

古典落語に「あくび指南」という演目があります。
天下泰平の江戸の世、みながいつもファ~ファとやっているのは実は「駄あくび」で、
ある若い衆が、あくび指南所で、師匠にみっちり「正当なあくび」を教えてもらうという噺です。
実際に「本式のあくび」や「駄あくび」があるわけではありませんが、わたしたちが日常使っていて、生きてゆくのに不可欠な「道具」である「言葉」に関しては、その「道」というものはありません。言葉という、わたしたちが使用する見えない道具は、しかし時にひとを殺傷することも可能な「武器」でもあるのです。
「あくび道」はなくとも「言葉」に対するなんらかの「美学」のようなものがあってもいいような気がします。
そして同時に、向田邦子の言葉ですが、「悪態も含めて、持ってる言葉の辞書が厚い人の方が、その人生は豊かだ」ということも事実でしょう。
『シラノ・ド・ベルジュラック』を基にした、スティーブ・マーティンのコメディ『愛しのロクサーヌ』では、バーで、「鼻」を馬鹿にされた「彼」が、剣ならぬテニスのラケットで、無礼な男の特徴を巧みに皮肉りながらカウンターパンチを食わせてゆきます。「高度な悪態」はほとんど話芸であり、文芸、詩の領域に達しています。
また「ことば」と一言にいっても、その様相、相手に伝える形は、このような液晶画面に表示される文字であったり、手蹟 = (手書き)の文字であったり、または肉声であり、録音された声でありと様々です。「言葉の作法」として、便箋を選ぶこと、ペンを選びインクを選び、封筒を選び、そこに自分の手書きの文字を載せる。数日後、何処かでポストに見つけた「手紙」から、読み手は様々な情報を得ることができます。
・・・と、前置きはこのくらいにして、みなさんの「ことば道」、言葉という道具について思うところ様々、お聞かせください。

No.24
- 回答日時:
No22について。
まあまあ。細部ではグラスルーツさんも腹が立つことがあろうかと思いますが、私がざっと見た限り、不器用な譲歩表現もちらほらあるかと思います。「誤解を与えたことは申し訳ないが、あなたがそう思うのは遺憾です。私が考えているのは……」って書けば角が立たない。これをこの姉さんは、なぜか命令形をお遣いになったり、「あんたが間違っている」「あんたの偏差値が低い」というニュアンスのことを平気でお書きになる。癇に障ることもあろうが、相手はそういう方なんだと思って、ここは堪忍してあげてください。
私は前まで、雨合羽姉さんとはある程度仲が良いと思っていたもので、一端とことん話したことがあります。しかし地獄の三丁目の一歩手前まえで行きましてね。あんな些細なことが、かくも長引くとは思いませんでした。ブログ主の猪突先生にもご迷惑をおかけしたけれど、済んでのところで、命からがら逃げ出したわけでした。
しかし良い見せ物です。周囲は抱腹絶倒でしょう。何しろ最高学歴の二人が、どうでも良いことで言い争っているわけです。知性ってのは偏差値では測れんね、利口バカってのはこのことだね、学問だか何だか知らんが程々ってモノを知らんね、アジアのランク四位に転落した大学ってのは伊達じゃないね、国語力の低下ってのはこのことなんだね、っていう見本だったでしょう。
しかし、そんな時間があったら、本を読んだり、新しい言語をマスターしたり、周囲に優しくしたり、いろいろできると思うんですね。まあ加えて、自分も嫌なわけですが、見方を変えれば、相手にも現実生活に家族がいて、イライラすると周囲が困るでしょう。今ならお互い傷は浅い。
「あくび」のしどころ、沈黙のしどころではないでしょうか。ちょうど乙な質問がありましたので、これを利用して、私は締めくくりとさせていただきますよ。
>「言葉を失った」「息をのんだ」というのはどのような状態のことをいうのでしょうか?
自分のため 相手のためを思って 疼くプライド やせ我慢(七五調ならず)。
お後がよろしいようで。
この後は何を言われても、上を実践しますので、雨合羽姉さんも、悪しからずご了承ください。
こんばんは、サイコロさん。
ここに参加されている人すべてがそうだと思うのですが、「おしえてgoo」や「OKweb」は趣味であり、「哲学」のコーナーは、知的エンターテインメントという意味での愉しみの場であるはずです。
ハムレットとレアティーズの剣の試合も、気持ちは真剣であってもあくまでゲームです。(少なくともハムレットはそう思っていた)
以前、yy8さんの質問で、猪突さんと長く議論したことがあります。お互いに10回ほどの「回答」をyy8さんの質問に載せてしまいました。yy8さんも途中で随分閉口されていたようです。
内容はわたしと猪突さんの政治的な意見の対立でしたが、やり合っていて、チャンチャンバラバラではないですが、結構刺激がありましたし、疲れることはありませんでした。主張は正反対でも、猪突さんの意見の記述に理解しづらいところがなかったからです。
ただ、わたしの理解の至らなさを全面的に雨がっぱさんの「せい」にするのはフェアではない。
ただひとつだけ愚痴めいたことを言わせてもらえるなら、雨がっぱさんはわたしの理解力不足を、おそらくここに回答されている誰よりもよく承知しているはずです。であるなら、映画『フラデルフィア』で、弁護士デンゼル・ワシントンが証人台の医師に向かって言ったように、「わたしにむかって、陪審員に向かって、4歳の子供に話すように話してください」と望むことは無理なのか?などと独りごちてしまいます。
ホストとして力量不足でしたが、気が向いたらまた立ち寄ってください。歓迎します。
ありがとうございました。

No.23
- 回答日時:
おはようございます。
旅の本体、、考えると確かに道程もまた旅には欠かせない気がします。現代では、どこでもドアとまでは行きませんが、パリに行くのにも空路でばぁーっと行くのが通例です。ですが、対話において、核心だけを言えば良いというものでもないですね。
本音を知るために、、と前回は申しましたが、それは案外建前に過ぎず、もっと予想外の着地点があって良いのかなと思いました。
台風一過、残暑も終わり秋になりましたね。旅と言えば、この季節の経巡りもまた旅と言えそうです。我々は人生においても旅をしているわけですが、旅に必要なのは才能では無く、楽しむこころなのかも知れません。
漫画の紹介は、雨合羽さんにも、ということですね^_^もちろんグラスルーツさんへでもあります。
追伸
バルタン星人をなぜ知っているのか、、確かに(笑)
長々と、とりとめの無い回答にお付き合い頂きありがとうございます^_^
目的のない旅というのもありますね。どこにたどり着くかわからない旅も旅の醍醐味かもしれません。
ここでの質問についても、予め自分の意見があって、皆の意見をブーメランのように回収して最終的にそこに着地するような「旅」もありますが、
とりあえずたんぽぽの綿毛を風にのせて、それが何処の地に降り立つのか質問者も回答者も誰もわからない・・・質問の最後になって、ああこういうことだったのか、というほうが面白みがあるような気がします。
堀江敏幸というわたしと同世代の作家が、「書き終えてみるまで、わたしがなにを書きたかったのかわからない」と書いています。
とりとめのないご回答、歓迎です。
ありがとうございます。
No.22
- 回答日時:
うーん。
みなさんならスルーされるのかな。笑ことば道という哲カテの題目で、筋書きを支配するなんてね。ギャラリーもなめられたものではありませんか。
> この件はここで打ち切りにします。
わたしに、お書き間違えじゃないですかと聞かれただけで、果てはこの大騒ぎですか。お1人で騒いで何になりましょうか。
絶妙なるサイコロさんの三度の降臨は、ちょっと、ご勘弁ください。まばゆすぎますからね。
>> これ (5に記載の内容) は No.15で
>
>> 「相手」が破門なんでしょ、といえば気持ちよかったでしょうが、>>
>> と言われているように、皮肉ですよね。
仮に皮肉を言ったならばその後の運びがこのように進むとお思いですか?
ことばは深く暗い淵へ降り、層になり、展開すればバラバラになるのだ、と言っているわたしが、切っ先をちょんちょんするような面白くもない皮肉をひねりだすことなどないのです。表や裏のある薄いことばを、わたしの真意であるかのように近付けないでください。わたしの表した見えることばは、書かれたままに読んでもらわねばなりません。解釈も推測も無用です。「書き間違いですか」は「書き間違いですか」なのであり、それに答えてもトボけても放ったらかしても、それはあなたのすることとして正しいでしょう。しかし、わたしのことばについてあなたが考えることはちっとも正しくない。
皮肉とお思い続けるなら卑屈というものでしょう。それは取り除きましょう。
以下へ書き出すものを、見ていただけますか。
[ ]内は、グラスルーツさんの言葉です。
書き間違いを想定して、こうですかとわたしが書く文の対応性は明らかです。
[相手がきちんと聞いていない]
→ 自分がきちんと聞いていない
[こちらが何を言いたいのかをわかろうとしていない]
→ 相手が何を言いたいのかをわかろうとしていない
[わたしは気が短いので........もうその師匠は破門ですね]
→ 破門になるのは、グラスルーツさんの気が短く......のときですね
(わたしと書くとamaguappaの1人称と混同するゆえ)
お気付きのように、対応した書き換え文ですと、もともと相手を下げた文章ですから自分が下がってしまいます。
しかも、[わたしは気が短いので.......と感じると、もうその師匠は破門]とあっては、《相手が破門》と書き換える余地がありません。
ことば道の師匠のところで、短気だ破門だと自分がへりくだっている場合、書き換えの通りでよいでしょう。しかし、相手を下げている文意を汲めば、「相手」が破門とは読めなくても、そういう意図なのかもしれません。それなら、自分が下がるよりは、誰だって同じで、やっぱり気が楽ではないでしょうか。
>>「相手」が破門なんでしょ、といえば気持ちよかったでしょうが、
>
> と言われているように、皮肉ですよね
この「と言われているように」と続くグラスルーツさんの論理はわかりません。
また、下記のように、余計な構図を差し挟むグラスルーツさんの論理もわかりません。
>「通じないのは相手か、はたまたこちらが聴く姿勢にないからだ」というのはいささか一面的な見方
> 聴く耳を持つ、聴く姿勢を持つのは、では「質問者」の側か?「回答者」の側に求められるのか?「話を聞いていないのはどっち?」とわざわざ複雑にしているのはamaguappaさん
ひとつめに関して、11において、わたしにそれを訴える必要が無いこと、なぜなら、それはまさしくグラスルーツさんご自身の文言から生じるだけだという意味のことを伝えましたね。
ふたつめにいたっては、おかしい、とはっきり申し上げています。
yy8さんはピュアな方です。文中の主客が純粋に読み切れないだけだと思います。字面をです。グラスルーツさんのように内容へ内容へと走り出す読み方をする人もいれば、字面を丹念に読み返す必要のある方もいると思います。yy8さんには数学カテへ行けとわたしは言い、細かい話は一切無しにしましたし、なぜサッパリとそれで済まされないのか、これも論理はわかりません。
ギャラリーのみなさんには、cyototuさんのブログをご案内させていただきます。そのトピックの一箇所で、コメント欄を使って、サイコロさんとわたしは大変長いやり取りをしたことがあります。途中でわたしは、ばかじゃねえの、、、とサイコロさんに言いました。とうとうcyototuさんが「離婚調停」なさって終わったのです。サイコロさんとお近付きになられたグラスルーツさんが、もし、この、ばかじゃねえの、を言われてみたければ、その用意はあると申し上げられます。わたしにお礼返信する意義があるのはこの件だけであることは、注意深い方ならわかるでしょう。
もちろんcyototuさんのブログは面白く勉強になる記事ばかりです。このコメント欄を除いては、読んで時間の無駄になることはありえません。
それではごきげんよろしゅう。
http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1205316 …

No.21
- 回答日時:
バトルが1Rで終わってしまい物足りなく思っています(笑)。
私などは、エッセンスさえ押さえれば良いという魂胆ですから、途中の理路は二の次なんです。
だから、私の考えは理論が繋がっていないことが多く、いいかげんなものです。
だから、amaguappaさんの話も「ああ、分かったんじゃない?」くらいなものです。
しかし、彼女の抽象的概念の分析、把握はちょっとスリリングな気持ちにさせてくれます。
人と人の相性って、運命が何割か含まれると思うので、とりあえずは仕方がないことが多いのだ
ろうと思います。
言葉についてもう一言。
「聞き上手」が言葉の達人である、これは「理」においては正解だと私も思いますが、「事実」の
上では必ずしも正解ではないと思います。
どういうことかといえば、「聞き上手」になるためには自分の話を相手に伝えるという苦労の経験
と、自分の考えに対する自信というものが必要だと思います。
日本人はその経験値が少し足りないと思うのです。足りない状態で自己主張を抑えて、聞き上手にな
るべきだとしたならば、結局いつまでたっても「聞き上手」にはなれないということになりはしない
かと思うわけです。
時には、いや、バトルをバンバンやったほうが成長が早いのかもしれません。
こんばんは、ニャンポコさん。
>私などは、エッセンスさえ押さえれば良いという魂胆ですから、途中の理路は二の次なんです。
なるほど。わたしにとって理路とエッセンスは分かつことのできないもののように思います。つまり絵画芸術と同じで、そのモチーフを表現するためには、キャンバスに載せられたすべての筆致、すべての色が必要だったのでしょう。
けれども、目の前の一枚の画をどのように受け止めるかは、全く観る者の感性に委ねられます。
言語表現でも、一字一句書かれている通りに「読んだ」としても、それがどのように理解されるか?理解されないか?誤解されるか?それは書き手にも、読み手にもわからないことです。
一個のりんごを撮った一枚の静物写真であっても、「これはりんごだ」という地点までは理解を共有できますが、ではこの写真家はどういう気持ちで、なにを表現したくてこのような距離で、この画角で、この光線で「りんご」を撮ったのか?という話になると、もやはそれぞれの感性の領域の問題になります。けれどたとえばその写真の下に『孤独』というタイトルが付けられているとしたら、観る側の「見方」もかなり収斂されてきます。しかし大抵は「静物、りんご」となっています。それでいいのだと思います。見方を限定することは多様な観賞者の眼差しを狭い範囲に封じ込めることになります。
自分の話を伝える苦労をして得られるものは、「わかりあえないということをわかりあう」というところに至るのではないか、という気持ちを持っています。であれば、わかり合えないながらも繋がる方法を模索することになるのではないでしょうか?
わたしは人と喧嘩をしてまで自分の主張を通そうとする気持ちはありませんし、第一そんな大それたものは持ち合わせていません。自分の考えを持つことと、それを他者と共有し得ると考えることとは別だと思います。
言わずもがなのことですが、これはわたしの個人的な感想であって、ニャンポコさんの反論を封じる意図は元よりありません。

No.20
- 回答日時:
No18について。
丸く収めていただけるということ、新規アカウントを歓迎するというご趣旨に感謝致します。
しかし、一言、二言、お言葉が多い(笑)。
>いつもご機嫌なサイコロさん、わざわざわたしを目がけてお声かけくださるなんて可愛いこと。(中略)素敵なお母様のことなど話されてみてはいかが。双生児のようにお気の合うお二人のこと、哲カテの優しいみなさんは(……)
そうそう、ある晩、雨合羽花魁のもとに、汚らしい小僧の私が間違って上がってしまったのでした。母のことで愚痴をこぼして、泣きついて、優しい花魁に慰めていただいたんでしたね。艶かしい思い出でした。でもその後、大変ご無沙汰しておりまして、お怒りはごもっともながらお許しいただきたく……
……って、何かが違うような気が(笑)
想像力が膨らむ言葉を並べて、読み手を揶揄ったら嫌ですよ。文言としてそう書いてあるわけではなくても、印象の問題として、お書きの感じだと、特殊な関係を思い浮かべるでしょう。私はそういうのが苦手だなあ。
ま、私もかき回す腕が良いわけではないので、これくらいで。
No.19
- 回答日時:
枝雀さんがお好きだと、お礼の中でおっしゃっているのを見て、嬉しくなって回答します。
枝雀さんは、普段はつまらなそうにしておられたのに、舞台に出て、噺をなさると、そのとたんに、世界がパッと明るくなったように感じました。引っ越して、釘を打つのに大騒ぎの噺は、面白かったなぁ。本当の意味で、与太郎になりきれる、稀有の噺家さんでした。若い方を存じ上げないのですが、どなたか、最近の方で、枝雀さんのような噺家さん、いらっしゃいませんか。
と、ここで終わらせてしまうと、規約違反になりますので、ごく短く。
会話する場合には、枝雀さんに倣って、その場をほんの少しでも明るくするように、そして、お相手の気持ちをほぐすように、心がけています。女性の場合は、髪型が変わったり、新しい洋服・靴を、ほんのりほめて差し上げるのが、一番ですね。
文章を書くときには、香気と余韻。それだけでしょうか。やはり、文章のほうが、何倍も難しいです。
こんばんは。
そうですか、枝雀師匠がお好きですか。上方落語では、米朝、枝雀の師弟ですね。後は現文枝、前の桂三枝の新作ですね。
江戸落語の世界で、談志を「秋霜烈日」、対して志ん朝を「春風駘蕩」と評した人がいます。
上方で志ん朝の向こうを張れるのは枝雀師匠の他にはいませんでしたね。
ただ、わたしは落語を「観ずに」カセットテープやCDで聴くので、たまにテレビで見た枝雀師匠の高座でのあのオーバーなアクションはちょっと、という感じでした。勿論口を尖らせたひょっとこのような顔や、座布団から跳びだすほどの熱演は全て「観客へのサービス精神」から出ているものなので、その点ではすごいと思うのですが、吉本新喜劇に通じる上方独特の「濃さ」というものは個人的にそれほどすきにはなれませんでした。駄目、というより、声=噺を聴いているだけでも十分に上手い人でしたから、それで満足でした。枝雀落語マイナス身振りでも十分に愉しめる人でした。
米朝師はなんとも温かみのある噺家でしたね。小品ですが米朝師の「まめだ」などは素敵な話です。
最近の人はわたしは全然知らないんですよ。テレビを見る習慣がありませんし、図書館で落語の音源を借りるときも、どうしても古い人のを借りてしまいます。わたしの落語は志ん朝ー枝雀までで止まっています。(苦笑)
引っ越しの騒動、『宿替え」(上方)『粗忽の釘』(江戸)は、わたしは桂小三治さんのがおもしろいと思っています。
小三治は『初神祭』も笑えます。
運営がどう考えるかはわかりませんが、わたしのところへは、「ちょっと無駄話に来ました」は大歓迎です。それに落語の話題は質問でも触れていますので。お気遣いをありがとうございます。
場を和ませる話術はやはり口先だけではなく、もうその人の「器」というものがものを言いますね。
器というのは単に教養的なものだけではなく、人に気を回せるゆとりですね。
枝雀師匠の自殺は、彼の本を読んでいたので正直驚きませんでした。けれども、2年前の8月に命を絶ったロビン・ウィリアムスは驚きました。単純に、「あれほど人を笑わせることに長けた人が何故?」という思いです。質問で触れたスティーヴ・マーチンもそうですが「サタデー・ナイト・ライブ」出身で、彼ほど温かみがあり、サービス精神旺盛の爆笑王を他に知りません。
ご回答をありがとうございます。
No.18
- 回答日時:
いつもご機嫌なサイコロさん、わざわざわたしを目がけてお声かけくださるなんて可愛いこと。
新規アカウントの使い捨てなど、もったいないではありませんか。
これからもぜひ、Grass_Rootsさんと活発なやりとりをみせてくださいな。素敵なお母様のことなど話されてみてはいかが。双生児のようにお気の合うお二人のこと、哲カテの優しいみなさんは興味深く拝見すると思います。
追伸
あほなさん、ありがとうございます。

No.17
- 回答日時:
質問の当初に立ち帰って、ことば道と言うものについて少し。
世の中に道と言われるものには、目的地と言うものがあります。
ことば道の目的地とは何であろうかと考えると、予想以上の深さと広さがありそうで、立ち止まって考えてみる必要がありました。
さて、言葉は世界を理解したり、発見したり、或いは書き出したりするものですが、こと対話においては、相手を知る、また自分を知らしめる為に発されるものです。そしてその対話という旅路の目的地は何処かと言えば、それは互いの求めに応じた成果と言うことになると思いました。
例えば私の場合は、自分や相手の本音を知りたい、というのがことば道、とりわけ対話の目的ということになります。
それに近づくためのことば道であるわけです。聴く事がことば道の免許皆伝という答えに一票入れましたが、これには自分や相手の本音を聴く、つまりそれにたどり着くという意味も含まれないかなと思ったりしました。
追伸
雨合羽さんもおられるので、最近いいなと思った漫画を紹介したいと思います。107号室通信 と言うタイトルで、カシワイさんと言う作家が描いております。短編集で、どの話の核心も、控え目な絵と言葉で表現されており、とても読みやすいです。良ければ書店など立ち寄った時に手に取ってみてください。クリームの入ってないサイダーのような、シンプルだけど何処かノスタルジックな味わいです。
こんばんは。
>世の中に道と言われるものには、目的地と言うものがあります。
「旅」というものを考えてみました。旅には目的地があって、沖縄へ行くとか、ハワイに行く、ローマに行く、パリに行く、という最終地点があります。けれども、旅の旅たるゆえんは、まさにその道行き、道程にこそあるのではないかとも思うのです。ですから「どこでもドア」で、パリに現れても、それは「旅をした」とは言わないですよね。リニア新幹線もそれに近いような気がします。「旅は道連れ、世は情け」なんてね。
話をすることは、相手との対話であると同時に自分との対話でもあります。
ウディー・アレンが言っている、「自分の話している言葉を自分で聴くことが大事なんだ」というのは、よくわかるんです。相手の話を聴くき、理解することはもちろん、自分の言っていることも聴く、それが対話の妙ではないかと思っています。
マンガの紹介、は雨がっぱさんへですか?
アマゾンでチラっと見てみましたが、なるほどホンワカ系であほなさん好みかなあと思いました。
今年これまで読んだ漫画では、山上竜彦の『光る風』がよかったかな。1970年の作品ですが。
よい週末を。
ご回答をありがとうございます。

No.16
- 回答日時:
No15について。
いやいや、見事に斬り合いみたいなのが始まりました。ネチケットだと、こういうのはやめろと第三者が言った方がいいらしいので、僭越ながら申します。
雨合羽姉さんは不本意なこともあるでしょうが、ここはグラスルーツさんの質問箱、彼の家みたいなものです。グラスルーツさんが「粋ではない」(No14お礼欄)と言ったら、お断りされたってことで、不愉快な思いをさせた点について謝るか、謝る必要がないと思うならば一歩身を引きましょう。抗議してもいいことはありません。
No5は端から見て、ちょっと個性的すぎると思いますね。人によったら、嫌な気持ちがするかもしれません。悪気は無かったかもしれないが、常識ってモノがあります。お二人はそれほど深いつき合いがあるのか知りませんが、仮に私なら嫌かもしれません。yy8さんが興味を持ってしまって、グラスルーツさんはぐっと飲み込んでお話をしていたが、No14でもう嫌になったと、遂に言ったんでしょう。
しかし雨合羽さんは自分が受け入れられたと思っていたんで、いきなり辛辣なことを言われて、びっくりしてしまったんでしょう。No15の「わかりましたって書いたよね?」という言葉あたりは、今頃言うんじゃないよ、という抗議の言葉と私には読めます。
お互い誤解を解くように話し合うか、心地よい間合いが違ったってことで、矛を収めて距離を置いてはいかがでしょうか。私の思うに、雨合羽さんがNo5の核になる一節を、読み手が納得いくまで説明すればよいのではないですか。
>わたしたちの知覚しているものは大変制限されています(……)。
グラスルーツさんに興味がないのなら、その旨記して、別でyy8さんが別途問い求めれば良いと思いますが。
こんばんは、サイコロさん。
仲介役を買って出ていただいてありがとうございます。お蔭で、必要以上の諍いにならずに済みました。
勿論雨がっぱさんに「悪気」がないことは承知していますし、わたしも珍しく彼女が気色ばんだところを見て、
こちらこそ(No.11のお礼で)「余計なことを言ったかな」と感じています。
「傍目(おかめ)八目」といいますね。目を吊り上げて対局している双方よりも、横で見ている観戦者のほうが八目先まで見通せる=冷静に戦局を見極めることができるという意味ですが、最近はネット上では煽る者が多くなって、粋な仲裁役の器量を持つ人は少なくなったような気がします。
「ことば道」としては、あまり自分の型=方言=「わたしの方の言葉(遣い)」に固執してしまうと、どうしても話に食い違いが生じてしまいます。
そこに、例えば「茶室」のような緩衝地帯で、静かにわが身を振り返るという「間合い」があってもいいように思います。
今回はサイコロさんに茶の席に招かれて、わたしも、雨がっぱさんも、いったん佩刀を外して休戦状態になれたと思います。
先に頂いた「サロン」の話ではありませんが、切れ味はシャープな方がいいに決まっています。
けれどもあとにわだかまりを残さずに言葉の丁々発止を愉しみたいものですね。
ご回答(ご仲介)をありがとうございます。
No.15
- 回答日時:
> 「話を聞いていないのはどっち?」とわざわざ複雑にしているのは雨がっぱさんの方です。
それは、おかしい。そのように考えたこともないのだから。11でもお断りしているでしょう。攻撃的な受け止め方はおよしなさい。
yy8さんは、単に、5がわからないと言っています。
だからわたしは、単に、5の前にある文言を告げるのです。
そんな状況にいちいち突ッかかるものじゃない。
グラスルーツさんがだだじゃさんに書き出した登場人物は3人で、「わたし(こちら)、相手、師匠」。
「わたし」は「感じる」。
「相手」は「きちんと聞いてない」、「こちらの言うことをわかろうとしない」。
「わたし」は「師匠は破門」。
amaguappaはだだじゃさんの青焼きに照らして「破門がどっち?」と確かめているにすぎない。
「相手」が破門なんでしょ、といえば気持ちよかったでしょうが、
「こちら」が聞かないとき破門なんでしょ、と言ったにすぎません。
そしたら、師匠を破門にした噺、と返信してくれただろう?
洒落だよね? いいんじゃない。
それでいいんじゃないですか?
わかりましたって書いたよね。
yy8さんの腑に落ちるものはyy8さんが見つけますよね。
ことばは炙り出しじゃありません。推測は手掛かりがあって出来ること。
大事なのは書いてあることを一欠片も読み落とさないことでしょう。
>yy8さんは、単に、5がわからないと言っています。
だからわたしは、単に、5の前にある文言を告げるのです。
そんな状況にいちいち突ッかかるものじゃない。
わたしが雨がっぱさんの立場に身を置いたら、yy8さんが5番の回答がわからないと言われたら、先ず、No.2のだだじゃさんは、このように言っている(と、わたし(雨がっぱ)は理解した)、それに対してお礼欄でG.Rは「話を聞く姿勢のないものは、こちらから破門です」といっている。その両者のやり取りを受けて、この回答No.5で、わたし(雨がっぱ)はこういうことを述べたつもりだ。と、現場での再検証をすると思います。
>だからわたしは、単に、5の前にある文言を告げるのです。
彼が既にNo.2を再読していることは充分に考えられるのだから、もう少し丁寧にご自分の言わんとしたところを説明した方が親切ではないかと感じたのです。相手に理解を委ねて、言葉を惜しむべきではないと思うのです。
この質問で、雨がっぱさんはNo.5で登場されました。そしてわたしのNo.2へのお礼
「わたしは気が短いので、相手がきちんと聞いていない、あるいは、こちらが何を言いたいのかをわかろうとしていないと感じると、もうその師匠は破門ですね(笑)」
を引かれて、
No.5で、「破門になるのは、グラスルーツさんの気が短くて「自分がきちんと聞いていない」、あるいは、「相手が何を言いたいのかをわかろうとしていない」時の、お書き間違いでしょうね?」
これはNo.15で
>「相手」が破門なんでしょ、といえば気持ちよかったでしょうが、
と言われているように、皮肉ですよね。
これでは初っ端からわだかまりを生じてしまいかねません。
今になって、誰がああいったこういったとなじり合うことは本意ではありませんし、双方、更に他の参加者にとっても何の益もないことなので、この件はここで打ち切りにします。
勿論だた中味もなく和やかに話をしているだけでは質問者としてもつまらないので、鋭い切込みは歓迎します。
また上記の件についてyy8さんとこの場でやり取りしていただいてもまったく構いません。
我ながら十分な返答とは言えないとは思いますが、ここで送信します。
ご回答をありがとうございます。
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どうでもいいことですが....地球上に初めて現れたはずの怪獣の名前を、科学特捜隊の隊員が「あ!バルタン星人だ!」などと叫ぶのはなぜでしょう?
言葉は人を傷つけることのできる「武器」。そしてそれはしばしば刃物に譬えられます。
昔は人を「物理的に」切ることのできる「刀」を持つことは武家に限られていました。
武家の子弟は刀の取り扱い方を習いますが、彼らのすべての師が、この物騒な人斬り包丁の取扱いに際しての精神的なモラル、佩刀する者の美意識を伝えたかは多く疑問の残るところです。
また仮にそれが伝えられたとしても、切れ物の使い方は、畢竟使い手の心の在り様に任されるのです。
人のこころに見えない傷を与えるのは、これまた目に見えない「言葉」という切れ物です。
「武器道」を考えることは即ち「喧嘩道」を考えることでしょう。質問でも書いたように「悪態も芸のうち」です。落語の世界では悪態がポンポン飛び交いますが、聴く人の心持を陰湿にはしない。
『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』、「悪態道」を考えると共に自戒したいところです。
No.27、28で、引用した先の先の質問『人は人を救えるか』のリンクを貼っておきます。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9389486.html?pg=3&i …
ご指摘、気づかれた点などありましたら教えてください。
「無理矢理笑わせようとするんじゃなく、聴いている人が思わず知らず、くすくすと笑ってしまう、それが落語だよ」と、柳家小さん(先代)は言っています。
そうだとすると、枝雀師匠の爆笑落語は「邪道」ということになりそうですが、
小さんの言っているのは「芸」、枝雀師匠のは「サービス」です。枝雀師匠は人を笑わせることで自分もハッピーな気分になりたかったのでしょう。
人間が成長すること、さまざなことを見聞きし、経験し、学んでゆくということは、その人独自のものの見方、スタイル、テイスト、ポリシーを持つこと、つまりはその人のカラーを身に着けてゆくことではないでしょうか?世界に対する己が色がなければ、アーティストは生まれません。
言葉はそもそも無色=「無垢」であるとはあまりにイノセントな見方、感じ方ではないでしょうか?
innocence のシノニム(同義語)に
guiltlessness,「無罪」 blamelessness, 「欠点のない」freedom from guilt,「潔白」 freedom from blame, irreproachability, 「非の打ち所のない」clean hands 「穢れのない手」
...等があります。
生きていくことって、これらから遠ざかってゆくこと、穢れを身にまとってゆくことではないでしょうか。
主にyy8さん、 ciaopolpo2さんへ、落語と数学ということで思い出すのは枝雀師匠の「壺算」です。
みなさん、たくさんのご意見をお聞かせ下さってありがとうございました。
週末には〆ようと思います。
今回もお付き合いくださりお礼申し上げます。
よい週末、素敵な10月をお迎えください。