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道徳教育を取り入れるに当たって若者の自由な発想を阻害しないようにというような意見があるとのテレビ報道を見ました。

道徳教育上で、自由な発想を阻害するとはどういうケースを指すのか教えてください。またどういう発想からそのような心配をされているのでしょうか。

道徳教育とはどのような内容になっていくのでしょうか、ごみを所構わず捨てない、ならぬものはならぬとか常識程度のマナーも守られていない行動を律するものではないのでしょうか。

A 回答 (5件)

道徳教育って、基本的に学校で教えるものなのでしょうか?



現在は親がだらしないので、学校で道徳教育しても暖簾に腕押し状態かと思います。

学校教育では、教育勅語を教えれば充分だと思います。

■教育勅語
1.親に孝養をつくしましょう(孝行)
2.兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)
3.夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)
4.友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)
5.自分の言動をつつしみましょう(謙遜)
6.広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)
7.勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)
8.知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)
9.人格の向上につとめましょう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)
12.正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。 明瞭簡潔に言い表されていると思います。

お礼日時:2015/08/02 22:43

若者の自由な発想を阻害しないように=これは、おそらく遠回しの信仰の自由とか価値観の自由とかそういうものを教育によって一方向きへと強制してしまわってはならないという意味だと思います。

自由な発想は、言葉通り自由な発想が生まれないという意味ではないと思います。

そもそも、道徳的に良いか悪いかというのと、やってはいけないかやっていいかということというのは似ていますが違います。人をいじめることはいけないことかもしれませんが、資本主義の世の中でだれかを蹴落として上に上がっていくという行為は皆が行っていることですから、時には自分の身を守るためにいじめに近い状況を黙認するようなことがあるかもしれません。また、わかりやすい例でいうとサンデルの講義なんかがですけど、そもそも道徳的に何が正しくて何が正しくないのかということには完全に正解はないですし、信仰する宗教や生まれ、生活環境や金銭的感覚、時代などによっても変わってきますからね。子供を育てる教育方針だって親によって違うと言ってしまえばそれまでのように、法律で禁止されてる行為やルール違反を除けば、どこまでが道徳的に教えられるべきなのかというのは実は結構難しいんだということでしょう。道徳教育をしなくてはいけないような年齢の子供の場合、そういう曖昧な物事を曖昧な言い方で教えるのだと理解できないので、結局何が正しくて何が間違っているというようなニュアンスの教育になってしまうんだと思われます。

とはいうもののある程度世の中で美徳とされる共通的な道徳概念というものは実際存在しますから、道徳というものに一定水準はあると思います。ただ、その一定水準というのも、強制されるもの(例えば人殺しはいけないとか)と価値観に近いもの(ゴミ拾い、ボランティアをする、電車で席を替わる)など程度の違いも結構あります。そういう意味で、一般的な法律的にも禁止されているような行為に代表されるものはともかく、それ以外の価値観にかかわるものに関してはあまり推奨されるものでなかったとしても、偏った価値観のみを教えないで中立にすべしというのが国民教育の前提にあるんだと思います。テレビ放送とか報道機関の中立性に似てる問題でしょうね。「若者の自由な発想を阻害しないように」、という文言はまあ建前上「自由な発想」と主体性が若者にありそうな綺麗な言葉で言ってるだけで、要するに様々な価値観にかかわるような物事だと中立性の確保が難しいんじゃないかな?ということだと思います。

ゴミ拾いを積極的にする人にご褒美を与える、というところはゼロからプラスの考えで良いんですが、これが行き過ぎるとゴミ拾いをしない人=悪者=マイナスという構図になります。しかし、ゴミ拾いをするかしないかというのは本来は個人の自由なわけで(人にはそれぞれの人生、時間、生活があります)、しない人間を弾圧することになればそれはそれでまた問題ですからね。一般的に不可解であっても、つぶされない宗教団体、思想団体もあるわけで、法律違反をしない限り信仰の自由なのですから、彼ら少数派の権利が弾圧されると危惧する人も出てくるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/10/25 14:30

「道徳」を教える時は、どうしても上から目線で教えがちになります。


そうなると、子供に限らず、大人も本質を忘れて礼儀作法を拘ったり、例話の意味を理解せずに教える側の意図に沿った感想や発言しか述べなくなり、目上の人間の御機嫌取りばかりに気を使います。そうではなくて、道徳の本質を理解した上で、自由な議論や発想が望まれるのでしょうが、正直に言って普通の公務員では無理です。


予想ですが道徳教育は、時の政権や首相によって内容がバラバラになるでしょうから、形骸化するでしょう。
保守系の教育勅語(介護問題、DV問題、相続問題、など)、革新系の人権や平等、平和(格差問題、国際情勢、など)だって、現在の社会情勢(()内の現実的な問題)と離れ過ぎています。それらの問題に対して回答できる教師は皆無です。愛国教育も盛り込むでしょうが、そうなると政治家の汚職や官僚の失政が報道される度に皇道派や統制派に影響される馬鹿が出て来るでしょうし。

最終的には、現在の道徳の教科書の最初に教育勅語の全文と現代語訳が掲載されたページが加えられるだけでしょう。

話は逸れますが、社会学者の古市憲寿さんの話で「道徳を教えたいなら、少年漫画の人気作品を読ませろ」というのがありました。これは、「人気のある少年漫画ほど、弱き者を助け、悪人を懲らしめ、仲間と協力し、苦難は努力して克服すると言う、非常に道徳的な話が描かれている」という意見でした。それは、それでありとも考えています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/25 14:31

小学校などでの自由な発想を阻害しないとは 良い事をする方法や結論を指導側がこうであると決めつめず


自分で考えるということではないでしょうか。
たとえば おばあさんが歩道橋を重たい荷物をもってわたろうとしている。
貴方はどうする?と問いに対して
・荷物をもって一緒に上る←模範解答はこれでしょうが

・荷物を持ってくれそうな大人を探す
・横断歩道ではなく 別な道を教える
このような答えを出すことを否定しない  ということだと思います。

で この発想の自由さは ユニバーサルデザインなどにはとても必要な発想力であり
その目をつむことのないようにということでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/25 14:31

何が本当に正しいのか解からない 複雑な世の中になっているかも?


だからこの場合はこれが正しいとか 決め付けた教育はしないということかな?
限らないということかも
単純に それが正しいということもあるでしょうけれど

臨機応変ということかな
例えば 自分もか弱い女の子なのに 自分を危険にさらしてまで人の命を助けたりは
過剰かもだし 頭を使えば 直ぐに誰か助けを呼ぶとか警察とか
いろいろな事案があるかも

例えば 誰かが万引きしたのを見掛けたとして 
今の不況 ただの客が直ぐに突き出すのが良いかどうか
その人はどんな人か 警備員でも無いのに余計なことは出来無い場合もとか??
まあ細かい事を考えたりしても きりが無いか 埒開かないかもな・・?

例えば知らない誰かが道に倒れたとして・・ああ・・
もう考えるのよそう・・
臨機応変に・・
良いと思ってしたことが 実は大変なことになったりとか・・
困った世の中かも?
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/25 14:27

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