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新古今和歌集の秋の部を読んでいて気になったことを質問します。

1.旧暦の七夕は、新暦では8月8~25日の間と思います。
2.万葉集・古今・新古今ともに七夕は秋の部に入っています。

今の8月と捉えるにしては随分と秋が深まっている表現が目立ちます。
前後の歌も紅葉や薄、白露などで9月以降の気候を連想させます。
歌については下に列記しました。

これはどのように考えたらよいでしょうか?次のような要因を考えましたが、全く自信はありません。

a.現在の暦の8月の頃は今よりも早く秋らしい気候だった。
b.七夕の時期がもっと遅く行われていた?
c.情緒を際立たせる目的で秋の風情を強調した

この題目にお詳しい方、このように思うと解釈お持ちの方、どうぞお聞かせ下さい

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新古今和歌集巻第四秋歌上 
313 大空をわれもながめて彦星の妻待つ夜さへひとりかも寝む
314 この夕べ降りつる雨は彦星のと渡る舟の櫂のしづくか
315 年をへてすむべき宿の池水は星合の影も面なれやせむ
316 袖ひちてわが手にむすぶ水の面に天つ星合の空を見るかな
317 雲間より星合の空を見わたせばしづ心なき天の川波
318 七夕の天の羽衣うち重ね寝る夜涼しき秋風ぞ吹く
319 七夕の衣のつまは心して吹きな返しそ秋の初風
320 七夕のと渡る舟の梶の葉に幾秋書きつ露の玉章
321 ながむれば衣手涼し久方の天の河原の秋の夕暮れ
322 いかばかり身にしみぬらむ七夕のつま待つ宵の天の川風
323 星合の夕べ涼しき天の川もみぢの橋を渡る秋風
324 七夕の逢ふ瀬絶えせぬ天の川いかなる秋か渡りそめけむ
325 わくらばに天の川波よるながら明くる空には任せずもがな
326 いとどしく思ひけぬべし七夕の別れの袖における白露
327 七夕は今や別るる天の川川霧たちて千鳥鳴くなり

古今和歌集 
173 秋風の吹きにし日より久方の天の河原に立たぬ日はなし
174 久方の天の河原の渡し守君渡りなばかぢかくしてよ
175 天の河紅葉を橋にわたせばや七夕つめの秋をしも待つ
176 恋ひ恋ひてあふ夜は今宵天の河霧立ちわたり明けずもあらなむ
177 天の河浅瀬しら浪たどりつつ渡りはてねば明けぞしにける
178 契りけむ心ぞつらき七夕の年にひとたびあふはあふかは
179 年ごとにあふとはすれど七夕の寝る夜の数ぞ少なかりける
180 七夕にかしつる糸のうちはへて年のを長く恋ひや渡らむ
181 今宵こむ人にはあはじ七夕の久しきほどに待ちもこそすれ
182 今はとて別るる時は天の河渡らぬ先に袖ぞひちぬる

※万葉集 大伴家持歌 
4306 初秋風涼しき夕べ解かむとそ紐は結びし妹に逢はむため
4307 秋といへば心そ痛きうたてけに花になそへて見まくほりかも
4308 初尾花花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く
4309 秋風になびくかわびのにこくさのにこよかにしも思ほゆるかも
4310 秋されば霧立ち渡る天の川石なみ置かば継ぎて見むかも
4311 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月傾きぬ
4312 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ
4313 青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか

A 回答 (3件)

私はあまり詳しくないのですが、答えさせて頂きます。



和歌の基本となった万葉集の成立は7世紀から8世紀です。
このとき使われていた暦は古代中国の儀鳳暦697-763、大衍暦764-862の時代です。(他にも併用していた暦があります)

これらは何れも中国で使われていたものをほぼそのまま用いており、当然誤差が有ると考えられます。
現在「旧暦」と呼ばれているのは「天保暦」ではるか後世の暦です。
なので、第一に古代中国(唐の初期?)との緯度・軽度の誤差、第二に地球自体の変化ではないでしょうか。
和歌は気候に関係なく、厳しいルールに縛られて作られていたそうです。ですから実際の機構に関係なく、季節や表現法は江戸時代になるまで固定されていたと考えれば、古今集などもその時代の気候を表わしていると考えるほうが間違いだというべきだと思います。
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この回答へのお礼

御回答を有難うございます。

なるほど、薄学で旧暦と言えば今の高島本暦みたいな暦で見る旧暦(=天保歴)と思いこんでおりました。
また、今の歳時記に書かれた七夕(これも「旧暦」に沿っていますが)を意識していて、余計に間違っていたようです。

1.ご教示頂いた儀鳳暦、大衍暦による七夕やそれ以外の節気は、単純に今の暦の1ケ月程度のずれと云えない事
2.万葉以後の「七夕」は必ずしも実景を詠むよりも、約束事の表現に則った歌を作ることが大切だった

この様に考えるのが正しいということでしょうか。もし、間違いや不足な事ありましたらご教示いただければ幸いです。
とても参考になりました。儀鳳暦、大衍暦などの季節を調べてみたいと思います。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2014/10/05 16:43

回答者は和歌の専門家ではなく、星が好きで天体を扱った文芸にも興味がある一天文ファンに過ぎませんが、天文・気象の視点から管見を述べることをお許しください。



まず昔の七夕(伝統的七夕)は旧暦の七月七日(以下旧暦は漢数字、西暦は算用数字)ですので、ご指摘のとおり西暦では年によって異なります。国立天文台によれば2011年から2030年の間で、伝統的七夕の日は最も早いのは8月2日(2014年)、最も遅いのは8月29日(2025年)となっています。また福島久雄氏の「孔子の見た星空‐古典詩文の星を読む」によれば、紀元(西暦)1年から100年までの百年間の七夕の日が太陽暦の何月何日になるかを調べたところ、最も早い年が8月1日、最も遅い年が9月1日となっています。

また万葉集の家持の七夕の歌の題詞にある天平十年(後述の巻十七の3900番)と天平勝宝六年(ご質問に引用された巻二十の8首)に関して、旧暦を現行の西暦(グレゴリオ暦)に換算する一覧表「例解・旧暦新暦対照表」(歴史ペンクラブ編)を使って調べて見ますと、天平十年の七月七日は西暦738年8月1日で、天平勝宝六年の七月七日は西暦754年8月3日となりました。(この西暦は当時使われていたユリウス暦ではありません)いずれにせよ旧暦の七月七日は、西暦(現行のグレゴリオ暦)の7月末から8月末まで位の約1か月間の期間のうちのどこかになります。

ご質問について考えますと、まず七夕を詠んだ歌の多く(あるいはほとんど)は、実際の星空を見て感動して詠んだ歌ではないと考えられます。天文学者の石田五郎氏は懐風藻の七夕の詩と万葉集の七夕の歌について「いずれも宴席における式典歌で、星空を眺める感動はこもっていない」(「星の歳時記」)と述べています。万葉集の七夕の歌すべてがそうかといえば、ご質問に挙げられた家持の和歌の題詞に「右は、大伴宿禰家持、ひとり天漢を仰ぎて作れり」とあることなどから少し言い過ぎだと思いますが、石田氏の指摘が当たっている歌が多いことは確かです。

回答者の考えは、現実の旧暦七月七日の夜空から離れて、七夕(七夕伝説)を、和歌の知的な題材として宴席などで採りあげているため、「秋の風情」をより強調するようになっているのではないかというものです。ご質問のように「秋」を強調している歌は、実際の星空を見て詠んだ歌ではないと考えられる観念的な歌に多いと思われます。

例えばご質問の古今集175番の歌 天の河紅葉を橋にわたせばや七夕つめの秋をしも待つ など、「天の河」「紅葉」「七夕つめ(棚機女)」と秋の事物をこれでもかというほど盛り込んでいますが、それだけのことであって、もちろん七夕のころに紅葉が見られたわけではないと考えられます。新古今集323番の歌も同様です。ただし万葉集の家持の歌にはさほど季節的なずれを感じません。

例えば4308番の歌 初尾花花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く

奈良地方気象台のサイトによれば、奈良市におけるススキの開花は平年が9月13日ですが最も早い年は8月2日だということですし、比喩に挙げる植物の季節感としては(「大体この頃」という意味で)違和感はありません。

また同じ家持の次の歌も、実際に夜空を見て詠んだものだと考えられます。

(天平)十年七月七日の夜、ひとり天漢(あまのがわ)を仰ぎていささか懐を述ぶる一首
織女(たなばた)し 舟乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ちわたる(巻十七 3900)

「古今和歌集」や「新古今和歌集」の七夕の歌になると、実際に星や天の川を見て詠んだと判断できる歌が万葉集よりさらに少なくなります。多くの歌は詞書から、詠んだ日が七夕であることは確かですが、家持の3900の歌と比べても「星空を実際に眺めた感動」には欠ける憾みがあります。

また新古今集の歌では「七月七日、七夕祭する所にてよみける」とある317番の歌は、宮中や貴族の家の行事として牽牛・織女の「二星会合」を見ることを含む乞巧奠の儀式が行われていたこともあり、実際に天の川を見て詠んだ可能性もある歌だと思いますが、そのほかの「七夕のこころを」詠んだなど歌はそうではないと思います。

これから先は、ご質問の趣旨からやや離れた天文ファンの独り言です。昔の七夕は旧暦の七日ですので、夜半に沈むまでは必ず上弦の半月が出ていることになります。(その意味からも家持の3900の歌は実際の夜空を見て詠んだ歌だと思います)天の川は月が沈んだあとの方がより見やすくなりますが、奈良時代や平安時代には屋外に明るい照明がなく、人工的な大気汚染もないので多少月があっても天の川はそれなりに見えたことでしょう。

また近年日本では大都市圏を中心に寝苦しい熱帯夜の日数が増えてはいますが、「夜の秋」という季語もあるように、もともと晩夏の夜は気温が下がって夜露がおります。この時期(8月)ペルセウス座流星群などを草原に寝転んで徹夜で見ていると、牽牛(わし座アルタイル)や織女(こと座ベガ)が西空に低くなり、おうし座やオリオン座など冬の星座が東天に昇るにつれて、寝袋にも露が下りて冷たく感じることがあります。こうした体験からは、

万葉集4312 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ
新古今集326 いとどしく思ひけぬべし七夕の別れの袖における白露 

などの歌は、いずれも織女の心情を想像して作った歌だとしても、この季節をよく表現しているように感じるのですが…。
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この回答へのお礼

造詣に満ちた御回答を戴き有難うございました。
直ぐにお礼を申し上げるべきところ大変遅くなり御無礼いたしました。

天文と歌・古典文学への豊かな学識に満ちた内容に、多々考察を巡らす事ができました。
歌に関する解釈も懇切にして頂き、貴重なご教示にお礼申し上げます。

最初の自分の想定の1つ「情緒を際立たせる目的で秋の風情を強調した」事が
間違ってはいないようだと得心する事が出来ました。
ご回答で戴いた解釈でも、実景に即詠・実写詠したと思われる歌は、
三歌集の内で古今・新古今と比較して万葉集に多く認められる事も、ある程度頷けます。

私が選んだ三集の七夕歌でも、家持の歌には実景に臨んでの心情を感じます。
古今・新古今からの歌の多くに、歌会の為の題詠として複雑な技巧による象徴の世界を見て、
浅学にて一般に云われる「写実・写生の万葉」から、「有心・幽玄の古今、新古今」を改めて実感いたしました。

staratras様が旧暦の当時の天象を判り易く説いて戴き、其々の歌に呼び起される情景が更に色鮮やかになりました。
かって野尻抱影先生の随筆を愛読しておりましたが、通り一遍だったなと自省しております。
ご紹介戴きました石田五郎様の御作など、天文に関する本も紐解いてみたいと思います。

とても勉強になりました。改めてご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/23 20:14

こんにちは。


七夕の頃の実際の自然現象と歌に詠まれたそれ、たしかにずれを感じますね。

『源氏物語』の夕顔巻は若き光源氏と彼が偶然見出した儚げな女人との悲恋を描いた
一帖ですが、これは夏から秋にかけてのできごとです。
八月十五日の名月のころ、戯れに連れ出した別邸で逢瀬を楽しんだのもつかの間、
夕顔の君はもののけにとり殺されてしまいます。
源氏は悲しみのあまり病の床に臥しますが、九月の二十日ごろにようやく
体調が回復し、夕顔の女房・右近を召し出して会話ができるようになります。
そこのシーンでの自然描写ですが

夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、

とあり、ここから<紅葉が赤みを増してくるのは旧暦九月の下旬あたりから>と
いうことがわかります。

また他の巻でも

長月(=九月)になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。

とやはり九月を過ぎてようやく紅葉しはじめる、という様子が見て取れます。
新暦では十月半ば~末にかけてと考えられますので、季節的には平安人も現代の我々と
同時期に紅葉を向かえていたと言えるでしょう。

また別作品の『うつほ物語』では、大納言・源正頼の姫君達が七夕に賀茂川の川原にて
髪をすすぎ琴を弾き和歌を詠むというシーンがあります。
そのうち中務宮の北の方である姫君が読んだ歌と言うのが
<秋を浅み紅葉も散らぬ天の河なにを橋にてあひ渡るらん>
・・・秋も浅いので紅葉も散らない天の川 なにを橋にして彦星は渡るのでしょうか
というものです。
まるで古今集の
<天の河紅葉を橋にわたせばや七夕つめの秋をしも待つ>
を真っ向から否定するかのような内容です。

このように実際の紅葉の時期と七夕とは二ヵ月以上もずれがあるにもかかわらず、
なぜ歌に読み込んだか、という理由については浅学の身ゆえ歴とした解釈が出来かねます。
ただ、質問者様の御指摘の<情緒を際立たせる目的で秋の風情を強調した>
という意図によるものであっても不思議ではないかと思います。
うつほの中務の宮の北の方のように常識的なリアリストもいれば、古今の作者の
ように季節観のずれはあえて目をつぶってしまったうえで
「白銀の星の河に真紅の紅葉の橋を架けたらさぞかし美しいだろうなあ!」とひたすら
ロマンティックな思考で詠む人もいたという事で・・・。

古今集の175番限定の、しかも自分の勝手な解釈になってしまいました。
申し訳ありません。
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この回答へのお礼

kasane様 物語の季節の描写より、平安人の実感する季節を教えて頂き、有難うございました。
お礼が大変遅くなりました。お許しください。
教えて頂いたところを読み、改めて成る程と得心いたしました。
なるほど、『源氏』『うつほ』ともにリアルな当時の貴族の描写であり、季節を実感出来る物語だったのですね。

平安時代の著名な歌の殆どは、歌合や歌会の為に前もって題に沿ってしっかり検討して
技巧を凝らしている、というのは当然なのですが、自分はつい、各時代の歌集を観賞する時に
詠み人の立ち位置と心象とが同時であるように錯覚してしまいがちです。

その瞬間の心情を吐露した歌で、こんなに優美な調べをやり取りする・・・・
というのはそれこそ「源氏」や「うつほ」などの世界でしょうね。

しかし、物語の中とはいえ「即詠」の歌という設定の分、登場人物の心理は技巧を凝らす暇もなく
実感の描写の歌となったのでしょうか?

そこまで計算・配慮があったのかは判りませんが、物語の中の歌でも歌会と即詠の歌で
技巧に差があるようなら、作者の設定は流石といえるのでしょうね。

御引用下さった両書とも、よく読んでみたいと思います。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2014/10/23 20:57

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