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私は医師よりアスペルガー症候群の診断を受け、三級の手帳を持つ三十台半ばの男です。一応結婚して、子供も二人います。仕事は転職したばかりで、未経験の職場ということもあり叱られるばかりの毎日ですが、よくしていただいています(障害に関してはクローズで入社しました)。

最近疑問に思うことがあり質問させていただきます。
よく巷で言われる「相手の立場に立つ」という言葉の意味についてです。
私は、この言葉は「自分が相手の立場であれば、こうされるとうれしい」や「自分の知識や経験上、こうすることでうまくいく」という理解でした。うまくいかないときもありますが、それは自分と相手の考え方の相違で、次回同じような事例があれば修正して行えばよい。知識や経験が足らなければ、失敗を通じて学べばよいと考えていました(今でもそう考えています)。
私はアスペの例に漏れず、その場で空気を察したり知らないことに臨機応変に対応することが苦手なので、選択肢を増やすことが正解への道と考えているのだと思います。

ところが、私のやり方は「自己中」といわれることがあります。「お前の考えには相手がいない」といわれたこともありました。私なりに要約すると「相手の思考や心情を読み取って(予測して?)、対応できないなら、相手のことを考えたうちに入らない」ということなのだと思います。
正直いって、よく判らないです。
私の考え方が「自分の知識や経験に依存している=自分の視点で物事を捉えている」のはわかります。ただ、それ以外の視点とはどんなものなのかが判らないのです。

だってすべての情報は、一度自分というバイアスを通さないと、認識できないものではありませんか?相手の思考を推察するにしても、その前提は自分の中にあるのではないでしょうか。純粋に相手の思考を読めたり、客観を捕らえられるのは神様かエスパーの類としか、私には思えないのです。
また、そういうことを言ってくれる方は、大概「頭の回転の速そうな方」なのです。いわゆる世渡り上手と言いましょうか、どんな集団でもすぐに存在感を発揮できそうな方がそういいます。
彼らが言うには、私の考え方は「頭でっかち」や屁理屈に近いものなのだそうです。認識の問題ではなく、現実に対処できているかどうかが問題で、そこに理屈や理由は要らない。ただ実践しろといわれます。確かにそれはそうなのですが、どうすればいいのか、やり方を聞いても私にはわからないのが現実です。
言い回しの問題でなく、たぶん私が気付いていない「肝」が、彼らの言葉にはあるのだろうとは思うのですが、自分ではたどり着けそうにもありません。
なので、皆様のお知恵を拝借したいというわけです。

お聞きしたいことは

1 相手の立場に立つということの、私の考え方の間違いはどこなのか?
2 相手の立場のたつとは、どんな思考手順で行われる行為なのか?(できれば真似たいです)
3 普通の人と自分の相手の立場に関する考え方の違いはどこにあるのか?
4 普通の人から見て、私の考えはどう見えるのか?

です。上のほうほど優先度が高いと思っていただければ幸いです。
結構本気で凹むことも多く、何とかしたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (5件)

回答の補足をさせて頂きます。


あなたの考え方は間違いでは無く、その悩みも正当なものですが、この事をクリアするのに情報が足りていないと感じられます。
発達障害者と定型発達者の関係は、少数派と多数派の関係なのです。多数派の定型発達者は、多数派でなければ生存が可能で無い性質を以って、多数派である事を維持しているのです。少数派は、少数派であっても生存が可能であるし、少数派である事が有利だから少数派を維持しているのです。
だから、この両者が一対一で対峙すると、必ず多数派である事を担保にした多数派の人が負けるのです。負けそうになったからには攻撃しなくてはいけない。その攻撃の武器が、彼等の共通概念である「普通」なのだけど、この武器は少数派の痛手になる程の効果が無い。もとから相手は、少数派で存在可能なのだから。であれば多数派は、相手に難癖つけては疎外するという行動に出て、自身の存在意義を守るしか無いのです。
定型発達者にとっての発達障害者とは、どちらが淘汰されるかという切羽詰まった相手なのです。発達障害者は、コニュミケーションが苦手だとか、空気が読めないとか、自己中心的だとか、その特徴が羅列されます。これらは全て定型発達者側から、発達障害者と定型発達者の関係性の不全は、全て発達障害者側の問題であるという見立てであって、発達障害者に内在する症状では無いのです。また、これらを理由に定型発達者が発達障害者を疎外する訳でもありません。定型発達者にとって発達障害者とは、ただ黙ってそこにいるだけで、強烈な自己主張を発散する、異質で不可解な存在なのです。ですから、発達障害者側が途方も無い努力をして定型発達者のご要望に応えたしても、この疎外は無くなりません。さらに定型発達者は発達障害者へ向けて次の難癖を発明し、自身の生存意義の保全を図るのですよ。
あなたが、社会生活者として定型発達者との交わりを望むなら、自身が変わり者である事に遠慮をしない事です。「私は変人でございます」という分かりやすさを環境に提供する事です。発達障害者である事をカミングアウトしろと、言ってるのではありません。そんな事をしたら定型発達者に攻撃の手段を与えるだけですからね。それが症状なら改善しろとなるんですよ。ですが、あなたが唯の変わり者なら相手は納得してくれます。変人のものの見方考え方は、社会の役に立つからです。多様性のひとつとして受け入れられます。
総じて「相手の立場を考えろ」との要求は、相手の事情を考慮せよとの事ですが、相手が隠した相手の事情までは考慮する必要はありません。これは、どの立場の人にとってもそうですよ。それでも相手が仕掛けてくるこの要求の本質は、「いい加減自分が変わり者だと認めて自覚してくれ」という要求なのだと感じます。あなたが、その事を分かって無いのじゃないかと、相手を不安にさせているのですよ。ですが、「変人だ」とは直接的に本人相手に言いにくいから周りくどく難癖つけては、自覚を促しているのだと感じます。
ならば、「はい、変わり者で生きて来ました」と看板かける事が解決のように思います。
発達障害者は発達障害者として発達し、成熟するのです。定型発達者の考え方を借りたところで、活用出来ません。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

自分が変わり者であることの自覚を持つこと。変わり者としての有り様を自分として生きるということでしょうか。仰ることなるほどと思います。
定型の方と、同じ思考法をしようと考えても、無理であることは分かります。であるなら、自分は変人だと公言するほうが、相手からしても関わり方の幅ができるのかもしれませんね。かなり勇気のいる判断ですが、それが正解のような気がしています。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/13 21:15

例えて言うならば、質問文を他人が読む前提と考えて


改行など使い、読みやすく書く事でしょうか。

私の離婚した相手も発達障害(アスペ)の人でしたので
怒っても、「何故怒られるのかが解らない人」で困りました。

やはり「相手の立場になって考えて」と私は常に言いました。
その意味がなかなか理解出来ない人でした。

その都度その都度ではさすがに疲れますが
大きい事を言う・実行する時に
(もし相手が言われたらどう思うか)とか
(こんな事したら相手は嫌だろうか、喜ぶだろうか)を
考えてくれ~と相手には言ってました。

1~3はこんな答えになってしまいます。

確かに元旦那も屁理屈は上手と思いました。
それと自分を守ると言う事に関しては上手でした。

きっと常日頃の質問者様の態度・言い方に相手はそう言うのでは
ないでしょうか?(相手の気持ちを考えろと)

他人から見ればアスペの事を言わないでいると
自己中心的な人とか、空気読めない人、自分が可愛い人
など思われ、誤解されるかもしれません。

でも世の中、アスペでは無く普通の人でも
そんな人が多い世の中です。
私も仕事でいろんな人見ますが、他人を思いやる気持ちが少ない人
さみしいですが結構多いですよ。

そんな人は相手の事より自分が大事なのかと思います。

極端な話、相手が喜ぶ顔が見たいと思うと楽なんですが。
やはりバカバカしいと思う人が多い時代なのかと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

気分を害す手しまうかも知れませんが、あえて書きます。
文章読みづらいでしょうか?私としては改行の多い文章の方が落ち着かないのですが、普通の方は私の文章の構成やレイアウトには不快感を持ち、回答者様のようなレイアウトが受け入れられやすいのでしょうか?教えていただければ、できる範囲で取り入れていきたいと思いますので、ご教授いただけないでしょうか?

文章構成にもいえる事ですが、私は私なりに相手の方に文意が伝わるように、読みやすい文章を心がけているつもりなのです。
日常でも常にではないですが、指摘を受けるようなことは、私なりに相手のことを考えて「こうすれば楽になる」「これをしたら喜んでもなえるかな」とかを考えて行動しているつもりなのです。
屁理屈と呼ばれることも、相手が「なぜそうしたか」を強く問うので、仕方なく理由をつけるのですよ。元々失敗や破綻をした原因を話しているのだから、理屈として正しいわけがないのです。ただ失敗した経緯の説明にしかなりません。それを「お前は正しくない、なのにそんな理由をつけて自分を正当化するな」といわれます。
私は予め自分の間違いを認めて、謝罪をしているつもりなのですが、求められたことを答えた結果「失敗を正当化しようとしている」ととられるのです。答えないと「何も考えずやっていたのか、どうなんだ」と詰め寄られるので、仕方なく答えて、上記の状態です。

どう思われますか?

補足日時:2014/10/12 08:55
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私が職場で言われていることと同じような事が指摘されていたので、補足でこちらの言い分とでも言うようなものを書かせていただきました。
近しい方にアスペの方が居られたとの事、その方も同じようなことを考えておられたのかなと邪推してしまいます。

私は別に相手の笑顔を見たいと考えていないとか、和を乱したい、自分がよければいいとは思っていないのですよ。むしろ人が嫌がることを率先してやろうという気構えくらいは持っているつもりです。仕事では他の人を先に帰すために事後処理を引き受けたり、先回りして面倒なことをやっつけておいたり、家庭では家事分担を自分に重く(洗濯や料理の後片付けを全部引き受けたり)したり、やっているつもりなのです。
でも、それはやって当然のこととしていつの間にかルーチンと化して「お前は相手のことを考えていない」といわれてしまいます。
回答者様から見れば、たぶんこれが自己保身と映るのではないでしょうか?
そんなことは知らない、私のことを考えて最適な選択をしろ。失礼を承知で言うとこういわれているような気持ちになってしまいます。

他人の負担を軽くすることと、気持ちを思いやるとは違う事なのでしょうか?私には思いやりや献身の心が足りないのでしょうか。
それとも共感という感情が欠落しているのでしょうか?

もしよければ教えてください。お願いします。

お礼日時:2014/10/12 09:12

私は発達障害者ではありませんが、普段から相手の立場に立つというスタンスで生活していません。


自分に出来ること、出来ないことが基準になっています。
出来ることでも間違いが起こらない様に事前に確認してからやりますし、途中で経過報告も欠かしません。
この際に相手の立場に立つとしたら、忙しそうにしている時を避けるか、もしくは報告の前に一言「今お時間宜しいですが」と断ってからにしています。
出来ないことの場合、断りを入れる際に一言「お役に立てず申し訳ありません」と添える程度です。

感情に疎いとは申せ、怪我や病気で入院している人の気持ちはお分かりになれるはず。
身内を亡くして悲しむ人の気持ちも同様でしょう。
また赤ちゃんが生れた、結婚したなどの嬉しい出来事に対しても共感出来ることでしょう。
小難しく考える必要はないと思いますよ。

基本はあなたですからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>自分に出来ること、出来ないことが基準になっています<
なるほどと思います。私は実技が伴わなくても、やり方がわかっていると、やり方の確認をしてしまう傾向があり「知ってるなら黙ってやれよ」といわれてしまうので。できるかできないか不安なら、先にその旨を伝える、できないなら素直に謝ることを意識してみます。

私の場合、基本がずれているのか相手の事を考えて紡いだ言葉が、逆の効果になることも結構あるのです。病気の人に「養生してね」といっても「がんばって早く直してね」といっても怒られるような始末です。共感の仕方が歪なのでしょうか?

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/12 08:41

(1)あなたの考え方に間違いは無いです。


(2)あなたの思考性が役に立ちます。
(3)定型発達者は、その立場が全体に共有される事を求め。発達障害者は個別の理解を求める。
(4)自分勝手で、自己中心的だと思われています。その評価が正当なものであるかは、別の話しですが。
私は、自身がアスペルガーであり。障害児童発達の研究者です。
あなたの、「自身が発達障害者である」という事実認識は、発展途上のものとお見受けします。その認識の為には「定型発達者とは何か」を観察し考察する事が重要です。発達障害者とは、その脳機能の形に偏りがある人達の事ですが、定型発達者にも同様に、その脳機能の形に偏りがあります。定型と障害が分けられる根拠は、どちらが多数派であり、少数派かの差であって。どちらが健全かとか、どちらが正常かとか、どちらが普通かの、差の区別ではありません。社会の構成は、「多数派に占められる」という原理を以って、私達の立場が障害者とされている現状があるだけです。
私が観察する「定型発達者の偏った特徴」とは、共通概念の集団であるという事です。彼等は、共感や共有を過剰に他者へ求めます。求めますが、共感性や共有性に優れているという事は無く、これを他方へ求める人は多いのですが、これを他方へ提供する人は少ないです。 ですので、常に共感共有欲求の欲求不満状態があります。
彼等の思考性を以って発達障害者を見ると、そこには過剰に共感性や共有性を欲っしない人がそこにいるのです。つまり、自分達と同様な欲求不満状態が無い人を見る。これが、彼等にとっては自己中心的に映ります。自分達に対して共感性や共有性を求めてくれない人だからです。そして、その欲求を必要としない人が目の前にいるという事は、自分達の欲求が絶対的価値のあるものでは無い事実を見るという事なので、その欲求を生存の必須条件にする彼等にとっては、根底をひっくり返されるような不安を感じ、生存の危機すら感じるのです。
だとしても、発達障害者が自身の生活に必要の無いものを、過剰に求める事は出来ません。発達障害者が求めるものは、事象へ理解であり評価です。人間関係も事象のひとつに過ぎません。ですが、理解を求めるならば理解を差し出すべきでしょう。その差し出されたものを定型発達者が気に入らず、あくまでも共感を寄越せというなら、それはただの我儘です。でも、発達障害者はその我儘を評価し理解することは、出来る筈です。であれば、相手の欲求不満を解消することは出来ずとも、許容する事は出来る筈です。その事象を飲み込む知性をあなたは備えているのだから、有意義に活用して下さい。
定型発達者の欲求不満を直ちに解消するものとして間に受けて、対処法を試みようとする事が、発達障害者の悪い癖です。この共感性共有性の欲求不満状態こそが、定型発達者の生きる原動力なのだから、無闇に解消してはなりません。それは、発達障害者の事情を押し付ける事と同じです。
彼等は、空気を読みたがる人種であって、読める人種では、無いのです。年がら年中空気の読み違えで、揉め事ばかり起こしては悩み、空気が読めるはずだと欲求不満を募らせている人種です。彼等は、この状態をあなたにも私にも共有して欲しいのです。
私としては、馬鹿馬鹿しくて付き合えません。でも、愛すべき、興味深い人達であるとは、思います。だから、観察し理解を深めたいと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

研究者の目線というのは、こういうことを見ているのですね。私は自分が異分子であると認識していますし、彼らの社会で生きるには、能力が不足しているという観念の中で生きていますから、正直目から鱗な部分が多々あります。勉強になります。

彼らが求めているのは問題の解決法ではなく、解決に至るまでの過程の共有ということでしょうか?同じ結果ではなく、結果にいたる過程を同じくすることを求められているのでしょうか。
よくよく考えて、周囲がどう動いているのかを観察してみたいと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/12 08:34

おじさんです。


「相手の立場に立つということ」は相手の気持ちを思いやるということでしょうね。
最近のいい例があります。
3年前にニュージーランドで大地震があり、日本からの留学生の多くが倒壊したビルの中で亡くなりました。
娘を亡くした母親が「いろんな人から頑張ってと言われて困惑しています」と語っていました。
その通りなのですね。
娘を亡くした母親に「頑張って」はないのです。言っているほうは元気つけようとしているのだと思います。
しかし、悲しんでいる人に頑張ってはないですね。
これは元気つけている人が悲しくない自分の気持ちで言っているからです。
悲しんでいる母親に「娘の死を早く忘れて元気を出して」というのはとても失礼なことです。
これは相手の立場にたっていないということです。
この場合は、静かに寄り添ってあげることです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ありましたね、確か看護の専門性を高めるため留学されていた方が、多く犠牲になられたと、記憶しています。犠牲者の方に心からの哀悼を表します。

ところで、仰ることは意味として分かりますし、またそうあるほうがよいとも思います。が、私は回答を読んで疑問に思ってしまうのです。
「頑張って」といった人は、相手の立場に思いをはせていないのか?と。
悲劇でズタズタの心理状態から早く抜け出してほしい。そう思って「がんばって」と声をかけることは、正解ではないとは、相手のことを思っていないのかと。
おそらく私の現状が、頑張ってと言ってしまう人だと思うので。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/12 08:23

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