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ふたたびの問いです。
おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。
たたき台を示します。
1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。
1-1. その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。
2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。
2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。
3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。
3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。
4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。
4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。
5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。
5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。
5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。
6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。
6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:
○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:
: これは 無根拠である。
: これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。
: そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか
についての疑問すらが起きる。
: 《神》とも《無い神》とも言える。
○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:
: すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の
原野)》に移行している。
: 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに
する場合にすら用いられることがある。《真理》として。
: それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり
《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。
6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に
《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》
を成らせていると想定され そして
《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》
が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。
以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。
なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。
● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~
近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・
むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。
しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)
http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
~~~~~~~~~~~~~~
A 回答 (13件中1~10件)
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No.13
- 回答日時:
<不可知>を知りたい様だが、
それ自身撞着している事に、気付かない程愚かだとは知らなかった。
「ある現象が不可知である」事を「一般に」証明できたらスゴイゼ。
量子論だって「定義」すりゃあ「ちゃんと分かる」「不可知ではあり得ない」
ああ、おっさん、あんた自分が理解出来ないと、「不可知」だと「思いたい」
安物か。それなら正直にそう言いな。
どの「欠陥」にもちゃんと証明があり、証明できない限り「なぜ?」で学者は飯が食える。
フェルマーの最終定理もやっと片付いた。
「不可能」を証明するのにもちゃんとお金が出る、数学ならフェールズ賞が出る。
物理の「デタラメ」で有名な方法論は「経路積分」だ、誰も信じなかったがコンピュータ
が高速で、安くなったら、計算は「正しい」という結果になった。
考えたのは大天才のリチャード・ファインマン先生。だが、もう既に朝永先生と一緒に
貰っていたから、よぼよぼになるまで貰えないはずだった、だがオッペンハイマー先生の
原爆開発のマンハッタン計画に引きずり込まれ、イタズラばかり為ていたが、ウランや
プルトニウムの面倒ばかり見ていたから、若死にしたので二つめはもらい損ねた。
遊び過ぎたのだ。可愛いねえちゃんを片っ端からナンパしていたので体力が尽きたのかも。
何て言いましたっけ。イグノーベル賞? イグノーブル賞?
知らないけど その賞にほぼ決定!
パチ パチ パチ。
どこをどう読んだら 《不可知》論になるんぢゃい?
《非知》だって言ってんぢゃん。
このスットコドッコイ野郎め。
ご回答をありがとうございます。
No.12
- 回答日時:
うーむ。
どこか、ブラジュロンヌさん自身の語る、アマテラス普遍言語にとらわれすぎているようなお返事かなと感じましたが、。
その結果、絶対という語句の用法が共有し難くなったように思います。
哲学であれども、言葉の自然な用法、生活レベルの用法を否定して、意味の独立性を保つのは難しいのではないかと思いました。
この意味では、寛容なスサノオ語の方が、意味のやりとりに支障が来たさないのではないかと思いますがいかがでしょう。
ご回答をありがとうございます。
★ 哲学であれども、言葉の自然な用法、生活レベルの用法を否定して、意味の独立性を保つのは難しいのではないかと思いました。
☆ いえいえ。生活の中で必ずしもその語の定義をせずに使っている場合をも 哲学としてふくめています。
つまり 《強め》の用法です。《否定》はしていません。狭い意味での哲学としては 用法がべつだと言っています。
あるいは こういうことです。
すなわち 世の中がみな 《無い神》をいだく無神論なる信仰にもとづくようになったなら 絶対という語についても 日常生活の中での《強め》の用法だけで済むわけです。
神という言葉もだれも使わなくなりますし 《無限》という言葉も 円周率の限りなくつづく無限だけでよくなります。
あるいは神は 山の神 海の神 英雄としての神 祟る神などなどといった経験事物としての神々だけで済むようになります。日本は そのむかしキリシタンが生まれる前には そうだったかも分かりません。(アミターバ・ブッダやワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などは 概念として《絶対》なる神であるようですが)。
永遠と言っても かなり長い時間という意味だけで用いるようになり もう《アマテラス普遍語》としての永遠=無限=絶対は 見向きもされなくなります。
ただし・たぶんそうなると またまた誰かが いや 待てよ 《非経験の場》としての・そしてそれをわが心に受け容れたなら《非思考の庭》が成るという信仰がいだく神 これは 永遠=無限=絶対なる概念として われわれは持つべきではないか? と言い出すことでしょう。
と考えます。
No.11
- 回答日時:
絶対という語は、過去についての事実に対しては使えるけれども、今現在の進行形には使いにくく、特に未来に関しては使い難い。
過去、⚪︎⚪︎をしたという事実は絶対である。このような文章は可能です。
また、今私が文章を書いている事実は嘘ではない、絶対である。という文章はかけなくはないですが、今という現在進行形がどこまで続くのかによって、真偽が分かれます。
一分後、私は文章を書くのをやめていることは間違いない、絶対である。というのには、虚偽が含まれます。未来に何が起きるかわからないからです。書いている時点ではそれが確定していません。
一方で、我々はいつかの未来に死ぬ、これは絶対と言えます。永遠に生きることは僅かのの望みも無いでしょう。輪廻という特殊な概念を用いれば、永遠に生きるとも言えますが。それでも、何度も生死を繰り返すという前提でです。
突然未来に、宇宙の法則が変わるかもしれない、我々の寿命が永遠になるかもしれない、可能性はある、と考えるのは滑稽です。考えることだけはできるのでしょうが、。
絶対という語の使用されるシチュエーションを洗えば、絶対という言葉の意義がどのように共有されているがはわかると思います。
あと、話は少し変わるのですが、
先の質問の続きです。
知れるかもしれないが、知れないかもしれない、そのことが知れない。と言った時、はたしてこれは、可能性について言及しているといえるのかどうか、。この文章に対して次のような問いを投げかける。
知れる可能性はあるのですか?
分からない。
知れる可能性は無いのですか?
分からない。
つまり、
それの存在の有無については、可能性すら分からないのではないだろうか。
この可能性すら分からないものに対して何かを名称するとするなら、どのような名称が相応しいのだろう。
非知?不知?無知?非在?
ここら辺の名称のセンスが、その意義を共有できるかできないかの鍵になると思います。
ご回答をありがとうございます。
★ 絶対という語は、過去についての事実に対しては使えるけれども、今現在の進行形には使いにくく、特に未来に関しては使い難い。
☆ いえ。じつは 哲学では この現在・過去・未来といった時間的・経験的なことがらについては 絶対を使えません。
★ 過去、⚪︎⚪︎をしたという事実は絶対である。このような文章は可能です。
☆ 文学的な表現としてですね。あるいは 日常の表現でも使えます。つまり 確信の強さを言っています。
言いかえると 確信というのはあくまでひとりの人間の主観であります。むろん その過去の事実 この事実については もう動かず揺るがず確定していますから 誰が何と言おうとどう考えようと 事実じたいは変わりません。ただし かなしいかな・あるいは面白いことにはでしょうか その《事実》には 人間による《事実認識》がついてまわります。だからです。だから 絶対だとは言えません。
事実をめぐる論争とは 一人ひとりの事実認識のあいだの論争であるとなります。《事実》はすでに確定していておそらく《ひとつ》であるというのにです。
極端な話 人ひとりが死んでいるという事実があれば それは もはや動かざる事実であり人間の誰が見ても共通の真実です。ところがです ところが AとBとが争ったというところまで動かぬ事実であったとしても Aが死んでいるから Bが殺したという事実がただちに確定するわけではないはずです。
舌を噛み切ったとか薬物を飲んだとかの事態もなかったとしても たとえばその日までに徹夜を繰り返しておりおまけに心臓がよわいという持病があったとしたら そのときBと争ったのは 思いっきりわざとチカラを出し尽くしたことが死因だったとも考えられます。つまり その日までの数日間にわたる自死行為の結果であったと考えられる場合です。Aの意図的な意志による自殺であったのだという事実があり得ます。
こういった意味において 経験的なことがらについては すでに確定した過去のことでも 絶対とは言わない。これが 哲学だと思います。
★ 一方で、我々はいつかの未来に死ぬ、これは絶対と言えます。
☆ これは 確実と言います。相対的な事象としておそらく誰もの主観にとっても真実であり確実なことであると。
強めとして 日常ふつうに使うぶんには かまいませんが。
★ ~~~~~~~~~~~~
知れる可能性はあるのですか?
分からない。
知れる可能性は無いのですか?
分からない。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ではないのです じつは。
○ ~~~~~~~~~~~~
知れる可能性はあるのですか?
それは 分かるか分からないかが われわれ人間には分からない。
知れる可能性は無いのですか?
これも同じく分かるか分からないが 分からない。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ となります。どちらもあり得るという意味になります。
★ つまり、/ それの存在の有無については、可能性すら分からないのではないだろうか。
☆ これも同じくです。《可能性について 分かるか分からないかは 人間にはわからない》という捉え方です。《分からない》とか《分かるのだ》とかと一方の答えとしてだけ確定することは出来ないという意味です。可能性として取り上げる場合にも どちらか一方だけの答えは 確定したものとしては 出来ないのです。
☆ したがって次のようには帰結されることは じつは ありません。:
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
この可能性すら分からないものに対して何かを名称するとするなら、どのような名称が相応しいのだろう。
非知?不知?無知?非在?
ここら辺の名称のセンスが、その意義を共有できるかできないかの鍵になると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《分かるか分からないかが 分からないナゾ》のことを 《非知》と規定します。《非在》は 同じ意味になります。
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.9
- 回答日時:
☆ねむ猫さんが、数学的に∞を回答しているので、今回は仏教の「無の世界」を数学することはできないか?という回答をします。
◇ゼロという数学的な概念はインドで生まれた、と言われていますよね。
仏教の《空》という考え方が、この発見、もしくは発明に関係しているのじゃないか、なんて言われているようです。
このゼロという数、概念は、たぶん、それまでの人類にはなかったものなんじゃないですかね。それまで誰ひとりとして思いつくことができない、想像することさえできない、とてつもない発見であった、と思います。
あまりに素晴らしすぎて
a + b = b + a = a
のとき、
b = 0
としか表現できない。
さらに、ゼロに何をかけてもゼロである、
a×0 = 0×a = 0
となると何でこうなるかという理解の困難さだけではなく、
「ゼロをゼロで割ったら、どうなるのだろう」という新たな難問を生み出すことになる。
1×0 = 0 → 0÷0 = 1?
2×0 = 0 → 0÷0 = 2?
0÷0の値はいくつも存在することになる。
では、「1を0で割ったら?」という疑問も生まれます。
0×a = 1
a = 1÷0 = 1/0
こんな数aがあるのかどうか分からない。そもそもこの時aが数であるかどうかも分からない。
このaを∞だと言う人もいるかもしれない(ポリポリ)。
ゼロなんて数を導入したために、数と数の割り算の時、「ゼロで割ってはいけません」というゼロ割禁止の禁則を定めなければならなかった。
この状況は、無限大∞にもよく似ているんですよ。
1/∞ = 0
これは、極限の簡略表記で
x → ∞のとき、1/x → 0
のことですけれども、
無限大∞を数の一種と考えると、かなり怪しい話になる。
∞ + ∞ = ∞ (あ)
0 + ∞ = ∞ + 0 = ∞
c > 0のとき
c×∞ = ∞×c = ∞
さらに、
∞×∞ = ∞
くらいはいいだろう。無限大の足し算と掛け算くらいは認めても良い。
しかし、足し算ができるから引き算もできるんじゃないか、つまり、
∞ - ∞ = 0
としちゃうと、(あ)から
∞ = 0
になってしまう。
さらに、
∞/∞
という計算を認めると、破滅的な結果に至ります。
∞/∞は0/0と同じで、値がいくつも存在することになるんですよ。
だから、∞同士の引き算、割り算は認められない。これを認めると、破綻しちゃうんです。
これは、0/0とすこし関係がある。
ゼロと無限大は、ともに「無い」を表わすものだから・・・。
人間は、「ホニャララがドコソコに無い」は理解できても、「無い」や「無」は理解できないんじゃないですかね。
そういえば、昔、アルケー教の人が「無は何も生み出さない」なんて質問を数学カテでしたことがありましたね。
その回答の一つに
0 = 1 - 1
0は1と-1を生み出した、みたいなのがありました。
この回答のとおり、0はマイナスの数を生み出した。
☆微分を「瞬間の速さ」とすると、速さは距離を時間で割ったものですが、0(ゼロ)割る0(ゼロ)はあるか?というもの。
◇0/0は値が定まらないので、これは絶対に認められない。
Δy → 0でΔx →0のときΔy/Δxの値は、
ΔyとΔxの0への近づき方にかかわらず、一つの値を持つときにのみに定義できる。
近づき方で値が変わると不味い(笑い)。
☆微分を発見し提唱したのはニュートン(1642~1727)とライプニッツ(1646~1716)であり、二人は私が先に発見したと喧嘩したそうですが、その段階での微分の概念に注目すると、分母は0(ゼロ)ではなく、0(オミクロン)という、「非常に小さいけどゼロではない」という概念だったそうです。
◇微分の方が、積分よりも定式化するのが難しいんですよ。
微分は常にかなりの胡散臭さを含んでいる。
ですから、現代の積分論は、どこか胡散臭い微分を前提にしな~い。
積分は基本、足し算から、割り算の微分より簡単なんですよ(ポリポリ)。
微分は0/0だから、難しい(笑い)。
積分記号∫は、Sum(和)のSです。積分が足し算の拡張であること示している。
ほいで、
ニュートンは曲線の接線を求めるために微分を作ったですよね~。
接線は一本しか引けないし、感覚的に、どんな曲線にも接線は引けそうだし、
それほど細かいことを心配することがなかった。
こうした大らかさが、ズボラさが、微分・積分を生んだ(笑い)。
私は知りませんけれども、解析学の分野で、大数学者オイラーも結構ポカをやっているらしい。そして、誰も、長い間、この過ちに気づかなかったらしいですよ。
これではいけないということで、解析学の分野で、ε-δ論法と呼ばれる悪名高いものが生まれた。
そして、現代でも多くの理系の学生がε-δ論法に悩まされる。高校時代数学が得意だった学生も数学嫌いになる。みんな泣かされます(ニコニコ)。
ご紹介した無限大の定義も、ε-δ論法の一種です。
☆はて、微分で「無の世界」は説明できるか?
◇弱ったな~。
「例えば、
どんなε>0をとっても
0 ≦ a < ε
ならば、aはゼロだよ」とかでしょうか。
(これが悪名高いε-δ論法の一つ)
証明は、たとえば、背理法を使って
a=0でないとすれば、a > 0じゃん。
εはどんな値でもいいんだから、ε = a/2 > 0でもいいよな。(a/2でなくてもa/3でもOK)
すると
0 < a < a/2
a < a/2に注目すると
a/2 < 0
a < 0
0 < a < 0
aは0より大きくて、0より小さい。こりゃ~矛盾だ。
「a=0でない」と仮定したのがおかしいんだな~、きっと。
だから、a = 0
ここで、εではなく自然数nを使って、
「どんな自然数nでも
0 ≦ a < 1/n
ならばaは0である」
とすると、
この証明には《アルキメデスの公理》と呼ばれるものが必要になったりするんですよ。
そして、ここにも自然数には最大数がないという、自然数の《無限》が出てくるのであった(笑い)。
アルキメデスの公理というのは、たとえば、
どんな正の実数a、bに対して
na > b
とできる自然数nが存在するよ
といった感じのもの。
たとえば、a = 1/2、b = 2ならばn=5にすればよい。
当たり前のことなんですが、
《公理》という言葉がついているので、これは証明できない。
これを証明するためには、アルキメデスの公理の代わりになるものが必要となるのであった。
☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
一つぶの砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見
てのひらに無限を乗せ
~~~~~~
こういうのを、
中国仏教の一つ華厳では《相即則入》《重々無尽》《事事無碍(むげ)》《一即一切・一切即一》という言葉で表わすんですよ。
たとえば、
http://blogs.yahoo.co.jp/zenzai9000/4394048.html
有限の閉区間、たとえば、[0,1](0≦x≦1のこと)は、
無限を通じて、
実数R(-∞<x<+∞)とまったく同じ構造を持ったものとなるのであった。
だけではなくて、
3次元の無限空間も[0,1]の中に収めることができるのであった。
───このことは数学で証明できる───
ご回答をありがとうございます。
◇ ~~~~~~~~~~~~~
「例えば、
どんなε>0をとっても
0 ≦ a < ε
ならば、aはゼロだよ」とかでしょうか。
(これが悪名高いε-δ論法の一つ)
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ なるほど。うまいこと言うなぁと。
▼ (重々無尽の縁起) ~~~~~~~~~~~
http://blogs.yahoo.co.jp/zenzai9000/4394048.html
更に言えば、私という1人の人間は、多くの人々に支えられ、また無限の過去からの色々な因縁が結合して存在しているのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このくだりは 論理が飛躍していますよね。
たぶん ですから 論理の点では なかなかヨーロッパ人にかなわないところがあると感じます。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
有限の閉区間、たとえば、[0,1](0≦x≦1のこと)は、
無限を通じて、
実数R(-∞<x<+∞)とまったく同じ構造を持ったものとなるのであった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すべての数が 両者で互いに対応するという意味ですか?
なるほど。だからして 無限大は じつは相対的で経験事象に属し じつは大きく有限の世界なのですね。
No.8
- 回答日時:
べろべろに酔っ払っているんで質問主文は斜め読みだよ。
クリスマス前の忙しい時期に酒抜きでまじめに読む時間が出来るか判らないが、絶対と永遠に証言だけしておくよ。
あんたは信仰だと言うかもしれないが、永遠は私には理解できる。
絶対は、西洋的概念で、長らくあんたが何お言ってもピンとこなかったが、過去、現在、未来。
この時の流れで、絶対と言えば、今その時のことだけを言うだろう。
刹那が絶対だ。
西洋は、過去の故事を絶対とこじつけようとしているから、あんたの引用は意味不明だった。
ざっと見たところ、よその国の意味不明な故事を引用しないで、あんたの言葉で説明を試みているようだな。
まあ頑張れ。
ここ1カ月ぐらいは、へべれけに酔っぱらった応答しかしないだろうが、それで良ければシラフなお礼を書いてもいいよ。
まともに答える能力は無いがね。
霊能力者の私がサンタクロースの手伝いをすると、精神的負担が大きいんだ。
クリスマスの習慣は不毛だよ。
私は、おもちゃをクリスマス用に包装するとき、それが欲望でしかないのか、自らの間違いない望みなのか、直感が働き過ぎるんだ。
でも、買っていく親にそんなこと言えない。
言葉を飲み込むのに罪すら覚えるよ。
幸せを届けたくてもそう言えない事がある。
儲かっているんで、まあいいがね。
悪業とそしってもいいよ。
その点は屁の河童だ。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
あんたは信仰だと言うかもしれないが、永遠は私には理解できる。
絶対は、西洋的概念で、長らくあんたが何お言ってもピンとこなかったが、過去、現在、未来。
この時の流れで、絶対と言えば、今その時のことだけを言うだろう。
刹那が絶対だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲ アウグスティヌス:《永遠の現在》
△ 〔『告白』第11巻第13章〔16〕(山田晶訳)〕 ~~~~
あなたがすべての過ぎ去った時間に先立つのは ≫常に現在である永遠の高さ≪によるのです。
それによってあなたは すべての来たるべき時間を追い越しておられます。
じっさい それらの時間はいまは未来ですが やってくると 過去となるでしょう。
△ 〔同上箇所(宮谷宣史訳)〕 ~~~~~
あなたは
≫常に現在である永遠の高さ≪によってすべての過ぎ去った時間に先立ち
またすべての未来の時間を追い越します。
何故なら それは未来ですが それらは来てしまうと過去となってしまうからです。
~~~~~~~~~~~~
☆ 《あなた=神》は《常に現在である永遠の高さ》であるとなりますから 神は時空間を超えて 永遠の現在という非時間にある というのでしょう。
クリスマスは いちばん夜の長い日である冬至を過ぎるという意味で 季節の行事。
省エネ答法。
No.7
- 回答日時:
bragelonneさん こんばんは。
ねむ猫さんが、数学的に∞を回答しているので、今回は仏教の「無の世界」を数学することはできないか?という回答をします。
いわゆる微分の概念ですね。
ちなみに、私は、受験戦争世代でしたので、「はい、この公式暗記!」という授業に飽き飽きして、高校レベルで挫折(涙)。
数学はいったん挫折すると、そのレベルに戻らなければ、難しいことはわからなくなるとか。
しかし、哲学をしているとやはり、数学は必要と思い、現在、大学の社会人向け(高校生も可)のエクステンション講座(おもしろ数学入門)を受けて、再勉強中ですが、やはり数字アレルギー。
ですから文字で講座で習ったことを書きます(苦笑)。
微分を「瞬間の速さ」とすると、速さは距離を時間で割ったものですが、0(ゼロ)割る0(ゼロ)はあるか?というもの。
微分を発見し提唱したのはニュートン(1642~1727)とライプニッツ(1646~1716)であり、二人は私が先に発見したと喧嘩したそうですが、その段階での微分の概念に注目すると、分母は0(ゼロ)ではなく、0(オミクロン)という、「非常に小さいけどゼロではない」という概念だったそうです。
その後、オイラー(1707~1783)やコーシー(1789~1857)によって、ほぼ現在の形(極限の概念)となったそうです。
はて、微分で「無の世界」は説明できるか?
bragelonneさんの手に負えないようでしたら、ねむ猫さんにネット家庭教師(無料)をして欲しい(笑)
最後に「博士の愛した数式」の映画のラストシーンのウィリアム・ブレイクの詩を書きます。
一つぶの砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見
てのひらに無限を乗せ
一時のうちに永遠を感じる
P.S.
ウィリアム・ブレイクは絵も描いたようで、新聞に載った絵をスクラップして持ってます。
昔の人は多芸で哲学を学べば学ぶほど、私は凡人とため息がでますよ。bragelonneさんはいかがですか?
いくなーとんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ エクステンション講座
☆ うまいこと 名づけますね。昔 女性の部分カツラをそう言っていたような。
★ はて、微分で「無の世界」は説明できるか?
☆ 0(ゼロ)は 数ぢゃない。よね。
あと 微分だとすると あれぢゃないですか あれ。つまり 例の《特異点》。だって 微分できない地点だと思うから。
だって キリスト・イエスは 十字架上ではりつけになっている姿は 人類の歴史じょう特異点ですよ。
W.ブレイクには ちょっと片向いたことがありました。ただ 詩ですからね。詩想ないしやはりヒラメキの領域ではないかと。
ねむねこさんを始めとして みなさんからコメントが寄せられるかも分かりません。
No.6
- 回答日時:
つづいてのご回答をありがとうございます。
それらの事例は 過去ですよ。遠い過去。
いまの実情は どうであるか。つまり やまと言霊氏のほうです。
ずいぶん変わって来ています。西洋タコが誤解だったと。
No.5
- 回答日時:
NemurinekoNyaさんはペット供養の専門家ですから、「西洋タコ」をご存じないのでせう。
西洋タコさまは、質問者としていまだ健在であらせられます。http://okwave.jp/qa/q8604161/a23941100.html
![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/common/profile/M/noimageicon_setting_07.png?e8efa67)
No.4
- 回答日時:
No.2の
「どんな実数xをとっても、それより大きな自然数(整数)Kがあるのよ」
「任意の実数xに対して、
K > x
を満たす自然数(整数)Kが存在する」
は、ちょっとまずいか・・・。
実数xと自然数(整数)Kを入れ替えるべきなんでしょうね。
【訂正版】
「どんな自然数(整数)Kをとっても、それより大きな実数xがあるのよ」
「任意の自然数(整数)Kに対して、
x > K
を満たす実数xが存在する」
ですね。
自然数(整数)Kを実数Kにしてもいいんですがね。
つづいてのご回答をありがとうございます。
無限大なる数に一をくわえるとしては ダメなんですかね。
経験的なモノゴトであることを証明すればよいのだと思います。
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