電子書籍の厳選無料作品が豊富!

クリスチャンです。

2つ質問があります。
どちらも私自身が誰かの行動を否定したいとか批判的な見方をしているというわけでは全くなく、純粋な疑問です。
牧師さんやそれに準ずる方に回答いただきたいです。

①キリスト教における「遺体」の考え方
クリスチャンの友人が若くして亡くなりました。
キリスト教ですから、友人の魂は天に召されたので、また再会する日を待っている、とあらゆる人が言っているし、私もそう思ってます。

ご家族の方(クリスチャン)が「◯◯ちゃん(亡くなった友人)は病院から移って今は家にいます。◯日には教会に移動し、◯日には火葬するので会いたい方はいつでもどうぞ。◯◯ちゃん、今とても綺麗です。」と呼びかけていました。
ご家族のいう、「◯◯ちゃん」とはつまり、友人の遺体のことです。
私も、火葬される前に会いたい(見たい?)と思っていました。
でもそこで疑問があります。
魂は亡くなってすぐ天に召されていると考えると、遺体に会うことにこだわるのはキリスト教的ではないのでしょうか。
また、肉体を故人そのものとして扱うのは変ですよね。
火葬してから魂も天に召される、なんてことは、埋葬文化の国ではどうするんだよ、ということになりますし、そもそもそんなことはあり得ないですし。

私がもし家族を亡くしたら、いくら魂は天に、と思っても遺体はぞんざいにしたくないし、されたくないです。
また、家族の友人知人が遺体に会いに来てくれたら嬉しいと思います。
ただ、たとえば、その遺体に家族の友人知人が話しかけられたりしたら、「もうこれは単なる肉体に過ぎないんだけどな…」と心の中で突っ込んでしまっても、間違ってはいないということになりますか?

②故人への手紙・メッセージについて
①の友人の死後、友人のfacebookの「友達」がこぞってタイムラインに友人宛のメッセージ(こんな思い出があったよね、天国でまた会おうね!など)を投稿していました。
①とかぶるのですが、魂は天に召されていますし、天国で地上と同じ感覚でfacebookが見れるとは思えません。
何か伝えたい気持ちはわかるのですが、facebookじゃなくても(しかもメッセージではなく万人が見れる投稿というかたちで)いいのではないか?と疑問を感じました。

大変穿った見方をすれば、「私は故人とこんなに仲良かったのでこんなに悲しいです。そして私はこんな思いやりのある投稿をするんですよ。」というアピールにも捉えられます。

肯定的な見方をすれば、この人はこんなに愛されていました、という証や尺度として、facebookの追悼投稿の数がものを言うのだったら、そういう時代なんだ、なるほど、と納得がいきますし、私の家族が亡くなったとして、知人がたくさん哀悼の意を示していたら嬉しいのかもしれない?と思いました。

突き詰めると、facebookの投稿だけでなく、例えば手紙を一緒に火葬するだとか、あとは一生既読にならないであろう個人Lineを送るとか、お祈りを通して故人にメッセージを「飛ばす?」というのは、ちょっと違和感です。
家族を亡くしたことのない私が冷たすぎるのでしょうか。




①②に共通して言えるのは、結局クリスチャンは、死後は永遠の喜びに満ちた天の国に行くので、遺体など含め「故人自身」になにかを働きかけるというのに違和感を覚えているということです。

そうするとどうしても、クリスチャンの死後は残された家族が主体、ですよね。
まず真っ先に「ご家族の心の傷が癒されますように、平安が与えられますように」とか祈りますし。
本人のご冥福は祈りませんし。
せいぜい「天国であなたの御腕に抱かれていることと思います。彼(彼女)の苦しみを取り除いてくださり感謝します」という感じでしょうか。。。

身近な若いクリスチャンの死が今まで無かったので、あらゆる疑問が湧いてきます。

なお、「ご遺体」は死者を神格化する仏教的文化なのかなという考えからあえて「遺体」というふうに表記しましたが不快に思われたら申し訳御座いません。

長文でまとまっていませんが、ご回答のほど、お願い致します。

A 回答 (5件)

牧師ではありませんが、同じクリスチャンとして思うところを書かせていただきます。



遺体に対するそのような扱いや、SNSなどへのメッセージは、故人にとっては意味の無いことかもしれません。でも、残された人たちにとって大きな意味があるのかなと思います。

人の死というのは、その本人にとってだけでなく、一緒に生きた人たちにとっても大きな出来事です。その時に、神様が故人に与えられた土の器を見つめ直すことで、故人のことを回想し、想いを強くして祈ることは、残された人々の霊的成長にもつながることだと思います。
同じように、SNSなどで故人との思い出や気持ちの丈を共有し合う事も、これからを生きる人々に意味があることだと思います。

たしかに、遺体にばかり気を取られて、魂に目が行かなくなってはまずいと思います。また、SNSなどへの投稿がアピールの側面を持っているとも思いますが、残された人々にとって霊的に良い意味ももっていると思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

結果的に牧師やそれに準ずる方から回答がいただけなかった中、同じクリスチャンの方から回答がいただけて嬉しく思いました。
内容も納得できました。
故人目線ではなく、残された人目線で考えればどれも何かしら意味のあるものですね、確かに。

ありがとうございました。

お礼日時:2016/08/28 18:09

考え過ぎです。

日本で誰かが亡くなった時に、遺族や友人たちが必ずしも「仏教的」あるいは「神道的」なふるまいをしないのと同様に、大切な若者が急に死ねば遺体に会いたくなるのが自然ですし、facebookなどを活用すれば思い出を共有できます。

また、facebookであれブログであれ追悼式であれ、それは時として「発散の場」にもなりますので、書き込みについてピンと来ないのであれば、そっとしておいてあげればいいし、あるいは「この人も、やりきれない気持ちを発散したいのだろうな」と思っていればいいです。普通のことです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/08/28 17:58

4か月前に妻を亡くした、「お前、それでもカトリック教徒かと思われているミサにも行かない」爺さんですが、まず、真っ先に「Descanse en Paz(安らかに眠ってください)」と本人へのご冥福でした。

安置された遺体に向かって言葉、人間の聴覚がなくなるのは、死後数時間と。それで、遺体はちゃんと聞こえているということです。心臓が止まった、すぐに遺体の前で遺産相続などで喧嘩などするな!というふうに私は、受け止めていますが。

クリスチャンでも仏教徒で何でも、宗教は死の恐怖をなくすることで、葬式って、残された人間がけじめを確認するためです。死後の世界、行って帰って来た人なしで、天国・地獄も、この世の人間が創作したたもの。勝手に想像だけで作り上げたものですから、これが矛盾しているとか、合理だとかは、討議するものではありません。

わたしは、人間の死後は、生き残っている人間の体の中で、思い出という形で生きている、と理解しています。ほかの人には聞こえませんが、今でも妻の声は、はっきりと聞くことができます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/08/28 17:59

キリスト教も宗派に依り考え方はマチマチです・・



けれど どの宗派も同じ様に 体の死はあまり気にしていません・・

聖書にも記載されてるが「死とはサタンに屈服する」という事・・

だけども 遺体をそのまま放置する事は出来ないし 「お疲れさま」の意味も含めて葬儀を執り行う・・

悲しみの葬儀になるのは勿論だが それは 今 天界に行っても成すべき事をする為に この地上へ戻らなければならないから・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そして・・・・・・・・・・

天国であなたの御腕に抱かれていることと思います。彼(彼女)の苦しみを取り除いてくださり感謝します」という感じでしょうか。。。」←霊界に 今は天国はありません・・

だからイエスも「パラダイス」と言われたのです・・

パラダイスと天国は別の物・・天国とは この地上に創られ そして その地上天国で生活した者が天界に行き 天界に創る事になる・・
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/08/28 18:00

牧師でなくてすみませんが。


墓で手を合わせたり、話したりするのとおなじだと思います。
魂はそこにないです。

仏教もキリスト教も、同じだとおもいますよ。
それと、もし死後の世界があるなら、葬儀のときはまだ、遺体のそばに居ると思いますね。
別れを告げ、すっきりしたら光が見える。。そんなシーンが映画やドラマでありますが、
あればほんとうだとおもいますよ。

仏教で、三途の川を渡りそうになって帰ってきたという話が、よくありますが
誰かが創った妄想というよりは、ほんとうにそんな感覚を持つ脳が存在するということだと思います。夢といえば夢です。

ということで、全然違和感ないです。
手紙を一緒に居れる。読めないメッセージをおくる。

気休めとも言えますが、気体と同化する肉体=一緒に灰ととともに舞う。
読めない電子メッセージをおくる=霊的なものには電子の力が使われているという話は
よくあります。
ですので気休めだとしても、根拠がある感じですね。

ということで、死後の世界は死んだ人にしかわかりませんが。
世の中、化学では解明できない不思議なことはたくさんあります。
これは、宇宙規模で考えたら、魂なのかエイリアンなのか、、というふうに
未知の世界です。

キリスト教もそうですが、心で感じる事をカタチにし、
人々は救われているのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/08/28 18:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!