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この本文の
「御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに」
「あはれに悲しくおぼえさせおはしまして」
「聞えさせおはしませば」
「くらべられさせおはします」
「おぼえさせおはしまして」
の部分についてです。


まずこの「あはれに悲しくおぼえさせおはしまして」の部分なのですが、私の使用している参考書に

このさせは使役の助動詞であるため、「(遊義門院)あはれにかなしくおぼえさせなさって」、転じて「(私は)気の毒で悲しく思い申し上げて」となるのである。

と説明されていました。なるほど、尊敬の使役だと謙譲的に変わるのだなぁと納得したのですが、このような使い方は古文で一般的な物なのでしょうか。それなりの古文には触れてきたつもりなのですが、初めて見る言葉の使い方だったため少々疑問に思いました。


次に先程あげた5つの部分についてなのですが、この参考書に従い、これらは全て尊敬を使役している形で問題ないでしょうか。

しかし「聞こえさせおはしませば」、「比べられさせおはします」について気になることがありまして、
手持ちの参考書でこの二つが
「他人の袂もいっぱいになるほどに(泣いていらっしゃるのが)聞こえなさったので」
「比べられなさるような気持ちがしました」
と訳されているのです。
この訳だと「他人」が尊敬され、また遊戯門院が「比べられなさる」ような気持ちを作者がするという少し変わった解釈になってしまわないでしょうか。

これらの訳は
「他人の袂もいっぱいになるほどに聞こえさせなさったので」(自発の「聞こゆ」の使役)
転じて「他人の袂もいっぱいになるほどにお見えになったので」
「比べられさせなさるような気持ちがしました」
転じて「比べられ申し上げる気持ちがしました」
となると考えたのですがどうでしょう。

大変面倒な質問内容かと思いますが、ご回答の程どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

No.1です。

訂正 「おぼゆ」を「おぼす」と錯覚していました。「おぼゆ」は尊敬語ではなく、ほぼ語源の意味通り「自発」の意味があり、「(自然に)思われる」の意味でした。

その後の回答も無さそうですので、訳を検討してみた結果、これはなかなか難しいと言うことが分かってきました。この下方に古典文学全集の訳文を引用しましたので、それを参照しながらご理解ください。

 「御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに」はの「おぼえた」のは筆者なのですが、その下に「させおはしまし」という最高敬語が付いている理由を、校訂の久保田氏は「それは東二条院の状態に関してなので、東二条院に対する敬意を表すため「御」「させおはしまし」などの敬語表現を用いた」と書いています。(今時の人には理解しにくい)

 「あはれに悲しく覚えさせおはしまして、」も上記と同様の注があります。「あわれに悲しく覚えた」のは筆者なのですが、「させおはしまし」がついている(だけ)ことになります。

 「聞えさせおはしませば」
「聞こゆ」は「言う」の謙譲語(申し上げる)は間違っていませんが、下の現代語訳では「お噂申し上げた」になっています。ここでも「させおはしませ」は上の二つと同様の使い方。

 「くらべられさせおはします」
これも筆者が「比べられる」ような気持がしたのです。「させおはします」は上の三つと同じ、東二条院への敬意。

 「おぼえさせおはしまして」
も「思われた」だけでよかったのです。全部で五つが同様の使い方でした。

 「よその袂も所せき(場所がない、すなわち涙が拭ける場所がなくなる)ほどに涙で濡れて聞こえ(噂を申し上げた)た」(全部の人の袂が涙でぐっしょり濡れた状態です。)

『新編日本古典文学全集47』 小学館 久保田淳校注・訳より
都の方のことなどを聞くうちに、正月の初めごろであったろうか、東二条院がご病気だと言う。どのようなご様子だろうかと、人知れず気がかりにお思い申しあげるけれども、尋ねるべき方法もないので、よそのこととして伺っているうちに、もはやどうしようもないご容態となって、御所(富小路殿)をお出になるということを、伺ったので、無常はこの世の習いであるけれども、住み慣れていらっしゃったお住まいまでもお出になるのは、どのようなご事情だろうと、后として御門の玉座にお並びになられ、朝政をも輔佐し申しあげ、夜はご一緒に夜を専らとなさった御身でいらっしゃるから、今はご臨終という場合でも変る御事はないであろうとお思い申しあげていたのに、どうしてであろうかなど、気がかりにお思い申しあげているうちに、「はや、お亡くなりになられた」ということでたいへんな騒ぎである。
折も折、都近くの住まいにおりましたので、何となく伏見殿のご様子も知りたくて、拝見しに参ると、「まず遊義門院が御大臣様がお出になられる」などと言っているうちに、遊義門院の御幸が、まずお急ぎになるということで、遊義門院の御車を寄せると拝見していると、また、まだしばらくお出にならないということで、また車を退けて立ち戻られたかと思われることが、二、三度にもなったので、お母君の最期のお姿を御覧になるのもまたいつのことかと、遊義門院がお名残惜しくお思いでいらっしゃることも、哀れに悲しく思われて、大勢見物する人たちもいるので、それに紛れて御車近くに参ってうかがうと、すでに御車に乗られたと思ううちに、「またお戻りになられたのだろうか」と言っているのが聞こえる。お乗りになった後も、普通ではないお心まどいのご様子は、他人の快も涙でいっぱいになるくらいにお噂申しあげたので、心ある者も心ない者も、快を絞らぬ人はいない。束二条院様には宮様は大勢いらっしゃったけれども、皆、先立ってお亡くなりになられて、遊義門院がただおI人いらっしゃったのだから、お互いのご愛情の深さは、さぞかしと拝察されるとおり、お悲しみが深くお見えであったことこそ、数ならぬ身であるこのわたしが父を失った時の思いにも、つい比べられるような心地がしました。
 御葬送の御幸を拝見するにつけても、昔のままの身であったならば、どのようだったのかなどと、思われて、
 さてもかく……
 (それにしても、このように物の数でもないこの身は長らえて、東二条院様のご葬送を、夢かと思いながら拝することは悲しい)
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この回答へのお礼

ここまで詳しい回答、感謝いたしますm(_ _)m
行動の主体に敬語をつける文法、おかげさまで一層理解を深めることが出来ました。

お礼日時:2015/08/05 23:49

「させおはします」は「させ給ふ」より高い敬意度の「最高敬語」(二重敬語)とみられます。

また、「きこゆ」は本来上代の自発の助動詞から出来たものですが、平安時代には「申し上げる」という謙譲語に使われています。また「おぼゆ」も「思ほゆ」という上代語から変化して「おぼゆ」(お思いになる)という尊敬語になったものです。
  (参考「聞かゆ→聞こゆ→聞こえる」「思はゆ→思ほゆ→おぼゆ」「見ゆ→見える」)

 その参考書は筆者や出版社がわかれば教えてください。あるいは私などがわからぬ高度の知識があって、そういう「使役」という解釈が成り立っているのかも知れませんから。
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この回答へのお礼

この部分、やはり使役ではないのですね。
OKATさんの説明を元に解釈し直そうと思います。

参考書についてですが、
教学社、笹岡信裕様の「早稲田の国語[第4版]」という参考書です。
現代文、古文、漢文に渡り過去問から抜粋して掲載、解説を行うという内容です。
赤本などで有名な会社だということで手を伸ばしてみたのですが、どうやら今ひとつな参考書のみたいですね(汗)

ご回答の程、有り難うございました。

お礼日時:2015/07/26 09:49

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