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堺市の石津川あたりに「十三軒長屋」というものがあったということですが、詳しくご存じの方はいらっしゃらないでしょうか?
どうやら心霊スポットとして有名だったようなのですが、すでに取り壊しになったようで、調べてもあまり詳しいことは分かりませんでした。

私は以前から堺市在住で、石津川といえばかなり近所になるのですが、それらしき建物があったような記憶はありません。もしかして実際には存在しない、架空の建物なのでしょうか。
もしくは、私が知るよりずっと前にあったものなのでしょうか。

オカルト的な好奇心がないわけではないのですが、それよりも、どういった経緯で取り壊しになったのかとか、どのような人達が住んでいたのか(住人はいなかったのかもしれませんが)とか、その後、土地はどのように利用されているのか、などが気になります。
そもそもどこにあったものなのでしょうか。

ご存じの方がいらっしゃったら、ご回答をお願いいたします。

A 回答 (2件)

大阪では、大きい、長い、幅が広いという比喩で十三の数字が使われていました。

広い淀川渡った大きな町が十三(じゅうそ)、広い幅の道路が十三間道路(シャープの本社前の道路も)、10軒でも20軒続きの長屋でも十三軒長屋と。道路に直角に行き止まりの狭い道路の両側に長屋が並んでいるようなところ、十三軒長屋とか。

大和川の次の浜寺手前の幅のある川が石津川。昭和30年ごろにでも、あのあたりには、何か所もの行き止まりの狭い道路の両脇に長屋、その奥の突き当りに小さな祠があったのは、覚えています。南海電車でも本線でなく、恵美須町から濱寺駅前駅(進駐軍ベース)行きのちんちん電車によく乗っていましたので。
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湊・石津側周辺に限らず、昭和30年台までは、都市部周辺の庶民の住居と言えば、長屋が普通。


十三間長屋の説明はNo1氏の説明どおり。
鉄筋の2DK大規模団地が開発されたのは、昭和40~50年前後。
大阪周辺では、香里園がその奔りです。

昭和40年台に入ると、湊・石津周辺も都市化の波で、風情ある風車も長屋も消えていきます。
「十三軒長屋というものがあったのでしょうか」の回答画像2
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