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 っていう問いは成り立ちますか?

 わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか?



 あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか?


 音楽についての哲学ってありますか?

A 回答 (11件中1~10件)

bragelonneさんは、音楽のもつ力を過小評価しすぎだと思いますよ。



大祓詞



この歌詞などは、ただの子供向けのおとぎ話程度のものですけれど、
音楽が加わった瞬間、
まったく別物になり、私などはこれを聞くと何故か涙が目に浮かんでしまう。
そして、
「やっぱ、オレは日本人なんだ」
としみじみ感じてしまう。


話はこれと大きく変わりますが、
日本には、西洋から西洋音楽がもたらされる以前、
合唱曲と呼べるものが非常に少ない。
これは、日本人が基本的に農耕民族で、農耕民族だからなんだって。

対して、狩猟型民族には合唱曲が多い。
狩猟は基本的に集団で行うものなので、集団の統一的な行動、役割を決めた行動が合唱曲を生むとかなんとか、そのような話を聞いたことがあります。
そして、狩猟型の民族は合唱がうまく、また、よく揃うだけでなく、
自然と歌が合唱曲のようになるという話です。

ロシア人なんか合唱がスゴいですよね。
ロシアの広い大地で動物を追って暮らしていたから、こうした能力をゲットしたのでありましょうか。

カチューシャ
https://www.youtube.com/watch?v=T1q_0PXmJOk
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bragelonne さん こんばんは。



私のyou tubeコレクションの中から、ストラビンスキーの「春の祭典」ダンス付を添付しますのでご覧ください。

4分後に幕が上がります。うまくyou tube のサイトを添付できるとよいのですが。



bragelonneさんはサティがお好きとのことですが、同時代の作曲家です。

この「春の祭典」がパリで初演されたとき、斬新過ぎて、賛否は真っ二つだったそうです。

ちなみの当時は、ニジンスキーという天才ダンサーが踊りましたが、ニジンスキーは神を躍らせたら、右に出るものはいないと言われ、自身もルーブル美術館で、古代のギリシャの壷や彫刻から学んだそうです。

しかし、死ぬまぎわの言葉は「私は神だ・・神だ・・。」だったそうで、おごれるもの久しからず、成仏できたかは分かりません。

この「春の祭典」を見て、原始の人達を想像してみてください。

言語より音楽の起源のほうが早いかもしれませんよ。

ちなみに漫画「沈黙の艦隊」では原子力潜水艦「やまと」の海江田艦長は、北極海においてロシア原子力潜水艦と闘う際に、この「春の祭典」を聴きました。

ということで、日本海海戦の続きで、今回はbragelonne艦隊の旗艦である、bragelonne号に「やまと」から魚雷攻撃を仕掛けます。

bragelonne哲学、沈没か?(笑)

では、お礼にて考察をください。

https://www.youtube.com/watch?v=BryIQ9QpXwI
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 この「春の祭典」を見て、原始の人達を想像してみてください。

 言語より音楽の起源のほうが早いかもしれませんよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問題ですか。《同時一体》と苦し紛れに言ったものですから そこへのツッコミですね。


 舌足らずでしたが そのときの心つもりとしては焦点が 《内面における心の動きと 言葉と そして外の世界とが 同時一体なる過程をたどっている》という見方にあります。

 《言葉》と言ったのは けっきょくあらゆる手段での自己表現のことを言おうとしています。音を出すのも ふくみます。――といったやはり苦し紛れの弁明がないわけではありません。


 春の祭典は 原始の人たちのことを表わしているのですか?

 ただし それを音楽で表現したからと言って 原始の人たちが 音楽を言葉よりも先に開発したという証拠にはならない。でしょう。――事実は そうであった(音楽のほうが言葉よりも先であった)のかも分かりませんが。踊りという分野もあるわけですね。



 原始の人たちというよりは 未開の社会の物語でしょうか。

 背伸びする動作が 何だかおもしろいですね。

 だけど 踊りは 音楽と一体なのですか? バレーそのものは 音楽ではないですよね。
 やはり 一体としてある作品なのでしょうか。

お礼日時:2015/01/25 21:45

お礼、ありがとうございます。





☆☆ 依然として《集団》の問題にかかわっての見方をしておられるようですね。
 そうだとしても あくまで二次的・派生的な効果の問題ではないでしょうか?
◇No.1の回答を書き始めたときは、特に意識していたわけではありませんが、
書いているうちに演奏音楽には、他の芸術とは異なる特質があることを意識するようになりました。

モーツアルトを聞かせると、牛の乳の出がよくなるなどは、事実として知っていたので、ただ列挙しただけですけれども♪
このような効果がありますよとお知らせするだけだったんですがね。


絵画は、多数の人間が同時に一枚の絵を見ても、これはあくまで個人的なものですよね。
絵を見ている間、見ている人の間が互いに影響しあう、ということは、基本的に起こらない。
小説が芸術なのかどうかは怪しいので、あえて詩に限定しますけれども、詩を読むのも個人的な体験ですよね。
音楽もCDなどを一人で聞く、あるいは、楽譜を見てピアノなどを演奏するなどの場合は、個人的な体験になるでしょう。

しかし、演奏会場で多数の群集とともに演奏を聞くとなると、事情は異なってきます。
ここには群集心理のようなものが発生し、程度の差はあれ、聴衆はこれに影響され、時にこれに支配される。他者の熱気、興奮などが空気感染する。そして、群集はさらに興奮し、興奮がさらに高まる。やがて個は消失し、最終的には自分を見失ってしまう♪
群集ですから、所詮、野次馬の如きものに過ぎませんが、この呪縛が解けないかぎり、それでも一つの意志をもつかのように群集は動いてしまう。
音楽は原始的で感情に直接訴えますから、圧倒的な説得力を有し、
演劇や朗読といった他の再現芸術以上とは比較にならない力を有している…。

演劇もやはり個人的体験なのでしょうね。音楽のように他者の感情などがこれと異なる人に感染するということは少ないように思いますので。
演劇よりも、演説の方が音楽の持つこうして面に似ているのかもしれませんね。
巧みに演出されているとはいえ、
ヒトラーの演説、そして、これを聞いて熱狂するドイツ人の姿などを見たりすると、そのように感じられます。


西洋音楽史の本などには、
クラシック音楽は、一部の者(貴族や富豪)などのものであったが、
産業の発達などによって、
ロマン派の時代くらいから、現代に見られる大規模なコンサートが盛んに開かれるようになり、
聴衆を熱狂させるような曲が作られるようになった、
といったようなことが書かれておりますが。
そして、
こうした音楽の演奏様式における演奏者・作曲家と聴衆の関係は、
宗教における説教をする聖職者と一般信者の関係に似ている、
これを模倣したものである…。


ワーグナーは、ワグネリアンと呼ばれるワーグナーの熱狂的信者、心酔者にとって、神のような存在であります。
そして、バイロイトは聖地であり、バイロイト音楽祭には世界中からワーグナー信者が巡礼にやってくる♪
俗に「バイロイト詣」と呼ばれています。


バイロイト音楽祭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4% …


ニーチェも、ワーグナーと決別する以前は、熱烈なワグネリアンであった。
そして、
ワーグナーの音楽に宗教の腐臭を感じることになった。


bragelonneさんは、確か、サティーが好きですよね。
こちらは「サロン音楽」の流れに属し、ワーグナーに代表される音楽の系統とは異なるんですよ。


サロン音楽
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AD% …
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この回答へのお礼

 ◇ 音楽は原始的で感情に直接訴えますから、圧倒的な説得力を有し、
 ☆ いやぁ このことはわたしの思いにはありませんでした。まだ分かりません。

 ご回答をありがとうございます。

 ◇ 巧みに演出されているとはいえ、 / ヒトラーの演説、そして、これを聞いて熱狂するドイツ人の姿などを見たりすると、そのように感じられます。
 ☆ これには 説得されないという気持ちがあります。すなわち 聴衆である人びとにすでに気持ちの高鳴ったものが出来上がっていたのではないか。とも考えます。《熱狂》とはそういうものだと考えます。作品や芸術のほうからの働きかけだけの問題ではないであろうと。《巧みに演出されている》とも分析されていますが。

 ◇ 音楽は原始的で感情に直接訴えますから、圧倒的な説得力を有し、
 ☆ たぶん《原始的で感情に直接訴える》というのは――あめんほてぷ氏のところで考えたのですが―― ふたつの側面があると考えられます。
 基本とその中での起伏とです。
 生活のふつうのあゆみとしてのリズムが基本であり そしてその中で気持ちや感情の高まったり深まったりする出来事に出会うことがあるときそのような感情を音のしらべにして表現したメロディなどです。

 《圧倒的な説得力を有し》ていますか?

 これももし影響力がつよいとすれば それは 音楽の作品のほうではなくむしろ(あるいは作品と同等のチカラにおいて) それを聞く人びとの内面がすでに 影響を受ける姿勢に成っているからではないだろうか。と思うからです。






 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こうした音楽の演奏様式における演奏者・作曲家と聴衆の関係は、
 宗教における説教をする聖職者と一般信者の関係に似ている、
 これを模倣したものである…。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも信じたくないですね。

 バッハの曲を聞いて影響を受けたとしたら それは やはりわれに還るそのうつくしさであって 《熱狂》とは無縁なのではないか。

 それに聖職者の説教で納得するとしたら それはすでに道徳などとして人びとの心の中に刷り込まれているものが かなしいかな チカラを持ったものである。とも考えます。

 そのむかし軍歌をつくらされた作曲家の人たちにしても 多くは 音楽の道とは別である――おのれの心とは別の脇道である――と知っていたはずです。そのような音楽の影響力を信じていたわけではないはずです。そのチカラがじっさいに見られたとしてもです。


 日から日へ生活をいとなむ人びとのすでに作られて来ているリズムは そんなものではないでしょうし そうた易くくづれるものでもないと思います。音楽は ここに根差している。と信じます。

 コンサートホールでの音楽会は 音楽にとって脇道ではないのでしょうか。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 ニーチェも、ワーグナーと決別する以前は、熱烈なワグネリアンであった。
 そして、
 ワーグナーの音楽に宗教の腐臭を感じることになった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《宗教の腐臭を感じることになった》あと 音楽をどう捉えたか? が大事だと思います。《訣別》などという態度は つねに善か悪か 一かゼロかという単純な論理によってしか頭の中が構成されていないことを見させます。

 サティがサロン音楽の系譜にあるということは 受け留めました。
 ただし サティ自身は 環境音楽だとか家具調度としての音楽だと言っていたのではなかったですか? 生活の場へ降りて来たのではないでしょうか。(いえ さほどのことは知りませんので その点 ご容赦を願います)。



 音楽って 暮らしなのではないのですか?

お礼日時:2015/01/25 18:46

bragelonne さん こんにちは。



グリーグのピアノ協奏曲 イ短調 作品16を聴きながら回答。

私の知り合いの音大生から「音楽史」は興味ないからと、ただで学生時代使っていた音楽史の本をもらいましたが、その中に現在考えられている音楽の起源が書かれています。結構高い本ですが。

1)情報伝達手段としての音楽
先史時代、人類は、太鼓やラッパの原型のような楽器を使い、その音によって信号や合図を送りあった。相した音が耳に快く感じられることを知った人類はやがてその音を使って楽曲を作り始めたという説

2)踊りや労働のリズムとしての音楽
踊りや労働に一定のリズムをもった音で伴奏をつけようとする自然な衝動から音楽が発達し、それが次第に音楽的創造の形をとるようになったと言う説

3)感情表現としての音楽
人間は怒り、恐怖、苦悩、喜びなどの声を表現する。それが発展して歌が出て来たという説。

どれが正しいかは、bragelonneさんは、アフリカに行って、アウストラロピテクスの骨に聞いて見て下さい。

しかし、音楽の起源と言語の起源はどちらが早いか?

哲学は、謎を扱う学問です。
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この回答へのお礼

 ふうむ。と同じように反応しつつ。
 まづは ご回答をありがとうございます。



 ★ 2)踊りや労働のリズムとしての音楽
 ☆ が起こりであるように思います。ふつうにそのあゆみやリズムを表わそうとする。そのいとなみ。

 そのとき
 ★ 3)感情表現としての音楽
 ☆ も現われて来るでしょうね。

 つまりは ふつうの生活のあゆみの中に 起伏のある出来事を 同じく音の世界で表わすという。


 ★ しかし、音楽の起源と言語の起源はどちらが早いか?
 ☆ 同じようなかたちで共に (2)および(3)のごとき動きとして出来て来たのではないでしょうか。
 (つまり この言い分は わざわざどちらかを先だと見ようとする見方を避けるために言ってみたものです)。


 要するに 自己表現ですよね。内面における心の動き そしてそれは 自然の風景にしても社会の人びととの関係にしてもそのような外面における情況とも連動しているのではないか。わたしと言葉と世界とは その自己表現において同時一体なのではないか。音楽も この自己表現の過程に起きて来ている。




 ちょっとパターン化した見方を書いてしまいました。批判を俟ちましょう。

お礼日時:2015/01/25 14:19

音楽から言語が産まれました。



文字が無かった時代には、人間は詩や音楽
で意思や事実、歴史、文化などを他人や後世に
伝えたのです。

文字が出来たので、音楽は芸術に特化
しました。

文字が無ければ、人類はもっと音楽的な
動物になっていたでしょう。

風のささやき、小鳥の鳴き声、森羅万象の
総てが音楽として楽しめたのでは
ないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 音楽から言語が産まれました。
 ☆ 極端ですが 《うたった》ということでしょうか。

  籠(こ)もよ み籠持ち           
  堀串(ふくし)もよ み堀串持ち     
  この丘に 菜摘ます児          
  家聞かな 名告(の)らさね  
  ・・・

 でしょうか。イザナキとイザナミの話と同じように 口説きのうたですね。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 文字が無ければ、人類はもっと音楽的な
 動物になっていたでしょう。

 風のささやき、小鳥の鳴き声、森羅万象の
 総てが音楽として楽しめたのでは
 ないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このとき おそらく文字が発明されなければ《音楽》というジャンルも出来ていなかったのかも知れません。

 そのとき いま言うところの音楽とは どういう性格でどういう位置を生活の中で占めていたか。

 音楽は 生活そのものだったのか? 切っても切り離せないものだったか。

 そしてそのとき おそらくやはり《よい音とよくない音》の問題が 人間のあいだに持ち上がったか? こういう問いが必然的にともなわれている気がします。

お礼日時:2015/01/25 09:57

bragelonne さん おはようございます。



you tube でブラームスの交響曲第1番 小澤征爾指揮を聴きながら投稿します。

私は、趣味でクラシックギターをしてますが、音楽の音符とは英語より優れた「世界共通言語」ではと思ってます。

例えば、ブラームス交響曲第1番は、悲痛な音で出始めますが、最終楽章の4楽章は人生の賛歌を歌うようなクライマックスで終わります。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、浅田真央さんのスケートなどに良く使われますが、ラフマニノフは、自分の曲が世に認められないため、うつ病にかかってしまった。

そこで、当事精神医の博士により治療しました。うつ病から治ったラフマニノフは白眉と言われる、第二楽章と、第三楽章を先に書いて、うつ病時代の思い出を第一楽章として最後に書いた。3楽章はやはり人生をたたえるクライマックスで終わる。

うつ病患者に効果があるとされるチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴くと私は、チャイコフスキーの全人生が詰まっているのでないかと感じ聴いています。チャイコフスキーはこの曲を書いて、初演で指揮した後、数日後に謎の死を遂げました。第4楽章はクライマックスの逆で音が消えていくという斬新なものですが、チャイコフスキーは自分の思いはすべてこの交響曲に詰めたのでは。

上述の曲は漫画で上野樹里主演のドラマ「のだめカンタービレ」でも紹介されているので、知っているいる人も多いのでは。

もちろん私はAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」も聴きますよ。you tubeで検索するといろいろなバージョンがあって、音楽で世界は平和になるのではと思ってしまいます。

以前、三菱一号美術館で観ましたが、カンディンスキーの「印象III コンサート」はシェーンベルクの初演のコンサートから着想を得た。

現在、横浜美術館で行われているホイッスラーは

「音楽は音の詩であるように、絵画は視覚の詩である。
そして、主題は音や色彩のハーモニーとは何のかかわりもないのである”

ホイッスラーはこう語り、1865年以降“ シンフォニー”、“ ハーモニー”、“ ノクターン” といった音楽用語を用いて、絵画の主題性や物語性を否定しました。」

だそうです。

音楽カテのようになりましたが、総括すると、音符が言語であると考ええるなら、音楽は「論理性」を持ち、哲学の「真」にも関わり、世界平和に貢献できるなら「善」にも相当して、音楽は「真・善・美」のすべてを包括して、単に「美」だけと取るのはのは視野が狭いかもしれません。

これから秦の始皇帝を暗殺に行くわけではありませんが、今日は「風肅肅にして、易水寒し」ですね。どのようにケイカは歌ったのでしょう。
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この回答へのお礼

 ふうむ。まづは お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ふうむ。
 ここで 相手の方も相手の方ですから いぢわるぢぢいに成り切ってみましょうか。


 作品(譜面およびその演奏)と評論とは 別である。のではないか?

 作品について問うているのです。何のためにあるのか?

 《総括》ではちゃんと答えてあります。あとは 評論ですよね。



 真善美にかかわる。ですね。
 そういう理屈を共有します。その理論も用意があります。






 あと ラフマニノフについて共感します。
 たまたまよく聞いた(耳に入ってきた)ものですから。
 あとは 聞いてはいますが よくは知りません。そういう横着な聞き方をしています。


 

 秦の始皇帝の話は分からんわい。

お礼日時:2015/01/25 09:45

異性にモテるため、っていうのは大きいかと。


プレイする側の話ですが。
自己表現というのもありますね。
後は作家の世界観に浸れるからとか、その世界観を共有できるとか。イメージソースとしての音楽というのはあるかと。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 世界観についてのイメージソースとしての音楽
 ☆ ですか。イメージからヒラメキへ。そして 思考に降りて来て 言葉をとおしての自己表現に到る。ということですね。


 ★ 異性にモテる
 ☆ のですか? 音楽をやっているとですか?
 いわゆる音楽が分かるとですか?

 そうかなぁ。
 画家や小説家や俳優やとくらべてですか?

お礼日時:2015/01/25 09:30

美術にしても音楽にしても、脳の持つ「五感の相関


した経験の蓄積において、次の新たな先行感覚(光
や音など情報性の高い)に対して総和的なイメージ
(そこへ行けば(より直接生理的な)何が起きるか)を
励起させる」という、総和機能に由来している。
即ち、過去の快適だった経験の総和である刺激パタ
ーンを好む事で、実態を理解できなくとも直感的に
正しい志向性を保つ、ていう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 過去の快適だった経験の総和である刺激パターンを好む
 ☆ ということは 《心地よい》と感じるということですね。


 つまり
 ★ 脳の持つ「五感の相関した経験の蓄積
 ☆ はその中身として何か? と問うているわけです。つまり最初の経験は どうであったか?

 初めからの《快適だった経験》の積み重ね なのですね?



 あとは つねにそのような快適さとしての同じ感覚を予期しそれが励起されることをのぞむといったワン・パターンであるのか? という問いが気がかりですね。


 ということは 心地よさが 《われに還る》体験にかかわっているかどうか。こういった哲学の問いに移行するかも分かりません。そこが質問者として知りたいところです。

お礼日時:2015/01/25 09:25

気持ちを高揚または興奮させるため、調子を整えるためにあるのですよ。



掛け声や雄叫びもその一種です。

分かりやすく言うと音楽を聞くことで元気が出たり落ち着いたり、気持ちをコントロールするものです。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 分かりやすく言うと音楽を聞くことで元気が出たり落ち着いたり、気持ちをコントロールするものです。
 ☆ という要素もあるでしょうね。

 もっと大きなチカラをも持つとわたしは考えます。

 《わたしがわたしである》状態から人は世の中のシガラミやよき友とのマジハリやをとおして 心があっちへ行ったりこっちへ来たりしつつ気持ちを時にはさまよわせて生活しているかと思います。

 


 ★ 元気が出たり落ち着いたり、気持ちをコントロールする
 ☆ というのは すでに悪しき友やよき友とのマジハリをとおしておこなっているかと思うのです。

 音楽や絵画あるいは芝居や小説やをも含むでしょうかの芸術は そのような《気持ちの落ち着きや元気ジルシ》のことをわれわれに確認させてくれるように思われます。つまり われに還るということ。


 そうではなく
 ★ 気持ちを高揚または興奮させるため
 ☆ というのは やはりオマケとしての効果なのではないでしょうか?

 ということは 高揚・興奮のための音楽があるとしたら それは くだらない。のではないでしょうか? じっさいに
 ★ 調子を整える
 ☆ 効果があるとは思います。それを否定して言っているのではなくです。



 ★ 掛け声や雄叫びもその一種です。
 ☆ これは ふつうの音楽にとっては その付随物だという見方をわたしは 持っています。
 

お礼日時:2015/01/25 09:13

そうそう、


ナチスがワーグナーの音楽を政治利用したので、
イスラエルでは現在でもワーグナーの演奏はタブーとされています。

たとえば、
~~~~~~~
一方、ワーグナーはその反ユダヤ主義的言質やナチス・ドイツの文化的象徴ゆえに、事実上タブー視されている。1981年にメータがイスラエル・フィル演奏会のアンコールで「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を演奏したが、一部の団員は演奏を拒否し、観客の間に殴り合いが発生する事態となった。メータは数日後にやはりアンコールでワーグナーを取り上げたが、観客の激しい抗議を受け、数小節で演奏を中止している[1]。イスラエルにおけるワーグナーへの抵抗は未だに根強く、2001年にエルサレムでダニエル・バレンボイムがベルリン国立歌劇場管弦楽団とワーグナーを演奏した際も、抗議して会場を出て行く聴衆が見受けられた。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9% …
~~~~~~~


コードレス☆照れ☆phone ゆかたんコンサートバージョンが聴衆を一つにまとめるように、
音楽は単に個人的経験を超えたものがあるように思います。

http://www.nicovideo.jp/watch/1388065030

この曲を聞くと、王国民は一体化するのでありました♪

音楽は、絵画などの芸術にはない力を秘めたものだと思います。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。



 ◇ イスラエルでは現在でもワーグナーの演奏はタブーとされています。
 ☆ 日章旗は単なる図柄ですからね。音楽作品となると可能性として思想を伝達しうる内容を持つかに見られますから 嫌うことに理屈は立つと思います。



 ◇ コードレス☆照れ☆phone ゆかたんコンサートバージョンが聴衆を一つにまとめるように、 / 音楽は単に個人的経験を超えたものがあるように思います。
 ☆ 依然として《集団》の問題にかかわっての見方をしておられるようですね。
 そうだとしても あくまで二次的・派生的な効果の問題ではないでしょうか?

 わが《固有のとき》にこそ 音楽や絵画はかかわっているのではありませんか?





 ◇ 音楽は、絵画などの芸術にはない力を秘めたものだと思います。
 ☆ それは どうか分かりません。と思います。つまり それは ひとによるのではないでしょうか。

 《秘めた力》にかんして基礎となるいちばんのよさは やはり人がわれに還るそのきっかけになることだと考えます。

 かんたんには 心地よいと感じる。
 バッハが流れていると 何の問題もなく心地よく感じます。受難曲であっても わたしには歌詞の意味が分からないのでそういう雰囲気だけの問題に縮こまってしまいますから だいじょうぶです。(身が耳だけになって真剣に聴くという態度は 採りませんが)。


 それ以外に何か効能書きがあるでしょうか?
 ということは 作品と評論とは別だというふうにも問うているかと思います。

 評論も 二次的な派生物ではないのかと。

お礼日時:2015/01/25 09:00

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