわれに立つとき おのが孤独なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

 7. 固有なる《とき》こそが われのわれなる所以である。か?




 【Q:《まじわり》をめぐる或る対話】
 その回答No.7をめぐって考えようとする問い求めです。
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8580531.html

Aベストアンサー

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ死んでもおかしくないし、かまいもしない存在です。でも、そのような覚悟を理想的に完了すれば、他人のそれぞれが、それぞれに唯一無二である事も了解できるはずです。それは対話への契機だと思います。


>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

という問いは、たぶん無意味だろうというのが、自分の意見です。

>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか?

 そういう意見です。


[追伸]
 あなたとのやり取りは、個人的にはけっこう長いと思っているのですが、過去の会話に鑑みて、真意を汲み取って頂けませんかね?。都合の良い話だとは思いますが・・・(^^;)。

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ...続きを読む

Q孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか

1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たる
ことが出来る。と見るべきか? 


 




3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びするこ
とである。

4. 孤独とは 孤独関係である。

5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不
自由や不安やまた広く孤独関係に向き合ってあゆむものか。

6. それとも われが社会にあって孤独関係なるわれに立つとき むしろおのが孤独
なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

Aベストアンサー

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにないことを、予めご了承ください。)



>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

「孤独って?」

孤独とは、物理的に、肌寄せ合う人がいないことか?

或いは精神的な繋がりを誰とも持つことが出来ないという感覚か?

では「孤独」の対義語はなにか?「帰属」?「社会」?「集団」?

個人的には「孤独」と対の言葉は「友」

孤独からの帰還を切に願いますが、それは「誰それへ」或いは「どこそこ」への帰属ではなく、
自分が自分でいることを保証してくれる「Someone」との友好関係です。

『孤独はいいものだ。けれども、「孤独はいいものだ」と、語り合える誰かがいることはもっといいことだ』(バルザック)
これが理想です。


>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 

帰属することによって、個が埋没してしまうことは避けなければならないと思います。
これは「孤独のパラドクス」ですが、「わたしが完全にわたしであることを容認してくれる相手」が友と呼びうる人であり、
わたしが殺人を犯していようと、ジャンキーであろうと、受け容れる人です。(わたしは「友」が犯罪者であっても一向に構いません)

>ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。

これは全く同意見ですが、その前提としては、孤独地獄からの帰還イコール「社会への帰属」ではない、ということかと思います。


>3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

>4. 孤独とは 孤独関係である。

無論そうでしょう。孤独の状態こそわたしが完全にわたしである状態だと思っています。(で、あるから「孤独」に陥るのですが)
その「わたしがわたしである」状態を認めてくれる相手との交流、それが「孤独」の交流ではないかと思います。

5.は解読不可能

6は7と同じように思うので

>7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

わたしがわたしである状態は「孤独」に立脚するとはいえ、それをサポートしてくれる存在=愛が必要です。

つまり「わたし」が「わたし」であるためにはそれを認め、支えてくれる存在が必要です。
無論これを一般化するつもりはありません。あくまでわたしの個人的な意見に過ぎません。

結論としては、先ほどのバルザックの言葉のように、「孤独を認め合える友」が理想です。

『寒いねと、いえば「寒いね」と、こたえる人のいるあたたかさ』 (俵 万智)

孤独を考えるなら、その片割れである「友」とは何かをも同時に考えなければならないのでしょう。
(孤独の対概念が友と考えているのはわたしですから、それを考えるのもわたしですね)

以上、完全なる「非哲学的」私見を述べさせていただきました。

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにない...続きを読む

Q亡くなった人の写真について

●亡くなった人の小型の写真を仏壇に飾っておきますが、決別するためにも1年くらいたったら取り去るのが正しい、と聞きましたが本当でしょうか?

●もしそうだとしたら、遺影(黒枠)でなく、思い出として元気な写真を仏壇でない所に飾っておくことは、良いのでしょうか?

●外国では亡くなった人の写真については、どんなしきたりになっていますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

専門家ではないので、参考程度にしていただければと思います。

神道やキリスト教、その他新興宗教のことは存じませんが、少なくとも仏教には「一年たったら写真を片づけろ」というようなしきたりはないと思います。

私の祖母も以前、親戚の方から「あまり長いこと写真を飾っておくと、亡くなった方があの世に行けずに迷ってしまうよ」と言われたことがあるそうです。
でもそれは、「いつまでも亡くなった人のことをくよくよ思っていても仕方がない、これからの人生を前向きに生きていきなさい」という方便であったと思います。

ですから、写真を一年たったら片づけてしまうことが正しいとか正しくないとかではなく、あくまで気持ちの問題なのだと思います。写真を片づけてしまうことでさらに悲しみが深くなるのであれば、片づける意味はないと思います。

遺影というのは亡き人を偲ぶものだと思います。亡き人の写真を見ることで、少しでも「まだ傍にいてくれる」と思えることが支えとなって、徐々に悲しみを癒していく、そのためにあるのだと思います。それを、「さあ、一年たったから片づけましょう」と言ったところで、気持ちの整理ができていない人には却ってつらくなってしまうと思うのです。

また逆に、写真を片づけることで気持ちの整理がつく人もいると思います。写真をすべて片づけてしまって、思い出は胸の中だけにして、気持ちを新たにして生活いくというのも選択肢の一つであると思います。

ちなみに我が家では、祖母、叔母の遺影(といってもスナップ写真ですが)を、もう何年も飾ってあります。仏壇の傍とテレビの上とにありますが、私は写真の前を通る時は、必ず片手を上げて「ども」と挨拶します。
そこに祖母も叔母もいると思っているからです。

専門家ではないので、参考程度にしていただければと思います。

神道やキリスト教、その他新興宗教のことは存じませんが、少なくとも仏教には「一年たったら写真を片づけろ」というようなしきたりはないと思います。

私の祖母も以前、親戚の方から「あまり長いこと写真を飾っておくと、亡くなった方があの世に行けずに迷ってしまうよ」と言われたことがあるそうです。
でもそれは、「いつまでも亡くなった人のことをくよくよ思っていても仕方がない、これからの人生を前向きに生きていきなさい」という方便...続きを読む

Q自発の「が感じられる」と「を感じる」の違いについて

 日本語を勉強中の中国人です。哲学のカテゴリでもお伺いします。自発の「が感じられる」と「を感じる」の違い(形ではなく、ニュアンス上)は何でしょうか。どうも自発が中国語にはないので、大変難しくてその感覚を理解するのに苦労しています。

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Aベストアンサー

私は『~が感じられる』のほうには「客観性」「可能性、~かもしれない」という印象を持ちます。自分の感覚も曖昧な状態。
『感じる』のほうは、自分ははっきりそう感じているときに使うと思います。

Q世の中って理不尽だなぁ。 と感じた経験はありますか? 私は人間関係においてよくそう感じます。 例えば

世の中って理不尽だなぁ。 と感じた経験はありますか?

私は人間関係においてよくそう感じます。

例えば、世の中には自分勝手な人がいます。
自分勝手な人が待ち合わせをして遅れたとします。
『待ち合わせに遅れた』という勝手な行為は、『遅れた相手を待つ』という優しい人の行為によって相殺され、人間関係の釣り合いが保たれます。

自分勝手な人はこのようなことを日常的に繰り返すにも関わらず平気で生きています。
自分の勝手が相手の優しさによって支えられているとも知らずに。


自分で言うのも厚かましいのですが、どちらかと言うと私は他人の勝手を相殺する側のポジションで生きていると感じます。

常に人の気持ちにアンテナを張り巡らせています。

なんだか、自分のこの性格は疲れました。


勝手な人がいる中で、自分はこうやって気疲れしているのが理不尽だなぁ。と感じます。

Aベストアンサー

たとえば、常に遅刻しない、待ち合わせには必ず3分早めに到着している人がいるとします。
逆に、必ず10分は遅刻する人がいたとします。

しかし、結婚相手同士でもなければ、一生続く組み合わせではありません。

常に早めに来ている人が、格段に社会の信用があるばかりか、その他の面でもきちんとしているでしょう。
常に遅れる人は、ルーズな性格だと思いますので、その後、それなりの人生だと思います。

早く来たからと言って損をするわけではありませんし、遅く着て得もしません。

常に遅れる人のことを嫌であれば、引きずられて自分も嫌な人になるのではなく、相手を引き上げてあげる人になると良いです。
それが出来ないのであれば、相手を見捨ててしまうのも一つの方法です。

常に遅れる人は、その様にして、一生の間に多くの人に見捨てられていくでしょう。

疲れたからと言って、悪影響を受けるくらいなら、離れた方が良いです。


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