プロが教えるわが家の防犯対策術!

『拷問執行人のひそかな快楽は、必ずしも相手の肉体的苦痛を眺めることだけではないのである。肉体の苦痛とともに、相手の精神がよろめき、耐えられるぎりぎりの限界を超え、ついには肉体の共犯者となって屈服してしまうという、その精神の裏切りの過程を眺めるのが愉しみなのである・・・』

これは澁澤龍彦の『エロス的人間』の一節ですが、わたしにとって、これ以上的確に、究極的エロスの様相を表現し得たものを知りません。

エロスとは、「落差」によって生じるものではないか?

気高く誇りに満ちた精神が、肉体(の快楽)に裏切られること、悦びは堰を切って決壊し、精神が肉体の共犯者に堕してしまうこと、その瞬間こそが至上のエロスではないか?

この場合、エロスが成立するために、時間的な流れが必要となります。言い換えれば「文脈」です。
凛とした精神が「肉の共犯者」に堕するために要する時間的経過と変化の過程こそがエロスなのではないでしょうか?

一方で、目の前にある赤裸々な、あからさまな裸体というものには「落差」が存在しないが故に、そこにエロスは発現しない。

エロスーエロティシズムとは、この人間の「変化」(または昆虫に見られるような「変態」)にそのエッセンスがあるように思うのです。

皆さんの極私的エロス(変態)論をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「エロティシズム」と「ポルノグラフィ」とは、いわば「生(性)の紋切型」への反逆であり「性の編集術」です。

    http://www.artnet.com/WebServices/images/ll00152 …

    わたしは画家バルテュスの兄で、画家であり作家・思想家のピエール・クロウスキーに惹かれるのです。

      補足日時:2016/08/06 15:15
  • 回答No.1のコメントに関連して

    セクシュアリティに、エロスに「正常」-「異常」という概念があるのでしょうか?
    「ある」とするならば、その境界線とはどこにあるのでしょうか?

    またそういってしまえば、アートも、文藝も、哲学すらその立脚点を失ってしまうことになるのではないだろうかという危惧があります。

      補足日時:2016/08/06 15:37
  • 付言するならば、「性」に於いて、
    人は「生(き)のままの性」で充たされ得るのか?そこになんの装飾もなく、文脈を施すことなく、目の前の即物的な「裸形」に、果たして、性的魅力を感じることができるのか?「できる」という答えには、わたしはただ絶句するのみです。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/06 16:11
  • 青蛙ではなく

    「あまがえる お前もペンキ 塗りたてか」

    でした。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/08 14:03

A 回答 (13件中11~13件)

おじさんです。


「目の前にある赤裸々な、あからさまな裸体というものには「落差」が存在しないが故に、そこにエロスは発現しない」
→そうだと思います。
「極私的エロス(変態)論をお聞かせください」
→幸せな人はエロスに走りません。
何故ならエロスは必要ないからです。
エロスを求める人は可愛そうだなと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

>→幸せな人はエロスに走りません。
何故ならエロスは必要ないからです。
エロスを求める人は可愛そうだなと思います。

何故、エロスを求めることがかわいそうなのでしょうか?

エロスとは、また変態とは、本能に起因する生殖に抗います。エロスは「知的エンターテインメント」です。
エロスを求めることは、アートを、文学を、哲学を求める精神と通底しています。それは「即物的」な生に対する文飾であり、遊び心です。
言い換えれば、「凝る」ことです。

お礼日時:2016/08/06 13:19

示されたすべての命題に反対します。



まとめてその理由を言えば こうです。:

それらは人間が およそ自由勝手に意味づけをしただけのことだ
と考えられるからです。

生まれつきそなわった自然本性としてのエロースなる機能の上に
人間が文化的に(――ということは 非自然または半自然ないし
反自然のかたちで:ということは およそ自然本性の内の感性を
すでに何がしか離れて まさしく理性によって――)意味づけを
したものだからです。

感性の原野を開発するといった役割りを 人間はその理性に担わ
せた。

その結果 思考の緑野が切り拓かれたと一般に言えると思います
が 感性については さまざまな飾りつけをしただけではないか
という疑念が残ります。

なぜなら――ひと言で切り返そうと思えば―― けっきょくは
もともとの≪感性の原野≫の感官やその風景を 模倣したものに行
き着く。

自然本性としての感性の再現を目指したものに過ぎない。

果ては すでに感性を理性やチセイによって台無しにしてしまっ
たあと その感性を再生させたいと願うばかりになっている。か
らです。


★ 拷問
☆ の場合は すでにそれを受ける人間は 死んでいます。人の
意志や心をないがしろにする行為は 意志行為として無効である
からです。

死んでおらず その苦痛を耐えようとし 錯乱に落ち入りつつも
また精神を保とうとすると言っても それは 拷問に もし 値
する場合ならば そういう現象が起きているというだけのことに
なります。

拷問に値せず 拷問者が勝手におこなう場合は 先に述べたとお
りです。

★ エロスとは、「落差」によって生じるものではないか?
☆ そのように すでに落差をつくらなければエロスを味わえな
い場合には そうなのでしょう。

★ 目の前にある赤裸々な、あからさまな裸体というものには
「落差」が存在しないが故に、そこにエロスは発現しない。
☆ そりゃあそうです。人為的・人工のエロスは 理性がこしら
えようとしているだけの代物なのですから 自然本性における姿
からは 飛び去って行ったのでしよう。

情欲のない生殖がありえます。そこにおいて ふつうの自然本性
としての・また人間性としてのエロスを味わうのが 人間です。

趣旨説明の内容は エロスのディズニーランド版でしょうね。
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この回答へのお礼

こんにちは。

先ずわたしにとって不思議なのは、たとえそれが自爆テロリストであろうと、シリアルキラーであろうと、誰かを指して瞬時に「異常だ」と裁いてしまえる精神構造です。何故そこまで自己を肯定、正常であると見做すことができるのか?

さてもちろん、エロスや変態性に関していえば、それは「生(き)のまま」の性に対するある種のレトリックです。文飾です。ですからそれは必然的に「反自然的」なものです。それは「理性との対立」、生殖という「生産」への対立、それへのアンチテーゼです。

エロスは性のアナキズムであり、それは「タブー」を犯した地点から発現します。

>情欲のない生殖がありえます。そこにおいて ふつうの自然本性としての・また人間性としてのエロスを味わうのが 人間です。

なるほど、ではわたしは「有罪者」で構いません(苦笑)

>趣旨説明の内容は エロスのディズニーランド版でしょうね。

若干矮小化されているきらいはありますが、「当たらずと雖も遠からず」といった感じでしょうか?

更に「変態」という点に目を向ければ、「エクスタシー」という「脱自」「自失」という状態、自分が自分の所有ではなく、なにか別の存在に自分が所有されている=何者かに心奪われた状態であるという意味で、

「腑抜け」の状態といえると思います。そして、自己が最早ある時点で自己の同一性を失い、脱自=腑抜け状態になることこそ「変態」の相似形でありエロスの象徴であると思うのです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/06 13:58

正しく、変態そのもの。


いや、異常である。

あなたのこと ですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「正常」「まとも」といわれるよりは「変態」「異常」でありたいと願っています。

何故なら、それらは「少数派」だから。

お礼日時:2016/08/06 13:07

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