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古典落語に「あくび指南」という演目があります。
天下泰平の江戸の世、みながいつもファ~ファとやっているのは実は「駄あくび」で、
ある若い衆が、あくび指南所で、師匠にみっちり「正当なあくび」を教えてもらうという噺です。

実際に「本式のあくび」や「駄あくび」があるわけではありませんが、わたしたちが日常使っていて、生きてゆくのに不可欠な「道具」である「言葉」に関しては、その「道」というものはありません。言葉という、わたしたちが使用する見えない道具は、しかし時にひとを殺傷することも可能な「武器」でもあるのです。

「あくび道」はなくとも「言葉」に対するなんらかの「美学」のようなものがあってもいいような気がします。

そして同時に、向田邦子の言葉ですが、「悪態も含めて、持ってる言葉の辞書が厚い人の方が、その人生は豊かだ」ということも事実でしょう。

『シラノ・ド・ベルジュラック』を基にした、スティーブ・マーティンのコメディ『愛しのロクサーヌ』では、バーで、「鼻」を馬鹿にされた「彼」が、剣ならぬテニスのラケットで、無礼な男の特徴を巧みに皮肉りながらカウンターパンチを食わせてゆきます。「高度な悪態」はほとんど話芸であり、文芸、詩の領域に達しています。

また「ことば」と一言にいっても、その様相、相手に伝える形は、このような液晶画面に表示される文字であったり、手蹟 = (手書き)の文字であったり、または肉声であり、録音された声でありと様々です。「言葉の作法」として、便箋を選ぶこと、ペンを選びインクを選び、封筒を選び、そこに自分の手書きの文字を載せる。数日後、何処かでポストに見つけた「手紙」から、読み手は様々な情報を得ることができます。

・・・と、前置きはこのくらいにして、みなさんの「ことば道」、言葉という道具について思うところ様々、お聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「言葉を失った」「息をのんだ」というのはどのような状態のことをいうのでしょうか?

      補足日時:2016/09/24 03:05
  • どうでもいいことですが....地球上に初めて現れたはずの怪獣の名前を、科学特捜隊の隊員が「あ!バルタン星人だ!」などと叫ぶのはなぜでしょう?

      補足日時:2016/09/24 04:07
  • 言葉は人を傷つけることのできる「武器」。そしてそれはしばしば刃物に譬えられます。
    昔は人を「物理的に」切ることのできる「刀」を持つことは武家に限られていました。
    武家の子弟は刀の取り扱い方を習いますが、彼らのすべての師が、この物騒な人斬り包丁の取扱いに際しての精神的なモラル、佩刀する者の美意識を伝えたかは多く疑問の残るところです。
    また仮にそれが伝えられたとしても、切れ物の使い方は、畢竟使い手の心の在り様に任されるのです。

    人のこころに見えない傷を与えるのは、これまた目に見えない「言葉」という切れ物です。
    「武器道」を考えることは即ち「喧嘩道」を考えることでしょう。質問でも書いたように「悪態も芸のうち」です。落語の世界では悪態がポンポン飛び交いますが、聴く人の心持を陰湿にはしない。
    『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』、「悪態道」を考えると共に自戒したいところです。

      補足日時:2016/09/25 17:05
  • No.27、28で、引用した先の先の質問『人は人を救えるか』のリンクを貼っておきます。

    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9389486.html?pg=3&i …

    ご指摘、気づかれた点などありましたら教えてください。

      補足日時:2016/09/27 01:27
  • 「無理矢理笑わせようとするんじゃなく、聴いている人が思わず知らず、くすくすと笑ってしまう、それが落語だよ」と、柳家小さん(先代)は言っています。

    そうだとすると、枝雀師匠の爆笑落語は「邪道」ということになりそうですが、
    小さんの言っているのは「芸」、枝雀師匠のは「サービス」です。枝雀師匠は人を笑わせることで自分もハッピーな気分になりたかったのでしょう。

      補足日時:2016/09/27 14:54
  • 人間が成長すること、さまざなことを見聞きし、経験し、学んでゆくということは、その人独自のものの見方、スタイル、テイスト、ポリシーを持つこと、つまりはその人のカラーを身に着けてゆくことではないでしょうか?世界に対する己が色がなければ、アーティストは生まれません。

    言葉はそもそも無色=「無垢」であるとはあまりにイノセントな見方、感じ方ではないでしょうか?

    innocence のシノニム(同義語)に
    guiltlessness,「無罪」 blamelessness, 「欠点のない」freedom from guilt,「潔白」 freedom from blame, irreproachability, 「非の打ち所のない」clean hands 「穢れのない手」 
    ...等があります。

    生きていくことって、これらから遠ざかってゆくこと、穢れを身にまとってゆくことではないでしょうか。

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/09/28 15:41
  • 主にyy8さん、 ciaopolpo2さんへ、落語と数学ということで思い出すのは枝雀師匠の「壺算」です。



    みなさん、たくさんのご意見をお聞かせ下さってありがとうございました。

    週末には〆ようと思います。

    今回もお付き合いくださりお礼申し上げます。

    よい週末、素敵な10月をお迎えください。

      補足日時:2016/09/30 17:41

A 回答 (44件中41~44件)

御礼、ありがとうございます。



私も、ここでするような話を、実生活の上で他人とすることなんてなかなかありません。それにしても、格子無き牢獄ですか、、表現が多彩ですね。
 
先程は鍵に喩えましたが、今度は、言葉の海、と言うものを連想しました。言葉って、人々のやり取りの中で網目のように、水面に現れる波紋のように干渉しあっていて、広大なフィールド、大きな海のようなものを形成してるんじゃなかろうかと。その中で、私は魚になって泳いでいるのではないかと思います。言葉を渡り歩いて、その流れに乗ってみたり、隙間を縫ってみたり、時には上手く逆らってみたり。そしてまた或いは自分もその流れを発してみたり。
私はあまり本を読んでこなかった人間ですが、本を開けばそこに言葉の海が現れるのだろうなぁと、想像しています。海ってとても広くて計り知れないです。私にとって言葉とは、それに乗せられた想いも含めて、限界の無さを連想するものだったりします。
言葉を発する元のものってなんでしょうね。何か心の奥底に、きっと生じているのでしょうか。
とりとめのない回答になってしまいましたか。
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この回答へのお礼

休日前の秋の夜長といったところでしょうか、night owl のわたしにおつきあいくださってありがとうございます。

「言海」「大言海」という国語辞典もありますね。そういえば広辞苑もそうですが、辞典というのは正に言葉の海、言葉の森というイメージです。たまに辞典をめくっていると、日本人でありながらこんなにも知らない日本語があるのかとびっくりしてしまいます(苦笑)

わたしは勿論(苦笑)サーフィンの経験はありませんが、「波に乗る」「波間を縫う」という表現はサーフィンのようです。「パイプライン」という言葉がありますが、あれはビッグ・ウェイヴの先端がグルっと巻き込まれて、波が大きなパイプのようになる状態で、その空洞の中をサーフボードにのってスーっと滑ってゆくのは気持ちのいいものでしょう。

勿論そういう「波」が来るのは稀なように、日常生活で言葉の海に遊ぶことができるのは、やはり本の世界なのかなと思います。現実の生活では、会社でも、家庭でも、潤滑油になるような言葉、あいさつ程度の言葉のやり取りしかしていないのではないかと思うのです。殊に大人同士では。これが大人と子供のように、価値観の違う世界に住みながら、会話を必要とする場合では、われわれをとりまく周囲の海も随分と波立ってくるのかもしれません。子供は言葉のアーティストの面もありますが、大人って随分「言葉から離れた存在」のようにも見えます。言葉から刺激を受けることが少ないのでしょうか。心にも贅肉がついてきたってことでしょうか?(苦笑)

>言葉を発する元のものってなんでしょうね。何か心の奥底に、きっと生じているのでしょうか。

以前、「言葉にならないものってなんですか?」という質問があって、わたしはそれに「沈黙」と答えました。

こころの奥底にあるもの、それがあるときには言葉になり、或る時には涙になり叫びになり噴出する力になり、またそのなかのあるものは言葉にならない(なれない)沈黙になるという気がしています。内面にフツフツと湧き上がってきたものを「言葉」にするのは、わたしたちの主体的な選択によるのか、それともそれがどういう形で表出されるかは、わたしたちの力の埒外にあるのか?そんなことをお答えから考えさせられました。

再びのご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/09/22 03:52

言葉って、その先の存在を示してくれる、世界や人生の扉を開く鍵みたいなものだと思っています。


開きたい扉の鍵を誰がもたらしてくれるのか、どの様な形でそれが得られるのか、そういうものは縁とか言うものであったりするのでしょう。
そもそも、この扉を開きたいと思う様な事は稀で、ある言葉をきっかけに、こんな世界もあったのかと発見するような事かも知れません。
かくして、日常の扉を開く鍵だったり、新しい世界の扉を開く鍵だったり、過去や追憶の扉を開く鍵だったり、明日の扉を開く鍵だったりがあり。そして自室の扉の鍵は最初から自分が持ってたり、実は他の人の人生の扉を開く鍵を自分が持ってたりもするんじゃ無いでしょうか。
だから、出し惜しみする事なく言葉は用いないと誰かを悲しませてしまうかも知れない。勿論ぞんざいに扱う事はできない。
そして、その鍵をしかじかの鍵であると察知出来る様なセンサーを持っている事が、必要なのだと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

言葉は「鍵」である。というお話を聞くと、どうしても「本」を思い浮かべてしまいます。
けれども人生に於ける「キーワード」って、必ずしも本だけが持っているものではありませんね。
ただ、どうしても生身の人間と、本に匹敵するような広がり、深みのある話をする機会は少なくて、様々な「扉」を開く「キーワード」は、より多く本に求めてしまう、ということになってしまうのかもしれません。

>そもそも、この扉を開きたいと思う様な事は稀で、

そうなんですか?

わたしはなんとかこの手枷・足かせを外したい、格子なき牢獄から抜け出したいといつも足掻いている自分を意識しています。
一方で、言葉の限界というものもあるように感じています。

「やわ肌の熱き血潮に触れもみで
 寂しからずや 道を説くきみ」

あほなさんはご存じないでしょうけれど、この与謝野晶子の有名な歌、昔、メロディーがついてウィスキーのコマーシャルに使われていたんですよ。
先の質問の続きのようですが、「人を言葉で救えるか?」と訊かれれば、「愛がなければ救えない」と答えるでしょう。

>実は他の人の人生の扉を開く鍵を自分が持ってたりもするんじゃ無いでしょうか。
だから、出し惜しみする事なく言葉は用いないと誰かを悲しませてしまうかも知れない。

その通りですね。でも実際はなかなか難しくて、言葉を惜しんでいるつもりはなくても、「いつも上天気」という訳にはいかなくて、ついつい黙ってしまいます。言葉をかけるときは今しかないはずなのに。

素敵なお答えをどうもありがとうございます。

お礼日時:2016/09/22 00:34

言語は、最初に如何に聞くかが重要でしょうね。


この聞く側の作法、聞く側がどのように聞くかによって、発すべき適正な言葉が決まります。
正しい日本語みたいなものはあると思いますが、コミュニケーションツールとしての言葉は、聞く達人がことば道師範、免許皆伝でしょうね。
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この回答へのお礼

こんばんは。

なるほど、言葉の作法の第一は「聴く作法」である。
話すこと以上に聴くことは高度な技能かも知れません。「耳のいい人は文章が上手い」というようなことを聞いたことがあります。聴くということは、咀嚼し、理解すること。これは時間を必要としますね。
また「聴く作法」「型」というものあるでしょう。医者に行って、患者の顔も見ないでせっせとカルテを記入していたりする姿勢はまず「型」からして「聴く姿勢ではない」と言えそうです。(苦笑)

わたしは気が短いので、相手がきちんと聞いていない、あるいは、こちらが何を言いたいのかをわかろうとしていないと感じると、もうその師匠は破門ですね(笑)

改めて

>聞く達人がことば道師範、免許皆伝でしょうね。

同感です。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/09/22 00:11

形にならずにうごめいてつかみどころのない中身を


表面に引きずり出して象徴化する道具。
それが言葉だと思います。

その活用においては
正しければ何でも言うような心ない表出にならないように
気をつけるのが大事だと思います。

ただし、フィジカルのダメージがない分だけ
振幅の大きな許容度の中でのやり取りが可能で
それが多様な心的距離の取り方の個人差に対応した打診をするために
効果的な性質となっているのだろうとも思います。
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この回答へのお礼

こんばんは、スズメさん。

>形にならずにうごめいてつかみどころのない中身を表面に引きずり出して象徴化する道具。

ヴィトゲンシュタインはどこかで、「わたしの言葉の限界が、即ちわたしの世界の限界である」と言っています。この言葉の正確な意味は分かりませんが、わたしたちは、言葉で世界を把握する手前で、「いわく言い難い」感覚を捉えているはずです。

その「いわく言い難い」感覚というものを大事にしたいと思います。それは以前他の質問でも述べた、荘子の「混沌」(カオス)にもにたものではないかと思います。

「日に一竅(きょう)を鑿(うが)つに、七日にして渾沌死せり。」、「混沌」に歓待を受けた南海の帝「儵」(しゅく)と、北海の「忽」(こつ)が、お礼に「顔のない」混沌に顔を作ってやろうと、一日にひとつづつ、目、鼻、耳、口と、七つの穴を開けてやった、そして七日目に混沌は死んだ。

これが

『形にならずにうごめいてつかみどころのない中身』を『表面に引きずり出して象徴化する』

ということなのかな?と思います。
言葉にすることで、何かが死んでしまうのではないか・・・?

>正しければ何でも言うような心ない表出にならないように気をつけるのが大事だと思います。

その通りですね、「正しい」とは誰にとって正しいのか?ワインを口に含んで味わうように、言葉も、発話する前に慎重に吟味したいですね。

>フィジカルのダメージがない分だけ

それは目に見えないもののやりとり、ということですから、逆に余計注意深く扱う必要があるのでしょうね。特に対話の場合、キャッチボールでも、いきなり速い球を投げないで、やわらかい、相手が受け取りやすい球を投げてきて、そのやりとりの中で、次第に距離を伸ばしたり、力のある球を投げたりする。その時に、投げるボールだけに気を取られるのではなく、ボールをキャッチする相手の様子にも気を付けたいですね。

目に見えない、手に触れることができないものだからこそ、より慎重に扱うべきものだという思いを強めました。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/09/22 00:00
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