電子書籍の厳選無料作品が豊富!

まづ 憲法とやらを読みます。

 ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~~~~~
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83 …

 一に曰(い)わく、
 (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、
     忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。

 (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。
     ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、
     また隣里(りんり)に違(たが)う。

 (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、
     事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、
     すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 次のように問います。
 (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論
 もしくは表現の自由 これを基礎とすると言っています。まづこれ
 を確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。

   ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
 
 (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが

  ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて

  これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線
 で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違います
 が われわれは次のような歴史を経て来ています:

  ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』1973) ~~~~~~~~~~
  【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔
   (みことのり)に

     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ 
     奔亡するものなほ多し。
     禁ずと雖(いへど)も止まず。

  とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが
  都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しい
  ために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・

  【上田正昭】 その翌年の正月にも 

    諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 
    食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。
    溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの 
    その類少なからず。

  というのが出ていますね。

  【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されている
  わけですね。

  【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。

      草枕 旅の宿りに
      誰(た)が夫(つま)か 
      国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  (3) 前項(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じ
  ような趣きの歌を見てみれば分かります。

  ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~~~~~
    上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の
  死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし
  御歌一首

     家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ
     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かっ
 て 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさい
 と声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそう
 に・気の毒にとだけ言っています。よね。

 (4) たとえば

  ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。

 と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をも
 って暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 
 《和を以って》うんぬんと言いだした。

 口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく
 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえませ
 ん。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。

 (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かの
 とき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者
 に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。
 そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃっ
 てもらっちゃってもねぇ。
  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっ
 ていらっしゃいます。

 (6) 無念のうちに《溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづもれる》と
 いう波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっ
 かく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たち〔ここ
 に元慰安婦は入るのだろうか どうであろう〕とともに―― われは堂
 々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど
 起き上がり立ちあがって声高く言って欲しい。

 (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに
 《旅人》として歌われたところの《みまかれる人》は のちに聖人であ
 ったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわ
 かり合えるのだという尊きオシヘであります。――ちゃんちゃらおかし
 いわい。クリスマスツリーのカザリであります。

 (8) スサノヲ市民・人麻呂の心意気なら われらが和の精神をめぐ
 って何が問題だと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?

A 回答 (2件)

この度は、聖徳太子が「ただのくそったれ」「ぼんくら太子」


「うすのろ太子」「へなちょこ太子」になっておるようですが
私は、十七条憲法というものを、今日はじめて読んだという有
様です。また、歴史のことも知識がありませんので、ごく平易
に考えますと、民主的な発想というものが生まれにくい「文化」
が、すでにこの時代の日本にはあって、この十七条憲法という
ものが限界だったのではないでしょうか?

そして、その非民主的傾向は、千年以上たった現在も、色濃く
残っているということだと思います。

テレビで見たことですが、宮城音哉氏が、そのような説を持っ
ているようです。(ちょっと記憶があやしい)
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 宮城音哉
 ☆ なつかしいですね。東工大で触媒をやっていた高校の同窓生がいまして
  宮城の講義を受けて おもしろい先生だと言っていました。

  岩波新書を読むと あまり手ごたえはなかったですね。
  ふつうのことを しっかりと言っていたのでしょうか。
  常識的なことなのだけれど 必ずしも常識にはなっていない事柄について
 語っていたのかなと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ごく平易
 に考えますと、民主的な発想というものが生まれにくい「文化」
 が、すでにこの時代の日本にはあって、この十七条憲法という
 ものが限界だったのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 聖徳うまやどのみこが 二階から憲法を発布する以前のもともとの一階
 の情況について かんたんにまとめました。民主制の土壌はあったという見
 方をしています。

 【Q:和の発想は哲学的にいって一番優れている気がするのですが?】
  その回答№2&7&8です。

  聖徳という立派な名前の人物については すでに歴史学の中でも一般的と
 なったとさえ言えるほど 《政権の都合によってつくられた》という見解が
 受け容れられて来ています。

  ヰキぺでも《虚構説》にスペースを割いて紹介しています。

  上の質問で 聖徳太子についての従来の賛美説が出ていましたので 放っ
 ておけないと思い 推し出してみました。

お礼日時:2015/11/16 22:28

宮城音弥でした。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

あっ わたしもそのままを受け取ってしまいました。

 うけたまわりました。

お礼日時:2015/11/16 22:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!