

古典落語に「あくび指南」という演目があります。
天下泰平の江戸の世、みながいつもファ~ファとやっているのは実は「駄あくび」で、
ある若い衆が、あくび指南所で、師匠にみっちり「正当なあくび」を教えてもらうという噺です。
実際に「本式のあくび」や「駄あくび」があるわけではありませんが、わたしたちが日常使っていて、生きてゆくのに不可欠な「道具」である「言葉」に関しては、その「道」というものはありません。言葉という、わたしたちが使用する見えない道具は、しかし時にひとを殺傷することも可能な「武器」でもあるのです。
「あくび道」はなくとも「言葉」に対するなんらかの「美学」のようなものがあってもいいような気がします。
そして同時に、向田邦子の言葉ですが、「悪態も含めて、持ってる言葉の辞書が厚い人の方が、その人生は豊かだ」ということも事実でしょう。
『シラノ・ド・ベルジュラック』を基にした、スティーブ・マーティンのコメディ『愛しのロクサーヌ』では、バーで、「鼻」を馬鹿にされた「彼」が、剣ならぬテニスのラケットで、無礼な男の特徴を巧みに皮肉りながらカウンターパンチを食わせてゆきます。「高度な悪態」はほとんど話芸であり、文芸、詩の領域に達しています。
また「ことば」と一言にいっても、その様相、相手に伝える形は、このような液晶画面に表示される文字であったり、手蹟 = (手書き)の文字であったり、または肉声であり、録音された声でありと様々です。「言葉の作法」として、便箋を選ぶこと、ペンを選びインクを選び、封筒を選び、そこに自分の手書きの文字を載せる。数日後、何処かでポストに見つけた「手紙」から、読み手は様々な情報を得ることができます。
・・・と、前置きはこのくらいにして、みなさんの「ことば道」、言葉という道具について思うところ様々、お聞かせください。
No.34
- 回答日時:
ことばの色、けっこうヒントになりますね。
わたしは、他人を主語にする文は、危ないものと気を付けています。日本語は I (私)で発信しないことが多いですから、他人がしょっちゅう主語になります。でも、話の流れ上、二人称を主語にするときは、特に注意を怠らないよう意識しています。「君は~~だろう、あなたは~~している」は、可能なら回避したいのです。
なぜなら、その人が発信した《色》ではなくなる恐れがあるでしょう。自分の主張(色)の踏み台になることによって、その人の《色》のふりをして、実は自分の《色》のヴァリエーションを繰り出してしまうのは暴力的です。
例えばこのようにですが、つまり、人から人へ色が遷移して、手前の都合で染め替えられてしまうのを、ブラジュロンヌさんは嫌ったのではないかと思います。
わたしの感覚では、他者のことばは、まず肯定したところに受け取りがあり、そのときは無色透明な印象を持っています。そのことばを支える思想が尾ひれのように付いて、やっと、色が見えるという感じです。
先の投稿で、不透明さについて書きましたが、そんなところにもつながっています。相手を知るとともに自分を知ると言いましたが、肯定する自分を、ですよね。
そういう、一通目の受け取りのあと、思想にも《色》にも話が入って行けると楽しいですね。
ブラジュロンヌさんとは、疏通がうまくいかない頃もありました。ぶっきらぼうな、フラットな、それこそ色の無いことばで、無礼講になってから、共通言語が見えたような気がします。事務的といえば事務的ですね。上品な人はごあいさつばかりする、と山田太一の脚本でどこかにありましたが、ごあいさつ省略のうえ、心を省いたような事務スタイルは、苦手な人もいるでしょうね。
久しぶりにビリー・ホリデーを聴きながら、窓の外から漂ってくる金木犀の香りを感じていると、重箱の隅を楊枝でつつくような議論が、人生について考えることとはまったく正反対の方向に向かっているように感じてしまいます。
徒然草でしたか、手紙で、時候の挨拶もなしにいきなり本題に入るのは無粋であるというようなことが書かれていたように憶えています。(...今、ちょっと調べてみたら、『徒然草 第三十一段』(雪のおもしろう降りたりし朝...)
ここはQ&Aのサイトですから、月の話、花の話など無用なのでしょうけれど、木を見て森を見ずという佇まいは、確かに苦手です。
先のお礼にも書きましたが、人はそれぞれの彩色の仕方で世界を見、他者を捉えています。ですからご回答にあるように、「きみは」「あなたは」と言っていながら、わたしはきみでも彼・彼女でもないという自覚・反省を持つことは大事なことです。わたしは決して「きみの目」「彼女のまなざし」で世界を知ることはできないのだという事実の認識が、他者を畏れること、尊ぶことにつながるように感じます。
人間存在って結局ひとつひとつの「主観」ですから、無色透明な世界認識はできません。
雨がっぱさんは、自分の色に染める前に、相手のことばを、まずは無色透明な「素」の状態で受け取ることが大事だと仰るけれども、そもそも、そのようなことが可能だろうかという疑問があります。「言葉」とか「概念」というと、それ自体は「無色で透明」のように感じますが、実際にはわたしたちは「言葉を使って」様々な主張をし、意見を述べ、感想を叙述し、気持ちを訴えています。「言葉」とか「概念」という表象は言ってみれば回転寿司の皿と同じです。なるほど空の皿だけがぐるぐると目の前を通りすぎてゆくのならそれは「無色透明」といえるでしょうが、実際にはそこには色とにおいを持った「ネタ」が載せられています。それが好きだったり嫌いだったり無視したり、それがことばを受け取るわたしたちの現実の姿ではないでしょうか?
発せられた色と、受け取られた色とは違うものだという前提のもとに立って、共通の色を見つける努力を惜しむべきではないでしょう。対話に於いて使われる言葉の意味、色を、両者が再確認することがなければ、結局不毛な議論が続くだけではないでしょうか?
ご回答をありがとうございます。

No.32
- 回答日時:
そうそう、№21のお礼を読んでお話したいことがあったのを忘れていました。
「人と人が分かり合うということ」とはどういうことか?
これまで私は、「共感する」ということに重きを置いていたようです。
考え方の違い、主義の違い、支持政党の違い、宗教の違いなどによって、人は
「敵対関係」になってゆくのが世の常だからです。
考え方が違うのが人間であって、人それぞれに違うようにできているのが自然
なことである。ですから、その違いをなくして「共感」を目指すということは
間違いであって、間違いでないという風に今思っています。
つまり、共感すべきは「自他共の利益、幸福」という点だけでよいのであって
細かい「やり方」「考え方」まで共感したがることは、単なる我儘ではないか
ということです。
いわば、個人と個人が「不可侵条約」「平和条約」を締結するということであ
る、なんて言っちゃいましょう。他国に干渉することなく、共存を目指す国家
同士の関係に譬えれば分かりやすいのでは。
>分かり合えないことを分かり合い、分かり合えないながらも繋がる方法を模索する
結局、いかに他人を尊重できるか、という問題になると思うんです。それには、以前
G.Rさんが仰っていた、「対話」を積極的にやってゆくということだと思います。
社会に対して主張するに耐えうる立派なお考えだと思います。
こんばんは、ニャンポコさん。
わたしのちょっとした話題をそこまで拡げてくれたのですね。
人は....と、一般化するつもりはありませんが、わたしは変わり者ですから、なかなか人とわかり合うことが難しい。そういう実体験もありますが、ひととひととがわかり合えること、男と女が理解しあえることって、ひょっとしたら幻想にすぎないんじゃないか?という思いはあります。
でもひとはやはりひとりでは生きてはゆけない。わかりあえなくても、共存してゆく途がなければ生きては行けない。
だからニャンポコさんが言われたように、『君は君、我は我なり。されど仲よき』という地点を探らなければならないのだと思います。
>つまり、共感すべきは「自他共の利益、幸福」という点だけでよいのであって
細かい「やり方」「考え方」まで共感したがることは、単なる我儘ではないかということです。
そう思います。
ご回答をありがとうございます。

No.31
- 回答日時:
弟子が師匠を破門にすると言う話は面白いですね^_^
権威をひっくり返しているところが気持ち良いのでしょうか。
言葉で相手を圧倒するのは褒められたことでは無いですが、ジョークに重ねると、相手を打ちのめす事なく示唆を与えることができますね。ジョークはことば道の高等テクニックですね^_^
僕はあまりジョークを言えないんですよ。笑うのが専門です;^_^A
これを噺家が言えば、ちょっとは捻りを効かせて笑いが取れるのでしょうけど。
「わし(噺家)が真面目に話しても、皆が笑いよるんや。で、ふざけた話をするとみんな真顔で聞いとる。するなら真面目な話に限るね、高座では。」
>「わし(噺家)が真面目に話しても、皆が笑いよるんや。で、ふざけた話をするとみんな真顔で聞いとる。するなら真面目な話に限るね、高座では。」
ははは!真面目な話をして笑いが取れるというのはいちばんです。
そういう意味では与太郎さんは落語には欠かせない大立者ですね。
アメリカやイギリスなどでは、人のクオリティーを測る目安として、「ユーモアのセンス」がいつも上位に挙がっていますね。女性に好きな男性のタイプを尋ねると、大抵「ユーモアのセンスのある人!」という答えが返ってきます。何故って、ひとを笑わせることってサービス精神の現れです。「オレがオレが!」ではなく、「相手」のことを考えられる余裕のある人ってことですね。
コロンボは殺人課の警部ですが、(ドラマの中でですが)ある学校に講演に招かれて、そこで、「殺人犯であっても、自分は時に彼らを尊敬し、友になりたいとおもったこともあります。」と話します「彼らのユーモアのセンス、知性、教養に惹かれるのです」
考えが硬直してしまった時、あまりに生真面目な雰囲気になり過ぎた時にちょっと窓を開けて空気の入れ替えをする。それがわらいの作用ですね。
先日日本の首相がニューヨークでスピーチをしたときに「日本は侍の国ですから...」と言ったそうです。
落語では武士は揶揄の対象ですね。侍は権威そのものですから、重苦しくうっとうしい存在です。だから江戸の庶民は落語的な笑いで侍をこき下ろしていたのでしょう。主な噺では『たがや』などですね。
「百日の説法屁ひとつ」といいますね。厳めしくもありがたい説法も、おならひとつで爆笑のうちに雲散霧消してしまいます。
アメリカの大統領選でも、求められるのは言葉の力です。オバマはグラミー賞を受賞したくらいですからね。
ケネディ元大統領が、記者に「スピーチの前に一番気を付けていることは何ですか?」と訊かれて、
「ああ、ズボンの前が開いてないかどうかだよ」
権威を皮肉るジョーク、相手を気遣うユーモア、どちらもことば道の奥義といえるでしょう。
ご回答と笑いをありがとうございました(笑)
No.30
- 回答日時:
yy8さん、
「相手」「師匠」「わたし」を、登場人物2人、しかも医者と患者、と読んでいますね。破門される「師匠」=医者なのですね。わたしは、3人と書き、「わたし」が破門されると読みましたものね。ね、数学でしょう?
でも、その話はもう、していないのです。
はっきり言って、yy8さんが蒸し返しているのを除けば、無いですね。
ブーメランとおっしゃるのは、不思議ですね。
グラスルーツさんは存在しないものを見つめて、批判している
ということを、伝える経緯が、そう見えるのではないでしょうか。
読む人が読めばわかることだと思っていますが、批判したご当人にそれが伝わっているかどうかは、確認できません。
わたしが、何かを言おうとしたと感じていたようなので、たぶん、それに基いて批判しておられたのだと思います。わたしはその土俵に乗るわけでもなく、グラスルーツさんはわたしがなぜ乗らないのかがわかる土台には居なかった。どちらも乗っていないのだから、それはそれでよいのです。
ただ、認識の振り返りは、ああ言ったこう言ったと言葉を振り返ることではなく、自分自身が思ったことと、事実を、分別することなのですが、わたしはそれを要望していました。少し残念でした。
グラスルーツさん、
> yy8さんや、ニャンポコさんのように、当たり前の理解力を持った人にはわたしと雨がっぱさんのやり取りは奇異に見えるかもしれませんが
他人はどうか知りませんが、わたしには奇異に見えていません。
むしろ、この様子を、斬り合い、けんか、と言った人たちのほうを奇異だと思いました。
とはいえ、個性的な与太者だらけなのが哲カテの良いところなので、多少奇異でも彼らの魅力は減じません。
それから、今回、当たり前の理解力を持った人は、口を出してきていない人だと思います。当たり前の感受性と言い換えてもいいかもしれません。
橋を架けようとしていること、橋が脆いことがわかる人々は、そっと見守るでしょう。
ブラジュロンヌさんが、ことばに色をつける、ということについて、質問を立てています。わたしは、そこに回答を寄せて、落語の話をしました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9435172.html ーーことばが何で《凶器》なものか
「ことばの色」...ですか。
ことばに色はありますよ。
「戦争反対」「原発反対」「自殺は悪である」...etc...これらは「主張」です。色のついてない主張ってあるでしょうか?「色」がついているからその主張に与(くみ)したり、反対するんじゃありませんか?
「言葉が凶器であるはずがない」というのも主張のひとつで、「言葉は武器である」という、或る「色」への反発でしょう。
落語でよく「十人寄れば気は十色(といろ)」といいます。無色透明の抽象概念...「愛」「喜び」「悲しみ」「やさしさ」「憎しみ」「孤独」そういう言葉も、それを読み、耳にするひとたちの人生観・価値観に依ってさまざま彩られてゆきます。そもそも言葉が無色透明だったら、人はどうやってことばを判別・理解するのでしょう。それは無色透明の世界に佇むことと同じでしょう。
無色透明の言葉で書かれた小説を読むことができるでしょうか?言い換えれば、読み手が、それぞれの学びや経験から来る言葉への彩色を施すことによって、わたしたちは小説を読んで心動かされたり、涙を流したり、微笑んだりするのではないでしょうか?
感じる、感受するって、無色のものに色付けを施すことの謂いではありませんか?
「色眼鏡で人を見る」という言い方をしますね。「障害者」「生活保護受給者」「○○人」等々...
これもそれらの言葉に着けられた否定的な「色」を通じて彼ら、彼女ら、わたしたちを見ているということです。
アナイス・ニンの有名な言葉があります
『人は事物をそのあるがままにはみないで、わたしたちのあるがままに見る』
“We don't see things as they are, we see them as we are.”
つまり人は自分の持つ固有の色を投影せずに世界を認識することはできないのでしょう。
言葉が、特定の時代や文化に規定されることは自明のことです。であるからこそ、それが任意の社会での意思疎通の道具に成り得るのです。そうでなければ紙幣は単なる紙片ということになります。
こんなところです(苦笑)これをBさんに伝えるのはご自由ですが、わたしは反論に応じるつもりはありません。
ご回答をありがとうございます。

No.29
- 回答日時:
№2、だだじゃさんの、話を聞く達人がことば道の師範として免許皆伝となる条件である、と云っているその意見にGrassさんは賛成しています。
Grassさんはそこから、話を聞くべき立場の人がそれを怠っているようでは、たとえそれが自分の師匠であってもこっちからお断りだ、師匠とは認められない、というこの思いを落語の破門話しに合わせて破門する、と表現したのだと受け止めています。
この状況はGrassさんは話を聞いてもらう立場、相手は聞く立場、という設定なのです。
だから、Grassさんが相手の話をよく聞く事のできる人か、或いはしているかは問題外なのです。
相手の話をよく聞く義務がある立場の人に、その姿勢が見られないならアンタはいらない、お役目御免、破門だと云っているのです。
こうした状況を正しく受け止めていれば、ブーメランのような意見は起こりようがありません。
単純な私なら勝負に徹しようと、この土台に立って受けて立ちますが、Grassさんはそのあふれる知識ある故に、この土台を外してしまって対応していますね。
勝負に拘っていては面白くはならないと思ったんでしょうか。
たぶん、言いたいことが山ほどあるんでしょう。
amaguappaさんは、賽子さんの出現で態度が変わりました。
私は今のこのスタイルに好感を抱いています。
品位を感じます。
こんばんは、yy8さん。
先に頂いたご回答のお礼欄を使わせて頂きました。
そしてこのご回答に関してはその通りです。けれどもどこかでわたしが話をこじらせてしまったようです。
上記お礼欄で、わたしの理解力には限界があるということ、わたしは健常者ではないということを、改めて雨がっぱさん、yy8さん、ニャンポコさんたちに周知しておく必要があると思いました。
精神障害を売り物にしているわけではありませんが、周囲の人に「自分が理解できるものが何故理解できないんだ」「結局先入観だろう」「苦手意識だろう」「そもそも理解するつもりがないんだろう」と憶測されることを避けるためです。
わたしは精神科通院歴23年になりますが、その間、確かにyy8さんの書かれた理由で、これまで20人近い精神科医と話をしています。その場合インターネットと違い、差し向かいですから、言葉を交わす前から「あ、この人合わないな!」と感じることもしばしばです。そしてそういう気持ちってすぐに相手にも通じるものです。
上記のコメントで可能な限り誠実に雨がっぱさんに事情を説明したつもりですが、もちろんそれも不十分であるかもしれません。至らぬところは重ねてお詫びします。
ご回答をありがとうございます。
No.28
- 回答日時:
書き出しはグラスルーツさんにでなく、yy8さんにですから、大人のように話します。
yy8さんが難しいことを考えたようですが、難しすぎます。ウルトラC級の発想で、ついていけません。
単純な事実ですが、わたしは、そもそも、わからないから尋ねております。
そして、すぐ答えてもらうことができました。わたしは、すぐ、わかりましたと言いました。だからそれ以後、わたしから、もうこの話は出していません。
その疑問というのは、なぜ、聴き上手にて免許皆伝する師範が居るとして、相手が聴き下手であるときに、師匠はわたしを破門するのだろう?
という、かんたんなものでした。
(これは、数学で、命題の曖昧さとか、場合分けとか、何通りの論理が隠れているのかを考えると案外面白いかもしれない、とも思えます。だからyy8さんに数学カテをすすめました。)
疑問を持たなかった人もいるでしょうが、この疑問を持った人は、ふつうは、書き手に尋ねないですよね。
心の中で思うでしょう。なんだこれ、なんかついてけない。精神障害とか言ってたし、ま、ほっとけ。
いわゆる大人の対応ってやつでしょうか。
わたしは、グラスルーツさんに対しては、疑問は尋ねたほうがよいと考えました。
それは、子供同士の、いちばんわかりやすい人間関係を築くものです。
率直であることは、失礼さに目をつぶれば、ことばのやりとりの透明性にとって重要です。ことばはいつも透明ではいられませんが、どこを不透明にするかは、話し手/読み手の人間性にかかわります。わたしにとって上述した疑問点は、ことばが不透明だった。だからグラスルーツさんを知ることにも、わたし自身を知ることにも、役立つのです。
映画で見たように4歳の子供に対するように話してほしいそうですが、そうではないと思いますよ。弁護士は、医師の話について、簡単な形式になれば、難しい内容を掴めたのです。
今回、新規アカウントを取られた賽子さんが途中でお入りになりましたが、
いつも「グラスルーツさん」がわたしにお返事を書く前に、「賽子さん」が独自解釈を投稿なさったことは、対話の道の障害でしょう。
「グラスルーツさん」は、「賽子さん」の解釈をとおして、状況を理解するのでしょうか? 違いますよね。
口はばったいですが、せっかく、疑問を投げてくれた人がいるわけです。そしてあなたは、とてもきちんと、答えたわけです。批判もしたわけです。さらに、答えをわかってもらって、批判は的外れだからと突き返されたのです。
そうした向き合いに、なぜ、yy8さんや賽子さんが割り込んだからって、揺れて崩れてしまうのですか?
続きます。
「このようにしか書けない」のは雨がっぱさんのせいではない。そこで『ことば道』投稿の直前に雨がっぱさんへのブロックを外しました。けれどもやはり頂いたご回答を読み解くことができない。
サイコロさんの解釈はサイコロさんの解釈であって、わたしがその尻馬にのることはできません。結局わたしに向けられた言葉はわたし自身がわかる以外にないのですが、現実にはそれはなかなか困難なようです。
>口はばったいですが、せっかく、疑問を投げてくれた人がいるわけです。そしてあなたは、とてもきちんと、答えたわけです。批判もしたわけです。さらに、答えをわかってもらって、批判は的外れだからと突き返されたのです。
>そうした向き合いに、なぜ、yy8さんや賽子さんが割り込んだからって、揺れて崩れてしまうのですか?
それはおそらくまぐれ当たりとでもいうべきものかもしれません。
No.25でニャンポコさんがいわれている、わたしが雨がっぱさんのことばを理解できないことに対する「後ろめたさ」というのは、確かにあるのかもしれません。
>いつも「グラスルーツさん」がわたしにお返事を書く前に、「賽子さん」が独自解釈を投稿なさったことは、対話の道の障害でしょう。
上にも書いたように、わたしはサイコロさんでもyy8さんでも、人の解釈の尻馬に乗ることはありません。サイコロさんやyy8さんは、それぞれの仕方で雨がっぱさんの言葉を理解されている。そしてわたしはそれ以前です。
No.22のサイコロさんのへお礼欄でも書きましたが、わたしはここを「楽しみ」のために使っています。囲碁や将棋、或いはテニスやスカッシュのように、真剣な勝負であってもゲームです。質問が閉ざされたら、「ノーサイド」です。あとにしこりを残したくはない。
上記のような事情から、お答えを頂いても満足な反応が出来ないことの方が多いかと思います。単に形式的な「お礼」だけになるかもしれません。無反応かもしれない。それをご了解、ご考慮頂いた上でわたしの質問にご参加ください。そして基本的にわたしは愉しみのためにここを使っているのだということも併せてご理解いただければ幸いです。
ご意見、ご反論は引き続き受け付けています。
お読みくださりありがとうございました。

No.27
- 回答日時:
意見の食い違いの最大の原因は「その人の好み」にあると思っています。
人は精神としての自身を存続させるために、無意識的に自身を肯定しようという意力を持っています。
その意力の本質は、好き嫌いと云う好みと云えるでしょう。
好き嫌いという好みの幹から生えてくる枝葉が、人それぞれの主義主張となるのではないでしょうか。
主義主張や理屈はこの「その人の好み」が作り出しているはずです。
こんな風な考えが基本の私が、ここまできてやっと気づいたのは「立場」です。
医師と患者の立場。
医師の役目と患者の気持ち。
ここでいう「破門」はこの点を注視すれば理解できます。
しかし、双方とも此の事(立場の違いから生まれた破門と云う発言)に気づいていないようです。
Grassさんは聞き上手、と云う事を"患者の立場"から離れ、対等の関係にあっての事柄として話を展開してしまっていますし、amaguappaさんは、医師の立場・義務を当然の事としてと思って発言した患者の医師への破門を、端っから対等の関係として取り上げてしまっているので、Grassさん(患者)の医師へ投げかけた破門をamaguappaさんはそのままGrassさんにお返しすることになったのだと思います。
そして、amaguappaさんがそう見てしまった根底には、amaguappaさんの持つこれまでのGrassさんの発言に対しての"印象"が大きく加担していると思います。
こんばんは、yy8さん。そして雨がっぱさん。
この次、No.28で、雨がっぱさんからのコメントを頂いています。
再三投稿して頂きながら、わたしが態度を保留しているというのも、雨がっぱさんも愉快ではないでしょうから、このスペースと、No.28の雨がっぱさんへのお礼欄を使って、わたしの気持ちを整理しつつお話しします。
yy8さん、場所をお借りします。
先の『人は人を救えるか』を終了した後、考えた後、わたしは一旦雨がっぱさんにブロックを掛けました。
前質問回答No.42の雨がっぱさんへのお礼欄で、わたしはこう書きました。
『〔・・・・〕正直に言います。全く理解できません。そしてもう一度繰り返し尋ねます。雨がっぱさんは、あなたは、わたしのような精神に障害を持った者でなければ、この文章は容易に理解できるはずだとお考えですか?と。
もし、「他の人なら理解できる筈」だというお答えなら、ここにひとり理解できない人間がいるよということをお伝えしておきます。』
それに対してNo.45で雨がっぱさんは以下のように応じられた
『わたしの書くことがわかりにくいのは多くの常連さんは知っていますから、笑うというだけです。しかし読めれば、わたしにはこれ以上どうしようもないということも自然にわかる。わたしは自分の文を書いているというほかにない。でも誰だってそうですね。』
そしてその前のNo.34での雨がっぱさんのご回答に対するお礼欄でのわたしのコメント
『ご自分の表現が、わたしのような特殊な精神=障害を持ったもの以外であれば、当たり前に理解され得ると思っていらっしゃいますか?ご自身が「専門家」「学者」であるという自覚があるなら、「そうではない人」が理解しやすいような表現を用いるように心がけるべきではありませんか?
勿論わたしの心は壊れています。この質問中(補足)でもそのことは述べているはずです。』
yy8さんや、ニャンポコさんのように、当たり前の理解力を持った人にはわたしと雨がっぱさんのやり取りは奇異に見えるかもしれませんが、上記のように、わたしは彼女の言葉を理解する能力に欠けています。
ですから、質問者として、あるいは回答を下さるみなさんへの「ホスト」として、わたしには雨がっぱさんをお迎えする器量がない。
けれども雨がっぱさんは「このようにしか書けない」と仰っています。

No.26
- 回答日時:
目的地の無い旅ですか。
私も20歳ごろの時は、時々放浪旅行に出ていました。心象風景を求めて歩き周った頃があります。その際、公共交通機関の無いところではヒッチハイクを、物価の高い地域ではテント泊などして旅行していました。目的の風景に辿り着くと、さて次は何処へ行こうかと思案するも、先ずは歩き出す事が先立って、次の風景や人との出会いを導いていたように思います。
目的地の無い旅は自由であり、発見と出会いの旅であると思います。目的地が一体どういうものかすら、たどり着いてみないと分からない、これは本当の事かも知れないなと思いました。
旅は、まず旅に出てみなければそれがどういうものかは分からない。
ご紹介の作家さんの言う事もよく分かりますね^_^
風まかせでも良いので、ゆるりと対話に参加する事で、対話が自然と運ばれて、予定調和では無い答えにたどり着いていくものなのかなと。そんな風にも思えましたね。
私は予め考えた事を重視し過ぎて、知らない事を疎かにしていたのでは無いか、そんな風にも思えました^_^
ことば道の意外な姿が現れてきたように思います。肩肘張らないで、とか、頭でっかちは駄目よ、とか、そんなアドバイスが聴こえてくるようです。
おそらく旅の醍醐味は、そうした「途上」の感覚、"on the road" 「路上にて」の気分じゃないでしょうか。
目的地への「通過地点」=プロセスではなく、その日その日、一日一日が目的なんだ。今日を生きてるということなんだ。そんな風に思います。
アメリカの絵本作家、エドワード・ゴーリーは、『わたしが一番好きな旅は、部屋の窓から外の世界を見ることだ』と言っています。わたしもこの口かな?それとも逍遥学派ではありませんが、散歩道の短い距離の中で世界の広さを想うことかな。
「知らない街を歩いてみたい・・・」東京に住んでいると、そんな異郷に憧れます。
さわやかな風のような回答をありがとうございます。

No.25
- 回答日時:
私は単に「野次馬根性」で見ていたわけではありません。
G.Rさんのファンでもあります(辛辣なことは言いましたが)が、amaguappaさんのファンでもある
私は、彼女があそこまで感情を露わにし、大鉈を振り上げた途端に、待ち構えていた、彼女のことを
夜叉か鬼子母神みたいに思っているであろう賽子さんに仲裁され、鉈を収めざるを得なくなったこ
とが気の毒に思ったのです。
G.Rさんは彼女の言葉を「さっぱりわからない」といっていましたが、それが私には不思議でした。
理解できる知性はお持ちだと思うのに。だから、相性なんでしょうね、結局。
それで、苦手になってしまう事は仕方がないことですが、私は次のように思います。
G.Rさんは彼女の言葉を理解できない、あるいはもう少し分かりやすく説明をしてくれなければ理解
しないぞ、という意識に対する若干の「後ろめたさ」があるであろうと思う。
その思いをひっくるめて彼女がG.Rさんの言うことを「理解しようとしていない」ということに何気に
収束させようとしているのではないか?
私もそのようなことをした記憶があります。そして女性の逆鱗に触れたことがあります。女性はその点
大変に敏感ではないかと。
従って、この件につきましては、私はG.Rさんに若干の「いけないところ」があると思い、彼女の弁護を
少々させていただきました。
ニャンポコさんはわたしの理解力をおそらく誤解されています。主治医(精神科医)の言うように、G.Rさんおの一番厄介なところは、一見普通そうに見えるところなんですよね・・・」ですからわたしの理解力はおそらくこのサイトにでいるしている人の中でも相当下位に近いほどだろうと思います。(苦笑)
そして先のご回答で、雨がっぱさんのご意見を
>彼女の抽象的概念の分析、把握はちょっとスリリングな気持ちにさせてくれます。
と仰るニャンポコさんのほうがおそらく理解力は上なのでしょう。これは卑下してそう言っているのではなく、
わたしは雨がっぱさんの言葉を
>「ああ、分かったんじゃない?」
という地点まですら理解できません。「わかったようなふりをする」というのも「心中の賊」ですね。
サイコロさんは見かねて仲裁役を買って出てくれたので、わたしは素直に感謝しています。
>従って、この件につきましては、私はG.Rさんに若干の「いけないところ」があると思い、彼女の弁護を
少々させていただきました。
おそらくこの「いけないところ」はわたしはその実雨がっぱさんのご回答をなにひとつ理解していないのに、理解したような「フリ」をして反論したところでしょうか。
その点について、ご指摘を頂いたニャンポコさん、雨がっぱさん、そしてみなんさんにお詫びします。
ご回答ありがとうございました。そしてごめんなさい。
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昔は人を「物理的に」切ることのできる「刀」を持つことは武家に限られていました。
武家の子弟は刀の取り扱い方を習いますが、彼らのすべての師が、この物騒な人斬り包丁の取扱いに際しての精神的なモラル、佩刀する者の美意識を伝えたかは多く疑問の残るところです。
また仮にそれが伝えられたとしても、切れ物の使い方は、畢竟使い手の心の在り様に任されるのです。
人のこころに見えない傷を与えるのは、これまた目に見えない「言葉」という切れ物です。
「武器道」を考えることは即ち「喧嘩道」を考えることでしょう。質問でも書いたように「悪態も芸のうち」です。落語の世界では悪態がポンポン飛び交いますが、聴く人の心持を陰湿にはしない。
『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』、「悪態道」を考えると共に自戒したいところです。
No.27、28で、引用した先の先の質問『人は人を救えるか』のリンクを貼っておきます。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9389486.html?pg=3&i …
ご指摘、気づかれた点などありましたら教えてください。
「無理矢理笑わせようとするんじゃなく、聴いている人が思わず知らず、くすくすと笑ってしまう、それが落語だよ」と、柳家小さん(先代)は言っています。
そうだとすると、枝雀師匠の爆笑落語は「邪道」ということになりそうですが、
小さんの言っているのは「芸」、枝雀師匠のは「サービス」です。枝雀師匠は人を笑わせることで自分もハッピーな気分になりたかったのでしょう。
人間が成長すること、さまざなことを見聞きし、経験し、学んでゆくということは、その人独自のものの見方、スタイル、テイスト、ポリシーを持つこと、つまりはその人のカラーを身に着けてゆくことではないでしょうか?世界に対する己が色がなければ、アーティストは生まれません。
言葉はそもそも無色=「無垢」であるとはあまりにイノセントな見方、感じ方ではないでしょうか?
innocence のシノニム(同義語)に
guiltlessness,「無罪」 blamelessness, 「欠点のない」freedom from guilt,「潔白」 freedom from blame, irreproachability, 「非の打ち所のない」clean hands 「穢れのない手」
...等があります。
生きていくことって、これらから遠ざかってゆくこと、穢れを身にまとってゆくことではないでしょうか。
主にyy8さん、 ciaopolpo2さんへ、落語と数学ということで思い出すのは枝雀師匠の「壺算」です。
みなさん、たくさんのご意見をお聞かせ下さってありがとうございました。
週末には〆ようと思います。
今回もお付き合いくださりお礼申し上げます。
よい週末、素敵な10月をお迎えください。