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 ふたたびの問いです。
 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。


 たたき台を示します。

 1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。

 1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。

 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。

 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。

 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。

 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。

 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。

 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。


 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。

 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。

 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。


 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。

 6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:

  ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:
     : これは 無根拠である。
     : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。
     : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか
     についての疑問すらが起きる。
     : 《神》とも《無い神》とも言える。
     

  ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:
     : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の
     原野)》に移行している。
     : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに
     する場合にすら用いられることがある。《真理》として。
     : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり
     《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。
     

 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に

   《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》

 を成らせていると想定され そして

   《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》

 が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。 

 



 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。

 なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。

 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~
 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・

 むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。

 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)
   http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si …
 ~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (13件中11~13件)

《西洋タコ》は、西洋版《ウリナリ・ファンタジー》に汚染された日本の知識人ですから。


西洋人を《西洋タコ》と呼んでいるワケではありません。

なお、《西洋タコ》という言葉は、plapotaさんに教えてもらいました。
かつて、plapotaさんが《西洋タコ》と呼ばれたことがあるらしいです。
この経緯については、
きっと、plapotaさんからなにかコメントがあるものと期待しております。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。


 ◇ 《西洋タコ》は、西洋版《ウリナリ・ファンタジー》に汚染された日本の知識人です
 ☆。 この定義にマチガイはないと考えます。

お礼日時:2014/12/16 20:39

☆数学では「無限大」だ、「任意に選んだ充分大きな数」 にすり替えた、


これで「無限大」は無用になった。
◇この無限大の定義は、かなり問題がある。
まず、《充分に大きな数》の《充分》って何?
「曖昧過ぎますぜ、ダンナ」となってしまいます。

まず、自然数や整数に最大数が存在しないことを認めてもらって、
 ───「最大数はある。しかし、この最大数に対しては四則演算の規則は適用できない」と言われると、実は弱ってしまう(ポリポリ)───
これを出発点にします。

すると、無限大∞は
「どんな実数xをとっても、それより大きな自然数(整数)Kがあるのよ」
となります。
より「おしゃれな言葉」で書けば
「任意の実数xに対して、
 K > x
を満たす自然数(整数)Kが存在する」
ですかね。
このことを無限大∞で表わす、
みたいな感じ。

100よりは101は大きい(別に200でも10000でもOK。何でもK>xを満たす整数Kを一つ示せば良い。それで存在することを示せるので)、
1000よりは1001が大きい。
このようにどんな実数をとっても、それよりも大きな自然数(整数)があること、存在することを示すことができる。

ほいで、これは何のことはなくて、
有限の定義を否定して、無限の定義にしたものにすぎない。
しかも、
「あなたは、自然数(整数)が無限であることは知っているよね」
を前提としている(ニコニコ)。


それに、数学の無限は《実無限》だし(ニコニコ)。



☆☆☆☆☆☆
人間は、少なくとも人間の理性や悟性といわれるものは、有限の否定としてしか無限を扱えないんですよ、たぶん。
 ───感性は、ひょっとしたら、無限を扱うことができるかもしれない(ポリポリ)───
これはもう言葉に表われていますでしょう。
 有限(finite)⇔無限(in-finite)
ざんしょ。
悲しいかな、これが人間の知性の現実。
無限に様々な制限を加えなければ、人間の知性では、とてもじゃないけれど無限は扱えない。


きっと、
ddt^3さんが何か回答を送ってくださるでしょうから、
あとはddt^3さんにお任せします。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。
~~~~~~
なぁ、ことはない。

洋の東西を問わず、
この問題はずっと真剣に取り扱ってきた。
インド、中国でも然り、そして、日本でも然りです。
中国の華厳なんて、まさしく、この一大体系、壮麗な一大伽藍であります。
仏教に限らず、西洋数学が本格導入される以前においても、
インドと日本の数学は西洋の数学に遜色のない高いレベルに達していたじゃないか。

だいたい、アラビア数学がなければ、今の西洋数学なんて無いだろう、ボケ!!

西洋の考え方、歴史観(オラッチ、ヨーロッパ人の文化は古代ギリシアを源にするという大嘘、西洋《ウリナラ・ファンタジー》)に汚染された、数世代前の《西洋タコ》が如何にもホザきそうな言葉だ。
数学だけじゃなく、化学、医学だって、み~んなアラビアからの借り物じゃないか。
中世アラビアの先進文明がなければ、現代の西洋なんかねぇよ。
これがなければ、西洋人なんか、いまだ野蛮人《バルバロイ》だ~!!
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ええっと。
 ○ どく-そむでーさんへ:数学の無限大の扱い方について。

 ○ 無限の定義を でーでーてーx3さんへ。

 ○ 司馬遼太郎へ:絶対ないし無限の探究は 西欧にかぎらないこと。むしろ起こりは インドや中国であると。日本でも 数学は発達していた。 


 ☆ 無限の定義については わたしは 《非知》です。

 ☆ 司馬遼太郎をひとつの見方から擁護するならば:

 司馬が言うのは やはり確かに《絶対》なり《真理》なりを哲学の基礎の上に論理的に探究したという一面のことだと思います。東洋あるいはアラビアの科学や学問からまなんだだけではなく 哲学は論理の側面において世界に誇るほど発達させたであろうと。

お礼日時:2014/12/16 20:38

こんにちは。


非常に簡単、

「絶対」という「語」の共通の定義が得られないからに過ぎない。

あなたの文章は長いが、何も意味していない、「なぜ」と聞くばかりで
あなたの「基盤」を提示しない、卑怯者だ。

学問の世界では「一致しない」可能性のある「語」を排除してしまった。
数学では「無限大」だ、「任意に選んだ充分大きな数」 にすり替えた、
これで「無限大」は無用になった。

化学でも「永遠の時間」を排除した。
「充分長い時間の後」
これで充分だ、全く反論出来ない。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 非常に簡単、

 「絶対」という「語」の共通の定義が得られないからに過ぎない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それは そうでしょうね。


 こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 あとは ちょっと志向されている向きがどちら向きなのか よく分からないのですが。・・・

 ★ 学問の世界では「一致しない」可能性のある「語」を排除してしまった。
 ☆ そうですかね。《不可知》が 必ずしも共通の理解に立てていなかったと考えますが これは 《知り得ないと知った何ごとか 経験事象のもの》だと考えられます。つまり 経験世界に属している。



 ★ 数学では「無限大」だ、「任意に選んだ充分大きな数」 にすり替えた、 / これで「無限大」は無用になった。
 ☆ それは 数学がわるいのでしょうね。哲学は なおけっきょく《非知》をもって《絶対》を定義しているはずですから。
 
 つまり その《無限大》では けっきょく可能無限であって 経験事象にやはり属している。数量で数えられるゆえ 観念でもあり 観念は 経験事象です。

 つまり 無限大なる数に対しては さらに一をプラスすることが出来る。つまり 限りなくつづくけれども つねに数量が特定できます。つまり 経験事象です。

 ところが 絶対としての無限は この数量化ないしそれとしての特定が 出来ない。出来るか出来ないかが 人間には分からない。つまり 非知です。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 化学でも「永遠の時間」を排除した。
 「充分長い時間の後」
 これで充分だ、全く反論出来ない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ん? つまり 前項の無限大の事例と同じく この《「充分長い時間の後」》というのも あくまで経験事象としての《限りなくつづくもの》でしかありません。《「充分長い時間の後」》にもう一秒を加えることが出来るからには 数量化できており じゅうぶんに経験事象です。




 
 つまり こう考えて来て 次のご議論は よくその志向性が捉えづらいようです。:
 ★ あなたの文章は長いが、何も意味していない、「なぜ」と聞くばかりで / あなたの「基盤」を提示しない、卑怯者だ。
 ☆ 《たたき台》ではまだ 足りませんか?
 

お礼日時:2014/12/16 16:26

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