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キリスト教は自殺を禁じている。
仏教は自殺を禁じていない。

或る人が
言っておりました。

これは本当なんでしょうか。

A 回答 (2件)

キリスト教(カトリック)の信者ですが、仏教・神道はじめ宗教全般に深い敬愛を抱いています。


「宗教が自殺についてどのように考えているか」については非常に関心があり、前にも以下の質問を投稿しました。

宗教家は、自殺(自死)をどう考えているのか?(小生質問)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8253567.html

この質問文にあるように、キリスト教では元々、「自殺は他殺と同様、生命をないがしろにし、神を冒涜する行為である。」と言う理由で大罪と位置付け、自殺者の葬儀は受け付けず、公然と差別してきましたが、近年は、自殺に至った事情や精神状況も勘案し、「審判者」たりうるのは神のみであって、人間が自殺者を裁くのは当たらない、という考えの下、自殺者の葬儀も行い、遺族に対してもサポートの手を差し伸べています。

しかし、そのような対応の変化に拘らず、やはり根底に流れている思想は、「自殺者は救われない」というものであり、決して自殺を肯定するものではないことは言うまでもありません。

対して、仏教の場合、回答No.3の方が述べておられる通り、死に方をあまり問題とはせず、お釈迦さまも弟子から死後のことに関して聞かれた時、「知らない」と言い切っておられるとのことです。

仏教には、生きながら自ら食事を絶って仏になる「即身成仏」や、死に至らないにしても仏の境地に達して「悟る」こと、或いは武士道との相互影響もあって、「自分を無にして人のために尽くす」ことが尊いことと思われ、結果、自殺に関してはさほどアレルギーにならなかったのかもしれません。

なお、私は、以前は、自殺の是非について尋ねる質問に対して、キリスト教の立場から、自殺を絶対否定する回答を投稿していましたが、最近、個人の倫理観念と関係なく、うつ病やその他強い衝動のために自死を余儀なくされる人の存在を知り、自殺(自死)の是非に対して確答を避けるようになってきたかと思います。
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この回答へのお礼

短い質問でしたのに詳しくお答えくださり誠に感謝いたします。
回答者さんの以前の質問&回答の方も一読いたしました。
キリスト教の自殺に対する姿勢の変遷など勉強になります。
お考えの変化も素晴らしいと思います。
キリスト教では自殺は神への冒涜になるそうですが
自殺を責めれば当人を二重に苦しめるかと思います。
仏教は即身仏など生きる事に執着しない一面があるみたいですね。

お礼日時:2014/10/08 18:33

こんにちは。



仏教は、「自殺」を否定はしていないのです。
ただ、この世に未練を残したまま死んではいけないのです。

釈尊の一番弟子とも言われる、アーナンダ(阿難)の最期は壮絶です。ガンジス川で船が真ん中に来た時に、自分に火をつけて焼身自殺しました。私は、その光景が目に浮かびます。大勢の人が観ていましたが、見ている側は、年老いたアーナンダの最期は、とても悲しかったと思います。別所では、死期を悟ったとも書かれていますが、自分の仕事の役目は終わったということだったと思います。私は、彼が、とても複雑な状況の中で、死を選んだような気がします。

また、釈尊自身の最期も、弟子たちには、出されたものを食するのを禁じ、毒きのこ(または豚肉)を食べて、亡くなったと言われます。(当時、必ずしも、仏教では肉食を禁じているわけではありません。)

#1の方の、
>「弟子から死後のことに関して聞かれた時、「知らない」と言い切っておられるとのことです。」

正確には、弟子ではなく、別の思想家からの質問だったと思います。上座部仏教経典にあるお経(箭喩経-せんゆきょう)で、後々、「無記(捨置)」説と呼ばれるようななったものです。釈尊は、死後のことを聞かれた時に、返事をしなかった、という話です。つまり、[知っているとも、知らない]とも、答えなかったのです。これは、答えないのが、答えなのです。これは、西洋でも同様の考え方があると言います。二者択一の質問に、そのどちらでもない、ということです。

それでも、食い下がってしつこく質問すると、釈尊から、「毒矢のたとえ」話をされたという話です。毒矢に打たれた人の素性などをあらためるよりも、その人の治療を優先しなさい、と教えたというそうです。

釈尊は、どこかの人が言っている「現世において現実の苦しみを解決をしないと、また来世で苦の輪廻を受けることになるというカルマの法則だ」なんていうことは言ってはいません。「輪廻」は、当時からあるインドの思想であり、当初の仏教にはそのようなものは、考慮はしなかったのです。

ただ、仏教において死とはどう考えるかというと、「永遠の命」や「輪廻転生」という、新宗教的な考え方ではなく、私は、いつも宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる「石炭袋」のような解釈をしています。キリスト教が神に召されるなら、仏教は、違った見方があるのです。

仏教徒にとって、死とは「石炭袋」のように、真っ暗で何も見えない、あるのかどうかさえ分からないということです。輪廻から外れるというものは、後代の仏教の概念だしても、宮沢賢治がいう言葉のほうが正確ではないかと思います。それは、死の向こう側は誰も分からないのです。それに、禅仏教も、未練も何も残さないことであって、生も死にも執着を示さないことです。禅宗では、仏であり悟りというものは、刹那の単位にしかありえません。言い換えれば「悟り」は、1度限りではないということです。

もちろん、「無我」とは、ニルアートマン(非アートマン)のことですが、これは自分がないとか、「無」に帰するという意味ではありません。近代のデカルトの自我の発見を、逆に、否定するものだとも言われています。「自我」という概念がなくても、人は生きていかれます。これも「ある・なし」では言い切れないアンチテーゼになるものだと思います。禅に関しては、私の教わった受け売りですが。

なお、即身成仏は、我が国では平安時代からの始まって、密教が主体であるとはいえ、純粋な意味では仏教とは違う修験道などの思想が入っていると思われます。

また、キリスト教の場合は、私たちは、神から与えられた命であるので、それを自ら死ぬことは許されないと言われています。この件については、アメリカの一部のキリスト教徒から、日本人の自殺の多さについて、韓国よりも多いと、いわれなき批判がされました。その理由をキリスト教を信仰しないからだと言うのです。しかし、それとは、関係がないのは言うまでもありません。なぜなら、韓国は、キリスト教徒が日本よりも多いのに、それほどに自殺者数が変わらないのですから。

それから、イスカリオテのユダが、イエスを裏切ったことで自責の念に駆られ、自殺したという話は聖書に出てきます。地獄で永遠に苦しむとされています。

私は、このような認識のもとにいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

アーナンダは自殺だったとは存じませんで初めて知りました。

現世の苦しみを解決しないと来世で苦の輪廻を受ける、
カルマの法則は聞いたことがありますが、
釈迦はそう言っていないんですね。

色々と勉強になります。

お礼日時:2014/10/10 22:14

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